第22話 君の幸せな結末に、僕の存在が許されたらどんなに良かっただろうね
柔らかな土を踏みしめながら、頬を撫でる夜風の香りを嗅ぐ。森の中に相応しい、土や草花の香りがとても優しかった。やがて、風の中にさらさらと流れるような水の音を聞いて、目を開きたい衝動を抑えるのに必死だった。
「この辺かな。もう止まって大丈夫だよ」
天使様の腕に優しく抱き留められ、私はその場に立ち尽くした。
ここは、一体どこなのだろう。目を瞑っているせいで、好奇心が疼いて仕方がない。
「コレット、ゆっくり目を開けてごらん」
天使様の合図に従って、私はそっと目を開いた。期待感と緊張で僅かに睫毛が震えている。ゆっくりと露わになっていく光景に、私は一瞬で目を奪われた。
私の目の前には、延々と続く星空が広がっていた。鏡のように静まり返った水面に、銀色の星々が瞬きながら浮かんでいたのだ。時折風が吹いては、水面に映った銀色をさらさらと溶かしていく。まるで水面自体が、ぼんやりと淡く光っているようだった。
そして、星空を写し取った広大な湖の奥には、無数の深緑の葉を騒めかせる、巨大な大樹がそびえたっていた。森の中に響いていた心地の良い低い音は、あの大樹から流れ出していたのだろう。
頭上の星空と、その煌めきを映し取った湖の光の中で悠然と佇む大樹を見ていると、ここが星空の中なのではないか、という錯覚に陥ってしまう。それくらい神秘的で、不思議で、美しいという言葉では言い表せない絶景だったのだ。
その衝撃に、比喩ではなく、私は本当に息をするのを忘れていた。もちろん、声を上げることもできなかった。代わりに、言葉にならなかった感動が、一粒の涙となって頬を流れ落ちる。
初めて来た場所だけれど、私にはここがどこだか分かる気がした。この世のものとは思えないほど、美しく、鮮烈な、この場所は。
絶景の中に溶け込むように佇んでいた天使様は、ここが非現実なのではないかと錯覚するほどの端整な微笑みを浮かべ、そっと指先で私の涙をすくった。あまりの衝撃で自分の輪郭すらも曖昧になっていた私を、天使様の温もりが繋ぎ止めてくださる。
「僕がコレットを泣かせることは絶対にないと思ったのにな」
くすくすと笑う天使様を、私はどこかぼんやりと見上げた。夢を見ているように、ふわふわとした気分だ。
「天使様……ここは、この場所は……」
「うん、向こうに見えるあの樹が『星鏡の大樹』だよ。ここで、僕は生まれたんだ」
やはり、そうだったか、と私は改めて目の前の幻想的な景色を見渡した。神殿に訪れたことはあるのだが、その神殿は星鏡の大樹から少しだけ外れた場所にある。幼い頃に礼拝に訪れたときには、神殿の窓から大樹の姿は見えたけれども、昼間だったこともあって、肝心の星空を写し取る湖までは見られなかったのだ。
「天使様のお生まれになった場所というだけあって、この世のものとは思えない美しさですね。『星鏡の大樹』が、大陸中の人々から信仰されている理由がようやく分かった気がします」
正直、こんな絶景を見せられたら明日から敬虔な信者になってしまいそうだ。それくらい、ここは魅力的な場所だった。
「本当に、憎々しいくらい美しい景色だよね。でも……コレットと見られてよかった。少しだけ、この場所のことが好きになれそうだ」
ぽつり、と呟くと天使様は湖に向かって歩き出し、何の躊躇いもなく水面に足を踏み入れた。ぎょっとして彼の行動を見守っていると、天使様は振り返って私に手を差し出してくる。
「コレットもおいで。少し冷たいけど、凍えるほどじゃない」
「っ……そんな、『星鏡の大樹』の御許に足を踏み入れるなんて……畏れ多いです」
敬虔な信者でなくとも、この湖に足を踏み入れるのが躊躇われるくらいには、この場所は聖地として崇め奉られているのだ。湖に入ることはおろか、水に触れることすら躊躇してしまう。
「星鏡の天使の僕がいいって言ってるんだよ。ほら、おいで」
天使様は優しく微笑んで、改めて私に手を差し出した。その手を取ったら現実から連れ去られてしまいそうなほどに、ひどく幻想的な光景だった。
「……分かりました」
私は湖の傍へ歩み寄ると、履いていた靴をそっと脱ぎ捨てた。外で裸足になるなんて初めての経験だ。指の間を通る風が何だかくすぐったい。
天使様の手に自らの手を重ねながら、そっと爪先で水面に触れてみる。確かに少し冷たいが、星の淡い光で底が見えるほどに澄み切った水だった。やはり、とても神聖なもののような気がして緊張で震えてしまう。
それでも、意を決して、私はゆっくりと湖の中に足を踏み入れた。湖の底に足の裏をつければ、ふくらはぎの辺りまで水に浸かった。この辺りはとても浅いようだ。幸いにも膝下まであるネグリジェが濡れることは無かった。
「ふふ、ひんやりとしていて気持ちがいいですわ」
「よかった。このままもう少し歩いてみようか」
「ええ」
天使様に手を引かれるようにして、私は星空の中を歩いた。私たちが通るたびに溶けて流れ出す銀色の星を眺めながら、清冽な湖を進んでいく。浅いところを選んで歩いてくださっているのか、足を取られるようなことは無かった。
森のざわめきや鳥の鳴き声が聞こえているはずなのに、湖の上は静かさに満ちていた。この世にいるのは、私と天使様の二人きりのような気がしてきてしまう。
「天使様が仰った、二人きりの祝祭、の意味が分かりましたわ。本当に、私たちだけが星空に取り残されたような心地ですね」
「君と二人きり、か。僕にとっては夢のような話だね。もっとも、それでは君は幸せになれはしないのだろうけれど」
天使様はそっと私のほうを振り返り、甘い笑みを見せた。星鏡の大樹の傍で微笑む天使様は神々しくて、やはりこの方は星鏡の天使なのだ、と今更ながらに実感する。
その天使様から寵を受けるなんて、やはりただごとではない。改めてそれを実感すると同時に、ますます疑問は深まるばかりだ。
天使様、あなたはどうしてここまで私を気にかけてくださるの。
今日もはぐらかされると分かりきっている疑問だから、口には出せなかった。代わりに、包帯が巻かれた天使様の目元をじっと見上げてしまう。
不意に、天使様の手が私の頬に添えられた。そのままゆっくりと頬を撫でるような天使様の手がくすぐったくて、思わず目を細めてしまう。
「こうして見るとコレットは本当に聖女のようだね。白いネグリジェもそれらしく見える」
「ふふ、こうして天使様とお会いできるのですから、私たちの基準ではそれもあながち嘘とは言い切れませんわ」
「それもそうか。君たちにとって僕は非現実の存在だもんね。君と一緒にいると、時々、自分が天使だってことを忘れそうになるよ」
天使様は何でもないことのように笑ったが、その表情には何とも言えない寂しさが滲み出ていた。私たちとは違う時の流れを生きる天使様の孤独は、量り知れるものではない。
天使様の背後で瞬く星が、彼の涙の代わりに煌めているようだった。やがて天使様は、そっと私の額に自らの額をつけるようにして背を丸める。
「あーあ……コレットの傍で、人間として生きたかったなあ……。君をエスコートして、踊って、美味しいものを食べて……君と同じ時間の中で、穏やかに老いていけたらどんなに幸せだっただろう」
天使様の口元は確かに微笑んでいたが、その声はいまにも泣き出しそうなほど悲痛な声だった。どうすることもできない、と分かっているのに私まで胸の奥が痛くなる。
「いいなあ……あいつは、君の隣にいることが出来て。君を幸せにすることが出来て。時折、あいつが羨ましくて妬ましくて……たまらない気持ちになるよ」
「天使様……」
私はそっと、天使様の体を抱きしめた。私が何を言ってもきっと、天使様の葛藤の前では無意味なのだろう。それでも、星影に怯え、孤独を嘆くこの美しい人を放っておくことは出来なかった。
「天使様、私は……あなたが好きです。エリアスに向けるものとは、また違った想いですが……天使様のことをとても大切に思っています。だから、あなたといるこの時間も、私にとってはかけがえのないものですわ」
私が天使様に抱いた感情に、敢えて似ているものを挙げるならば、家族に向ける親愛の情が最も近いだろうか。でも、天使様に向ける想いはそんな単純なものではなくて、尊敬の念や少しの畏怖、そして憐みのような感情が入り混じった複雑なものだった。
こんな言葉すら、いずれはこの優しい天使様の心を苛むことになるのだろうか。私がいなくなってしまった後に、天使様はこんな寂し気な表情をして私のことを思い出すのだろうか。
想像しただけで切ない気持ちになって、私は天使様を抱きしめる腕に力を込めた。
同じ時を生き、人間として出会っていたら、私はこの人とどんな関係になっただろう。
「コレットがそんな風に思ってくれているなんて、嬉しいな。嬉しくて……苦しいよ、とても」
天使様は私を抱きしめながら、私の頭に頬をすり寄せた。慈しまれていると感じる。それだけに、やっぱり私も切なくなる。
人の一生分の時の間だけでも、あなたに身を捧げます、と言えたら天使様は喜んでくださっただろうか。天使様が私に向ける想いがどういう類のものなのかは分からないが、私を傍に置きたいと思ってくださることは確かなのだから。
ああ、でも、誰より私の幸せを願ってくださる方だから、私がそんなことを言ったら、きっと困ったような顔をして「それは君が幸せになれないから駄目だよ」と笑うのだろう。
星空の中、私たちはどのくらいの間抱き合っていただろう。永遠にも思える穏やかな静寂が、ただ、私たちを包み込んでいた。
「天使様、私と一緒に踊ってくださいませんか」
私は天使様の顔を見上げて、先ほど彼が苦し気に呟いた願いを拾い上げた。
「こんなに素敵な舞台が用意されているのですもの。……私をエスコートして、踊って下さらない?」
実際の舞踏会でこんな高飛車な誘い方をしたことは一度も無いが、ある意味公爵令嬢らしい振舞ではあるだろう。天使様の前で一人の令嬢を演じるならば、このくらいやっても悪くないはずだ。
天使様は私の意図を汲み取ったのか、ふ、と微笑むとそっと私の手を取り、手の甲に口付けた。
「喜んで、愛らしいコレット嬢」
天使様は恭しく私の手を取ると、そっと私の腰を引き寄せた。12歳の体では天使様とかなりの身長差があるので、天使様は随分踊りづらそうな姿勢になってしまったが、その表情はとても穏やかだった。
木々の騒めきを音楽に、二人のステップに合わせて水が跳ねて行く。ぱしゃぱしゃと心地の良い水音が、くるくると回るたびに楽し気に響き渡った。
「ふふ、天使様はダンスも嗜まれているのですか? とてもお上手なのですね」
超常的な存在だというのに、天使様は本当に人間の世界に造詣が深い。私がリードしようと思っていたのに、気づけば主導権を天使様に握られている。
「天使には無駄な知識だろうな、って思ってたけど、こうしてコレットと踊れるなんて思ってもみなかった」
溶けて歪んでいく銀色の光の中を、私たちは軽やかに渡り歩いた。初めて踊るとは思えないほど息が合う。ステップの順番を思い起こさなくとも、勝手に足が出る。
幻想的な光景の中で、天使様と一緒に踊るなんて。夢だと言ってくれた方が腑に落ちてしまう。それくらい、美しい時間だった。
「こんなに軽やかに舞うコレットの相手が、果たしてあいつに務まるかな?」
天使様はからかうように笑った。確かに、以前の時間軸の知識があったので、ダンスの練習の時間をステップの暗記ではなく技術の向上に当てられた分、私の踊りはそれなりのものだと思う。
「ふふ、もしも駄目だったとしても、私がさりげなくリードするだけですわ」
「本当に、コレットはあいつが好きなんだね」
「ええ、もう、かれこれ14年越しの想いですもの。そう軽いものじゃありませんわ」
「僕がコレットに向ける想いより強いものなんて、そうそうないと思ってたけど……これはいい勝負かもしれないな」
どこか呆れるように天使様は笑うと、優美な仕草でこの幻想的な舞踏会を終焉に誘った。いつも端整なお姿をされている天使様だが、今日はいつもより一層美しくて、不覚にも見惚れてしまう場面が多い。
「ありがとう、コレット。とっても楽しかったよ」
天使様は私の腰に手を当てたままふわりと抱き上げると、そのまま軽くぎゅっと抱きしめてくださった。やはり子ども扱いされている感覚が否めないが、それ以上に、天使様のその仕草にどくん、と脈打った自分の心臓に驚いた。
あら、この仕草、私、どこかで――。
懐かしさにも似たよく分からない感情に襲われたその瞬間、森の方でがさり、と響いた物音に、私も天使様も音の方を見やった。天使様は私を庇うように軽く引き寄せてくださる。
物音がした先には、真っ白な神官の服に身を包んだ、中年の男性の姿があった。被っている帽子の細やかな装飾からして、かなり高位の神官だと察しが付く。
「っ……天使様」
人に見つかってしまった。ばくばくと心臓が暴れだす。小声で天使様に対処を求めれば、天使様は意味ありげにふっと微笑んで、そっと私の唇に人差し指をあてた。
神官の男性は、その場に崩れ落ち、目の前の光景が信じられないとでも言うように口を大きく開けていた。よく見れば肩が大きく震えている。私の存在はともかくとして、大きな純白の翼をもつ天使様は明らかに人ではないのだ。怯えるようなその反応も無理はないだろう。
「っ……あなた、方は……」
可哀想になるほどに震えた声で神官が紡ぎだしたのは、ありきたりな質問だった。私も天使様と初めてお会いしたときには、天使様のあまりの神々しさと非現実感に、この神官と似たような問を口にしてしまったのだから、彼の気持ちは痛いほどによく分かる。
ましてや、神官は常日ごろから「星鏡の大樹」に祈りを捧げる敬虔な信者なのだ。星鏡の天使を目にした感動は、私には量り知ることが出来ない。
それにしても、天使様はこの状況をどうするつもりなのだろう。困ったように天使様を見上げていると、天使様は怪しいほどに美しい笑みを見せる。
「……ちょっとした芝居に付き合ってくれるかい? コレット」
天使様は私に顔を寄せ耳元でそう囁いた。天使様には何か考えがあるのだろう。私は無条件に小さく頷いて見せた。それを見届けるなり、天使様は突然私の前に跪いてしまう。
驚いて天使様を見つめていると、彼の長い指がゆったりとした仕草で私の灰色の髪を一筋手に取った。
「……この髪も、その綺麗な瞳も、優しい温もりも、全部が僕の宝物だよ。僕の可愛いコレット」
砂糖菓子より甘い言葉を吐いたかと思えば、天使様は何を思ったかそのまま手に取っていた私の灰色の髪に口付けた。直に触れられたわけでもないのに、壮絶な色気を感じて吐息が零れる。一気に頬に熱が帯びて行くのが分かった。
天使様は私の髪に口付けながら、神官の方に意味ありげな笑みを送ると、やがて私を抱き上げる。
「さて、帰ろうか。あまり水に浸かっていてもコレットの体に悪いしね」
まるで何事もなかったかのように天使様はいつも通りに微笑むと、大きな純白の翼を広げた。神官の方をちらりと確認してみるも、彼はただただ茫然としてこちらを眺めているだけで動く気配が一切ない。
「天使様、いいのですか? 神官様に見られてしまいましたよ……?」
小声で天使様に耳打ちすれば、天使様はにこにこと笑って私の頭を撫でた。
「まあ、大丈夫だよ。今に見てなって」
悪戯っぽい笑みを浮かべる天使様の意図は読み切れないままだったが、大人しく私は彼の首に腕を回した。そのまま私たちは、本日二度目の星空へと飛び立ったのだった。
それから間もなくして、「星鏡の天使の寵愛を受ける聖女が現れた」という話題が大陸中の注目を集めることになるのだが、このときの私にはまだ知る由もなかった。
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