第14話 君の肺がチョコレートケーキなら、その目はきっと苺味の飴だよね

 一瞬で笑みを崩した私とは対照的に、天使様は怖いほど端整な微笑みを浮かべたままだった。


「ずいぶん驚いてるね、でも、本当のことだよ。『星鏡の大樹』には、ごくまれに生贄が捧げられるんだ。……昔と違って、今は公にはできないみたいだけどね」


 さらりと言ってのけたが、それはあまりに重大なことではないのだろうか。天使様の話が本当ならば、私たちがのんびりと平和を謳歌している裏で、人知れず誰かが犠牲になっていることになる。


 いや、犠牲、などと決めつけるのは早いだろうか。「星鏡の大樹」に生贄が捧げられる、という文言自体は知っていても、生贄が何をするのかなんて知らない。もしかすると、「星鏡の大樹」に感謝を捧げる舞を踊るだけ、なんていう平穏なものかもしれない。


「……その生贄は、何をするのですか?」


 ありふれた迷信の話をしていたはずなのに、急に不穏な話になったせいか、妙に脈が速い。天使様にその動揺を悟られないよう誤魔化すように微笑みかければ、天使様はやはり綺麗な微笑みを崩さぬまま淡々と告げた。


「僕が食べちゃうよ。100年に一度の大切な食事だからね」


「食べ、る……?」


 あまりに予想外で物騒な答えに茫然と天使様を見上げていると、天使様は赤い舌を小さく覗かせて軽く舌なめずりをした。品の良い仕草とは言えないはずなのに、背筋がぞわりと粟立つような壮絶な色気を感じて余計に言葉を失う。


「うん、食べるよ、それはもう、骨の髄まで美味しくいただくんだ。血は喉の渇きを潤してくれるし、柔らかな肉は空腹を満たしてくれる。悲鳴も断末魔も魅力的なスパイスだよね」


 天使様の指が、私の首筋をそっとなぞる。先ほども似たようなことをされたはずなのに、感じるのはくすぐったさではなくただただ寒気だった。4年間、無条件に信頼しきっていた天使様の本性が垣間見えた気がして、呼吸すらままならない。


「コレットは美味しそうだよね。本当に、食べてしまいたいくらい可愛い。深紅の瞳は綺麗な飴みたいだし、滑らかな白い肌に歯を立てたらきっと甘い血が溢れ出すんだろうなあ」


 微笑みを保ったまま、淡々と告げる天使様の平静さが不気味だった。何より、どれだけ姿が似ていても、至極真っ当な思考回路をお持ちでも、天使様は人間ではないのだと思い知らされた気がする。


「……私のことも、いつか食べてしまうのですか?」

 

 震える声でようやく紡ぎだしたのは、怯えの色が隠しきれない情けない言葉だった。思えば天使様は「コレットの幸せを見届けたい」と口癖のように仰っているが、見届けた後のことについて話したことは一度も無い。その理由は、私を食べてしまうからなのだろうか。


「そうだね、コレットはとっても可愛いから食べちゃおうかな」


 首筋に添えられた天使様の指が強く押しあてられ、自分の脈の早さを思い知らされる。天使様は相変わらずいつもの微笑みのまま、私の戸惑いを察知して楽しんでいるようだった。


「あはは、脈が速いね。僕が怖い?」


「っ……いいえ、そんな、ことは……」


 ただただ嫌な緊張感ばかりが頭の中を支配していて、怖いだとか、逃げ出したいだとか、自分の今の心情を考える余裕はなかった。


 でも、そんな中でも脳裏を過るのは、やはりあの人の姿。彼が寂しげに笑う横顔。私は震えながらも、意を決して天使様を見つめた。


「……もし、時間を巻き戻した代償が私の命だと仰るならば、きっと天使様に差し上げます。でも、もう少し時間をください。彼が……エリアスが私を要らないと言うまでは、待っていただけませんか?」


「こんな場面にまであいつの名前が出てくるのは気に食わないけど、随分素直に差し出すんだね?」


 天使様は面白がるように私の頬に手を添えて笑みを深める。包帯に隠された目元はやはり見えないままだが、もしも瞳が露わになっていたら真っ直ぐに私を射抜いていることだろう。


「それは……そうですわ。大好きな天使様が、お腹を空かせたままなのはお可哀想ですもの」


 多少の恐怖はあるけれど、天使様のお食事が人間だと言うならばそれは仕方のないことだ。私たちが羊や魚を食べるように、天使様は人間を食べると言うだけのことなのだから。それに、天使様にはあまりに大きな借りがある。エリアスの幸福を見届けた後で、天使様の飢えと渇きを満たす存在になれるのであれば、それはそれで悪くない。


 そんな思いを込めて大真面目に言ってのけたつもりだったのだが、天使様は堪え切れないとでも言うように口元に手を当て肩を震わせていた。

  

 この場に漂った緊張感にそぐわぬその仕草に、まさか、と私は天使様を睨み上げる。


「ありがとう、コレット。でもね……冗談だよ」


「……冗談、ですか?」


「うん、冗談。ごめん、ごめんね、真剣に悩むコレットが可愛くて……」


 遂にくすくすと笑い出した天使様を前に、思わず唖然としてしまう。まだ、私はしてやられたのか。この能天気な天使様は、余程私をからかうのがお好きらしい。真剣に悩んで覚悟して、大真面目に告白した私が馬鹿みたいだ。


「酷いです! 天使様!」


「ごめん、本当にごめん。怯えさせるつもりはなかったんだけど、君があまりに大真面目に答えてくれるものだから、止め時を見失っちゃって……」


 天使様は翼と腕で私を抱きしめるように包み込みながら、よほど可笑しかったのか未だに笑い続けていた。私としては、またしてもからかわれて面白くない気分だが、天使様が楽しそうに笑っている姿を見ると何だか毒気を抜かれてしまう。


「人なんて、食べないよ。天使は何も食べなくても飢えも乾きも感じないからね。ああ、コレットのことを食べてしまいたいくらい可愛いって思うのは嘘じゃないよ」


「そんな風に褒めても駄目です!」


 軽く抗議するように天使を睨み上げれば、彼の手が宥めるように私の頭を撫でる。


「ごめんごめん、僕が悪かったよ。……でも、これだけ君の幸せを願ってる僕が、君を傷つけるなんて本当に思ったの?」

 

「むしろ、代償に私の命を望むくらいの方が自然です。これだけのことを私にしてくださっているのに……現状、私は天使様に何も差し上げられていませんもの」


「馬鹿だなあ、コレットといる時間が何よりの宝物なのに」


「甘い言葉で誤魔化さないでください!」


 いつもの調子で声を上げれば、ふと、天使様の笑みに切なげな色が混ざっていることに気が付いた。どこか寂しげにも見えるその横顔に、思わず口を噤んでしまう。


「誤魔化しなんかじゃないよ、コレット。僕は……他の何よりも君の幸せを願ったんだ。君が幸せになってくれるなら、直接会えなくたっていいと思っていたのに、『星鏡の大樹』の慈悲が僕を君に会わせてくれた。だから、僕にとってコレットと過ごす時間は、奇跡みたいなもので……宝物、なんて言葉じゃ足りないくらいに、大切なものなんだよ」


 それは、初めて明かされると言ってもいい天使様の想いだった。いつもよりずっと真剣な声音に、どくん、と心臓が跳ねる。


 彼が、私の幸せを見届けたいと、私と一緒に過ごす時間が幸せだと笑うたびに深くなっていく疑問。それは、下手な愛の言葉よりずっと深く鋭く私の心を抉っていることを、天使様はご存知なのだろうか。

 

「っ……どうして、天使様はそこまで私のことを――」


 口からついて出たその言葉さえ掻き消すように、天使様はそっと私をベッドの上に横たえる。怪我をした左足首を気遣うそぶりを見せながら、ふわりと毛布を掛けてくれた。


「……今夜は少し、喋りすぎたよ。いい子はもう寝る時間だね」


 天使様が敢えて私を子ども扱いするときは、緩やかな拒絶の意を示すときだと決まっている。4年も一緒にいれば、そのくらい察していた。


「……本当はね、正直ちょっと揺らいだよ。たとえあいつの次だったとしても、君が僕を救うために命を投げ出してもいいと思ってくれているんだって知ったら……このまま連れ去ってしまいたいな、って、思っちゃった。……そんなことしたら、君は泣いて嫌がるだろうから、絶対にしないけどね」


 少なくとも今は、と聞き捨てならない台詞を吐きながら、天使様はそっと私の頬に口付けを落とした。思わず目を丸くして天使様を見上げれば、寂しそうに笑う彼の表情が目に焼きつく。


「……君は、を狂わせる天才だね、コレット」


 意味深にもほどがある言葉を残して、天使様は立ち上がり私を見下ろした。


「おやすみ、コレット。いい夢を」


「……おやすみなさいませ、天使様」


 やがて寝室を出て、バルコニーに出た天使様は一度だけこちらを振り返り、手を振った。それに応えるように微笑みながら手を振り返せば、やがて天使様は大きな純白の翼を広げて星空の中へと飛び立っていく。もう見慣れた光景のはずなのに、今夜はやけに印象的に目に焼きついた。それも全部、天使様の意味ありげな言葉たちのせいだ。


 私は小さく息をついて、天蓋に埋め込まれた「星鏡の天使」の絵画を見上げる。


 エリアスの病み、星鏡の祝祭、迷信、と、今夜天使様とお話したことを順に思い返していると、ふと、あることに気が付いてしまった。


 ……天使様、生贄のお話だけは否定なさらなかったわ。


 もしかすると天使様の言う「冗談」という言葉は、人を食べるという話だけでなく、生贄の迷信自体にかかっている可能性もあるが、どうしても「生贄」という響きに得体の知れない不安を感じてしまうのだ。もやもやと燻るその不穏な感情は、呼吸も儘ならない息苦しさによく似ていた。


 軽く寝返りを打って、先ほどまで天使様が手をついていたベッドの上に自らの手を重ねて見る。気のせいかもしれないと思うほど微かな温もりが、妙に私を感傷的な気分にさせたのだった。

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