第4話 初めまして、お久しぶりね、私の愛しい人

 ぱらぱらと、窓に雨が打ち付ける音が響き渡る。生憎の天気のせいか、はたまたセルジュお兄様がいなくなってしまったせいなのか、フォートリエ邸は陰鬱な夏の気配に満ちていた。照明はきちんとついているのに、薄暗ささえ感じるような重苦しい空気の中を、私はただ進んでいく。


 「自由に歩きたい」とメイドに伝えたところ、彼女はあっさりとそれを承諾してくれた。今は、私の数歩後ろをついてくる形で私を見守ってくれている。


 受け取ったばかりのセルジュお兄様の形見を握りしめながら、私は不意に足を止めた。そこは、大きな窓が埋め込まれたちょっとした広間のような部屋で、私とエリアスが以前の時間軸で出会いを果たした場所だとすぐに分かったからだ。


「……ここからお庭を見てもいいでしょうか?」


 内心の動揺を悟られぬよう、8歳の令嬢らしくメイドにそう願えば、彼女は慎ましく礼をする。


「承知いたしました。よろしければ、庭に咲く花のご説明をいたします」


 どちらかと言えば愛想のいいメイドではないが、私をもてなそうという気持ちはあるらしい。だが、私の記憶が正しければもうじきここにエリアスがやってくるはずだ。今度の出会いは、誰にも邪魔をされたくなかった。


「ありがとうございます。でも、少し喉が渇いてしまって……。セルジュお兄様と一緒によく飲んだ、フォートリエ侯爵領の紅茶をいただけませんか?」


 なるべく無邪気におねだりをすれば、メイドは再び小さく礼をする。


「かしこまりました。すぐにご用意いたしますので、お嬢様はこちらの部屋でお待ちください」


「ええ、ここでおとなしくしています」


 聞き分けの良い令嬢を演じれば、メイドは私にアジュールブルーの布が張られた椅子を用意して、早速お茶の準備に向かった。手際もよく、仕事のできそうなメイドであるのに、彼女もエリアスを差別しているのかと思うと複雑な気持ちになってしまう。


 貴族の家の当主が愛人を囲うなんて、別に珍しい話ではない。誰にでもいるというわけでもないが、よくあること、という程度で済まされるくらいにはありふれていると思う。どうしてエリアスがこんなにも差別されているのかは不思議でならないが、おそらくセルジュお兄様が亡くなったことが大きく関係しているのだろう。


 使用人からしてみれば、正妻の息子であるセルジュお兄様が受け継ぐべきだった何もかもを、エリアスがかっさらっていったように思えるのかもしれない。エリアスはセルジュお兄様が亡くなるまで、王都から遠く離れたフォートリエ領の屋敷で暮らしていたはずだから、馴染みのないエリアスを警戒する気持ちもあるのだろう。


 窓越しに、雨に打たれ続ける庭の花々を見つめる。鮮やかな青い薔薇は、フォートリエ侯爵家のアジュールブルーを彷彿とさせた。統一感のある美しい庭だ。私の実家であるミストラル公爵家の庭も綺麗だと思うけれど、様々な種類の花が咲き乱れるので、この庭のように統一されている印象はない。だが、私はミストラル公爵家の庭も、温かみがあって好きだった。


 雑多な花が咲くミストラル公爵家と、ただ一種類の薔薇で統一されたフォートリエ侯爵家。たかが庭だというのに、それぞれの家の色を如実に表しているような気がして、ふ、と笑ってしまった。


「雨の降る庭が、そんなに面白いか?」


 何の前触れもなく、背後から響いたその声に、一瞬息が止まった。単純に驚いたというのもあるが、それ以上に、その声の主を前にして緊張してしまう。


 ああ、「彼」だ。記憶の中よりずっと幼い声をしているけれど、紛れもなく、私が恋したあの人の声だ。


 セルジュお兄様の形見のペンダントをぎゅっと握りしめながら、私はゆっくりと声のした方を振り返った。会話をするにしては随分離れた入口のあたりで、「彼」は私の方を見つめている。


 エリアス。


 そう、呟きそうになるのを堪えるので必死だった。緊張と、前の時間軸で起こった最後の惨劇を思い出して暴れだす心臓を隠すように、そっと胸に手を当てる。


 エリアスは、遠い記憶の中と何一つ違わぬ姿で私の前に立っていた。漆黒の喪服に身を包み、闇夜と同じ深い色の髪と紺碧の瞳を持つ少年が、確かにそこにいたのだ。


 以前の時間軸で最期に見たときよりずっと幼い彼の姿には、どうしたって違和感がつきまとう。一瞬、自分も8歳の姿であることを忘れるほどに、私は幼いエリアスの姿に釘付けになっていた。


 以前は「きれい」と思ったけれど、今回は「可愛い」と思うから不思議ね。


 思わず表情を緩めながら、小さく息をついて呼吸を整える。大丈夫、私はきっと大丈夫だ。


 正直、エリアスと出会ったら、心臓を抉られた恐怖が蘇って動けなくなってしまうのではないかという不安があった。いくらエリアスを幸せにしたいと願っても、本能がそれを拒否してしまったらどうしようもない。無闇に怯える私の姿は、却って彼を傷つける結果にしかならないのだから。


 でも、それは杞憂に終わったようだ。私は今、こんなにもエリアスと再会できたことが嬉しくてならないのだから。


「……青い薔薇がとてもきれいだもの。見ていて楽しいわ」


 にこりと微笑んでそう告げながら、私は椅子から降り、エリアスに向き合った。彼は私をじっと見つめたまま、小さく問いかける。


「……父上の客人の令嬢か?」


「ええ、お邪魔しております」


 私はゆっくりとドレスを摘まんで小さく膝を折った。

 

「……お初にお目にかかります。ミストラル公爵家の長女、コレット・ミストラルと申します」


 未だに緊張で指先が震えるが、この距離ではエリアスに気づかれることは無いだろう。


「ミストラル……ああ、父上が躍起になって関係を築きたがっているあの家のお嬢様か」


 記憶の中で一度聞いたことのある言葉を投げかけられ、思わず息を飲む。エリアスがこの段階でどこまで知っているのかは分からないが、ミストラル公爵家とフォートリエ侯爵家の政略的な関係くらいは把握しているのかも知れない。


 ゆっくりと顔を上げてエリアスを見つめれば、彼は少しもぶれることのない視線で私を見つめていた。その眼差しの強さに、こちらの方がどぎまぎとしてしまう。以前の時間軸では、エリアスは基本的には温厚な人だったので、彼がそんな強い眼差しで私のことを見つめるのは、決まって私が「悪いこと」をしたときだけなのだ。


 それだけに、エリアスのその視線は、彼の歪んだ愛から来る異様な執着を嫌でも思い出させる。正直心臓に悪いが、だからと言って目を逸らすのも失礼なので、私はぎゅっと手を握りしめながら耐えた。


「俺はエリアス。……エリアス・フォートリエだ。君が仲良くしていたセルジュ兄さんの弟だよ」

 

「……セルジュお兄様から聞いたことがあるわ。弟さんがいるって。それはあなただったのね」


 以前の時間軸と似たような言葉を返せば、エリアスは記憶の中と同じように少しだけ驚いたように紺碧の瞳を見開いた。


「……驚いたな、兄さんが俺のことを話したのか?」


 この反応からして、この時間軸でもエリアスがフォートリエ侯爵家の面々から冷遇されていることは変わりないようだ。その事実に少しだけ胸を痛めながら、私は微笑みを返す。


「ええ。だから、こうしてお会いできて嬉しいわ」


 そのまま数歩エリアスの方へ歩み寄れば、彼はどこか警戒したように一、二歩後退る。その様子に、私は足を止めざるを得なかった。


「……あまり近寄らない方がいい。俺は、きたないから」


 幼い声に似合わぬ悲痛な言葉に、彼の境遇を知っている私まで胸が痛くなる。エリアスの幼い顔に浮かぶ苦し気な表情は、どうにも憐れみを誘った。


 だが、それ以上に私の胸の内を占めるのは、幼いエリアスにこんな悲しいことを言わせてしまう彼の周囲の者たちへの怒りだった。いくら聡明だと謳われていようが、しっかりしているように見えようが、幼い心は繊細なのだ。エリアスのお母様の血筋という、エリアスにとってはどうすることもできない理由で彼の幼い心が踏みにじられていることに、どうしようもないやるせなさを感じた。


「……あなたは汚くなんてないわ」


 湧き上がる怒りにも似た感情が、言葉にも少しだけ滲み出してしまう。初対面の相手にかけるにしては不自然なほどに感情的な響きを帯びたその台詞に、案の定エリアスは怪訝そうな顔を見せた。


 まずい。妙な令嬢だと思われて距離を置かれてしまっては、エリアスを幸せにしたいという私の願いの実現が極端に難しくなる。


 妙な緊張感を堪えるように、一層ドレスをぎゅっと握りしめながら、私はエリアスの次の動きを待った。


 幸いにもエリアスは、彼が感じたであろう違和感を見逃すことにしたようで、記憶の中の彼とよく似た、どこか自嘲気味な笑みを見せる。


「見た目の話じゃない。この身体の中に流れる血の話だ。……セルジュ兄さんの弟だと思って俺に近づこうとしているならやめた方がいい。俺は、この侯爵家では尊重されていない。父上の、愛人の息子だから」


 エリアスはふっと笑いながら私に一瞥をくれる。幼さに似合わぬ諦めの滲んだ表情が、やはり痛々しくてならなかった。


「……そう珍しい話でもないわ」


「そうか? その愛人というのが、卑しい娼婦だと言っても?」


 以前の時間軸では、幼い私は「娼婦」の意味を理解することが出来なくて、エリアスはうんざりさせてしまった。それどころか、典型的な貴族の箱入り娘という印象を与えてしまっただろう。それでも結果的にエリアスは私と仲良くしてくれたのだが、今度の私はそう愚かな返答はするまい。彼を、無闇に傷つけたくないのだ。


「あなたはあなたでしょう。私は、あなたのお母様の職業であなたを判断したりしないわ」


「……ははっ、これは驚いた。貴族のお嬢様に、娼婦の意味が通じるとはね」


 エリアスは記憶の中と同じように小さく声を上げて笑ったが、彼の冷たい視線の中に私への好奇心が混じったのが分かった。


「もしかして、君も愛人の子どもだったりするのか? ミストラル公爵家の長女は公爵閣下の白銀の髪に似ず、灰色の髪で惨めだって話はよく聞くからな。失敗作、なんだっけ?」


 エリアスの言葉を真似するわけではないが、これには私も驚いた。私が心無い貴族たちから「ミストラル公爵家の失敗作」と蔑まれていることを知ったのは社交界にデビューしてからのことだったので、この頃から密かに囁かれていたなんて知らなかった。


 でも、こんな下らない噂話をエリアスが口にするなんて。彼は、こんなにも攻撃的な性格だっただろうか。思えば口調も一人称も、成長したエリアスとは随分違っている。


 人に傷つけられてばかりいたから、人を傷つけることを厭わないのだろうか。もしそうなのだとしたら、私は、せめて私だけは、無闇に彼を傷つけることはしたくない。そう心に誓って、私は令嬢らしくゆったりと微笑んで見せる。


「そう、そんな噂話もあるのね。でも、目立っていいでしょう、この灰色の髪」


 以前の時間軸でも、ミストラル公爵家の「失敗作」として好奇の目に晒され続け、嫌味を言われたことは数えきれないほどある。しかも、ミストラルの名にふさわしくない私が、社交界の注目の的であるエリアスの婚約者だったことは、余計にご令嬢たちの気に障ったようで、嫌がらせまがいの事にも散々耐えてきた。今更、このくらいの嫌味で腹を立てる純真さは持ち合わせていない。


 エリアスは、私が怯まなかったことが意外だったのか、紺碧の瞳を少しだけ見開いてこちらを見つめていた。だがそれも長くは続かず、やがて気まずそうに視線を逸らした。乱暴な言葉を放ったのはエリアスの方なのに、彼の方が傷ついたような表情をしている。


 ……そう、傷ついているのね。


 エリアスのその表情を見て、どこか安心している私がいた。きっと、エリアスはまだ大丈夫だ。彼はまだ歪み切っているわけではない。私を傷つけたと理解し、私が感じた苦い思いを想像して、罪悪感を感じるだけの感性はまだ持ち合わせている。


 エリアスを無理やり理想的な性格に矯正しようだとか、そんなおこがましいことは考えていない。ただ、今のままではきっとエリアスは生きづらいだろう。あらゆる選択肢を知ってほしいのだ。人を攻撃するだけが、人と関わる方法ではないのだと、少しでも早くこの幼いエリアスに気づいてほしい。


「っ……お嬢様!?」


 不意に、背後で先ほどのメイドが驚いたように声を上げる。どうやらお茶を用意して戻ってきたらしい。セルジュお兄様とよく飲んだ懐かしい紅茶の香りが漂ってきた。


「お嬢様!! 申し訳ありません……お一人にするべきではなかったです。何もされてませんか? お怪我は? 何か失礼なことをされませんでしたか?」


 メイドの視界にはまるで私しか映っていないかのような言動に、思わず眉を顰める。たとえ愛人の息子だとしても、エリアスはフォートリエ侯爵家の血を引く子どもなのだ。しかも、セルジュお兄様亡き今となっては、大切な跡取りでもある。ここまであからさまに冷遇しているのを、侯爵閣下は見逃しているのだろうか。


「何もありません。少しお話をしていただけです」


 明らかな機嫌の悪さが言葉に滲んだことに、私自身驚いていた。どうも8歳の体では、感情を隠すということが上手くできないらしい。


「……悪かった、ミストラル嬢。俺はもう、行くから――」


 メイドの視線から逃れるように私に背を向けようとしたエリアスの腕を、殆ど反射的に掴んだ。驚いたような表情で振り返るエリアスの紺碧の瞳と間近で目が合う。


「行かないで」


「……え?」


「私、あなたと仲良くなりたいの」


「……仲、良く?」


 初めて聞いた言葉だと言わんばかりに怪訝そうな表情を見せるエリアスが何だか可笑しくて、自然と頬が緩む。


「ええ、そう。仲良くしたいの。……駄目かしら?」


「……俺と関わってもろくなことが無い。ミストラル公爵家の令嬢なら、俺なんかに関わらず新しい婚約者探しに時間を割くべきだ」


「心配してくれてありがとう。でも、私のお父様は、私がお友だちを作るのを許してくれないほど狭量な方じゃないのよ」


「友だち……? まさか、俺が?」


「いきなりお友だちなんて図々しかったかしら。それなら、私にお友だちになる機会を頂戴?」


 エリアスの目には、さぞ我儘なお嬢様に映っているだろう。でも、今のエリアスにはこのくらい強めに出なければ、私と関わろうとしてくれないはずだ。


「そうだわ、今度はミストラル邸に来て! 青い薔薇は無いけれど、素敵なお花が沢山咲いているのよ」


 エリアスの手を両手で包み込むようにして握れば、明らかな動揺が伝わってきた。多分、人に触れられることにあまり慣れていないのだろう。


 以前の時間軸では、エリアスと触れ合うことなんて日常茶飯事だったので、つい軽率な行動に出てしまった。だが、今は初対面なのだ。あまりに図々しかったかと思い、慌てて手を離す。


「あ……ごめんなさい、我儘ばかり言って。それに、許可なく触れてしまったわ」


「許可……って」


 それだけ呟くと、エリアスは毒気の抜かれたような小さな笑みを見せた。この時間軸では初めて見るエリアスの楽しげな表情に、不覚にも動揺してしまう。


 そうだ、これは、以前の時間軸でも何度も見た、エリアスの笑顔。私の一番好きな表情の原型なのだ。


「分かった、負けたよ。きっと近いうちにご自慢の庭にお邪魔させてもらおう。君からの誘いだと言えば、父上は嬉々として僕を送り出すだろうしな」


「……来てくれるの?」


「急にしおらしくなったな……」


 戸惑うようなエリアスの表情を見ながらも、私は胸の内に温かなものが広がっていくのを確かに感じていた。エリアスを幸せにする第一歩を掴めた、ということが嬉しいのはもちろんだが、多分それ以上に私は、またこの愛しい人との時間を始められる奇跡に感動しているのだ。


 もちろん、今度の私たちがどんな関係になるか分からない。お友達になれるかもしれないし、以前のように恋人になるかもしれない。可能性は未知数だった。だが、どんな道であれその先にエリアスの笑顔があるならば、自然と心は踊ってしまう。


「ありがとう。とびっきり甘いお菓子を用意して待っているわ!」


 思わず満面の笑みを浮かべてエリアスを見つめれば、彼の紺碧の瞳が戸惑ったように揺れる。その動揺の仕方さえも愛おしくて、私はぎゅっとエリアスの手を握り直したのだった。

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