第8話 信じてみてもいい、君の隣は存外居心地がよさそうだ
「取り乱してしまったわ」
室内に移動した私とエリアスの間には、蜂蜜の入ったハーブティーが用意されている。私の両の手の人差し指と中指には、大袈裟なほどの包帯が巻かれていた。僅かに爪が剥がれかけた程度なのだが、私に対して過保護な公爵家の皆が放っておくはずもない。
「……本当にな」
エリアスはというと、ぶっきらぼうな表情でハーブティーを口に運んでいた。私の手当てのついでに彼の火傷の跡も診てもらい、火傷によく効くという軟膏を塗った上で清潔な包帯を巻いていた。これでいくらか治りが早くなるだろう。
「ごめんなさい、その……ご迷惑をかけて」
エリアスには相当厄介な女と思われたに違いない。動揺していたとはいえ、いきなり彼の前で泣き喚くなんて。何とも言えないいたたまれない気持ちを誤魔化すように、私もそっとハーブティーに口をつける。蜂蜜とハーブの香りに、より心が落ち着いていくのが分かった。
「別に、気にしていない」
そう言ったエリアスの表情は涼し気で、むしろどこか吹っ切れたような表情をしていた。記憶の中の彼と比べると随分冷たい印象を受ける態度だが、とても自然な振舞に感じる。
「……あのね、エリアス。私、あなたの顔がセルジュお兄様に似ているから、あなたと仲良くなりたいって思ったんじゃないのよ」
おずおずと本心を打ち明ければ、エリアスはあくまでも冷静に私を見据えてくる。
「あんなに取り乱すくらいなんだから、そうなんだろうな」
「でも、フォートリエ侯爵閣下に誤解を与えてしまったわね……。そのせいで、エリアスが、こんな目に……」
どうやらエリアスがセルジュお兄様を演じるために仕込まれていたことは、あの優し気な口調だけでなく、食べ物の好みから好きな色まで多岐にわたるようだった。今日の深緑のタイも、セルジュお兄様を意識してのことだという。
何より私を驚かせたのは、エリアスは甘いものが苦手だということだった。以前の時間軸でも好んで食べていたように思えたけれど、あれも結局、甘いものがお好きだったセルジュお兄様の真似事に過ぎなかったのだ。そうとも知らず、能天気に彼に甘いものを勧めていた以前の自分を呪いたくなった。
それにしても、と、膝の上で手を握りしめ、小さく溜息をつく。
順風満帆だったと思っていたエリアスとの出会いだったが、それも今日までのようだ。エリアスを幸せにしたいだなんて意気込んでおきながら、却って彼にこんなにも辛い思いをさせていたことが苦しくてならない。
もしかするとエリアスは、私と直接関わらない方がずっと幸せなのではないだろうか。彼に幸せになってほしいという願いはもちろん今も変わらないし、そのためにはどんなことだってしたいと思うけれど、私の存在が彼の幸福への道の一番の障壁になっていては本末転倒だ。
何も、直接関わらなくとも、エリアスの幸せを応援する道はあるかもしれない。まだ具体的な方法は見つからないけれど、考えればきっと道は見つかるはずだ。
「……ごめんなさい、エリアス。私とは、もう無理に会わなくてもいいのよ。貴族の家に生まれた以上、家のために犠牲を払わなければならないことはあるかもしれないけれど、でも、無理して私と仲良くなる必要はないの。フォートリエ侯爵閣下には、お父様から上手く言って頂けるようにお願いするわ」
本当は、もっと長く一緒にいたかった。彼が幸せになる様を傍で見守りたかった。でも、私のそんな自分勝手な願いが彼の幸せを妨げるようなことがあってはならないのだ。
「なるほど、ミストラル公爵家のお嬢様は、どうやらとんでもない嘘つきらしいな?」
随分皮肉気な物言いに驚きつつ顔を上げてエリアスを見つめれば、彼はどこかからかうように口元を緩めていた。記憶の中のエリアスと比べても、あまり馴染みのない表情だ。
「……嘘つき、って?」
どういう状況なのか把握しきれず、思わず彼の言葉を反復するように尋ね返してしまう。エリアスは、にやりと笑んだまま続けた。
「『私、絶対にあなたを幸せにしてみせる』とか言ってたのは、どこの誰だっけな?」
からかうようなエリアスの視線に耐えきれず、思わず下を向いてしまう。確かに泣きわめきながらそんな決意を口にしたが、泣いているせいでとても聞き取れるような言葉ではなかったはずなのに。一気に顔が熱くなるのが分かった。
「えっと、それは、その……」
「そんな熱烈なプロポーズを受けておきながら、もう会わないだなんて気が引けるな……。胸が痛んで仕方がない」
大げさな溜息をつく彼だったが、相変わらず口元は私をからかうようににやけていて、私は一方的に顔を赤くするばかりだ。
「プ、プロポーズなんて、大袈裟よ……。私は、その、あなたが幸せになるのを見届けたくて……」
「すぐ隣で?」
「そんなこと言ってないでしょう! もう!」
恥ずかしさから少しだけ声を荒げれば、エリアスは堪え切れないというように声を上げて笑った。その笑い方はやはり記憶の中の彼とはかけ離れていたが、不思議と心地の良いものだった。ごく自然なエリアスの姿を見られているような気がする。
「……こんなに笑ったのは久しぶりだ」
ひとしきり笑い終えたエリアスは、不意に紺碧の瞳で私を捕らえると、ぽつりとそんな言葉を零した。決して暗い声音ではなかったが、彼の抱えた孤独を窺わせる寂し気な雰囲気があって、どことなく感傷的な気持ちになってしまう。
「ひとつ、聞きたいんだが、君は俺を兄さんの代わりとして見ていないというなら、どうしてこんなに気にかけてくれるんだ?」
その真剣な眼差しに、言葉に詰まってしまう。まさか「前の時間軸であなたとは婚約者だったのよ」なんて言えるはずもなく、上手い誤魔化しの言葉も見つからない。
何だかついこの間、似たような問答を天使様とした気がするが、私に問い詰められていた天使様もこんな気持ちだったのだろうか。私は暫く言葉を探したが、結局最も無難で少しだけ意地悪な返事をすることにした。
「……内緒よ。いつか話してもいいかなって思う日が来たら、教えてあげる」
彼は、信じてくれるだろうか。私がこの二週間の間に経験しているあまりに突拍子の無い出来事を。いつかそんな日が来ればいいのだけれど。
「……ありきたりな返答だと馬鹿にしたいところだが、こればっかりは俺も気になるからな、仕方ない」
エリアスはふっと微笑むと、私の目を見据えて告げた。
「君がその理由を話してくれる日までは、赤の他人になるわけにはいかないな」
「それは遠回しに友だちになりたいって言っているのかしら?」
以前のエリアスは自分の感情――特に私に対する感情に関しては、率直にもほどがあるほどの言葉を並べていたから、素直でない言い回しは何だか新鮮だ。
「別に友だちなんて生温いものじゃなくてもいいぞ。君との婚約の内定を手土産に帰ったっていいんだ」
「この世にこんなにも夢の無いプロポーズがあるなんて、考えたことも無かったわ」
「先にしたのは君だろう、コレット」
ごく自然に口に出された「コレット」という呼び方に、言い知れぬ感動を覚える。それが何よりも、エリアスが自然な状態で私に向き合ってくれている証のような気がして嬉しかったのだ。どうやら私がエリアスをセルジュお兄様の代わりにしているわけではないのだと、正しく伝わったようで一安心だ。
その瞬間、半開きになっていた扉が勢いよく開かれ、軽やかな足音が近づいてくる。
「おねえさま!! おねえさま!!」
扉の先から姿を現したのは、双子の弟妹のフィリップとクリスティナだ。今日の二人の服装は空色を合わせているようで、フィリップは空色のタイを、クリスティナは空色のドレスを纏っていた。
我が弟妹ながら、本当に可愛らしい子たちだ。お父様譲りの白銀の髪もワインレッドの瞳も、今日もとても綺麗だった。顔立ちも本当にそっくりで、「対の人形のように美しい」という社交界の評価も納得だ
「坊ちゃん! お嬢様! コレットお嬢様はお客様とお話しておいでなのですよ!」
彼らの背後からは、フィリップとクリスティナそれぞれのメイドが慌てて追いかけて来ていた。遊びたい盛りの双子に仕える彼女たちは、このところ常に息を切らせている気がする。
「いいのよ。どうしたの? フィル、ティナ」
二人の目線に合わせるように屈みこみながら、小さな弟妹達の頭を順に撫でる。フィリップはとても大人しい性格で、いつも妹のクリスティナに振り回されている印象だ。それは今も例外ではない。
「おねえさま、わたくし、かくれんぼをしたいのです!」
クリスティナは目をきらきらと輝かせながらそんなおねだりをしてきた。そう、このところこの双子はかくれんぼに夢中なのだ。普段は手の空いているメイドたちと彼らで遊んでいるようなのだが、やはり同年代の私たちと遊びたいのかもしれない。
「エリアス、どうかしら? 一緒に遊んでくれる?」
私はちらりとエリアスに視線を送り、彼の表情を伺った。エリアスは私の傍に近寄ってくると、曖昧な笑みを浮かべる。
「……かくれんぼは知識として知っているが、実際にやったことは無いんだ」
「そうなの?」
「ああ、そもそも人と何かをする、ということにあまり経験がない」
むしろ貴族子息としてはそれが自然かもしれない。特にエリアスの境遇を思えば、何ら不思議はなかった。
「じゃあ、一緒に遊びましょう! まずは私が鬼をやるわ。フィル、ティナ、エリアスお兄様をちゃんとご案内するのよ」
「わかったわ、おねえさま! エリアスおにいさま、こっちです!」
クリスティナは躊躇いもなくエリアスの手を掴むと、フィリップとエリアスを引き連れて早速部屋を飛び出していった。去り際にどこか戸惑うようなエリアスと一瞬目が合ったので、にこりと笑って小さく手を振ってみせる。これも以前の時間軸には無かったことだが、何だか楽しそうな展開だ。
「フィル、みーつけた」
「……おねえさま、すごいや。ぼく、見つかっちゃった」
カーテンの裏に隠れていたフィリップはふにゃりと愛らしく微笑んだ。隠れるのは、フィリップが一番上手いのだ。たまに、見つけられず降参することもある。それは今日も例外ではなかったようで、フィリップが最後の一人だった。
「フィルはかくれんぼが上手ね。もしかしたら将来役に立つかもしれないわ」
フィリップの手を引いて、エリアスとティナの待つ部屋へと向かいながら私はフィリップに微笑みかけた。
実際、将来的に役に立つのだ。社交界にデビューしたフィリップは、クリスティナとの組み合わせで目立つことはもちろん、その見目の麗しさと次期公爵という肩書から、あらゆるご令嬢に追いかけまわされることになる。その際に、フィリップはさりげなく気配を消して難を逃れるのが上手かった。
「あー! やっとフィルみつかったのね!」
待ちくたびれたような様子のクリスティナが、私とフィリップの姿を見るなり声を上げた。待っている間中、クリスティナの相手をさせられたらしいエリアスがどこかげんなりとしている。
「遅いぞ、コレット……」
どこか恨みがましい目でエリアスに睨まれ、苦笑いで誤魔化すしかなかった。クリスティナは一度喋りだすと止まらないのだ。恐らく、エリアスの苦手なタイプなのだろう。
「じゃあ、次はエリアスおにいさまがわたくしたちを見つけてくださいね!」
「俺が?」
「ちゃんと数えなくちゃだめですからね!」
そう言うなりクリスティナはフィリップの手を取って既に部屋を飛び出していた。
残された私はというと、エリアスの表情をそっと伺ってみる。いきなり双子のわがままに付き合わされて、彼がうんざりしていないか心配だったのだ。
だが、私と目が合うなりエリアスは不敵に微笑んだ。
「……おや、随分余裕だな、コレット。妹たちに負けてしまうぞ」
どうやらもう一度私たちに付き合ってくれるつもりらしい。なんだかんだ言って、優しい人だ。
「ちゃんと100を数えて頂戴ね!」
「ああ」
思わず緩む頬を悟られぬように、私も部屋を飛び出した。まさか、エリアスとこんな風に戯れることになるなんて、想像もしていなかったことだ。
「……なかなか苦戦しているようね」
客間のクローゼットに身を潜めてどのくらいになるだろう。体感時間としては20分くらいだが、実際はもう少し短いのかもしれない。空っぽのクローゼットの中に座り込みながら、私はエリアスが見つけに来るのを待っていた。
地の利がないエリアスを鬼の役にしてしまったのは、可哀想なことをしたかしら、と少しだけ心配になってくる。恐らく、さりげなくリズ辺りが助言をくれると思うが、それにしたって慣れない屋敷の中を歩き回るのは大変だろう。
30分隠れることが出来れば、隠れる側の勝利というのが私たちの取り決めだった。正確な時間はわからないが、あと10分ほどやり過ごせれば私たちの勝ちだ。
あと10分、何を考えていようかしら、と思った矢先、ぎい、と客間の扉が開く音が響いた。暗闇に身を潜めながら、緊張感に息を飲む。見つけられそうになる瞬間というものは、何度繰り返しても慣れない。
このままエリアスが見過ごしますように、と手を組んで祈った。もっとも、今となっては祈る対象はあの能天気な天使様だと分かっているから、何だか妙な気持ちではあるのだが。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。それも、迷いなくこちらの方へ。
その瞬間、ぎい、とクローゼットの扉が開かれ、途端に飛び込んできた陽光に思わず目を瞑ってしまった。
「見つけた、コレット」
ゆっくりと目を開いてみれば、不敵な表情で笑うエリアスがそこに立っていた。惜しかった、あともう少しだったのに。
「よく見つけられたわね。すごいわ、エリアス」
「コレットより君の弟の方が見つけるの大変だったぞ……。なかなかやるな、あの弟」
「てっきりフィルは後回しにするかと思ったのに」
「これでも一応、姉である君に花を持たせようとしたんだよ」
エリアスはふっと笑いながら、私に手を差し出してきた。そんな気遣いをしてくれていたなんて思ってもみなかった。
「……ふふ、ありがとう」
エリアスの手に自らの手を重ね、クローゼットから降りようとしてその時、不意に髪の毛の一束が後ろにきつく引かれる感覚があった。振り返って確認しようにも、何かに引っかかっているらしく、身動きが取れない。
「ごめんなさい、髪がひっかかっちゃったみたい。今取るからちょっと待ってくれる?」
手探りで引っ掛かっているらしい髪の束に触れ、何度か強く引っ張ってみる。だが、なかなか取れなかった。これは切ってしまった方が楽だろうか。
「そんな乱暴に扱うなよ。貸せ」
エリアスはもクローゼットに一歩踏み込んで、私の髪が引っかかっている部分に手を伸ばし、一本一本丁寧に解いてくれているようだった。この時間軸ではエリアスとこんなに接近したことは初めてで、何だか妙に緊張してしまう。
「あの、いいのよ、面倒でしょう。リズに鋏を持ってきてもらうから」
「鋏なんて持ってきてどうするんだ?」
「どうするって……それはもちろん切るのよ。こんな色だし、そう大切にしているわけでもないからいいの」
リズがいつも懸命に手入れをしてくれても、惨めな灰色が変わることは無い。リズの負担を考えると、いっそ短く切りそろえてしまいたいくらいなのだが、貴族令嬢としてそれは許されなかった。だからこそ、せめて少しでもマシに見えるように明るい色の髪飾りを合わせているのだ。
「……前はあんなこと言ったけど、コレットの髪は綺麗だ。珍しい色だし、少なくとも俺は嫌いじゃない」
ぽつり、と呟かれたエリアスの言葉に、不意に記憶の中の彼の言葉が蘇る。
――誰が何と言おうと、ココの髪は綺麗だよ。少なくとも僕は大好きだ。
成長したエリアスは、いつだって私の髪を褒めてくれていた。そう考えれば、8歳のエリアスが同じ感想を抱くことはある意味自然なのかもしれないが、エリアスがお世辞ではなく、本当に私の髪を好きでいてくれた証なのかと思うと不意に頬に熱が帯びるのを感じた。
「……ありがとう、嬉しいわ」
緊張で声が震えてしまう。その間にエリアスは髪を解き終わったのか、ようやくクローゼットから降り、再び私に手を差し出した。
「ほら、早く行くぞ」
「ええ」
エリアスに手を引かれるようにして、陽光の中へと一歩踏み出す。彼を幸せにしたいと願っているのは私なのに、私は彼に温もりを与えられてばかりだ。それを情けないとも思うけれど、それでもやっぱり嬉しくて、頬が緩んでしまう。
どんな形でもいい。このまま、エリアスの傍で彼の幸せを見届けられたら。
やはり、それが私にとっても幸福にも繋がるのだろうと、確信を得る。この時間軸では、前の時間軸以上に、彼の笑顔を見られますように。そう、誰ともなしに祈った。
その翌朝、エリアスの乗った馬車が事故に遭ったという知らせを受けとることになるなんて、このときの私には知る由もなかった。
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