第38話 鈴蘭よりも青薔薇よりも、この平穏が愛おしい

 それからは、飛ぶように季節が過ぎていった。神殿、フォートリエ侯爵家、そしてエリアスや天使様との関係、その各方面に実に様々な変化があった3年間だったと言える。


 まず、神殿について言えば、オードラン伯爵への尋問会をきっかけに、セルジュお兄様を「生贄」に仕立て上げた疑いで神官たちの一斉調査が行われた。しかし、残念ながら主犯として名前が挙がったのは、既に退官し、この世を去っている高位の神官たちばかりだった。


 死人に口なしとはよく言ったもので、こうなってしまえば余罪の追及も難しい。また、急激に神殿の権威を落とすことを憂慮された国王陛下のご判断によって、これ以上の大規模な調査は行われることなく、結局この事件は大神官の辞職で片がつけられることになる。


 正直、その終わり方には歯がゆい思いを感じていたが、私は私で天使様と約束した通り、「生贄」を廃止するよう求める嘆願書を送り続けていた。


 こちらの件については、私の想像以上に手ごたえを感じていた。セルジュお兄様の事件の記憶が薄れぬうちに動き出したことが功を奏したのか、神殿は思ったよりもずっと真摯に私の訴えに耳を傾けてくれたのだ。


 とはいえ、「生贄」の制度は「星鏡の大樹」への信仰が生まれたころから何百年と続く古いしきたりだ。私の一人の声で、そう簡単に変えられるものでもない。今後も粘り強く訴えることが必要不可欠だった。もしかすると、私の一生をかけて取り組むような大きな仕事になるかもしれない。


 その報告を天使様にする度、彼はどこか儚い笑みを見せて、「頑張っているんだね」と静かに私の頬を撫でるのだ。


 天使様とは相変わらず、三日に一度は必ず会っているけれど、このところの天使様は、以前よりずっと口数が少なくなって、一秒でも惜しいと言わんばかりに私の声を聞きたがる。


 相変わらず包帯に隠された瞳の色は分からないままだが、きっと憂いを帯びた瞳をされているのだろうと容易く想像できるくらいには、天使様は寂し気な表情ばかりなさっていた。


 結局、天使様の口からは、私とエリアスとの婚約を祝福する言葉は紡がれないままで、彼が未だにエリアスを許していないのだろうということは明白だった。


 ただ、以前のようにあからさまにエリアスを非難することは無くなって、代わりに「コレットは幸せになれそう?」と尋ねるのが口癖になっていた。私がそれを肯定すれば、彼は決まって寂しそうに微笑みながら、「そっか、それなら……いいんだ。それが僕の本望だから」とまるでご自身に言い聞かせるように繰り返すのだ。


 天使様が私に向けてくださる想いが、そう浅くないことは分かっている。私のために世界の時間を巻き戻したこと、私に向ける慈しむような笑み、優しい触れ方、その全てが私を大切だと告げているように感じるのは確かだった。


 ただ、その想いに内包された感情や事情の全てを察しきれていないのも事実だ。多分、私の想像以上に、天使様が私に向ける感情は複雑だ。近頃は、その感情に悩んでいるような素振りまで見せる。尋ねてみたところではぐらかされるのはいつものことで、結局私は彼の傍で幸せそうに微笑むこと以外に、彼の心を軽くする術を知らなかった。


 今までの穏やかな時間の代わりに、どこか切ないやり取りが増えてきて、私もいつの間にか大人になってしまったのだな、としみじみと思ってしまう。8歳の体で、天使様に抱き上げられていた頃を思い返しては、あまりの懐かしさに涙ぐみそうになる日々だ。


 天使様とお会いしてから、もうすぐ10年が経とうとしているなんて。


 時折、とても信じられないような気持ちになる。それは、天使様と共に過ごした時間の長さに驚いているというよりは、まだこれだけしか経っていないのか、という気持ちの方が大きかった。


 どうしてかわからないけれど、天使様とはもっと前から一緒にいるような気がしてならないのだ。彼が与えてくれる安心感がそう錯覚させているのか分からないけれど、天使様とはもうずいぶん長い間過ごしてきたように思うことがあった。


 もしかすると、それは天使様が私を気にかけてくださる理由に繋がるものなのかもしれない。未だ明かされないその秘密を気がかりに思いながら、私は、天使様とのどこか切ない逢瀬を重ねていた。


 その一方で、エリアスとの関係は実に良好だった。


 晴れて正式に婚約者となった私とエリアスだったが、途端に甘ったるい関係になるようなことは無く、基本的に幼馴染の延長というような気楽な毎日を過ごしていた。


 変わったことと言えば、それこそ別れ際に交わす、触れるだけの優しい口付けが増えたというくらいで、エリアスがどこか素直ではないのも、冗談を言っては笑い合う関係も、今まで通り続いていた。その関係はとても居心地がよかったし、夫婦ではなく幼馴染、というような雰囲気で過ごせる時間は今だけだと思えば、かけがえのない日々だった。


 エリアスと共に寄り添いながら冬を越し、やがて咲き始めた春の花を愛で、夏の日差しを共に楽しみ、秋の落ち葉を踏みしめる。そんな彩鮮やかな日々だった。


 もっとも、楽しいだけの日々ではないことも確かだった。


 私が17歳を迎えた初夏にフォートリエ侯爵夫人が亡くなり、その一か月後に彼女の後を追うようにフォートリエ侯爵も帰らぬ人となったのだ。以前の時間軸と同じ終わりを迎えた二人だったが、私の心境はかなり違うものだった。


 フォートリエ侯爵夫人がエリアスに向けた暴言を許すことは出来ないが、セルジュお兄様の死の真相を知った今であれば、彼女に同情する気持ちが大きかったのだ。


 寂しい人生だったが、唯一の救いは最後までフォートリエ侯爵夫人がセルジュお兄様の幻影を見続けて、最後はまるでセルジュお兄様に看取られるかのような安らかな表情で亡くなったことだろうか。今でも時折、穏やかだったころの彼女を思い出しては、感傷的な気分になってしまう。


 フォートリエ侯爵閣下が亡くなったことで、フォートリエ侯爵家はエリアスが継ぐことになった。若き青年侯爵としてあっという間に有名になった彼は、その端整な顔立ちも相まって社交界でも注目の的だ。以前の時間軸よりも、ずっと人当たりがいいせいか、彼に言い寄る令嬢の数はぐっと増えたような気がする。


 それに全く嫉妬をしないわけではないけれど、以前よりずっと楽しそうに社交界に出るエリアスを見ていたら、咎める気になんてなれない。もっとも、あまりに嫉妬を口に出さないとそれはそれでエリアスがどこか面白くない表情をするので、適度なやきもちは必要なようだ。


 それに、この時間軸に限って言えば、社交界で戸惑っているのはエリアスよりも私の方だった。以前はご令嬢たちからは「ミストラル公爵家の失敗作」として陰口を言われ、貴族子息と会話を交わそうものならエリアスの怒りを買っていたせいで、積極的に人と関わろうとしてこなかったせいか、私は驚くほど社交が苦手だということが分かったのだ。


 今ではありがたいことに、御令嬢たちからは「聖女様」なんて呼ばれて催しごとの誘いを受けることもあるのだが、いつもきまって不器用な笑みを浮かべてしまうのが情けなかった。

 

 そんな私の助けになってくれたのは、ルクレール侯爵令嬢だった。彼女とは、フォートリエ邸で開かれたあのお茶会をきっかけに何かと関わりを持つようになり、今ではエリアスそっちのけで会話にのめり込むほどの親しい間柄だ。


 そして彼女は何と、エリアスとの共通の友人であるバルテ伯爵子息と婚約した。私やエリアスのように幼馴染という間柄でもなく、あくまでも鳥の話をきっかけに知りあった仲だと言うが、ルクレール侯爵令嬢はバルテ伯爵子息を一目見たときから気になっていたらしい。


 その話を聞いた時には、ルクレール侯爵令嬢とエリアスの仲の良さに嫉妬していた自分が馬鹿みたいだ、と思わず溜息をついたものだ。


「私が、エリアスを慕っていると? 本気で思っていたのですか、コレット様」


 私がルクレール侯爵令嬢――セシルとエリアスの仲を誤解していたと正直に打ち明けたところ、セシルは琥珀色の瞳を見開いて、呆れたように告げた。


「セシル様はとても可愛らしいですし……エリアスも満更ではなさそうに見えたので」


 苦笑交じりに諦めて告白すれば、セシルは小さく溜息をついて、やれやれ、とでも言いたげに首を横に振る。


「あんなに楽しそうにコレット様のお話をするエリアスに恋したところで、勝ち目がないのは明らかではありませんか。それに、あんな病んだ目を受け入れられるほど私の心は広くありませんもの」


 随分ばっさりと言い捨てたセシルに、私は思わずくすくすと笑ってしまったものだ。あれでも、以前の時間軸よりはずっとマシなのだが、やはり傍から見ると怖いものは怖いらしい。





 そして今、私はエリアスやセシル、そしてバルテ伯爵子息――アルベリクとともに、お茶をしながらああだこうだ言いながら職人が運んできた装飾品類を眺めて談笑している。


 そう、早いもので私たちも18歳。私とエリアス、そしてセシルとアルベリクのそれぞれの結婚式に向けて、着々と準備を進めているところだった。


 結婚式の時期としては、私とエリアスが夏に、セシルとアルベリクが秋に行うので、私とエリアスの方が一足先に式を挙げることになる。


 こんな風にお茶をしながら結婚式のことを話し合うようになったきっかけは、侯爵位を継いで何かと忙しくしていたエリアスの代わりに、セシルが私の結婚式のドレスや装飾品の相談に乗ってくれていたことが始まりだった。


 今はもうエリアスも落ち着いた日々を過ごしているのだが、そのときの流れを汲んで自然とこの顔ぶれで集まることが多い。すっかり友人と言えるようになった親しい関係の四人で過ごすのは、エリアスと二人きりで過ごすときとまた違う楽しさがある。


「コレット様、やはりベールの花飾りは鈴蘭の方が可憐でお可愛らしいですわよ。エリアスの独占欲を受け入れて、青い薔薇にすることはありませんわ」


 職人の手によって描かれたベールの花飾りのデザイン案をぱらぱらと捲りながら、セシルは遠慮なく言う。淡い金髪と琥珀色の瞳のせいで、ほんわかとしたご令嬢だと思っていた第一印象とは打って変わって、彼女は案外ばっさりと言葉を口にする性格らしい。


「確かに、鈴蘭の方がこのデザインにはあっている気がするね」


 セシルが手にしたデザイン案を横から眺めながら、アルベリクは彼女の意見に同意した。セシルに夢中なアルベリクは、基本的に彼女の意見をそのまま受け入れがちだ。私とエリアスより、よっぽど仲睦まじい姿を見せつけている気がする。


「二人とも、勝手に話を進めるな。どうするかはコレットが決めることだ」


 エリアスは溜息交じりに二人の友人を眺めながら、紺碧の瞳を私に向けた。18歳になったエリアスは、以前の時間軸と同じく色気がとんでもない。漆黒の髪に、深い紺碧の瞳を持つ彼は、ちょっと視線を送るだけでご令嬢たちをのぼせ上らせるだけの見目麗しさだった。


 実際、私もちょっとした瞬間にその色気に当てられていることは否めない。以前の時間軸では、彼の怒りを買わないよう、いつもどこか怯えて過ごしていたせいで、エリアスの魅力をひしひしと感じる余裕もなかったのだが、今は話が別だ。至って穏やかに、今までと同じように笑い合う心地の良い日々では、彼の魅力に気づくなという方が無理な話であった。


「コレットはどっちがいい? ちなみに俺は青い薔薇の方を推すけど」


「エリアスこそコレット様に押し付けているではありませんか!」


 抗議の声を上げるセシルの言葉などどこ吹く風で、エリアスは穏やかに微笑んで私を見ていた。まったく、セシルの言う通りだ。エリアスにそう言われて、私が彼の意見を尊重しないわけがない。


 それに、私としても青い薔薇の花飾りの方が気に入っているのも確かだった。鈴蘭は好きだが、フォートリエ侯爵家の家紋にも入っている青い薔薇を身に着けるほうが、エリアスと結婚するのだという実感が湧く気がする。


「ふふ、そうね、私も青い薔薇の方が好きだわ。だから、これにする」


 そう言って青い薔薇の花飾りが描かれたデザイン案を手に取れば、セシルがどこか不満げに口をとがらせる。


「もう、コレット様ったら、エリアスに甘いんですから。コレット様はもっとご自分の意見を貫き通していいと思いますわ!」


「私もこれが気に入ったの。折角お勧めしてくれたのに、ごめんなさい、セシル様」


 可愛らしい友人にそっと微笑みかければ、セシルは小さく息をついて納得してくれたようだった。


「コレット様が謝るようなことではありませんわ。コレット様も気に入っていらっしゃるのなら、私が何か言うのはお門違いですもの」


 緩く湯気の漂う紅茶をティーテーブルに置いたかと思うと、セシルは軽く身を乗りだして私の手を握った。


「でも! エリアスに何かされたらすぐに相談してくださいませね! 家出先なら、すぐに手配させていただきますから」


「人聞きの悪いこと言うなよ……」


 呆れたような目でセシルを眺めるエリアスをみて、思わずくすくすと笑ってしまった。この四人で過ごしていると、いつも笑いが絶えない気がする。

 

 以前の時間軸では、考えられなかった幸せだ。改めて私を取り巻くあらゆる素敵なものへの感謝が込み上げるのを感じながら、私たちは夏の気配のするお茶会を楽しんだのだった。

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