第10話 君はあたたかいから離れられなくなる

「お待ちしておりました、お嬢様。どうぞこちらへ」


 翌日、昼食を終え、私はフォートリエ邸を訪ねていた。私の傍にはリズが控えており、私の少し後ろを歩くようにしてついて来てくれた。


 エリアスは、大丈夫だろうか。事故の知らせを受けてからずっと気に病んでいたため、妙な緊張感がつきまとう。


 フォートリエ邸は今日も静寂に包まれていて、人の気配はするのに熱を帯びない寂しい屋敷だった。セルジュお兄様が亡くなったことから、未だに立ち直れていない証だろうか。


「……お嬢様も物好きなお方ですね、あの方を見舞うなんて」


 私を先導するように歩いていたメイドはぽそりと呟いた。客人に対してなかなかの言いようだと思うが、エリアスは日々このような些細な嫌味にも耐えているのだろうか、と思うと言葉もなかった。


 エリアスのことを考えていたせいで反応が遅れてしまい、私よりも先に、背後で控えていたリズが声を上げる。


「失礼ですが、この方をミストラル公爵家のご令嬢と知っての無礼ですか」


「いいのよ、リズ」


 半身振り返ってリズに微笑みかければ、彼女は渋々と言った様子で口を閉じたようだった。社交界で「ミストラル公爵家の失敗作」と罵られてきた私からすれば、今更このくらいの小言はなんてことない。


「……フォートリエ侯爵家の方々は、どうしてそのようにエリアスを蔑ろになさるのですか?」


「蔑ろになんて、とんでもございませんよ。エリアス様はフォートリエ侯爵家の大切な跡取りですから」


 これほど熱を伴わない白々しい言葉もあるのか、と思わずぎゅっと手を握りしめた。


 それほどまでに、フォートリエ侯爵家にとってセルジュお兄様は特別な存在だったのだろうか。いや、正確に言えばセルジュお兄様のお母様である、フォートリエ侯爵夫人が彼らの中で特別な存在なのかもしれない。


 フォートリエ侯爵夫人には、私も一度お会いしたことがある。セルジュお兄様同様に御身体が弱く、あまり表舞台に姿を現さないお方なのだが、儚く可憐という言葉の良く似合う、それは美しい女性なのだ。使用人にも親切に接し、その美しく慈愛に満ちた姿から領民たちからも慕われているという、まさに非の打ちどころのない素敵な女性だった。


 だが、そのフォートリエ侯爵夫人は、セルジュお兄様が亡くなってから心を病んでしまい、今は領地のお屋敷で療養なされている。以前の時間軸通りならば、残念ながらこれ以降、彼女の正気が戻ることは無く、フォートリエ侯爵閣下が亡くなる一月前、私たちが16歳の頃に天に召されてしまうのだ。

 

 辛い話だが、それだけ夫人がセルジュお兄様を深く愛しておられた証なのだろう。夫人を慕っていた使用人たちもきっと、心を痛めているに違いない。


 もっとも、だからと言ってそのやるせない気持ちを、罪のないエリアスに向けることはどう考えたって間違っている。使用人たちだって、心のどこかではきっと分かっているはずなのに、それでも態度を改められないくらいには、彼らの中で夫人とセルジュお兄様の存在は絶対的なものらしい。


 メイドは豪華な屋敷に相応しい細やかな模様が描かれたある扉の前で立ち止まると、ノックの後、静かに扉を開けた。


「エリアス様、ミストラル公爵家よりコレット様がお越しでございます」


 開いた扉の先で一礼をしてメイドは私たちを室内へ案内をした。どうやらここはエリアスの私室らしく、広いベッドの上でエリアスが軽く体を起こしてこちらを見ていた。


「エリアス!」


 思わず彼の名を呼びながら、ベッドサイドに駆け寄る。エリアスは紺碧の瞳を少しだけ細めると、ふっと笑った。休んでいるはずなのに、どこか疲れたように見える笑い方だった。


「……コレット」


「ああ、よかった、ちゃんとお話は出来る状態なのね。どこが痛むの? 怪我はどのくらいなの?」


「大袈裟だな……少し背中を痛めただけだ。一週間もすれば普通に歩けるようになる」


「そう、そうなの……」


 良かった、という言葉と共に安堵の溜息が零れる。骨を折ったりしているわけではなくて本当に安心した。油断すればその場に崩れ落ちそうな勢いだった。

 

「よかったわ、あなたが無事で。あなたを守ってくれた全てに感謝するわ」


 軽く手を組んでエリアスに笑いかければ、彼はどこか戸惑ったように視線を逸らした。エリアスの黒い前髪がその目を隠してしまい、表情を窺うことが出来なくなる。


「お嬢様、こちらにお座りください」


 フォートリエ邸のメイドはお茶の準備にでもいったようで、いつの間にか姿が無かった。リズはフォートリエ邸のメイドから預かっていたらしい椅子を私の傍に差し出すと、微笑ましいものでも見るような表情で私たちを見守っていた。




「エリアスはお砂糖はいらないのよね。このままストレートでいい?」


 しばらくして、フォートリエ領の名産である茶葉を使った紅茶がメイドの手によって運び込まれてきた。小さなクッキーも用意されていたが、甘いものが苦手なエリアスの口には合わないだろう。


「……そんな甲斐甲斐しく世話しなくてもいい。気恥ずかしいだろ」


 その言葉通りエリアスは耳の端を赤くして私から視線を背けていた。先ほどからやけに顔を背けると思っていたが、冷遇されて育ってきた彼はどうやら「人から心配される」という状況に慣れていないらしい。まだ僅か8歳なのに、と胸が痛んだが、そう言う事情なら私が目一杯心配して甘やかせばいい話だ。


「あら、怪我人は黙って心配されるものなのよ。……そうそう、お土産も持ってきたの! エリアスは甘いものが苦手だから、ミストラル領で採れた果物と、お砂糖を使っていないお菓子にしたわ」


 先ほどリズがフォートリエ邸のメイドに託していたようで、綺麗に切り分けられた果物の盛り合わせがティーセットの傍に置かれていた。


「君が傍にいると、それだけで騒がしいな……」


 エリアスは軽く溜息をつきながら私を一瞥する。これでも、妹のクリスティナに比べれば断然静かな方だと思うのだが、静寂に包まれたこの屋敷で暮らすエリアスにとっては、騒がしい部類に入るらしい。


「ふふ、早く慣れて頂戴ね。果物食べる?」


「……ああ、いただこうかな」


 その会話を聞いていたらしいリズが、手早く小皿に果物を取り分けてくれる。どれも収穫したばかりの新鮮な果実だった。


「ん……この葡萄、少し酸っぱいわね」


 まだ時期的にも少し早い。予想外の酸っぱさに軽く顔を顰めていたが、目の前のエリアスはなんてことないようにひょいと葡萄を口に運んでいた。


「俺はこれ、好きだな。甘すぎなくてちょうどいい」


「エリアスが気に入ってくれたのならよかったわ。あなたのために用意したんだもの」


 エリアスは葡萄が好き、という新たな情報をしっかりと脳内に刻み込みながら微笑めば、またしても彼はふいと視線を逸らしてしまった。


「……前から思っていたが、コレットは言葉がいちいち直球過ぎる」


「そうかしら?」

 

 以前の時間軸では、エリアスの方がよほど直球にも程があるような愛の言葉を囁いていたから、それに比べると私の言動なんて可愛いものだ。だが、麻痺していると言われれば否定できない部分もある。


「ふふ、だとしたらあなたのせいね、エリアス。……でも、気にかかるようなら改めるわ」


「別に君がそんなことをする必要はない。……ただ、何というか、少し……くすぐったいだけだ」


 エリアスは私から視線を逸らしたまま、ぽつりと呟いた。くすぐったいと思う程度には、私のこの気持ちはエリアスに届いているということなのだろうか。それを嬉しく思う反面、人に心配されて戸惑うエリアスを見ると、胸の奥をきゅっと掴まれるような、そんな悲しみを覚える。


「……俺をこんなに心配してくれるのは、君だけだ、コレット」

  

 エリアスは不意に私に向き直ると、どこか縋るような瞳で私を見つめてきた。その目は以前の時間軸で何度も見た、病んでいるときのエリアスの目にも似ていて、僅かに脈が早まっていく。


「……今は私だけのように思えるかもしれないけれど、きっとエリアスを心配してくれる人は沢山いるはずよ。これからそんなお友だちがたくさん増えるわ」


「どうだろうな、俺は、きたないから」


 出会ったときと似たような台詞を繰り返すエリアスの横顔には、幼さに似合わぬ諦めが見てとれた。その表情は、成長したエリアスも良く見せていたもので、彼はずっと自分を「きたない」と思い込んでいたのかもしれない。


 思えばエリアスが私の心臓を抉ったあの夜も、彼は言っていた。


 ――君の傍にいたいのに、汚い僕は君の隣で息もできないんだよ。


 エリアスは、ずっと苦しんでいたのだろうか。自らの身に流れる血の半分を、呪い続けていたのだろうか。自らの出自に関わる劣等感というものは、そう簡単に拭えるものでもない。どうしたってふとした瞬間に、心のどこかを引っ掻くものなのだろうけれど、それでも私は苦しむエリアスを前に見過すことは出来なかった。


 気づけば、私はエリアスを抱きしめていた。8歳のエリアスは、何なら私よりも小さくて、簡単に壊れてしまいそうな儚さだ。この小さな体で、今まで一体どれだけの葛藤と理不尽に耐えてきたのだろう。そう思うと、彼を抱きしめる腕に力がこもってしまう。


「っコレット……」


「あなたはきれいよ。私の中では、世界の誰よりきれいで特別な人なの。だから、そんな悲しいこと言わないで」


「……どうして、そんなに、俺を……」


 ごめんなさい、その訳は今は話せない。この間も似たようなやり取りをしたことで、それをエリアスも察しているのか最後までは言わなかった。代わりにそっと、戸惑うような手が私の背中に添えられる。


「……誰かに抱きしめられたのは、これが初めてだ」


「ふふ、温かいでしょう」


「……ああ」


 エリアスは私の腕の中で小さく笑った。それはとても安心しきったような表情で、見ているこちらまで穏やかな気持ちになるものだった。


「コレットは、温かいな」


 そう言って目を瞑るエリアスがあまりに可愛らしくて、気づけば私は彼の黒髪を撫でていた。以前の時間軸でも、泣いて私に縋りつくエリアスの頭を撫でることはあったけれど、それとはまるで正反対の穏やかな気持ちだった。

 

 私は、必ずこの愛しい存在を守り抜こう。そのためならば、私の何を犠牲にしたっていい。こんなことを言えば天使様には叱られてしまうのだろうけれど、それでも心は変わらなかった。


 大丈夫、きっと、前よりずっと素敵な日々を歩めるわ。


 エリアスを抱きしめながら、私は確信に近い予感を得た。どうかエリアスの心が穏やかでありますようにと祈りながら、私はエリアスと共に温かいひと時を過ごしたのだった。

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