第13話 どんな痛みも苦しみも君を苛むことは許さない

「病みかけてたよね!?」


 御茶会に出向いた夜、一日と置かずとして私を訪ねてきた天使様は、私に詰め寄る勢いで開口一番にそう言った。足を怪我しているため、いつものようにバルコニーには出ず、ベッドの上で体を起こしていた私は、天使様の手が肩に添えられることでクッションに体を押し付けられる形になってしまう。


「何のことです?」


「あいつだよ、エリアス! 何だよ、『こんな痛みじゃ済まなくなるからな』って! 脅迫だよ、君に危害を加える気満々だよ!」


 天使様は、日を追うごとに私に対して過保護になっている気がする。「目を覚ましてコレット!」と繰り返しながら、縋りつくように私の肩を揺らす天使様は、初対面の時に纏っていた神々しさをどこかに置き忘れてきたらしい。


「大丈夫ですわ。以前のエリアスなら、あの場で躊躇いもなく私の足首を握り潰していたはずですもの。それに比べて、今日は触れただけ。大きな進歩だと思いませんか?」


「コレットは、基準がおかしいんだよなあ……。いや、まあ、あんな病んだ男に10年間執着されたら感覚も麻痺するのかもしれないけどさ……普通は負傷した恋人を前に脅迫なんてしないよ?」


「こ、恋人だなんてそんな……。この時間軸ではただの幼馴染ですわ」


 今のエリアスと恋人だなんて。想像しただけで頬に熱が帯びる気がする。その私の表情を見てなのか、天使様が若干引いたような表情を浮かべるのが分かった。


「コレットは……本当にあいつが好きだよね。最初はただの洗脳だと思ってたけど、今となってはもう信じざるを得ないや」


「ふふ、分かって頂けて嬉しく思いますわ」


 4年間もの間エリアスへの想いを聞かされていれば、いくらエリアスを許していない天使様でもそのような考えに至るのかもしれない。


「でも……心配したのは本当だよ。あのままコレットが傷つけられたら、どうしようかと……」


 天使様は私の肩をクッションに押し付けたまま、項垂れるように私の体の上にかけられた毛布に顔を埋めた。本当に、心配性な天使様だ。


「心配してくださってありがとうございます、天使様。ですが、私はこの通り大丈夫ですわ」


 御茶会から帰ってきて早速お医者様に診ていただいたところ、思ったよりもひどい怪我ではなかったようで、2週間ほどで充分歩けるようになるとのことだった。お父様もお母様も、こちらが気恥ずかしくなるくらい心配してくださったし、リズに至っては度が過ぎるくらいに甘やかしてくれた。本当に、私は周りの人に恵まれていると思う。


「僕が、コレットの傷を癒せるような力を持っていたらいいんだけどな……」


 天使様は小さな溜息をついて呟いた。天使様は基本的に、超常的な力で人に干渉するようなことは出来ないらしい。せいぜい祝福を授けるくらいが関の山だと仰っていた。その割に、私に関しては世界の時間を巻き戻すほどに入れ込んでいるように思うのだが、やはり、その理由は今日も分からないままだ。


「ふふ、そのお気持ちだけで充分ですわ」


 そっと天使様の髪を撫でてみる。少し癖のある白金の髪は、とても柔らかかった。星の光があまり届かないような薄暗い室内でも、輝いて見えるから不思議だ。


「天使様の御髪は、とても綺麗ですね。羨ましいです」


「……そうかな? あまり考えたことも無かった」


 天使様は顔を上げて、自らの髪に触れた。その様子は何だか子供のように無邪気で、見目は私より年上なのに不思議な感覚だ。


「でもコレットに羨ましがられるほどではないよ。コレットの髪は、飾り付けなくてもこんなに綺麗だ」


 天使様は編んで横に流した私の灰色の髪に触れて微笑んだ。4年前に比べれば、随分伸びた気がする。傷んだ毛先を切ったりして、手入れしながら少しずつ伸ばしているのだが、もうすぐ腰まで届く勢いだ。


「ふふ、天使様にそう言って頂けて嬉しいですわ。世間一般では蔑まれる髪の色なのですけれど……」


「珍しくて綺麗でいいと思うよ。コレットだってすぐに分かるしね。……でも、コレットが気にしているなら、どうにかしてあげたいな……」


「天使様は人に干渉できないのでしょう? いいのですよ、そう真剣に悩まないでくださいませ。所詮は子どもの無いものねだりですから」


 天使様は私の悩みの一つひとつに真剣に向き合ってくださる。私が幸福になるために出来ることがあるならば、なんだってしたいというのが天使様の信念らしい。


 私はエリアスを、天使様は私を、とにかく幸せにしたいと願っているのも不思議な共通点だ。この4年間の間に、すっかり他人とは思えないほどに親しくなった気がする。


「天使様のお陰で、私、毎日が楽しいです。今日も、空を見上げて天使様のことを考えていたんですよ」


「それは嬉しいなあ。何を考えてくれたの?」


「天使様が見守ってくださっているから、きっと大丈夫って思ったのです」


「それだけ聞くと、コレットはとても敬虔な信者のようだね」


 天使様はくすくすと笑いながら、私の頭を撫でた。慈しまれていると感じる。


 本当に、この方は私に惜しみのない愛を注いでくださる。時折、天使様を一番に思うことが出来ない自分が薄情に思えて来るくらいには。


「……天使様には、天使様の幸福を一番に願ってくださる方はいるのでしょうか」


 不意に、思い浮かんだ言葉が口をついて出てしまう。慌てて口元に手を当てたが、もちろん遅かった。


「どう、かな。……遠い昔は、誰かの一番だったかもしれないけどね」


 天使様は微笑みを崩さなかったが、躊躇いを窺わせるような言葉の選び方だった。踏み込んだ質問をしてしまったのかもしれない。


 これだけ慈愛に満ちた天使様なのだ。人の一生よりも遥かに永い時間を過ごしてきた中で、忘れたくなるような悲しい別れも経験されているだろう。想像力が足りない質問だったと猛省する。


「あの、天使様――」


「ああ、でも、顔を思い浮かべれば、大丈夫って安心できるような相手は、間違いなく君かなあ、コレット」


 躊躇いがちに謝罪を口にしようとした私の声を打ち消したのは、そんな温かい言葉だった。


「ありきたりな言葉だけれどね、君の幸せが僕の幸せだよ。間違いなくそうだ」


「そう、ですか……」


 いざ改まってそう言われると、何だか気恥ずかしくなってくる。捉えようによってはあまりに甘い言葉だ。以前のエリアスに散々囁かれていたはずなのに、このところは全く聞いていないから、つい動揺してしまった。

 

「照れてるの? コレットはいつまで経っても可愛いね」


「か、からかわないでくださいませ!」


 言葉通り天使様は面白いもの見たとでもいうように口元を歪めていた。この天使様が私を見守る訳は、案外、「面白いから」なんていう他愛もない理由なのではないかと思ってしまうくらい、天使様は私をからかって遊ぶのが好きだ。

 

 熱くなった頬を誤魔化すため、私は少し体を起こし、就寝前にリズが用意していってくれたコップの水を飲もうと試みた。ベッドに手をついて背中のクッションから背を離したところ、すかさず天使様の腕が私を支えてくれる。


「どうかした? 何かしたいことがあるの?」


 本当に、呆れるほど過保護な天使様だ。ベッドから降りようとしたわけでもないのに、手を貸そうとしてくださるなんて。


「大丈夫ですわ。そこにある水を飲もうとしただけですから」


「ああ、喉が渇いたんだね、ちょっと待って」


 天使様は私の背にご自身の純白の翼を添えると、私から手を離してコップに手を伸ばした。実質、天使様の翼に背を預けるような体勢になってしまう。立派な翼だからちょっとやそっとのことには動じないだろうと思っていたが、私の体重を支えられるほどだとは思っていなかった。


 天使様の翼は、ふわふわとしてとても心地よかった。どんな質の良いベッドもこれには敵わない。時折頬を掠める羽の感触がくすぐったくもあるが、温かく安心感のある触れ合いに、自然と頬は緩んでいた。


「はい、どうぞ。ちゃんと持てる?」


 天使様に銀のコップを差し出され、油断すればそのまま私の口元に持っていきそうだったので慌てて受け取った。天使様の翼に寄りかかっているこの状況でさえ、内心かなり動揺しているのだ。その上、天使様に手ずから水を与えられるようなことがあっては、恥ずかしさで余計に頬が熱くなってしまう。


「だ、大丈夫ですわ。ありがとうございます」


 天使様からコップを受け取り、そっと口元に運んだ。リズが用意してくれてからいくらか時間が経っているため、室温近くまで温くなってしまっている。残念ながら火照った頬を冷やす効果はなさそうだ。


 私がコップから口を離せば、天使様はそれを受け取りサイドテーブルに戻してくれる。私に対して過保護なリズも顔負けの甲斐甲斐しさだ。


 天使様の翼に包まれたまま、彼の顔を見上げていると、天使様は私を慈しむように端整な微笑みを浮かべられた。普段より距離が近いこともあってか、やはり妙に戸惑ってしまう。緊張で変な汗をかいてしまいそうだった。


 こんなにも近い距離にいるのに、私は天使様のことを何も知らない。天使様が私を気にかけてくださる理由も、彼の瞳の色も。


「何を考えているの?」


 天使様の手が、私の頬にかかった灰色の髪を耳にかけてくれる。壊れ物に触れるような優しい手つきに隠された天使様の想いは何なのだろう。


「……私は、天使様のことを殆ど何も存じ上げないな、と思いまして」


「何か僕に訊きたいことがあるなら何でもどうぞ」


「っじゃあ、天使様はどうして私を――」


「それは内緒」


 質問を言い終わる前にばっさりと切り捨てられてしまう。何でも、と言ったじゃないかと恨みがましく見上げれば、天使様は悪戯っぽく微笑むばかりだった。


「答える、とは言ってないからね。……それに、こんな綺麗な夜なんだ。楽しい会話だけしようよ、ね?」


 天使様は私の頭を撫でながら笑った。それはつまり、天使様が私を気にかけてくださる理由は天使様にとってあまり愉快なものではないということを示唆しているのだろうか。ますます深まる謎に、思わず小さく息をついてしまった。


「徹底した秘密主義ですね」


「お互い様だろう? 君だってあいつに沢山隠しごとをしているじゃないか」


「それは……そうですけれど……」


 星鏡の天使様と親しいだなんて話をしたら、妄想に囚われた憐れな女だと思われないだろうか。今のエリアスが私の話をどの程度まで信じてくれるのか、まだ見極め切れていない部分が大きかった。


 「星鏡の大樹」にまつわる話題にでもなれば、自然な流れで話せるのかもしれないが、私もエリアスもお互い貴族として形式上の祈りを捧げる程度の信者なので、そんな機会はそうそうない。


「せめて『星鏡の大樹』にまつわる儀式でもあれば、打ち明けやすそうなものなのですけれど……」


 「星鏡の大樹」にまつわる儀式と言われてぱっと思いつくのは、社交界デビュー直前に神官によって行われる簡単な祈祷くらいだ。遠い昔は一日がかりで行うほど大掛かりな儀式だったそうだが、今では社交界デビューの夜会の直前に、神官とともに「星鏡の大樹」への簡単な祈りを捧げ、祝福が訪れるというワインを飲むだけの、半時間にも満たないほどの簡易的な儀式になっている。


 王国エルランジェの社交界デビューは15歳なので、私にとってはまだ3年ほど先の話だ。他にいい機会が無いものか、と思案していると、天使様がにこりと笑って告げる。


「……『星鏡の大樹』にまつわる儀式なら、もうすぐ『星鏡の祝祭』があるよ」


「あら、もうそんな時期でしたか……」


 「星鏡の祝祭」は「星鏡の大樹」への祈りのために、数年に一度、王国エルランジェ中で盛大に行われるお祭りのことだ。基本的には4年に一度開催されるお祭りであるのだが、新たな国王が即位したり、豊作が続いたりすると例外的に開かれることもある。


 祝祭の期間は異国の商人たちなどの出入りも増え、街には珍しい品々が並んだり、耳慣れない愉快な音楽が溢れたりする。何百年も続く、多くの国民に親しまれている行事だった。私は実際に見て回ったことは無いのだが、楽し気な王都の雰囲気を感じるだけでも胸が躍ったものだ。


「祝祭の間、天使様はお忙しくなるのではありませんか?」


「そんなこともないよ。コレット以外の誰かに、姿を見せるような用事もないからね」


 神官たちが天使様の姿を一目でも見ることが出来たら、それはもう震えるほどに喜ぶだろうが、どうやら天使様にそのつもりはないらしい。前々から思っていたが、天使様は祈りの文言を嫌うことといい、「星鏡の大樹」にまつわる行事への無関心さといい、「星影の大樹」に宿っているとは思えないほどの奔放さだ。


「本当に、天使様はご自身にまつわることに、あまりご興味がおありではありませんのね」


「まあね。……でも、祝祭はそれなりに知ってるよ。妙な迷信がたくさんあるのも面白いよね」


 天使様の仰る通り、祝祭にまつわる迷信は数え上げればきりがない。皆、「星鏡の大樹」の恩恵にあやかろうと必死なのだ。祝祭を実際に見て回ったわけではない私でも、いくつか知っているほどだ。


「そうですわね。有名どころで言えば、『祝祭の小鳥』などでしょうか?」


 「祝祭の小鳥」と呼ばれる迷信はその名の通り、祝祭の間に小鳥を買うとやがて幸運が訪れる、という何ともありきたりなものだった。だが、それなりに有名な迷信であることもあって、祝祭の間、街道に沿って並ぶ屋台には、軒並み小鳥が展示されているという。値段もピンからキリまでで、この国では見られないような華やかな羽を持つ鳥などにもお目にかかれるのだ。


「飴にまつわる迷信もあったよね」


「ええ、祝祭で『星鏡の大樹』の葉を模した飴を食べれば、いつまでも健康でいられる、というものですわね」


 この飴は実物を目にしたことがある。細い棒を中心に葉の形を模られた、色とりどりの可愛らしい飴だった。祝祭に足を運んだお父様が、私や弟妹達のために買って来てくださったのだ。


「それそれ。……もし祝祭に足を運ぶことになっても、今度は喉に詰まらせないでね、コレット」


 天使様は、悪戯っぽく微笑んで私の喉を軽く撫でた。妙にくすぐったい感触だ。


「一体いつの話をしているのです! 忘れてください!」


 恐らく、私が初めて神殿に祈りを捧げに入った遠い昔のことを指して言っているのだろう。あれはせいぜい3歳やそこらという幼さだった。天使様にとっては人間の3歳も12歳も変わらないのかもしれないが、私からすれば大違いだ。


「あはは、ごめんごめん。心配で、つい、ね」


 心配、という言葉を免罪符にすれば何を言ってもいいと思っているのだろうか、この天使様は。軽く拗ねたような素振りを見せて、天使様から軽く視線を逸らす。

 

 ああ、そういえば、こんな迷信もあったっけ。


「それから……100年に一度、『星鏡の祝祭』の間に生贄が捧げられる、なんて迷信もありましたわね」


 物心がついたばかりのころ、お母様にそんな迷信を教わったことがある。今考えてみれば、あれは祝祭を口実にはしゃぐ子供たちを戒めるための都合の良い文言だった。要は、「いい子にしていなければ、生贄にされてしまいますよ」という子供向けの可愛い脅しなのだ。


「小さい頃は本気で信じていて、怖かったのを覚えています」


「へえ、今は怖くないの?」


 天使様はにやりと笑って私をからかうようなそぶりを見せる。もうその手には乗らない、と言わんばかりに私はふっと強気に笑ってみせた。


「天使様、私、見た目はともかく精神年齢はかなり大人なのですわよ。もうそんな迷信を信じるような歳でもありませんわ」


 生贄、なんて一体いつの時代の話をしているのだ。もしも今もこの大陸で行われていようものなら、ちょっとした問題である。


 だが、次に紡がれた天使様の言葉は、私の余裕ぶった笑みを崩すのに充分なほど衝撃的な内容だった。


「迷信じゃないよ、それ」


「……え?」


 茫然とする私に向かって、天使様は、にこりと不敵に笑ってみせる。月明かりがどこか怪し気に天使様の横顔を照らしていた。

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