第47話 星鏡の天使の独白3

「……う」

 

 目覚めるなり、鉛をつけたように重たい体を無理やり起こして、僕は辺りを見渡した。辺りは一面純白で、室内だというのに滝や川の流れを模したような人工的な水流が印象的な空間だった。


 広い広間の中には、祭壇のような場所もある。神殿か、それに類する礼拝所のような場所だと思うと妙に得心がいった。


「お目覚めかな、殿」


 しゃがれたような、熱のない声に突然呼び止められて、僕は情けなくもびくりと肩を震わせて声のした方を見上げる。そこには、真っ白なローブを身に纏い、深いフードで顔を隠した何名かの大人たちがいた。顔も体型もはっきりと分からないので、性別すら判断できない。


 何より、「生贄」なんていうどこか不吉な呼ばれ方をしたことに、再び胸がざわつき始めるのを感じた。思えば、屋敷でも父上に似た声の男性がそんなようなことを言っていた気がする。ばくばくと暴れだす心臓を落ち着けようと、冷たい床の上を軽く後退れば、ちゃり、と金属音が響いた。

 

 その音の正体は、僕の左足首に繋がれた鎖だった。長い長い銀色の鎖のもう一端は、どうやら祭壇へと繋がっているらしかった。


「っ……これは……?」


 抗議するように大人たちを見上げるも、彼らには僕の視線など届いてすらいないのか誰一人身じろぎ一つしない。11歳の虚弱体質の自分に、鎖を引き千切るような力も技術もあるわけもなく、最早逃げようがないのだという絶望に少しずつ心が蝕まれていく。


「君は、名誉ある『生贄』に選ばれたのだ。その命尽きるまで、この神殿にて『星鏡の大樹』に祈りを捧げよ」


 ゆったりとした口調だったが、僕の頭の中では何一つとして意味のある言葉にならなかった。


 生贄、祈り、命が尽きる。この人は、一体何を言っているんだ?


「祈りの文句は知っているな? 意識ある限り、その言葉を唱え続けよ。さすれば、貴殿の魂は『星鏡の大樹』と一体化し、この世界を守る風に、水に、星の煌めきに変わるであろう」


 たった、それだけだった。そう、生贄として連れて来られた僕に対して神官たちが告げたのは、たったそれだけだったのだ。


「っ……待って、待ってください、僕はっ、どうしてここに……!!」


 自分が連れて来られた理由も、生贄が何たるかも知らされず、僕は突然に絶望の底に突き落とされた。神官たちが立ち去った白い広間の中は、さらさらと流れる水音だけが響き渡っていて、妙に現実味のない光景だった。


「……僕が、生贄?」


 生贄の噂は、何となくしか知らない。100年に一度の祝祭で捧げられ、世界の安寧のために大任を果たす。あくまでも常識程度の内容しか分からなかった。


 そもそも生贄なんてものが、今も存在するなんて。確か屋敷では、お告げによって僕が生贄に選ばれた、というようなことを言っていた。


 まさか、本当に「星鏡の大樹」が僕を望んだのだろうか。思わず、縋るように白い祭壇の方を見上げてしまう。祭壇には、溢れんばかりの花々が飾られていて、場違いなほど色鮮やかで美しかった。


「……そんなはず、ないよなあ」


 自分でも驚くほど自嘲気味な笑みが零れたのは、きっと、既に抗いようのない絶望に飲み込まれていたせいだろう。


 皆が信仰する「星鏡の大樹」のことは尊重しているし、人々の心の拠り所であることを否定するつもりはないが、やはり、どうしたって樹は樹だ。ただの植物に過ぎない大樹が、お告げなんてするだろうか。それも、心の底ではこんな風に大樹のことを信じ切れていない僕を指名するなんて。


「……馬鹿馬鹿しい」


 はっ、と乾いた笑い声が口から零れた。軽く目を瞑って、逃げ場も選択肢もない自分の現状を嘲笑う。


 ああ、僕らはきっと、嵌められたんだな。


 そう決めつけてしまうには判断材料が足りない気もしたが、意思があるかもわからない大樹の「お告げ」とやらよりは、貴族同士の醜い思惑の中で、フォートリエ侯爵家の跡継ぎである僕が「生贄」に祀り上げられ消されたのだと考えるほうが納得がいく気がした。


 左足首に繋がれた冷たい銀色の鎖が、無慈悲にも再び、ちゃり、と音を立てる。


「……そっか、僕は、もう――」


 ――もう、帰れないんだな。フォートリエ侯爵家にも、可愛いかわいいココのもとにも。


 その事実を認識した瞬間、心にひびが入った気がした。割れた心の欠片を吐き出すかのように、透明な涙が一粒床に零れ落ちていく。


 折角、未来を見据えたところだったのにな。病を克服して、家を継いで、あの可愛い妹のようなコレットを幸せにしたいと思ったところだったのに。


 星鏡の大樹の御意思とやらが本当にあるのだとしたら、大樹はあまりにも残酷な存在だ。志半ばの11歳の少年の命を奪うなんて、客観的に見てもあんまりじゃないか。


 ぽたぽたと、涙が零れ続ける。この時ばかりは、大して愛してもいない母や父上の顔が不思議なくらいにまざまざを浮かび上がった。いや、彼らの見え透いた下心が気に食わなかっただけで、僕は案外彼らとの時間を心地よく感じていたのかもしれないと今なら思う。


 せめて、愛しているの一言でもいうべきだったのだろうか。今となっては後悔にしかならない想いが次々と僕の心を追い詰めていく。 


 王国中で祝祭が始まったこの夜、僕の心は真っ黒な絶望に染め上がったのだった。




 それからは、まさに地獄という言葉が似合う日々だった。


 精神的な面で追い詰められた僕に、次に襲い掛かってきたのは、喉の渇きだった。

 

 もちろん、空腹も感じるには感じていたが、それよりも喉の渇きの方が遥かに僕を苦しめた。当然、「星鏡の大樹に命を捧げよ」と言い放った神官たちが、食料や水を用意しているはずもない。


 そうなると、頼みの綱は室内を川のように流れる水流だった。この際、湖の水だろうと何だろうと構わない。そう思い、さらさらと流れる水ににじり寄った僕は、祭壇の花の甘い香りに混じった僅かな刺激臭に嫌な予感を覚えた。

 

 その悪い予感を払拭するように、僕は自身に繋がれた銀色の鎖をそっと水流に沈めてみた。この鎖が純正の銀かどうかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。


「……っ……はは」


 水に触れた鎖が変色したのを見て、思わず妙な笑みが零れてしまった。そうか、神殿は「生贄」を確実に殺すためならここまでやるのか。


 これだけ清廉に見える水流には、どうやら毒が含まれているらしい。その濃度や致死量までは分かりかねるが、まず間違いなく弱った体で毒入りの水を飲み続けていたら命は長くないだろう。


 苦しみが短く済む、と思えば救済ともいえるのだろうか。僕は、手のひらで透明な水をすくい上げながら、くすくすと自嘲気味な笑みを浮かべる。今にして思えば、この辺りから僕は壊れ始めていたのかもしれない。圧倒的な絶望に飲まれ、癒しようのない乾きと飢えに、だんだんと感情が制御できなくなっているのを感じた。


 ああ、もういいか、いいよな。


 今度は両手で透明な水をすくい、口元に運ぶ。


 その刹那、脳裏に浮かんだのは可愛くて仕方がないコレットの笑顔だった。


 ――セルジュお兄様。


 舌足らずな口調で、僕の名前を呼ぶコレットの声が鮮やかに蘇る。ぎゅっと目を瞑れば、目の前に彼女がいてくれるような気さえした。


「……ココ」


 このとき、僕は記憶の中のコレットに確かに勇気づけられたのだ。それは、命を長らえるという意味では前向きな後押しとは言えなかっただろうが、この苦しみから僕を救うという意味では、これ以上ない励ましになった。


 ココ、ごめん、僕はもう戻れない。


 枯れたと思っていた涙をまた一粒流しながら、僕は目を瞑り、毒入りの水を呷ったのだった。


 


 それから、僕はどのくらいの間生きていただろう。少なくとも数日間は生きていたと思うのだが、だんだんと時間の感覚を失ってしまったので、正確なことは分からない。


 ただ、最期には、白い祭壇の傍で蹲って、掠れた声で意味もなく祈りの言葉を口にしていた気がする。


「星鏡の大樹様、日々のご加護に心から感謝を申し上げます。星影の煌めきと、大樹の美しき祝福が、この世界の全てに注がれますように」


 なにも、星鏡の大樹に縋りたくなったわけではない。何かをしていないと、本当に自分を失ってしまいそうだったから、仕方なしに祈りの言葉を唱え続けたのだ。


「星鏡の大樹様……日々の、ご加護に……」


 絶命するその日も、僕はただただ祈りを繰り返していた。渇きに耐えきれず口にした毒入りの水のせいで、内臓はぼろぼろで、時折血を吐きながら僕は祭壇を見上げていた。


 ここに連れて来られた時はあんなに色鮮やかだった花々も、いつの間にか腐り落ちていて、甘いような、肺腑を抉るような不快な臭いを漂わせていた。


「星影の煌めきと、大樹の美しき祝福が……」


 その瞬間、僕の目の前に腐りきった鈴蘭の花が落ちてきた。恐らく祭壇の花々の中に鈴蘭もあったのだろう。知っていたら、命を縮めるために鈴蘭の花を食べたかもしれないのに。


 だが生憎、僕はもう鈴蘭に手を伸ばす余力もなくて、ただくすんだ白い花びらを虚ろな目で眺めていた。


 鈴蘭は、コレットの好きな花だ。そうだ、彼女は、鈴蘭で指輪を作って僕にくれたんだっけ。


 ……僕も、彼女に鈴蘭の指輪を贈ると約束したのに、果たせなかったな。


「祝福が……この世界の全てに……」


 断片的に祈りの言葉を繰り返しながらも、僕の頭の中はコレットで一杯になっていた。命が終わることを脳のどこかで悟っているのだろうか。走馬灯のごとく流れ出した鮮やかな記憶は、どれもコレットの笑顔で満ちていた。


 ああ、会いたい。コレットに会いたい。会って、他愛もない話をして、あの淡い灰色の髪を撫でたい。


 祝祭にまつわる迷信を、幻想的な御伽噺を、彼女に教えてあげたかった。彼女にもう一度、名前を呼んで欲しかった。


「星影の煌めき、と、大樹の美、しき祝福が……」


 もしも僕がこのまま大人になって、フォートリエ侯爵家を継いで、コレットを花嫁に貰っていたら。そうしたら、どんなに幸せな人生だっただろう。


 寂しい顔ばかりする弟にも、僕にとってのコレットのような大切な誰かが出来て、四人で笑い合ったりする。そんな未来を想像して、目頭が熱くなった。だが、もう涙も流れない。目の奥が痛むばかりで、僕はもう泣くことすらできなかった。


「……ココ」


 目を瞑り、記憶の中の彼女の笑顔に縋る。無邪気で、可愛らしくて、陽だまりのようなコレットの姿を思い浮かべるだけで、体中を蝕む苦痛が少し和らぐ気がした。


「…………ココ」


 君と、もっといろんな話をしたかった。見たことのない場所に君を案内したかった。


 でも残念、生憎僕にはもう時間が残されていないらしい。


 息が、次第に不規則に、そして断片的になっていく。深いような、それでいて全く有効ではない呼吸を何度も何度も繰り返した。


 苦しい、苦しいよ、ココ。


 いつの間にか、僕は縋るように鈴蘭の花を握りつぶしていた。祝福も救済も無くていいから、どうか今このひと時だけでも、僕にコレットの幻影を見せてくれ。


 その願いが叶ったのか、ふと、鈴蘭を握りしめる僕の手に温かな光が触れた気がした。


「……ココ」


 多分、極度の疲労と飢えが見せる幻覚だったのだと思う。それでも僕は、コレットが傍にいてくれているような気がして、数日ぶりに頬を緩めたのだ。


 約束を果たせなくてごめん、ココ。


 そっと、腐りきった鈴蘭に口付ける。これはいつか、彼女に贈るはずだった口付けの代わりだ。


 もう、流れることは無いと思っていた涙が一粒、目尻から頬に伝う感覚を最後に、僕はそっと目を閉じた。


 ――セルジュお兄様!


 最後の瞬間、脳内に響いたのは確かにコレットの声だった。それがどんなに救いだったか、きっと誰にも分からないだろう。


 僕は、数日間の苦しみなど嘘のような解放感に包まれながら、広い神殿の中、静かに息を引き取ったのだった。

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