第37話 この感情を祝福と見紛うなら、君はその鈍さでもう一度身を滅ぼした方がいい

「……そういう訳で、私、エリアスと婚約することになったのです」


 お茶会から二日ほど経った夜、いつも通り私を訪ねてきた天使様に、私は事の次第を報告した。エリアスとの婚約はまだ正式な書面で交わされたわけではないのだが、今日、お父様とお母様と話し合ってフォートリエ侯爵家に打診することを決定したのだ。エリアスとも話し合っていることだし、まず断られることは無い。後は公的な手続きを待つだけだ。


 私の婚約が内定したことを知ると、フィリップとクリスティナはそれはもう喜んでくれた。相手がエリアスだと言えば、「まともに考えてそうだろうとは思っておりましたわ。見ているこちらは随分じれったい思いをいたしましたのよ」とクリスティナに笑われ、「エリアス義兄さんなら、姉上のことを幸せにできるでしょうから問題ありませんね」とフィリップにお墨付きをもらった。


 二人とも、以前の時間軸では、私に異様な執着を見せるエリアスを警戒している傾向があったから、二人にこんな風に祝福されるのは何だか新鮮な気分だった。


 お母様も、「ようやくコレットの結婚式のことを考えられるのね! 楽しみだわ」と上機嫌な様子だったが、お父様だけは違った。婚約の話が決まるなり、どこか無愛想な顔で私たちを見たかと思うと、「少し一人になりたい」と言って涙目で書斎に引きこもってしまった。


 心配した私とクリスティナ、フィリップでお茶を運びに行ったところ、お父様は書斎に飾ってあった私の子どもの頃の肖像画を眺めながら一人で泣いていた。その姿に、クリスティナとフィリップはくすくすと笑っていたが、私は何だか温かいような気恥ずかしいような気分になってしまったものだ。


 とはいえ、お父様も私の婚約を祝福してくださったことは事実だ。当然ながらリズも、涙を流しながら喜んでくれた。幸せな婚約だ。


 皆に祝福されたおかげで頬に帯びた熱が冷めやらぬまま、私はこうして天使様に改めて婚約の報告をしたのだ。天使様は冬の星空を背負いながら、静かな表情で私の言葉に耳を傾けてくれていた。


「……そうか、君が、あいつと婚約か……」


 天使様は噛みしめるように私の言葉を繰り返すと、私から顔を背けてしまう。冬の夜風に、天使様の生成り色の外套がさらさらと揺れていた。


「ええ、本当は天使様に一番にご報告したかったですわ」


 私の幸せをあれだけ痛切に願ってくださった天使様だ。他の誰にも負けないくらい、私と一緒に喜んでくださるに違いないと思い込んでいたのだが、天使様の表情はどこか浮かないものだった。


「……一昨日、あいつがナイフを取り出したとき、あと数秒でもあいつがナイフを握り続けていたら、僕は君を助けに行くつもりでいたんだ。誰に姿を見られようと関係ない、君を助けなければ、って強く思った」


 ぽつり、と紡がれた天使様の言葉は、ある意味唐突なものだった。軽く面食らいながらも、エリアスがナイフを手にしていたあの場面が天使様にどれだけの心労を与えたか想像できるだけに、申し訳なさばかりが広がる。


「……あの場面も、見守ってくださっていたのですね。結果的にエリアスの意図は違ったとはいえ、天使様には多大なご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」


「別にそれはいいよ。でも……君はあんな状況になっても逃げ出さなかったね。怖くて動けなかった?」


 天使様はどこか震えるような、怒りを堪えるような声で告げた。結果的にエリアスの意図は違ったとはいえ、彼のあの行動は、以前の私の最期の瞬間の凶行を思い起こさせるには充分で、私は指先一つ動かせなかった。天使様に救って頂いた命だというのに、自分の身を護る行動一つ取れなかった私は、天使様から見れば腹立たしくも思っただろう。


 私は軽く視線を伏せながら、胸の内に広がる罪悪感に苦々しい思いを感じ、口を開いた。

 

「……天使様に救って頂いた命だというのに、私はあまりに恩知らずですね。天使様、本当にごめんなさい」


「……どれだけ謝ったって、君が殺されるようなことがあったら僕は君を許さないよ。この世の全てを呪ってやる」


 その言葉は、雪よりも氷よりも冷たく鋭く響いた。一瞬、息を飲んでしまうほどに緊張感を強いる声だった。 


 分かっている。天使様にそう言われてしかるべき態度を私はとってしまった。再三警告されていることなのに、いざというときに私はただ立ち尽くすばかりで、状況を打開する気の利いた言葉の一つも出て来なかった。


 何より恐ろしいのは、世界を呪うと脅されたって、もう二度と同じような真似はしないと誓えない自分だった。エリアスと心が通じ合った今でも、彼の心が救われるならこの命を投げ出すことは惜しくないと思っているのは確かだ。


 もしも彼が、彼の幸せのために私に死んでほしいと言ったら、私はそんな歪んだ願いすら聞き入れてしまいそうな気がする。それは暗に、天使様の想いよりエリアスの幸せを選んだのだと宣言しているようなものだった。


「……ごめんなさい、天使様。エリアスが彼自身の幸福のために私の命を望むことがあれば……やはり私はこの命は惜しくないと思ってしまいます」


「世界を天秤にかけてもあいつを選ぶとは大したものだね」


 天使様は皮肉気に笑ったかと思うと、私の頬に触れ、どこか独り言のような調子で呟いた。


「……あいつの、どこがそんなに……」


 いくら待っても、その言葉は最後まで紡がれることは無かった。何となく不穏な空気に、思わず私は天使様の顔を覗き込む。


「……天使様?」


 私の声にはっとしたような天使様は、ゆっくりと顔を上げ、私に問うた。


「……あいつと婚約して、コレットは幸せ?」


 迷うまでもない。私はすぐさま頷いて、天使様を見上げた。


「はい、彼と結婚する日が今から楽しみでなりません」


「……結婚式はいつ?」


「以前と同じ、18歳の夏に行います」


 今はフォートリエ侯爵閣下の体調も優れないことだし、何より私もエリアスも社交界デビューしたばかりだ。いろいろと準備があることも含めると、3年弱先の18歳の夏が適切だという結論に至った。


「そうか……あと3年か」


 天使様はどこか切な気に微笑むと、私の頬に触れる手に僅かに力を込めた。


「寂しくなるね」


「エリアスと結婚しても、天使様は天使様ですわ。私の大切な人であることに代わりはありませんのよ」


 思ったままを口にするも、天使様はどこか浮かない表情のままだった。僅かな違和感を拭いきれない。


「うん……ありがとう、嬉しいよ」


 言葉のわりにちっとも嬉しくなさそうな、憂いを帯びた表情で天使様は笑った。もしかして、天使様もお父様と同じように私がお嫁に行くこと自体を寂しく思ってくださっているのだろうか。これだけ長いこと私を見守ってきてくださった天使様なのだ。保護者のような感情が芽生えていてもおかしくない。


「ふふ……天使様にそんな風に寂しく思って頂けるなんて、私は幸せ者ですね。そんなに私をお嫁にやるのが面白くないですか?」


 どこか重苦しい空気を払拭するように敢えて揶揄えば、天使様は曖昧な笑みを深めただけだった。


「まあ、ね。……それはもちろん、コレットがあいつの所にお嫁に行くなんて心配でならないよ。……かといって、他の男の所でも喜べる気はしないけど」

 

「お父様みたいなことを仰るのですね」


「そんな優しい感情じゃないよ」


 天使様は一瞬辛そうに私から顔を背ける。いつの間にか頬に触れていた天使様の手は離れていて、代わりに関節が白く浮き出るほどに強く握りしめられていた。


「……天使様?」


「……ああ、でも、これでコレットは幸せになれるんだもんね。僕はそれだけを望んでいたんだから、おめでとう、って言わないと……」


「天使様に祝福していただいたらそれはとても嬉しいですが……言いたいと思ってくださったときに言ってくださればよいのですよ」


 相手は天使様が憎むエリアスだ。すぐには受け入れられないだろう。共に手放しで喜んでくれるかもしれないなんて思っていた私の考えは、随分浅はかだったようだ。


「うん……そうさせてもらおうかな。今はどうしても、心から祝える気分じゃないんだ」


 天使様の口元に浮かんだ寂しそうな笑みが、冬の星空と共に目に焼きついていく。言葉に迷いながらそのまま天使様を見上げていると、やがて彼はどこか自嘲気味に微笑む。


「最初は本当に、コレットが幸せになれれば何だっていいと思っていたのになあ……。君と過ごしていると、どうにも欲深くなってしまっていけないね。もっともっとって思ってしまう」


「私に出来ることであれば、お手伝いいたしますよ?」


 天使様には感謝してもしきれないのだ。頬を緩めて軽く首を傾げれば、天使様は一瞬痛みを覚えるような表情をなさった。


「……頼むから、今後、そんな軽率なことは言わないでくれ、コレット。僕も僕を止められるか分からないんだから」


 忠告、したからね、と天使様は寂しげに笑うと、いつも通り私の額に口付けようとした。軽く目を瞑って天使様の祝福を待っていると、天使様は躊躇うように私から顔を離し、やはり寂し気に微笑んだ。


「……婚約者のいる令嬢にすることじゃなかったね」


「……いくらエリアスでも、天使様からの祝福に苛立つことは無いと思いますが……」


 とはいえ、自信は無かった。現在の彼の嫉妬の範囲がどこまで向けられるものなのか、まだ把握しきれていない。


「祝福、祝福ね……」


 天使様は軽く声を上げて笑うと、どこか吹っ切れたような表情を見せ、私の前髪を掻き上げると、ゆっくりと私の額に口付けた。


「これは、祝福なんて清廉なものじゃないよ」


 私から顔を離した天使様はどこか不敵に笑う。そのまま天使様の長い指が、私の頸動脈のあたりに添えられた。僅かに力がこもっているせいか、拍動を感じる。


「……案外、君のその鈍さが前回の君を滅ぼしたのかもね。あいつの感情なんて分かりたくもないけど、初めてあいつに同情したよ。本当に……君はを病ませる天才だね、コレット」


 それと似たような言葉を告げられたのは、何歳のころだっけ、と思い返しているうちに、天使様は純白の翼を広げ、バルコニーから飛び立ってしまった。普段は私が眠るまでそばに居てくださるのだが、今夜は私の婚約報告が天使様を動揺させてしまった事もあって、早めにお帰りになったのだろう。

 

 直前まで天使様の手があった首元に、私もそっと触れてみる。どくどくと脈打つ拍動は、確かに私が生きている証だった。

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