第11話 紅を引いて香水を纏えば、逃げられるとでも思った?

「はい、お嬢様。とてもお綺麗ですよ」


 鏡越しに、灰色の髪を結い上げた私の姿が映る。淡い水色のドレスは、フリルなどはそう多くなく、一見すればシンプルなものなのだが、胸や腰のあたりは繊細な編み目のレースで飾られており、仕立て屋のこだわりが感じられた。灰色の髪を結い上げるために使用しているリボンも、ドレスと同じ生地で仕立てた淡い水色のものだ。


「ありがとう、リズ。完璧よ」


 薄く化粧の施された、鏡の中の自分にそっと微笑みかけてみる。今日は、ミストラル公爵家の令嬢として初めて迎える御茶会に出向くのだ。


 時間が巻き戻ってから4年が経ち、12歳になった私はとても平穏な日々を送っていた。二度目の人生なだけあって、既に内容を知っている勉強に励むのは少々退屈ではあったけれど、その余裕を活かして読書をしたり、マナーを学び直したり、と充実した時間を過ごしていた。


 概ね以前の時間軸と同じように動いていると言えるのだが、唯一異なる点を挙げるならば私とエリアスの関係性だろうか。エリアスは、一応私の婚約者候補としてお父様に認められているようだが、正式な婚約は交わしていない。私が、お父様にもう少し待っていただくように頼んだのだ。


 エリアスとは、非常に良好な関係を築いていると思う。週に二度は必ず会うほど親しい友人として、ささやかな思い出を積み重ねる日々だ。誕生日にはお互いに贈り物を贈り合ったりもして、思い出の品もたくさん増えた。


 今日も、エリアスに貰った銀のブレスレットをつけてお茶会に出向くのだ。エリアスは、気づいてくれるだろうか。


 今日の御茶会は、今年14歳になられた王太子殿下が主催される規模の大きなもので、殿下と同年代の貴族子息や令嬢が集められるものだという。各家の親交を深めるため、との名目だが、実際は王太子殿下の婚約者選びの場を兼ねているのだろう。名家のご令嬢たちは気合を入れて参加するに違いない。


 これは、エリアスにとってもいい機会だと私は思っている。着飾った名家のご令嬢たちが集まるのだ。エリアスの目に留まる魅力的な令嬢もいるかもしれない。


 私からエリアスの傍を離れることは、私の存在がエリアスの幸福の妨げにならない限りあり得ないが、彼は別に私に囚われる必要はないのだ。以前の時間軸の彼よりずっと口下手な今のエリアスが、私のことをどう思っているのかは正直よく分からないけれど、あくまでも私を幼馴染として認識し、そろそろ婚約者候補を見定めたいと考えている可能性も十分にあり得る。


 エリアスが婚約者を探すことを望むのならば、私はその手伝いをするつもりでいた。「ミストラル公爵家の失敗作」なんて呼ばれ、好奇の目で見られている私だから、直接的に橋渡しなどは出来ないかもしれないけれど、勉強の合間に調べた貴族令嬢の情報をさりげなく提供することは出来るはずだ。


 自慢じゃないが、フォートリエ侯爵家と釣り合う家格のご令嬢については、好みの食べ物や趣味まで調べ尽くしているのだ。エリアスが想い人に贈り物をするときなどには、強力な助っ人になれると自負していた。


 ――健気で結構なことだけど、コレットはそれでいいの?


 三日に一度は必ず私に会いに来る天使様に、昨夜言われたことを思い出す。天使様ともすっかり仲良くなったけれど、彼が私を過保護なくらいに心配するのは相変わらずだった。私がエリアスの幸福を願って行動するのがぶれないように、天使様も私を幸せにするという目標は一切揺らいでいないようだ。


 正直、天使様にそう問われたときに胸が痛んだのは事実だ。エリアスの隣に見知らぬご令嬢が並んで、楽しそうに談笑する二人の姿を思い浮かべれば、胸の奥が苦しくて仕方がない。


 だが、どれだけ私が苦しくても、そこにエリアスの本当の笑顔があるというのなら、やはり私は身を引こう、と思うのも事実だった。


 割り切れない感情に悩むときは、いつだってエリアスが幸せになる方を選ぼうと決めていた。だから、エリアスが婚約者を探すというなら、私はそれを手伝うまでだ。


 鈴蘭の花が連なるようにつながった、繊細な銀のブレスレットが揺れる。私の好きな花が鈴蘭だと知って、エリアスが誕生日に贈ってくれた大切な宝物だ。エリアスに婚約者が出来たら、これも公の場にはつけていけなくなるだろうか。


「お茶会、楽しみですね。エリアス様と素敵なひと時を過ごしてくださいね」


 リズは私とエリアスの仲を応援してくれていた。いつも私の身支度は張りきってくれるリズだが、エリアスと会う日は格別に気合を入れてくれる。それは今日も例外ではなく、リズの心遣いを感じた。


「ふふ、そうね。楽しんで来るわ」


 ドレスに合わせて誂えた水色の靴で、姿見の前に踏み出してみる。履き慣れない踵の高い靴だが、そう長い距離を歩くわけでもないので問題ないだろう。コツリ、と靴音を響かせて私は私室を後にしたのだった。




************


 以前の時間軸でも、エリアスと訪れたこのお茶会のことはよく覚えている。


 水色のドレスを纏い、新しく誂えた少しだけ踵の高い靴を履いて、私はエリアスと一緒にこのお茶会に参加した。婚約者としてエリアスと共に参加する初の公的な行事だったので、妙に心が躍ったものだ。


 エリアスは、御茶会の会場に着くなり、一瞬たりとも私から離れようとしなかった。私の灰色の髪と深紅の瞳を見て、くすくすと嘲笑うような心無い声が聞こえても、エリアスはまるで聞こえていないとでも言うように、私にだけ笑みを向けてくれていた。


 この頃のエリアスは、既に美しく成長し始めており、すれ違うご令嬢たちの視線を奪うほどに魅力的だった。そんなエリアスの笑みを独り占めできることに優越感を覚える反面、多分、私は一種の劣等感を感じていたのだと思う。周りから嘲笑われるような見目の私と一緒にいなければならないエリアスに、申し訳ないような気持ちが芽生えたのだ。


 今までは二人で過ごすことばかりだったから、そんな苦い感情を抱いたことは無かった。だからこそ余計に私は、もやもやと燻る劣等感をどうにか処理したくて、紅茶の一杯を飲む間だけでも彼から離れたかった。エリアスに余計な心配をかけたくなかったので、気分の切り替えが必要と判断したのだ。

 

「ねえ、エリアス。私は少しだけお茶を飲んで休憩するわね。……あなたとお話をしたがっている方々がたくさんいることだし、私には付き添わなくても大丈夫よ。私がお茶を飲んでいる間だけでも自由に談笑してきたらどうかしら」


 エリアスに視線を送る令嬢や子息たちのほうをちらりと見やりながら、私は曖昧に微笑んでそう提案した。自分の心を整理するために言い出したことだったが、この機会に彼らと会話が弾んで、エリアスに友だちの一人でもできれば喜ばしいことだ。


 だが、残念ながら私のこの言葉がエリアスの機嫌を損ねることになる。


「そう言って、ココは誰の所へ行くつもりなの。ああ、そっか……汚い僕なんかが傍にいたらココは嫌なのかな」


 人の目があるので詰め寄るような真似はしなかったが、彼の紺碧の瞳は確かに私を責めていた。突然のエリアスの豹変ぶりに、狼狽えながらも私は彼の言葉を否定する。


「そんなこと、少しも思っていないわ」


 むしろ私は、エリアスに申し訳ないような気持ちがして彼から離れようとしているのに。滅多に意見が食い違わない私たちが、珍しく対立した瞬間だった。


 この頃のエリアスは、まだ安定していた印象だっただけに、虚ろな瞳で私を見つめる目の目の前の彼に違和感を抱いた。正直、どのように対応するべきか迷ってしまったのだ。


 エリアスはどこか自嘲気味な笑みを浮かべながら、不意に私の手を取った。エスコートするときとは違い、指がきしむような強さで握られ、思わず私は顔を歪めてしまう。


「駄目だよ、ココ。君は僕の婚約者なんだ。絶対に誰のもとへも行かせない」


 不安定な感情を窺わせる笑みを浮かべたエリアスを前に、私は初めて彼に恐怖を抱いた。少しずつ開き始めていた男女の力の差を思い知ったことも相まって、多分、酷く怯えるような目でエリアスを見つめていたと思う。


「どうしてしまったの、エリアス……。いつもはあんなに優しいのに」


「優しい? 優しい、か、僕がね……」


 吐き捨てるようにそう呟いて、彼は自嘲気味な笑みを浮かべたまま虚ろな瞳で私を睨む。それまでそんな目で見られたことも無かった私は、すっかり委縮してしまって声も出せなかった。


 数秒の後、ふわり、とエリアスの手が私の頭を撫でる。思わずびくりと肩を震わせた私を前に、彼は普段通りの甘い微笑みを浮かべていた。しかしながら、その紺碧の瞳に光は戻っておらず、そのあまりの不安定さに私は思わず寒気を覚えた。


「……ごめんね、ココ。君はとても素敵な人だから、一人にしたらあっという間に誰かに取られちゃうと思って焦っただけなんだよ」


 その声は、確かに優しかった。今思えば、これもセルジュお兄様の口調と言葉選びを真似てのことだったのだろう。


 だが、そんなことを知る由もない私は、先に謝罪された決まりの悪さから、軽く視線を彷徨わせたのちに、ぎこちなく頷いてエリアスの手をそっと包み込む。


「あの……私も非常識だったわ。あなたという婚約者がいるのに、一人になろうとするなんて……」


「分かってくれればいいんだよ、ココ。じゃあ、もう僕から離れようなんてしないよね? ね? ココ」


 私の瞳を覗き込むようにして、甘い毒を帯びた微笑みをエリアスは浮かべる。その虚ろな瞳に見つめられるのが耐えられなくて、思わず私は俯いてしまった。


「え、ええ……もうあんなこと言わないわ」


「そう、それでいいんだよ、ココ。社交界なんて悪い人たちばかりだから、ココみたいな純真な子はあっと言う間に誑かされちゃうよ」


 俯く私の頬に、エリアスの冷たい手が伸びる。頬に添えられた彼の手に従うようにして、私は軽く顔を上げ、エリアスの満足そうな甘い笑みを見つめた。


「でも、大丈夫、心配しなくていいよ。僕が守ってあげるからね」


 この先も、ずっと、ずぅっとね、と笑みを深めるエリアスに、私はもう何も返せなかった。ただ、胸の奥に燻っていた劣等感の代わりに、酷く重苦しい何かが、少しずつ少しずつ心の底に降り積もる気配を感じていたのだった。



************


 


 思えば、エリアスが私に向ける愛が、どこか異質なものなのではないかと疑い始めたのはこのお茶会がきっかけだったわね。


 エリアスと共にお茶会の会場へ向かいながら、遠い記憶を思い出しては小さく息をついた。


 天使様に言わせれば、これも良い思い出ではないのだろうけれど、今となってはただただ懐かしさばかりが蘇ってくる。ある意味で、とても印象的な記憶だった。


 この時間軸でエリアスに出会ってから、4年。既に私たちの関係はあの頃より改善し始めている。それはとても良い傾向であるし、素直に嬉しく思う私がいた。


 さくさくと芝生を踏み締めているうちに、お茶会の会場が姿を現し始める。やがて、目の前に飛び込んできた煌びやかな光景に、私は思わず声を上げた。

 

「まあ、とっても華やかね!」


 王城の庭で開かれた王太子殿下の御茶会は、それはもう夜会かと思うほどに豪勢だった。主に、御令嬢たちが気合を入れて着飾っているせいだと思うが、そもそもの規模が大きいせいもあるだろう。


 広い庭の中には、いくつものティーテーブルが並べられている。その一方で、自由に移動して談笑できるようにもなっているようだった。まだ社交に不慣れな私たちを気遣ってか、あまり堅苦しくない形式を取ったようだ。


「嫌にご機嫌だな、コレット」


 隣で無愛想にそう言い放つのは、質の良い黒の上下に身を包むエリアスだった。このところのエリアスは、少しずつ、あの色気のある成長したエリアスに近付いている気がして何だかどぎまぎしてしまう。以前のように甘い笑みを浮かべることが少ないから無愛想な印象を受けると思っていたのに、端整な顔立ちのせいで黙っていても絵になるのだ。


「ふふ、私、こういう集まりを見ている分には結構好きなのよ。綺麗なものは見ていて楽しいでしょう」


 自分が当事者になるならば話は別だが、こうして遠巻きにご令嬢たちの華やかなドレスなんかを眺めている分には胸が躍る。


「今日は名家のご令嬢が勢ぞろいしているはずよ。エリアスのお眼鏡に適う方はいるかしら?」


「どの令嬢も王太子目当てだろう。考えるだけ無駄だ」


「あら、エリアスは間違いなくご令嬢に人気が出ると思うわ。きっとより取り見取りよ」


「……どうかな」


 エリアスは少しだけ声を低くして、興味なさげに吐き捨てた。基本的に他人に興味がないのは、以前のエリアスと共通しているところだった。


「ほら、あの赤いドレスのご令嬢なんてとっても美人よ。オードラン伯爵令嬢、エリアスの従姉妹にあたる方でしょう?」


 金の巻き毛に鮮やかな赤のドレスという、派手な容姿をした彼女は一際人の目を引いた。オードラン伯爵令嬢は、成長した暁には、それは妖艶な美女になるのだ。


「名前だけは耳にしたことはあるが、会ったことは無いな」


 エリアスは分家の方々ともあまり面識がないと言っていたから、その言葉は予想通りだった。私はあらかじめ調べてきた彼女にまつわる情報を、ここぞとばかりに提供する。


「オードラン伯爵領では、それは美味しい葡萄が採れるのよ。エリアス、葡萄好きでしょう?」


「……まさか、俺の好物が育てられているからという理由で声をかけろって言ってるのか? あまりにも間抜けすぎないか、それ」


「あら、きっかけなんて何でもいいのよ。エリアスの知り合いが一人でも増えたら、私は嬉しいわ」


 まあ、葡萄をきっかけにご令嬢に話しかけるというのも少々妙な話ではあるが、エリアスの世界が広がるならばきっかけなど何でもいいと思うのは本心だった。エリアスには、沢山の道を知った上で、一番幸せになる未来を選んでほしいのだ。


「……葡萄なら、ミストラル公爵領でも採れる」


「私のところは専らワイン用よ。そのまま食べるための葡萄は、実はとっても少ないの」


「じゃあ今日から好物を葡萄じゃなくてワインにするかな」


 12歳にもなれば、嗜む程度に飲む人もいるけれど、好き好んで飲むのは心配だ。成長したエリアスはお酒に強い方ではあったけれど、12歳という幼さではどの程度だったか確かな記憶はない。


「この年からお酒を好むのは如何なものかしら?」


「分かんない奴だな……」


 エリアスは大げさなほどに溜息をついて、どこか憎々し気に私を見つめてくる。この4年間の付き合いの内に、すっかり遠慮というものが無くなったようだ。


「……今日のコレットはいつもと少し違う気がするな」


 不意に気が付いたとでも言うように、エリアスはぽつりと呟いた。普段と違うところと言えば、薄く化粧をしているくらいなものだが、いつも素顔のまま一緒にいるせいか、エリアスには違和感を与えたらしい。


「ふふ、やっと気づいたのね。どこだと思う?」


 以前の時間軸では、エリアスは本当に私の変化に敏感だった。香水を変えれば、会った瞬間に指摘されるのはもちろんのこと、口紅の濃淡を僅かに変えただけでも気づいていたものだ。


 化粧品や香水を変える度に、何か理由はあるのかと聞かれるのは、正直に言ってしまえば少しうんざりしていたけれど、それくらい、彼は私が変わることを恐れていた。私が変われば、彼の元から逃げ出してしまうと思い込んでいたらしい。


 ――ココは飾り立てなくても可愛いのに、これ以上綺麗になってどこへ行くの? そんなに僕から離れたい? 僕以外の誰かに見初められることを期待してる?


 跡が残るほど手首を強く掴まれながらそう問い詰められたとき、私はただただ戸惑い、謝罪することしかできなかった。


 とはいえ、今のエリアスはそのような素振りは一切見せないので、あの恐怖ももう過去の物だろう。穏やかな気持ちで、私はまじまじとこちらを観察するエリアスに微笑みかけた。


「分かった、化粧をしてるんだ」


「そう! 大正解よ! どうかしら――」


 薄い化粧ながらもリズが丁寧に施してくれたこともあって、自慢げに感想を求めた矢先、不意に、エリアスの手が私の顔に伸びる。そのまま、彼の指先は迷わず私の唇に触れた。突然詰められた距離に、思わず目を見開いて彼を見つめてしまう。


「……コレットも、王太子に見初められるために着飾ってるのか?」 


 そう尋ねるエリアスの目は、僅かに翳っていた。私を責めるというよりは、どこか不安げな瞳だった。エリアスの指が、紅を剥がさない程度にそっと私の唇を撫でる。


「っ……そんなはず、ないわ」


 今のエリアスが、そんな翳った目を見せることは珍しいだけに、嫌に緊張してしまう。平常心を保とうとしても、動揺が声に表れていた。


 緊張から指先が震えていることがエリアスにも伝わってしまったのか、彼ははっとしたように私から手を離すと、気まずそうに視線を逸らした。


「……エリアス?」


 いつもと様子の違うエリアスが心配で、彼の方へ一歩歩み寄ろうとしたが、距離を保つようにエリアスは私から一歩後退ってしまった。


「……悪かった、頭冷やしてくる」


 それだけ言い残して、エリアスは私に背を向け、歩き出してしまった。止める間もなく遠ざかる背中をぼんやりと眺めながらも、内心どこか落ち着かない気持ちを覚えるのだった。

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