第35話 これがあなたの望む結末だとは、どうしても思えないのよ

 エリアスと共に吹雪の中を歩き始めてから間もなくして、彼は私を御茶会が開かれている本邸とは別棟の建物に案内してくれた。直接屋敷に戻るよりも、こちらを経由したほうが外を歩く時間を短縮できると考えたのだろう。


 外にいたのは本当に僅かな間とはいえ、肺の底まで凍り付くような寒さだった。先ほどまであれだけ晴れていたのが嘘のようだ。


「大丈夫か?」


 エリアスは私の肩から雪の付いた肩掛けを回収しながら、気遣ってくれた。私よりエリアスの方がずっと長い距離を歩いているはずなのに、優しい人だ。


「ええ、エリアスのお陰で凍えずに済んだわ。ありがとう」


 まだ冷たいままの頬を緩めて彼の瞳を見据えれば、エリアスはやはりふいと視線を逸らしてしまう。


「大したことはしていない。それよりも、早く温まろう。ちょうどいい場所がある」


 そう言ってエリアスは私の手を取ったまま、ゆっくりと歩き出した。仲違いしている状況下でも、きちんとエスコートしてくれるのだから紳士的な人だ。同じくらい冷たくなったお互いの手を温めるように重ね合いながら、私はエリアスに導かれるがままに足を進めた。




 廊下に活けられた青い薔薇を目で楽しみながら、私はエリアスの少し後ろを黙々と歩いた。フォートリエ邸はどこも落ち着いた雰囲気がある。使用人の数はミストラル公爵家と同じくらい多いはずなのに、人の熱を感じさせない空気感はこの屋敷特有のものである気がした。


 どれくらい歩いたころだろうか。エリアスに導かれるまま進んでいくうちに、次第に見覚えのある廊下や部屋をいくつも見かけ始めていることに気が付いた。


 はっきりした記憶ではないのだけれど、何だか、嫌な予感がする。この道筋は、私が以前のエリアスに手を引かれて何度も通った道ではなかったか。


 やがて、見覚えのある薔薇の装飾が施された扉の前に辿り着くと、私の嫌な予感が当たってしまった事を悟った。エリアスは、半身私の方を振り返って告げる。


「コレットにはまだ案内したことなかったな……」


 その言葉とともにエリアスの手で開かれた扉の先に広がる光景に、一瞬息がつまった。懐かしさと息苦しさに襲われて言葉を失ってしまう。


「義母上が気に入っていた場所なんだが……もう、この屋敷に戻ってくることも無いだろうからな。最近父上から譲り受けた場所だ」


 私たちの前には、大きな広間の中に設置されたガラス張りの温室があった。繊細な装飾が施された円形の温室は、一目で特注品だと分かるほど贅を凝らされたもので、ガラス越しには青い薔薇を始めとする色とりどりの花々が見えた。


 そう、他でもない、以前のエリアスが、幾度となく私を閉じ込めたガラス張りの温室だった。


 何度見ても、美しい。フォートリエ侯爵夫人がこの場所を気に入っていたことにも納得がいくくらい、繊細で綺麗な場所だった。


 でもそれ以上に、以前の記憶が蘇って、あまりの恐怖と鬱屈とした感情に肩が震え出すのも事実だった。


 甘い花の香りを、肌に纏わりつくようなあの温度を、閉塞感を、思い出して僅かに吐き気を覚えるほどに。


「……寒いのか、コレット」


 私が震えていることに気づいたのか、エリアスが気づかわし気な視線を向けてくる。彼からすればそう思って当然なのだが、否定しようにもあまりの恐怖に体が強張って言葉が出て来ない。


「温室に入ろうか? 中には休む場所があるから、お茶でも用意して――」


「――っ嫌!」


 ごく自然に私の肩に添えられた彼の手を、気づけば私は振り払っていた。お互いに、茫然としたような眼差しで見つめ合う。傍から見ればきっと滑稽な二人だ。


 ああ、何てことをしてしまったんだろう。以前の時間軸の記憶に囚われて、今のエリアスを拒絶するなんて。絶対にしてはならないことなのに。


 エリアスの紺碧の瞳が、一瞬で翳っていくのが分かった。やがて、彼はどこか自嘲気味な笑みを浮かべる。


「ああ、そうか……君に拒絶されるって、こういうことなんだな。覚悟していたはずなんだが……結構きついな」


「っ……違うの、エリアス、ごめんなさい。少し、混乱していて……」


 そう、私は今とても混乱している。目の前の彼は確かに世界で一番大好きな人で、以前の時間軸で私に限りない息苦しさを与えた人でもあって、それでも私は彼を愛していて、いつか幸せになりたくて、彼の笑顔が見たくて、それで――。


「無理しないでくれ、コレット。……君は知らないだろう。今、君が、どんなに怯えた目で俺を見ているのか」


 怯えた目。そう言われて思わず自分の目元に触れた。私はそんな目でエリアスを見てしまっているのだろうか。そんなこと、あってはならないと焦れば焦るほど脈が早まっていく気がする。


 エリアスは、笑っていた。寂しくて、切なくて、何より自らを嘲る悲しい笑みだった。


「最近、コレットはよくそんな目で俺を見るよな。俺の何が怖いんだ? 俺が何かしたか?」


 憎悪と焦燥感の混ざった強い視線で、エリアスは私を射抜いた。言葉で否定しなければと思うのに、どうしてか声が出て来てくれない。ただただ小さく首を横に振ることしか出来なかった。


 エリアスは、歪んだ笑みを浮かべたまま、僅かに私との距離を詰める。二人の間には息を飲むような緊迫感が漂っていて、一瞬、何もかもを投げ出してここから逃げてしまいたい衝動に駆られた。


「まあ、本来俺はそんな目で見られるべき人間だから、あるべき姿に戻っただけなのかもしれないが……それならそれで君は残酷な人だ。君となら幸せになれるかもしれない、という幻想を与えるだけ与えて、ここで俺を見限るんだろう」


 ああ、おかしいな、逃げろと言ったのは俺なのに、とエリアスは吐息交じりの笑みを浮かべては私を見つめた。彼も彼で、かなり不安定な心境なのだろう。本来ならば私が彼を支えてあげたいのに、今はむしろ私が彼の病みの原因になってしまっている。


 いや、今更だろうか。以前も彼の病みの原因は私だった。私が、私さえいなければ、エリアスはもっと幸福だったのかもしれない。安定した心で、ルクレール侯爵令嬢のような完璧な令嬢と、穏やかな幸せを手にしていたのかもしれない。


 私は、今回も間違ったのだろうか。彼を救いたいと願うなら、最初から彼に関わるべきではなかったのではないだろうか。


「なあ、コレット」


 先ほどまでとは打って変わってとても静かな声音で私の名を呼んだかと思えば、エリアスは黒の外套のポケットを探り、飾り鞘に収まった護身用のナイフを取り出した。あまりに物騒な代物が登場して、いよいよ息が出来なくなる。


 どくどく、と暴れだす心臓を抑えるのに必死だった。


 まさか、以前の時間軸と同じ結末を迎えるの? こんな風にすれ違ったまま? 


 彼があらゆる道を模索した上で、それでも私の命に手をかけることが彼の幸福の在り方だというのなら、この命など惜しくはないと思っていた。


 けれども、今は別だ。こんな状態で私を殺めたところで、エリアスの気分が晴れるとは思えない。まだお互いに、心に秘めた感情の一つも語り合っていないのに。


 する、とエリアスの手によって鞘から取り出された銀色のナイフが光る。慎ましやかな装飾の施された飾り鞘は、からからと乾いた音を立てて床に落下した。


 エリアスは、静かに私との距離を詰めた。逃げ出すべきだと思うのに、凍り付いたように体が動かない。


「エリアス……何を、考えているの」


「俺が考えているのはいつだってコレットのことだけだ。君に会っていないときもずっとずっとずっと……夢の中でまで、君のことを考えている」


 本当に、おかしくなりそうだ、と告げたエリアスの瞳に宿っているのは確かに憎悪だった。


 駄目だ、この状態で、彼に私を殺させるわけにはいかない。私の幸せを願う天使様のためにも、ここで私は自分の命を諦めてはいけないのだ。


 ただ、目の前に突きつけられたナイフの鋭い切っ先に、以前の時間軸の自分の最期を思い出してしまって、どうしても逃げ出せない。指先まで震えてしまって動かないのだ。彼を諫める言葉すらも見つからなかった。


 エリアスの紺碧の瞳は、いつしか縋るように私を見つめていた。


 息もできないような緊迫感の中、自分の心臓の音だけが耳の奥で大きく響き渡る。冬の冷たい広間の中、私たちは、ただお互いの目から視線を逸らせずにいた。

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