第36話 愛しているの、その歪みも病みもあなたの一部と思えば愛おしいわ

 私は今も、エリアスの言う怯えた目で彼を見つめているのだろうか。もっとも、ナイフを向けられているこの状況で怯えていない方がおかしいのだけれど、私のこの動揺すらも、彼を傷つけていやしないかと不安で仕方がない。


「ああ、コレット……君は俺の何にそんなにも怯えているんだ?」


 歪んだ微笑みを湛えたまま、エリアスはナイフを持っていない手でそっと私の頬に触れてきた。その指先は、冬の冷たい温度に晒されていたせいで、未だに氷のような冷たさだった。


「俺の目が怖いか? 髪の色が気に食わないか? 姿形が気味悪いか?」


 私の頬を撫でるエリアスの手は、あくまでも優しかった。とても冷たい指なのに、彼がなぞった跡は熱を帯びているようだ。


「なあ……それなら君の好きなように直してくれよ。このナイフで、なあ、コレット、直してくれ……君に、笑いかけてもらえるような顔に」


 その言葉と共に私の手に握らされたのは、先ほどまでエリアスが握っていた護身用の銀色のナイフだった。その冷たく硬い感触に、思わず目を見張る。


 エリアスは、本気だった。翳った瞳は相変わらずだが、その表情は真剣そのものだったのだ。時が止まったかのような沈黙が、二人の間を満たしていく。


「それでも無理だと言うのなら……俺を殺して逃げてくれ。……君の幸せを願うならそのほうがずっといい。君の手を汚すことになるのは心苦しいが、幼馴染への最期の情けだと思って引き受けてくれないか。大丈夫、君が咎められないよう、遺言状は常に携帯して――」


「なんて恐ろしいことを言うの! 私が、あなたを殺すなんて……」


「叶わない想いに囚われ続けて、執着して、いつか君を傷つけるかもしれないと怯える日々の方がずっと恐ろしい」 


 エリアスは、今も縋るような目で私を見ていた。ナイフを私に託して自由になった彼の両手が、そっと私の肩を掴む。


「なあ、コレット。多分、俺は君が思っている以上に歪んでいる人間だ。冗談じゃなく、このままじゃいつか君を傷つけかねない」


 そんなの、私が一番よく知っている。どれだけ今のエリアスが安定していようと、彼の中に私を殺し得るほどの病みが眠っていることは確かなのだ。その不確定な歪みを分かった上で、それでも私はエリアスを愛しているのに。


「怖いんだ……今は妄想に過ぎなくても、いつか本当に君を殺してしまうんじゃないかと思うと。……何より、君は俺のそんな歪みまでも許容しそうで尚更恐ろしい」


 どくん、と心臓が大きく脈打ったのが分かった。流石はエリアスだ。私のことをよく見ているだけのことはある。図星なだけに何も言い返せなかった。


「そんな残酷な結末を迎えるくらいなら、今すぐ君から離れるべきだと思う。でも、俺からは切れない。だから……君に逃げてほしいんだ」

 

 縋るように私を見つめていたエリアスの紺碧の瞳が伏せられる。翳ったその瞳には、一筋の光も映り込んでいなかった。あまりに苦しそうなエリアスの姿に、胸が痛む。


「それに嘘はない。君自身の幸せのために、君には俺から逃げ出してほしい」


 その言葉と共に、一粒の涙がエリアスの瞳から零れ落ちる。彼が泣いているところなんて、この時間軸では初めて見た。透明なその涙は、彼の頬を伝って私のドレスに染みを作った。


「……そう、逃げて、ほしいのにな。そのはずなのに、いざ君に拒絶されるとこのザマだ。君がいなければ生きていけないと思うなら、君の手を穢すことなんてしないで勝手に死ぬべきなのに、君に終わらせてほしいと思っている。本当に……自分が嫌になるよ」


 翳った瞳のまま、声もなく涙を流すエリアスを見ていると、胸が締め付けられて仕方がない。


 ……ああ、私は言葉を伝えるのがあまりに遅すぎたのね。


 二度目の人生だとか、彼の幸せを願っているだとか、関係ない。私は私で、きちんと自分の感情をエリアスに伝えるべきだったのだ。彼を、こんなにも悩ませ、病ませる前に。


 エリアスに手渡されたナイフを、冷たい床の上に放り投げる。からからと小さく回転しながら温室の方へと滑っていくそれを横目で眺め、私は一度だけ深呼吸をした。あらゆる要因で早まった脈は、未だ落ち着く気配を見せないままだ。


 涙に濡れたエリアスの頬に、そっと手を伸ばす。俯く彼の顔を覗き込むようにそっと手に力を加えれば、光のない、虚ろなエリアスの瞳と目が合った。


「私はあなたの前から逃げたりしないわ、絶対に」


 からからと音を立てていたナイフの回転が止む。雪のように澄んだ、優しい沈黙が二人を包み込んだ。


「……私は、あなたを愛しているから。何度この生を繰り返しても、あなたの笑顔が見たい。それくらい、私はあなたが好き」


 大切な人だ、宝物だ、と言ったことはあったけれど、こうして面と向かって感情を言葉にするのは初めてのことだった。翳っていたエリアスの瞳が、戸惑うように揺れる。


「……あんなに怯えた目で俺を見るのに?」


「正直に言えば、あなたを怖いと思うときがあるのも事実だわ。でも、そんなことはまあいいわ、って思ってしまうくらい、あなたを愛してしまったの」


 エリアスが病めば、怯えることも怖がることもあるだろう。それは以前の時間軸のあの結末がある以上、この先も完全にないとは言い切れない。でも、それでもいいからそばにいたいと、彼の笑顔を見たいと思うのなら、愛しているのだと言ってもいいのではないだろうか。


「だから、あなたから逃げたりしない。……叶うなら、その……この先も、ずっと一緒にいられたらどんなに幸せかしら、って思ってしまうくらいだもの」


 流石にはっきりとした言葉にするのは恥ずかしくて、最後の方は口ごもってしまった。彼に想いを伝えることで精一杯で、未来のことまで決める余裕はない。


「この先も、ずっと一緒に……?」


 エリアスは未だどこか疑うような目で私を見ていた。だが、少しずつ彼の瞳に穏やかな光が戻りつつあることに安心する。


「その……もちろん、エリアスが嫌でなければ、よ。無理強いするつもりなんて無いわ」


「まさか、そんなこと……。本来なら、命を差し出して頼み込んだって叶わないような幸福だ」


「ふふ……あなたも大概大袈裟よね」


「コレットに似たんだ」


 そう言いながら、そっとエリアスに抱き寄せられる。この時間軸ではあまり馴染みのない抱擁に、どぎまぎしている私がいた。


「コレットは俺が好きなのか?」


「ええ、世界の誰より愛しているわ」


「そう、か……コレットが、俺を……」


 噛み締めるように繰り返すエリアスの声が愛おしくて、私は軽く頷きながら彼の肩に頭を預ける。


「俺も……君を愛していると言いたいが、生憎、この感情が愛なのか分からない」


 心の底から戸惑ったような声で、エリアスは言った。彼の手は不器用に私の背中を撫でている。


「君のことが誰より大切な反面、君が誰の目にも触れられないようになればいいのに、と思っているのも確かだ。そのためならば、手段を選ばなくてもいいような気がしてしまう。何だか自己中心的で、歪んでいて、とてもじゃないが綺麗な感情とは呼べない」


 エリアスは、本気で迷っているようだった。私に向ける感情を、真摯に悩んでくれていることが嬉しくて、思わずふっと笑みが零れてしまう。


 愛なんて、そう綺麗な感情でもない。自己中心的な想いであることは言うまでもない。あなたが笑っていると私も幸せだから、私の幸せのためにあなたも幸せになって頂戴、と言っているのと大差ない。


 だから、それでいいのだと思う。他の人とは違う病みを内包していても、歪んでいても、美しいだけの感情じゃなくても、それでもいい。


「いいのよ、エリアス。あなたがそれだけ悩むほどに強い感情ならば、それを愛と呼びましょう」


 エリアスに寄りかかったまま、そっと彼の顔を見上げてみる。戸惑うようなエリアスの瞳が、ようやく私だけに定まったような気がした。


「……そんな単純で、いいんだろうか」


「いいに決まっているわ。少なくとも、私には伝わっているもの」


「君には甘やかされてばかりだ」


「ふふ、そうかしら」


 エリアスの腕の中でくすくすと笑えば、エリアスもようやくどこか安心したような穏やかな微笑みを見せた。何気ない表情なのに、やけに端整なその微笑みが目に焼き付いて離れない。


「……愛している、コレット」


 どこかたどたどしく告げられた愛の言葉は、これ以上ないほどあたたかく、私の心に染み渡っていく。彼が迷いに迷った末に辿りついた感情だと思うと、余計に愛おしかった。


「ええ、私も……私もあなたを愛しているわ」


 ふっと目を閉じれば、顔に影がかかるのを瞼越しに感じた。


 エリアスはやっぱり歪んでいるけれど、それでも確実に以前とは違う。今のエリアスは、私を傷つけることを恐れている。決して、私をエリアスの所有物のように扱ったりはしない。


 今のエリアスだって、傍から見れば大きすぎる病みを抱えているのかもしれないけれど、二人で幸せになるにはこれで充分だった。私が逃げたりしなければ、必ず、私はこの人と幸せになれる。その確信があった。


 唇の傍にエリアスの吐息がかかるのを感じて、思わず頬を緩める。


 15歳、とても静かな冬の昼下がり、この日、私は初めてエリアスと優しい口付けを交わしたのだった。

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