第16話 あの優しい人は俺を許してくれるだろうか

「見て! エリアス! 祝祭の準備かしら、あんなにたくさんのランタンが!」


 馬車の窓を開け、軽く身を乗り出すようにしてフォートリエ侯爵領を眺める。街はすっかり祝祭前の浮足立った空気に包まれていて、準備に追われる人々を見つめるだけでも胸が躍った。


 街の至る所には、灯りのともっていないランタンが積まれていた。これから道に沿って並べて行くのだろう。祝祭で出店する店の準備をしているのか、華やかな布を張ったテントを組み立てていたり、「祝祭の小鳥」として売り出されるであろう鳥たちが騒がしいくらいの鳴き声を上げていた。ほのかに漂ってくる甘い香りは、お祭りで並べる「星鏡の大樹」の葉を模った飴の試作品でも作っているのだろうか。


「コレット、あまり身を乗り出すと危ないぞ」


「そうですよ、お嬢様。街の様子はこれからたくさん見られるのですから、どうかお座りくださいませ」


 向かいに座ったエリアスと、私の隣に控えたリズから注意をされ、私は渋々二人の言葉に従った。確かに、フォートリエ侯爵家の家紋の付いた馬車で、あまりはしたないことは出来ない。ここはミストラル公爵家の令嬢らしく、大人しくするべきなのだろう。


 それでも、この一か月間待ちに待った祝祭を前に、胸の高鳴りは抑えきれなかった。空色のドレスの上できちんと手を組みながらも、視線は常に窓の外へ向けてしまう。




 私をフォートリエ侯爵領の祝祭に案内したい、というエリアスの申し出を、お父様は意外にもあっさりと受け入れた。私が説得するまでもなく、却って拍子抜けしてしまったものだ。


「お父様は、反対なさるかと思ったわ。以前、セルジュお兄様のお葬式の時は長旅は危険だって言って、連れて行ってくださらなかったもの」


 私が一番懸念していたのは、その部分だった。私に対して過保護とも言えるほどの愛情を注いでくれる両親だから、同じような理由で私の旅を反対してもおかしくないと思ったのだ。


「ココももう12歳だからな。行ってみたい場所の一つや二つあるだろう。それはもちろん長旅は心配だが、自由を制限したいわけじゃないんだよ」


「それに、将来の旦那様となるかもしれない方の領地のことを知っておくのはいいことだわ」


 真面目な顔で許可を出してくださったお父様の隣で、お母様はさらりとそんなことを言ってのける。これには私もお父様も動揺してしまった。


「ココの、将来の……旦那……」


 魂が抜け出したのではないかと思うほどに茫然とするお父様を前に、どんな言い訳をしていいのか分からなくなる。私だって公爵家の令嬢なのだから、いずれ誰かに嫁ぐことは必須なはずなのに、私の結婚の話題が上がる度にお父様は泣き出しそうな顔をするから扱いが大変だ。


「もう、あなた、だらしないですわよ。コレットももう12歳、そろそろ縁談を考え始めてもおかしくない時期ですわ」


 お母様の言い分はもっともだった。だが、この手の話題になるのはお父様だけでなく私としても困るのだ。


「……分かっているよ。コレット、実際のところ、エリアス殿とはご友人なのかい?」


 お父様は私を「ココ」ではなく「コレット」と呼ぶときは、決まって真面目な話をするときだ。やりづらい方向に話が流れてきた、と身を固くしながら、お父様の言葉の続きに耳を傾ける。


「もしも、コレットがエリアス殿と将来的に一緒になりたい、ということであれば、私たちはフォートリエ侯爵にコレットとエリアス殿の縁談を打診する準備はいつでもできているんだよ。……寂しくなるからお嫁になんて行ってほしくないのが本音だが、そうもいかないからね。それならば、せめてコレットの望む相手との縁談をまとめてあげたいんだ」


「そうよ、コレット。あなたが望む相手と結ばれるのが私たちの願いなのよ」


 あまりにも優しいお父様とお母様の言葉に、胸の奥が熱くなる。言葉の裏に隠れた、お二人の無償の愛を感じた。だからこそ、真剣に言葉を返したいと思うのに、今はどうしてもはっきりしたことを言えない自分がもどかしい。


 私は、エリアスが好きだ。それはきっと恋愛感情でもあるのだろうし、恋、なんて物を遥かに超越した深い愛でもある。


 でも、エリアスの気持ちはまだわからないのだ。エリアスが私と結婚することを望んでいないのに、家格が上の私が望んでいるから、という理由だけで縁談を進められるようなことがあっては、「エリアスを幸せにしたい」という目標から大きく遠ざかることになる。それだけは御免だ。


「ごめんなさい、お父様、お母様。もう少しだけ、待っていただきたいのです。彼の――私たちの幸せの形がどこにあるのか、ちゃんと見極めるまでは、はっきりしたことを申し上げられません」


 12歳にしては妙に大人びた回答をしてしまったかと危ぶんだが、お父様もお母様も渋々納得してくださったようだ。返事を先延ばしにすることは心苦しいが、今はこれだけしか言えなかった。


 


 本来ならば、貴族の婚姻は政略的な思惑の元に行われることが多いのだから、はっきりとしない私の態度は喜ばしいものではないだろう。それでも、私の気持ちを尊重することにしてくれたのだから、お父様とお母様に大切にされていると実感する。


 願わくば、あの優しい両親を涙させるような結末になりませんように。


 馬車に揺られながら、ぼんやりとお二人とのやり取りを思い出しているうちに、どうやらフォートリエ侯爵領の屋敷についたようだ。王都のフォートリエ邸よりも落ち着いた雰囲気の大きな屋敷だ。以前の時間軸でも一度だけ見たことがあるが、あのときはフォートリエ侯爵夫人の葬儀の際に立ち寄っただけなので、ゆっくりと見る機会は無かった分、新鮮に思う気持ちが大きい。


 今も、この屋敷の離れではフォートリエ侯爵夫人が静養しているという。夫人が外に出ることは滅多に無く、来客を怖がるため、挨拶する必要はないと事前にエリアスから伝えられている。そのため、恐らくその姿を見ることはないのだろうが、今もセルジュお兄様の死に苦しんでいる夫人の御心を思うとずきり、と胸が痛む気がした。


「到着したぞ、コレット。長旅で疲れただろう」


 一足先に馬車を降りたエリアスは、そっと私に手を差し出してくれた。私はその手に自らの手を重ねながら、思わず頬を緩ませる。


「そんなことないわ。エリアスとずっと一緒にいられたし、祝祭のことを考えると楽しみで仕方なかったもの」


「道理で終始にやにやしていた訳だ」


 エリアスはからかうように笑うと、そのまま私をエスコートするように歩き出した。そのすぐ後ろを、リズを始めとした私付きのメイドがついてくる。一週間ほどの滞在なのに、何だか大仰な一行だ。


「少し休んだら、約束通り兄さんの墓に案内しよう」


「……ええ、ありがとう、エリアス」


 事前に、「折角フォートリエ侯爵領に赴くのだから、セルジュお兄様のお墓にお花を手向けたい」と言った私の我儘をエリアスは二つ返事で了承してくれていた。エリアスはかつて、セルジュお兄様への劣等感のようなものを抱えていたようだから少しだけ心配していたけれど、私を案内するとまで言ってくれたエリアスの穏やかな心に思わず安心したものだ。


 確実に、エリアスは以前のエリアスよりも変わってきている。彼にとって、生きやすい方向へ。その変化がエリアスにとっての幸せに近づいていることは明白で、少しずつ、「エリアスを幸せにしたい」という目標が形になりつつあることを私はひそかに喜んだのだった。

 

 




 エリアスと共に少しだけお茶を飲んで休憩した後、私は墓地へ赴くのにふさわしい濃いグレーのドレスに着替えた。あらかじめ用意してもらっていた白百合の花束を携えて、フォートリエ侯爵家の墓地へとそっと足を踏み入れる。


 ここには、代々のフォートリエ侯爵家の当主やその夫人、若くして亡くなったセルジュお兄様のような方々が眠っているらしい。十分な広さの墓地の中を、私はエリアスに案内されながら静かに歩いた。

 

 首から下げた、セルジュお兄様の形見のペンダントにそっと触れる。エリアスの視線を意識してしまうので、いつも身に着けているわけではないのだが、何か特別な行事があるときにはお守り代わりに携帯していた。


「ここが兄さんの墓だ」


 エリアスに案内された墓標には、確かに「セルジュ・フォートリエ」と刻まれていた。セルジュお兄様の形見のペンダントと同じ「星鏡の大樹」の葉の形が至る所に彫られている。故人の安らかな眠りを祈って刻まれる紋様だった。


「……セルジュお兄様」


 そっと、墓標の前に跪き、白百合の花束を供える。周りを木々に囲まれたこの場地には、祝祭の準備に追われた人々の賑やかな声も届かない。静かに故人を悼むことのできる場所だった。


「……星影の煌めきと、大樹の美しき祝福が、セルジュお兄様に注がれますように」


 祈りの文言を呟きながら、そっとセルジュお兄様の名前を見上げた。セルジュお兄様は、今も星影の中から私とエリアスのことを見守ってくださっているだろうか。


 私のすぐ隣で同様に祈りを捧げていたエリアスは、ふと、墓標に備えた白百合に視線を落として僅かに微笑む。傾けかけた日に照らされたその横顔は、どこか不安げで、自嘲気味にも取れる笑みだった。


「……兄さんは、俺がコレットと親しくしていることを許してくれるだろうか」


 エリアスも、察しているのだろう。私とセルジュお兄様が、何事もなければいずれは婚約を結んでいただろうということを。そして私とセルジュお兄様は、それを歓迎するほどに親しかったということを。


 もちろん、幼い私にセルジュお兄様への恋心などあるはずもない。それでも、エリアスと出会わず、あのままセルジュお兄様と暮らしていたら、もしかするとセルジュお兄様への想いはやがて恋情に変化していったのかもしれないと考えることはあった。


 でも所詮は全て、仮定の領域を出ない話なのだ。私はこうしてエリアスと出会ったし、彼を心から愛している。あったかもしれない未来を想ったところで、感傷的な気分になるだけだ。私はエリアスと一緒に前を向いていたい。


「セルジュお兄様は、とてもお優しい方だもの。妹のような私と、可愛い弟のエリアスが仲良くしているのを咎めるはずがないわ」


「そうかもしれないな。兄さんは、俺と違って寛大な御心をお持ちだったから」


 エリアスはふっと笑って、私が供えた白百合を撫でた。思えば私は、エリアスとセルジュお兄様の関係性をあまり知らない。


「エリアスは、セルジュお兄様とどんなお話をしたの?」


 意を決して尋ねてみれば、エリアスはどこか懐かしむような目でセルジュお兄様の墓標を見上げた。


「他愛のないことばかりで、内容はほとんど覚えていないんだ。俺は兄さんが亡くなるまで領地の屋敷で暮らしていたから……接点があったのは、兄さんが療養でこっちの屋敷に来てから亡くなるまでの半年にも満たない期間だけだからな」


 エリアスは、ぽつりぽつり、と彼とセルジュお兄様の過去を語り始めた。


「愛人として囲われていた母が死んでから、俺はほとんどいないものとして扱われていたんだが……兄さんだけは、俺を気にかけてくれた。大人たちに咎められるから表立って俺のことを口にはしなかったが、夜な夜なこっそり落ち合っては、兄さんは俺に王都の話を聞かせてくれたり、本を貸してくれたりしたんだ」


 優しい人だったな、とエリアスはどこか寂し気な笑みを見せる。零れ落ちた白百合の花弁を拾い上げる彼の横顔は、見ていてとても切なかった。


「卑しい母親から生まれた俺を、兄さんは躊躇いもなく弟だと言ってくれた。そのときは、世の中には聖人のようなご立派な人間もいるものだな……なんて皮肉気なことを考えていたが、今にして思えば嬉しかったんだろうな」


 エリアスの視線が不意に私に向けられる。思ったよりも距離の近い紺碧の瞳の美しさに、思わず私は息を飲んだ。


「思えばコレットに会ったときも、似たようなことを考えた。きたない俺と仲良くしたいだなんて、変わったお嬢様だ、どうせ兄さんの代わりを求めているだけだろう、って思っていたのに……コレットの口にする言葉には、何一つ嘘はなかった」


 流石に、素手で土を抉ったときは驚いたけど、と笑うエリアスを軽く小突く。エリアスと出会って二度目の御茶会での、私の取り乱し方をからかっているのだろう。


「忘れてちょうだい……と言っても無理な話なのでしょうけれど、それくらい、本気だったのよ。私があなたをセルジュお兄様の代わりとして見たことなんて、一度も無いわ」

 

「そのようだな。会うたびあんなに直球に感情表現をされていたら、いい加減分かるさ」


 私が素直というよりは、エリアスが不器用すぎるだけの気もするが、私の想いが彼に伝わっているのなら何よりだ。


「ふふ、私の想いを素直に受け取ってくれて嬉しいわ」


「素直すぎるけどな。もう少し抑えてくれてもいいんだぞ」


「どうしようかしら。照れているエリアスはとっても可愛いんだもの」


「相変わらず、悪趣味な公女様だ」


 お互い顔を見合わせてふっと笑い合う。白百合の花束に添えていたお互いの手が、どちらからともなく触れ合った、そのときだった。夢見るような可憐な声が、背後から響き渡ったのは。


「――あら? そこにいらっしゃるのは、もしかして、コレット嬢?」


 この墓地には、私たちの他には付き添いのリズしかいないはずだ。咄嗟に背後を振り返れば、そこには淡い緑色のドレスを纏った、儚げな美女が微笑んでいた。


 夕暮れに染め上がるプラチナブロンドと、深い森のような美しい緑色の瞳。


 紛れもない、この方は――。


「……フォートリエ侯爵夫人?」


 間違いない、フォートリエ侯爵閣下の正妻。セルジュお兄様のお母様。


 領民と使用人たちに女神とまで崇め奉られるその人が、確かに私たちの前に佇んでいたのだった。

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