第20話 俺が信じると信じてくれた君を信じたい

 翡翠色の小鳥を購入した後、私たちは人々で賑わう屋台の群れを抜け、小高い丘に足を運んでいた。私たちの他にも、星空を堪能するために丘の上に座り込む人々は大勢いたが、皆、適度な距離感を保っているのでお互いの会話の内容は聞こえない。


 私は芝生を踏みしめながら、そっと顔を上げた。すっかり空は夜に染まっていて、銀色の光がきらきらと瞬いている。


「綺麗ね……」


 こうして外で星空を見物することなんて今までに無かった。既に、私の心は感動で打ち震えている。


「直にランタンの灯りが消える。そうしたらもっと美しく見えるはずだ」


 私の手を握ったまま、エリアスも星空を見上げていた。もう人混みは抜けたというのに、二人の手は繋がれたままだ。


「エリアスは以前にも祝祭を見て回ったことはあるの?」


 8歳までフォートリエ侯爵領で暮らしていたのなら、祝祭を見る機会はあったはずだ。エリアスは星空から視線を逸らすことなく、ぽつりと呟いた。


「そうだな……物心がつくかつかないかのときに一度だけ、屋敷を抜け出して見てまわったことはある。母がまだ生きていた頃だ」


 エリアスの口から彼のお母様のことが語られるのは珍しい。以前の時間軸を合わせてもほとんど例のないことだった。


「……祝祭には、お母様と一緒に?」


「まあ、結果的にはそうなったんだが……母は、俺を誘って出かけるような、そんな優しい人じゃなかった。俺のことは殆どいないものとして扱っていたんだから。……あの日、父上は珍しく母を誘って祝祭に出かけたんだ」


 それは意外な話だった。フォートリエ侯爵閣下は祝祭のような催し物にはまるで興味がないと思っていたのに。


 エリアスは私のその驚きを表情から汲み取ってくれたのか、小さな苦笑を交えて言葉を続ける。


「あれでも父上は、俺の母に夢中だったんだ。まあ、嫌いな女をわざわざ娼館から召し上げたりしないよな。母が父上をどう思っていたかは定かじゃないが、少なくとも馬が合っているようなのは確かだった」


 冷遇されていたエリアスのことを思うと、悲惨な夫婦関係だったのかと思ったが、案外そんなことも無かったらしい。意外に思うことばかりで、私はただエリアスの言葉に耳を傾けることしか出来なかった。


「俺は父上と母の後を追って屋敷を出た。あのときはまだ、無条件に両親のことが好きだったんだろうな。数年に一度の祭りだと聞いて一緒に見てみたくなったんだ」

 

 幼いエリアスがご両親へ向ける健気な愛情を思うと、何だか切なくなってしまう、思わず、彼の手を握る指に力を込めた。


「人で溢れかえる祝祭を、俺は両親を追って一人で歩いた。でも、4歳やそこらの子どもの注意力なんてたかが知れている。すぐに迷子になってしまった」


「大変だわ。それで一体どうしたの……?」


 フォートリエ侯爵領は治安のよい部類に入るが、エリアスのような見目麗しい幼い子供がうろついていたら攫われてもおかしくない。


「泣いて、泣いて、星空を見上げて……途方に暮れていた。周りの大人たちは気にかけていてくれたのかもしれないが、生憎よく覚えていない。そんな中で……両親が、俺に気づいて迎えに来たんだ」


 エリアスは酷く懐かしむように笑った。その表情はとても穏やかなのに、ちくりと胸が痛むほどの切なさを滲ませたものだった。


「あのとき、俺は初めて両親に手を引かれたんだ。まあ、あからさまに冷遇していては外聞が悪いからな。平穏な親子を取り繕うことにしたんだろう。それでも、俺にとっては奇跡みたいな出来事だった」


 両親の愛を必死に求めていたエリアスからすれば、舞い上がるほどに嬉しい出来事だったのだろう。世間の親子にはごく自然な触れ合いが、エリアスにとっては今もこんなに鮮明に思い出せるほどの大切な思い出として刻まれているのだ。そのことに、やはり切なさを覚えずにはいられない。


「しかも、母の機嫌が良かったようで、俺に飴まで買い与えたんだ。さっきコレットと食べた、あの『星鏡の大樹』の葉を模った飴だよ。あの頃から甘すぎるものはあまり好きじゃなかったんだが……それでも必死に食べた。追ってきたはいいものの、両親とどんな言葉を交わせばよいのかも分からないから、ただただ夢中で食べたんだ」


 エリアスは、静かに微笑んでいた。視線は相変わらず星空に向けられたままだ。


「幼少期の思い出らしい思い出といえばそれだけなんだ。唯一の、綺麗な記憶だと言ってもいい」

 

 エリアスの横顔は穏やかなのに、訊いている私は切なさで胸が痛んで仕方がなかった。


「……あなたの中に、お母様からの素敵な記憶が一つでもあってよかったわ」


 エリアスのお母様が、彼に孤独を与えただけではないことを知って、少しだけ安心する。この話を聞いたところで、やはり冷たい母親には変わりないのだろうが、このたった一つの思い出があるのとないのとでは大違いだ。


「そうかもしれないな」


 エリアスはふっと笑って私を一瞥すると、どこか遠い目をしてもう一度星空を見上げた。


「……ああ、でも、もう二度と、両親と祝祭を巡ることは無いんだな」


 エリアスのお母様はとうの昔に亡くなっているのに、今気づいた、とでも言わんばかりの声だった。彼が抱える寂しさは、やはり並大抵のものではない。およそ私一人で癒しきれるものでもない。


 彼の寂しげな横顔を前にいてもたってもいられず、気づいたときには私は握っていた彼の手を両手で包み込んでいた。驚いたように私を見つめるエリアスにそっと向かい合う。


「……何の足しにもならないかもしれないけれど、少なくとも私はあなたのそばに居るわ。あなたが望む限り、何度でもあなたと一緒に祝祭を巡りたいと思うの。何歳になっても、あなたが呼んだらすぐに駆け付ける、絶対よ」


 エリアスの紺碧の瞳をじっと見つめながら、私はただ自分の想いを述べることしか出来なかった。私のこの決意が、彼の寂しさを少しでも和らげられたらどんなにいいだろう。


 エリアスは数秒間呆気にとられたように私を見つめていたが、ふ、と吐息交じりの笑みを零す。


「何の足しにもならない? 俺にとっては今この瞬間も、君が傍にいるのが奇跡みたいなことなのに」


 今度はエリアスの両手がそっと私の手を包み込んだ。私より少し低いはずのその体温は、どうしてか私の肌に熱を帯びさせる。


「コレット、君はもう少し自己評価を改めるべきだ。君が傍にいるだけで、確かに救われている人間もいるのだから」


 その瞬間、エリアスが私の指先に口付けたのと同時に、ふっと辺りのランタンが消える。わっと周囲の人々が星空の美しさに湧く中で、私とエリアスは確かにお互いの目を見つめていた。


 ずるい、直接的な言葉は何も言わない癖に、こんなに私の心を揺さぶるなんて。


 ランタンが消えたのは幸いだったかもしれない。赤く染まっているであろう頬を、エリアスに悟られずに済むのだから。

 

「見てみろ、コレット、とても綺麗だ」


 エリアスは私の手を握り直して、珍しくはしゃいだような声を上げた。先ほどまで年不相応な色気を醸し出していた張本人とは思えぬ切り替えっぷりに思わず頬が緩んでしまう。


 エリアスに促されるままに見上げる星空は、本当に、息を飲むほどに美しかった。月のない空には、無数の銀色の星が浮かんでいる。今にも零れ落ちそうなほどの輝きだった。


「なんて美しいの……」


 街中の明かりが消えたおかげで、普段は見えない小さな星まで確認することが出来る。星影の煌めきの真の姿に、圧倒される思いだった。


 こんな美しい光景を、エリアスと見ることが出来るなんて。それだけでもう、このやり直しの人生の意味があったような気がしてしまう。そんなことを言ったら、あの過保護な天使様は私を叱るだろうか。


 ちかちかと瞬く星を眺めながら、星影に怯えていた天使様のことを思い出した。彼は、今もどこかで苦しんでいるのだろうか。世界を呪いたいと嘆くほどに祝祭を厭う天使様のことを思い出して、少しだけ、感傷的な気持ちになった。


 ああ、でも、この流れでなら言える気がする。エリアスが幼少期のことを打ち明けてくれたように、私も彼に天使様のことを話さなければ。


 改めてエリアスの手を握り直しながら、私は星空を眺めたまま口を開いた。


「あのね、エリアス……実は、今夜あなたに打ち明けようと思っていたことがあるの」


 言葉の間に混じる吐息が震える。エリアスは私のその緊張を感じ取ったのか、彼が星空から私に視線を移す気配があった。


 私もゆっくりとエリアスに向き直り、一度だけ深呼吸をした。彼は、こんな突拍子もない話を信じてくれるだろうか。


「さっき、商人が私は星鏡の天使の祝福を受けているのかもしれない、なんて言っていたでしょう?」


「ああ……」


 当然ながら、エリアスはまるで話が読めていないようだった。珍しく戸惑うように揺れる彼の瞳を静かに見つめながら、私は続けた。


「あれね、あながち嘘ではないのよ。私の傍には、星鏡の天使様がいらっしゃるの」


「星鏡の天使……?」

 

 あまりに予想外だったのか、彼は私の言葉を反復することしか出来ないようだった。状況を掴み切れていないエリアスの動揺が、今の私には少しだけ怖い。妄想に囚われた憐れな子だと思われたらどうしよう。


「天使様は真っ白な翼を持っていて……とてもお優しい方なのよ。三日に一度は会うほどに親しくしていて……天使様は、どうしてかわからないけれど私を気にかけてくださるのよ。ただひたすらに、私の幸せを願ってくださる方なの」


 真っ直ぐにエリアスの瞳を射抜けば、彼の戸惑いが少しずつ薄れて行くのが分かった。緊張で震えた指で、そっと彼の両手を握る。


「……普通に考えれば、とても信じられる話ではないわよね。でも、本当なの。星鏡の天使様は、確かに存在するの。それを、あなたに知ってほしかった」


 ゆっくりと瞬きをして、改めてエリアスの目を見据える。淡い星明かりの下でも、彼の紺碧の瞳は不思議なくらいにはっきりとよく見えた。


「信じて、くれるかしら」


 指先の震えは、これ以上ないくらいに大きくなっていた。緊張で、もうエリアスの目を見ていられない。祝祭を楽しむ周りの人々の声が、やけに遠く感じた。


 やがて、エリアスの手が私の指の震えを押さえるように私の指先を握りしめた。ほとんど俯いてしまった私の頭上で、彼は静かに告げる。


「信じるよ」


 エリアスのその言葉に、私は勢いよく顔を上げた。その先では、至って真剣な表情でエリアスが私を見つめている。


「君がそれだけ真剣に話してくれたんだ、疑うはずがない」


「……こんな突拍子もない話を信じてくれるの?」


 未だに震えている私とは対照的に、エリアスはふっと穏やかに微笑んだ。


「それは、まあ、かなり驚いたが……コレットの言うことなら信じるよ。星鏡の天使の祝福を受けるなんて、流石コレットだな。時代が時代なら聖女様じゃないか」


 震える私を落ち着かせるように、エリアスの手がぽんぽんと優しく私の肩を撫でた。張り詰めた気はすぐには緩まなかったが、それだけでもいくらか気持ちが和らいでいくのを感じる。


「ふふ……ありがとう、エリアス。信じてくれて」


「礼を言われるようなことじゃない。……もしかして、その天使とやらは今も傍にいるのか? コレットにしか見えないとか?」


「そんなことは無いわ。今は傍にいないけれど、エリアスにもちゃんと見えるはずよ」


 昨夜は人目を気にして私のもとを訪れていたくらいなのだから、私以外の人間にもしっかり見えているはずだ。


「俺はあまり敬虔な信者というわけでもないが、コレットを守っている天使なら見てみたいな」


 エリアスは純粋な興味からそう言っているようだったが、天使様のエリアスへの評価を考えるとなかなか実現は難しそうだ。4年前よりはいくらかマシになったとはいえ、「僕はまだあいつを許したわけじゃないからね」というのが天使様の口癖なのだから。


「そうね、次に会った時に聞いてみるわ。……でも、あまり期待しないでちょうだい。訳あって、天使様はあなたを目の敵にしているのよ……」


「え、ちょっと待て。俺、天使に嫌われてるのか? 何故なんだ?」


 少なからず衝撃を受けているエリアスを前に、あなたが私を殺したからよ、とは流石に返せない。


「……分かった! 俺が3歳のとき、神殿で神官に水をかけたからだろ」


 ひらめいたとでも言わんばかりに、エリアスは私に詰め寄る。恐らく貴族子息としての初の礼拝で起こった出来事なのだろうが、思わず眉を顰めてしまった。


「エリアス、あなた、神官様に向かってなんてことしてるのよ……」


「いや……あまりに退屈で、つい」


 エリアスにも悪戯好きな時期があったのか、とまた一つ彼の幼少期のことを知って思わず頬が緩んだ。ようやく、肩の力も抜けてきた気がする。 

 

 エリアスが、天使様の存在を信じてくれてよかった。改めて彼の顔を見つめながら、安堵の気持ちが広がっていくのを実感する。これで、4年前のエリアスの疑問に答える準備が一つ出来たわけだ。


 その瞬間、視界の隅を流れていった銀色の光に辺り一帯が騒めく。どうやら今のは、流れ星だったようだ。


「エリアス、今の見た? 流れ星よ」


「ああ、珍しいな」


 続いて流れて来ないかという期待を込めて星空を眺める人々と同様に、私たちも首が痛くなるほど星空を見上げた。


 祝祭の夜の流れ星は、縁起がいいと言われている。天使様の存在を知っている以上、まるで私たちを祝福しているよう、とまでは夢見がちになれないものの、この夜のことは確かに、忘れられない大切な思い出として私の記憶に刻み込まれたのだった。

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