第18話 君が生み出す優しい闇に溺れていたい

 エリアスとフォートリエ侯爵領の名物料理を堪能し、青い薔薇の花弁を浮かべたお湯に浸かった後、私は案内された豪華な客間で、ベッドに腰かけながらぼんやりと考えごとをしていた。


 旅の疲れは溜まっているはずなのだが、いろんな意味で刺激的な一日だったせいか目が冴えて眠れないのだ。リズが用意してくれた蜂蜜入りのハーブティーを片手に、ほっと一息をつく。


 早速、明日、私はエリアスと共に祝祭を見てまわる約束をしている。目立つのは避けたいので、エリアスも私もあくまでお忍びで楽しもうという話にまとまっていた。


 街娘に扮するための淡い水色のワンピースは仕立ててあるし、履きやすい革靴だって用意してある。準備は万端だった。


「問題は、どうやって切り出すか、よね……」


 ぽつりと呟きながら、私は客間のバルコニーをぼんやりと眺めた。澄み渡った星空には、今にも消え入りそうな細い月が浮かんでいる。


 前々から心づもりをしていたことなのだが、私にはこの祝祭で達成したいある目標があった。


 それは、エリアスに天使様の存在を打ち明ける、というものだ。エリアスがずっと疑問に思っている「私がエリアスを気にかける理由」についていつか打ち明けるためには、天使様の存在なくして語れない。


 誤魔化そうと思えば、いくらでも理由は誤魔化せる気がしたが、エリアスと向き合う上で大切な質問であるから嘘はつきたくなかった。私の身に起こったすべてを打ち明けることは出来なくても、彼が望むならなるべく誠実に答えたいと考えている。


 それに、あの過保護な天使様は、恐らくこの先も私の傍を離れないだろう。少なくとも、彼の言う、私の幸せを見届けるまでは。次第にエリアスと過ごす時間が増えるようになれば、天使様の存在を隠し続けるのはきっと不自然だ。


 それならば、「星鏡の大樹」にまつわる祝祭で打ち明けようと心に決めた次第だ。上手く自然な流れで言い出すことが出来ればいいが、今から何だか緊張してしまう。


 エリアスは、信じてくれるだろうか。私の幸せを誰より願う天使様が、確かに存在することを。敬虔な信者でもない彼からすれば、俄かには信じがたい話なのだろう。一体どんな反応をするのか、想像もつかなかった。


 サイドテーブルに置いたハーブティーを軽く揺らしながら、その爽やかな香りを吸い込んで気分を落ち着けた。夜は些細なことでも不安になってしまいそうでよくない。


 その瞬間、カタカタとガラスが揺れる音に私はバルコニーへ視線を移した。どうやら、今日も今日とて天使様が会いに来てくださったようだ。 


 早速バルコニーの鍵を開けると、天使様はいつもより早足で室内に足を踏み入れ、ふわり、とアジュールブルーのカーテンを後ろ手に引いて、外界からこの部屋を遮断した。いつもより薄暗い光の中で天使様を見上げる。


「こんばんは、天使様。そんなに慌ててどうなさったのです?」


「やあ、コレット。この部屋は君の屋敷と違って人目につきやすいからね。余計な騒ぎにならないよう、機を見計らって会いに来たんだ」


 ミストラル邸の私の部屋は、裏庭に面しているため夜中はまず人通りがない。そのため、バルコニーで天使様とお話をしていても誰に見られるということは無いのだが、この客間は屋敷の正面に当たる部分にバルコニーが備え付けられている。確かに、人目を気にしなければならないだろう。


「やはり、天使様のお姿は私以外の者にも見えるのですね」


「まあね。姿を消せるような力があればそれは便利だったんだろうけど」


 天使様はカーテン越しに窓ガラスに寄りかかりながら小さく笑った。その笑みに、何だか違和感を覚える。いつも能天気な天使様にしては、どこか覇気のない微笑みだった。


「コレットがまだ起きているとは思わなかった。長旅で疲れただろうに、眠くないのかい?」


 勿論、疲労は溜まっているが、約3日をかけてのかなりゆったりとした旅程だったので、予想よりは疲れていないというのが本音だった。何より、私が寝ているかもしれないと分かった上で、それでも会いに来てくれた天使様の過保護っぷりに頬が緩んでしまう。


「ふふ、私が眠っていたらどうするおつもりだったのですか?」


「しばらくコレットの寝顔を見て、額に口付けて帰るつもりだったよ」


 さらりと言ってのけるが、なかなか大胆なことをなさる。口付けられたわけでもない額に、思わず手を当ててしまった。


「わ、私の寝顔なんて見ても面白くありませんわ」


「そんなことないよ。コレットが今日もちゃんと息をしているなあ、って感じるだけでも随分気持ちが楽になる」


 相変わらず大袈裟なことを言う天使様だ。そんなこと、甘い言葉ばかり囁いていた以前のエリアスにも言われたことがない。

 

「もう、困らせないでくださいませ! 私が眠っていたときには、必ず起こしてください!」

 

「それは何だか忍びないなあ。でも、寝起きのコレットも見てみたい気がするから迷いどころだね」


 にこにこと笑いながら、天使様はそっと私の髪を梳いた。だが、その表情もいつもの明るさを保っていないように見えて、先ほど抱いた違和感は気のせいではなかったようだと思い知る。


「……天使様、今夜は何だかお元気がないようにお見受けします。何かありましたか?」


 間近で天使様の顔を見上げれば、彼は明らかな動揺を見せた。やがて、誤魔化すような苦笑いを浮かべる。


「コレットはすごいな。僕のこともよく見ていてくれているんだね」


 天使様の手が、一度だけ私の頭を撫でる。天使様は僅かに顔を傾けて、カーテンの引かれていない部分の窓から外を見つめると、ぽつり、と呟いた。


「……やっぱり、祝祭が近いと……どうしても、ね」


 意味ありげな天使様の言葉に思わず尋ね返そうとするも、天使様が再び口を開く方が早かった。

 

「それよりも、問題なのは君のことだよ、コレット。やっぱり、君はあいつから離れるべきだ」


 見事に話題を切り替えられてしまった。天使様は、徹底して私を彼の過去や秘密には触れさせようとしない傾向がある。今に始まった話ではないので、大人しく彼の口にした話題に乗ることにした。


「今日は、エリアスの何がお気に召さなかったのですか?」


 ふっと微笑んで、天使様を見上げる。天使様が何かとエリアスに文句をつけるのは日常茶飯事だ。今日は一体どんなお小言を頂戴することになるのか、と、最早楽しみにしている私がいた。


「あいつが、というより、この家が厄介すぎる。こんな家に嫁いだら、コレットが要らない苦労をすることは目に見えているよ」


 窓ガラスから体を離し、天使様は溜息交じりにそう告げた。引きずるほどに大きな純白の翼が溜息に合わせて揺れる。


「何も問題のない家なんてありませんわ。それに……フォートリエ侯爵夫人には同情する気持ちが強いですもの」


 エリアスを傷つけられそうになったので、あの場ではまるで敵対するような態度を取ってしまったが、根本的な部分ではセルジュお兄様を失って病んでしまった彼女を憐れむ気持ちが大きい。使用人や領民たちから愛されていた貴婦人のお手本のような彼女が正気を失った姿を見るというのは、何とも痛々しい気分になるものだ。


「セルジュお兄様が亡くなったのは、とても急でしたから……余計に受け入れられなかったのでしょう。私でさえ三日三晩泣き続けるほどの悲しみを覚えたのです。夫人の絶望はいかほどであったか、私には推し量ることが出来ません」


 もともと体が弱く、よく体調を崩していたセルジュお兄様だったが、彼の死の知らせはとても急だった。悪い偶然がセルジュお兄様の幼い命を蝕んだのだろうと思われるが、それにしたってすぐに受け入れられる話ではない。


「……死んだ人間に執着しても、ろくなことは無いのにね」


 天使様は、吐き捨てるような調子で嘲笑ともとれる笑みを見せた。いつも温厚な天使様にしては珍しい感情に、本日何度目かの違和感を覚えずにはいられない。やはり、今日の天使様はお元気がない上に、どことなく不安定だ。


 普段とは違う彼の姿が心配で、思わず私は彼の傍へ歩み寄り、そっと彼の手に触れた。12歳の私の手ではとても包み切れない、青年の手だった。


 死んだ人間に執着しても、ろくなことは無い。そう言い切ってしまうのはあまりにも寂しいが、長い時間を生きているであろう天使様だから、そのくらいはっきりと割り切らなければ辛いばかりなのだろう。普段は能天気に振舞っているだけに、こうして時折寂し気な表情を見せられると、私に出来ることなど何もないとは分かっていても、何かして差し上げたくなってしまう。


「執着は確かに苦しいばかりかもしれませんが……前向きな気持ちで亡き人を思い返すことは悪いこととは思えませんわ。それだけで、故人が浮かばれることもあるかと思いますし……。無理して忘れることは無いのかと」


 彼を見上げて微笑めば、天使様はどこか意外そうな表情をして私を見下ろした。やがていつものようにふっと穏やかな笑みを見せると、そっと私の灰色の髪を梳くように頭を撫でてくださる。


「ごめん、気を遣わせてしまったね」


「いえ、ただ思ったことを口にしただけです。少なくとも私は、私が死んでしまった後も天使様に思い返していただければ、それだけで嬉しく思います」


 にこりと微笑んで天使様を見上げれば、不意に、私の頭を撫でる天使様の手が止まる。彼の背中の純白の翼が、僅かに揺れた。


「君が、死んだ後、か……」


 まるで独り言のような、囁くような呟きの後、天使様はふっとどこか不安定な微笑みをこちらに向けた。


「コレットが死ぬなんて……もう二度と御免だ」


 天使様は床に膝をつくようにして私に手を伸ばすと、唐突に私を引き寄せた。抗う間もなく天使様の腕の中に絡めとられ、純白の翼に包まれてしまう。


「……天使様?」


 一体どうしたのか、となるべく穏やかに問いかけようとしたものの、天使様の腕が痛いほどに私の体を抱きしめたので、思わず何も言えなくなってしまった。


「絶対に、君は誰にも殺させない。死神にだってくれてやるものか……」


 天使様らしからぬ、執着にも似た暗さを伴った声は嫌に苦し気だった。私の肩に顔を埋めるようにして縋りつく彼は、どうしてか小刻みに震えている。思わず以前の時間軸のエリアスを思い出してしまうほどに、不安定な姿だった。


 生憎、天使様と違って私は人間だ。死なない約束などできるはずもない。天使様が一番望んでいるであろう言葉は口に出せないが、何とかして天使様の不安を取り除いて差し上げたかった。


「……今日は、一体どうなさったのです? これから祝祭が始まるというのに、天使様のご気分が優れないようでは、私たちも救われないというものです」


 当たり障りのない言葉を、曖昧な微笑みと共に紡ぎだす。当然、こんな言葉では天使様の不安を拭えるはずもなく、彼が私を抱き締める腕の力が強まっただけだった。


「祝祭……祝祭か」


 嘲笑を含むようなその声は、祝祭で祀られる張本人のものとは思えないほどの冷たさだった。


「コレット……本当はね、僕は祝祭にいい思い出がないんだ。痛くて、痛くて痛くて苦しくて……最悪な夜の事ばかり思い出してしまう。正直、この世界を呪いたくなるよ。祝福を授けるはずの天使が、聞いて呆れるよなあ……」


 目元が包帯で隠れているので定かではないが、まるで泣いているような声だった。私よりずっとずっと長い時を生きていらっしゃるはずなのに、どうしてか今は天使様が幼い子供のように思えてしまう。


 彼と祝祭の間に何があるのかは定かではないが、震えるほどに辛い記憶に苛まれているのは確かなのだろう。その全貌を知る由もない私には、ただ、天使様の柔らかい髪の毛を撫でることしか出来なかった。


 こんなことで、天使様の気分は落ち着くのかは分からない。せめて私が生きている間は、温もりを分けて差し上げたいけれど、この温度すらいつか彼を苛む毒になってしまうのだろうか。


「コレット、僕を一人にしないでくれ……お願いだよ」


「天使様、私はここにおりますよ」


 天使様の頭にそっと顔を寄せながら、静かに目を瞑る。抱きしめて、髪を撫でて、傍におります、ということしか私にはできない。彼は私の命を救ってくれた人なのに、これだけのことしか返せない自分の無力さを思い知った。


 初めて出会ったとき、天使様は祈りの文言がお嫌いだと仰った。あの時は軽く受け流してしまったが、こうして苦しんでいる天使様を見る限り、何か深い理由があるのだろう。


 もっとも、その理由すらも天使様はきっと私に触れさせてはくださらない。まるでこの世のあらゆる残虐と不幸から私を隔離するかのように、天使様は私を守ろうとしてくださるのだから。


 その優しさは、真綿のようだ。確かに私を傷一つなく包み込んでくださるけれど、同時に首を絞められているような息苦しさを覚える。そのことに、天使様は気づいていらっしゃるのだろうか。


「お願いだ、コレット。今だけでいい、僕を、星影から隠し通してくれ」


「……ええ、こうして抱きしめていれば、どんな星の光だって届きませんわ」


 12歳の体では天使様の背中まで充分に手も届かないのだが、それでも精一杯、彼の体を抱きしめた。「星鏡の天使」でありながら、星の光を厭う彼の姿は、自身の存在さえも呪っているようで見ていて痛々しい。

 

「大丈夫ですわ、天使様。コレットがお傍におります」


 天使様の髪を撫でながら、なるべく彼を安心させるように囁く。私の存在が彼にとってどういうものなのかは分からないが、少なくとも今は私を頼ってくださっているのだろう。それならば、彼の気が済むまでこうしていよう。


 星明かりを遮った室内で、やけにゆったりとした時間が流れて行く。不安定な天使様を抱きしめながら、私は日付の変わる音を聞いた。


 祝祭が、始まったのだ。一言ではとても表しきれない複雑な想いを抱えながら、私はカーテンの隙間から覗いた星空を見上げるのだった。

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