第9話 たとえこの命にかえてでもあなたを守り抜くわ

 夜、私は満天の星空のもと、バルコニーの中を右往左往していた。季節が移ろい、夏ももう終わるというこの頃は、夜風に冷たさが混じり始めていたが、今は却って頭を冷やすことが出来てありがたい。


 昨日の朝、私はフォートリエ侯爵家から一通の手紙を受け取った。内容はとても簡潔なもので、エリアスが馬車で移動中に事故に遭い、怪我をしたというものだった。


 どうやらエリアスがミストラル邸を訪れたあの日、帰り道に馬車の車輪が外れ、横転したらしい。幸い、大きな怪我には至っていないと書かれていたが、心配で心配でならなかった。明日の午後にはエリアスを見舞う約束を取り付けてあるのだが、一刻も早く彼の姿を見て安心したい。


 以前の記憶を辿ることが出来たなら、いくらか心に余裕を持てたのだろうが、残念ながら8歳のころの記憶は本当に曖昧で、断片的なことしか覚えていないのだ。この事故の記憶も、エリアスを見舞った覚えもない。もしかすると、見舞いには行っていない可能性もある。


 成長したエリアスの姿を知っている以上、後遺症が残るような怪我ではないと思うのだが、それでも今、彼が苦しんでいるかもしれないと思うと居てもたってもいられなかった。


 それに、とバルコニーの柵の部分に触れながら考える。詳しい事情は分からないが、馬車の車輪が外れた、という文言が引っかかるのだ。可能性としてはあり得ることなのだろうけれど、仮にも侯爵家の跡取りとなる子息を乗せる馬車だ。いくらエリアスが冷遇されているとはいえ、点検はきちんと行われているはずだ。虐待まがいのことをしている侯爵閣下だって、跡取りであるエリアスを失うわけにはいかないはずなのだから。


 その瞬間、不意に視界に影がかかる。そっと顔を上げれば、私の隣に天使様が舞い降りたところだった。白金の髪は今日も星の光に輝いていて、一見すれば宗教画のように美しい光景だ。彼は純白の翼をゆっくりとたたみながら、私ににこりと微笑みかけてくれる。


「天使様……こんばんは」


 エリアスを心配する気持ちに押しつぶされそうで、今夜は天使様にお会い出来たらいいな、なんて思っていたから、天使様が来てくださって嬉しい。だが、エリアスのことがあるせいか、上手く微笑みかけることが出来なかった。


「こんばんは、コレット」


 天使様の手が、一度だけ私の頭を撫でてくれる。その心地よさに一瞬目を閉じてしまった。大きくて、温かい手だ。


「今日はあまり元気がなさそうだったね。何があったの?」


 天使様は私に視線を合わせるように屈みこんで、優しく問いかけてくれる。こうして向き合うのはまだ今夜で二度目のことなのに、どうにも安心感を覚えてしまうから不思議だ。


「天使様……エリアスが、事故に遭ったのです」


 包帯の奥にあるであろう天使様の瞳を見つめるように、私はエリアスの事故のことを説明した。天使様はじっと耳を傾けてくださる。


「明日、お見舞いに行くのですが……どうしても不安で仕方がなくて……」


 今も、痛い思いをしていなければいいのだが。小さな手をぎゅっと握りしめながら、エリアスの平穏を祈る。


「君は本当にあいつが好きなんだね。そんなに魅力的かなあ……」


 天使様は苦笑交じりにそう告げたかと思うと、握りしめた私の手を解くようにそっと私の手を両の手で包み込んだ。

 

「まずは落ち着いて、コレット。あいつはきっと大丈夫だよ。成長したあいつの姿を思い出してごらん。憎たらしいほど元気だっただろう?」


 精神面ではともかくね、と天使様は笑う。先ほども思い返した通り、確かに成長したエリアスに後遺症は残っていなかった。どちらかと言えば運動もできる方だったようだし、確かに今の私の心配は杞憂に過ぎないのかもしれない。


「……でも、エリアスが痛い思いをしていたらと思うと……」


「あいつは多少痛い目に遭うべきだと思うけど……きっと大丈夫だよ。こんな真夜中に起きている悪い子はコレットくらいだから、今頃あいつはぐっすり眠っているさ」


 部屋の中の置き時計を見やれば、確かに時刻はもう日付が変わるころを指していた。天使様の仰る通り、まともな8歳の少年ならばもう眠っている時間だろう。私はこくりと頷いて、天使様の端整なお顔立ちを見つめた。


「……それもそうですね。落ち着かせてくださってありがとうございます、天使様」


「いいんだよ、このくらい」


 天使様はそう言って笑うと立ち上がり、夜風を受けながら少しだけ真剣味を帯びた表情を見せた。


「それにしても、事故、か」


 含みのある言い方だが、気にかかっているのは私も同じだ。彼の隣に並び立つようにして、柵に触れる。本当は手すりに手を乗せたいところだが、背が低くて届かないのだ。


「私も引っかかっているのです、天使様。エリアスは将来的に……」


 そう、以前の時間軸で、エリアスは15歳になったときに一度命を狙われているのだ。社交界デビューの夜会の最中、エリアスの飲物に薬物が混入し、彼は三日三晩生死の境を彷徨ったことがある。


 犯人は、結局分からずじまいだった。そのころはフォートリエ侯爵閣下は病で床に伏せられており、フォートリエ侯爵家は混乱の最中にあったため、調査は有耶無耶なまま終わってしまったのだ。


 まともに考えればエリアスが亡くなって得をする人間や派閥の仕業だと思うが、彼を取り巻く環境の異質さを考えると、怨恨の線も捨てきれない。フォートリエ侯爵家の奥様――セルジュお兄様のお母様に当たる方は、それはそれは使用人たちから熱狂的な支持を受けていたらしく、奥様に心酔している使用人の中には、かなり過激な思想の持ち主もいたはずだ。以前の時間軸でエリアスの婚約者であった私への当たりも強かったからよく覚えている。


 15歳になって命を狙われたエリアスだが、今からその危険に晒されていたと考えてもおかしくはない。今回の馬車の事故だって、侯爵家の馬車の車輪が外れるなんていう考えにくい事態が起きているのだから、何者かが細工していたと考えても不自然ではないのだ。


「……ああ、殺されかけていたよね。コレットがあいつを懸命に看病していたの、よく覚えているよ」


 コレットもろくに寝ていなかったから、心配だったなあ、と天使様は懐かしそうに笑う。私を見守ってくださっていたというだけのことはあり、流石の記憶力だ。


「……その、私を見守っていてくださったということは、傍にいたエリアスに関わることも何かお分かりになりませんか? あの夜会で、エリアスの飲物に薬を入れたのは誰か、もしご存知でしたら教えていただきたいのです」


 犯人さえ分かれば、エリアスが将来的に毒を含むのを防ぐのが容易になることはもちろん、今回の事故を事件として立証できるかもしれない。超常的な力を借りようとするなんてずるいのかも知れないが、エリアスを守るためならば、天使様の力だろうが、死神の知恵だろうが何だって頼りたいのだ。


「ごめんね、僕はコレットのことしか見ていなかったから分からないんだ。助けになってあげたかったけど……」


「そう、ですか。いいのです、見守っていてくださってありがとうございます」

 

 どうやら天使様の注意は、かなり限定的に私に注がれていたらしい。つぶさに観察されていたことに気恥ずかしい想いを抱くと同時に、やはりどうしてそこまで私のことを見ていたのか、という疑問が深まっていく。だが、今夜訊いてみたところできっとはぐらかされるだけなのだと何となくわかっていた。


「……エリアスを、何としてでも守らなければなりませんね」


 星空を見上げながら、決意を固める。エリアスが毒に苦しんだあの三日間は生きた心地がしなかった。だからこそ、あの夜会のことは印象深く記憶に残っている。以前の記憶を最大限に活用すれば、エリアスに毒を飲ませないことはきっと容易なはずだ。

 

「僕としては、あいつから君を守りたいけどなあ……。一日で随分仲良くなっちゃってさ……それに、こんな傷まで作るし」


 天使様はひょい、と私を片手で抱き上げると、私の指先を伸ばすようにして私の手に手を添えた。いくらか包帯は薄くなったが、剥がれかけた爪を守るように今も厳重に手当てされていることは変わらない。


「つい、取り乱してしまいました。決して、自傷の意図があったわけではないということは弁明しておきます」


「本当に? 見ていてひやひやしたんだよ?」


「ふふ、折角天使様が用意してくださったこの機会を、自らふいにするような真似は致しません。この身は、両親から与えられたものであると同時に、今は天使様から頂いたものでもあるのですから、死なない程度に上手く立ち回ります」


「傷つかない、って明言しないところが自己犠牲精神の高い君らしいよね」


 天使様は大きな溜息をついて、私の指先の傷を癒すように手を撫でてくださった。ちょっぴりくすぐったいが、大切にされているようで、そう悪い気分ではない。


 それにしても、と私は天使様のお顔を間近で観察した。目元の包帯はちょうど目を覆うように隙なく巻かれていて、とても光が届いているとは思えない見た目だ。


「……前回お会いしたときから気になっていたのですが、天使様は目は見えていらっしゃるのですか?」


「見えてるよ。星の光を通していつでも君を見守っているからね。今は可愛いコレットが僕を見つめてくれているね」


「……お上手ですこと」


 他に天使がいるのかどうか知らないが、この天使様は天然の女たらしなのではないかと思うほど簡単に甘い言葉を吐く。以前の時間軸におけるエリアスの甘ったるい口説き文句に耐性がついている私からすれば、こうして受け流すことは他愛もないが、初心な御令嬢だったら赤面するところだ。


「釣れないなあ、純粋に子供の姿の君が愛らしいから誉めてるっていうのに」


「ふふ、まさか成長した暁には私を口説くおつもりで?」


「あはは……それも面白そうだけど、君は僕と一緒に来たら幸せにはなれないだろうからね。それは駄目だなあ」


 僕は、どうしても君に幸せになって貰いたいんだ、と呟いて、天使様は微笑んだ。私を抱き上げる右腕に、僅かに力がこもるのが分かる。


 どうしてこの天使様は、ここまで私の幸せを願ってくださるのだろう。もう何度目か分からないその疑問を頭の中で巡らせているうちに、ふと、私の小さな手が天使様の目元に伸びていた。そっと撫でるように動かせば、天使様はどこかくすぐったそうに笑う。


「どうして、包帯をされているのです? どこかお怪我でもなさっているのですか?」


「……コレットは僕の目を見たい?」


 抱き上げられた状態で悪戯っぽく微笑まれると、何だかどぎまぎしてしまう。踏み込んだ質問だったろうかと迷ったが、結局正直に答えることにした。


「ええ、叶うならば拝見したいですわ。天使様の瞳が、どのようなお色なのか気になります」


「好奇心旺盛だね、コレット。天使の目を見たら、この世から連れ去られてしまうかもしれないよ」


「怖いこと仰るんですね」


 私をからかって遊んでいるのだろう。苦笑交じりにそう答えれば、天使様はそっと私の頭を撫でた。


「でもそうだなあ……コレットが幸せを掴んだ暁には、見せてあげてもいいよ」


「本当ですか? とても楽しみです。約束ですよ?」


「うん、約束だ」


 私が小指を差し出せば、天使様もすぐに小指を絡めて約束してくれた。私の8歳の手と天使様の手の大きさの違いが何だか不思議な感覚だ。天使様とお話していると、つい、18歳の気持ちに戻ってしまうせいかもしれない。


 すっと吹き抜けた夜風に軽く目を閉じながら、私は眠りについているであろうエリアスのことを想った。いい夢を見てくれているといいのだけれど、こればかりは祈るしかない。


「ん? コレット、眠くなってきた? 今度からはもう少し早い時間に来るようにするよ、ごめんね」


 天使様のその声に、いつの間にか私は微睡んでいたことに気が付いた。風が吹いたから目を閉じただけだと思っていたのに、どうやら体は限界を迎えていたらしい。8歳の体に戻ってからというもの、夜更かしが出来なくて困る。


「……天使様、私、まだ平気です……」


 そう言いつつも天使様に寄りかかることでしか姿勢を保てていない辺り、我ながら説得力の無い言葉だった。思わず天使様の外套をぎゅっと握りしめ、彼の肩に甘えるように頭をすり寄せてしまう。仮にも男性相手にはしたない、と心のどこかで18歳の私が目くじらを立てているが、8歳の体に襲い掛かる睡魔には勝てなかった。


 天使様と一緒にいると、妙に安心してならないのだ。普段であれば、二回会ったくらいの人には、人見知りをしてしまって気まずいくらいなのに不思議だ。人に安らぎを与えるというのも、彼が天使だからこそなせる業なのだろうか。


「明日はあいつを見舞に行くんだろう? ちゃんと休まないと。ベッドまで連れて行ってあげるよ」


 天使様は私を抱きかかえたままバルコニーから室内へ入ると、そっと私をベッドに降ろし、編んだ灰色の髪が邪魔にならないよう横に避けてくれるのが分かった。そのままふわりと毛布をかけられて、心地よさに思わず頬を緩める。天使様の仕草一つ一つがとても丁寧で、微睡の中でも、彼が私を大切にしてくれていることが伝わってきた。


「おやすみ、コレット。いい夢を見るんだよ」


 その優しげな声と共に前髪を掻き上げられる感覚があり、額にそっと口付けを落とされる。本来ならば恥ずかしさで真っ赤になるところだと思うのだが、微睡んでいる私にはそんな気力はもう残されていなかった。


「……おやすみなさい、天使様」


 何とかその一言だけを告げ終えた私は、瞬く間に夢の中へと誘われていったのだった。

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