第3話 どうか星影の中から私たちを見守ってください

「おはようございます、コレットお嬢様。ご気分はいかがですか?」


「おはよう、リズ。とてもよく眠れたわ」


 8歳の世界に戻ってきてから早一週間。ようやく私は、この時間軸での生活に慣れ始めていた。もっとも、ここは紛れもなく私の実家であるのだし、一度過ごしたことのある日々を繰り返しているのだから「慣れる」なんて言う表現もどこか滑稽なのだけれど、ようやく心が落ち着いてきた気がする。


 エリアスを必ず幸せにする、と決意してからというもの、ひとまず私は、今、自分が置かれている時間軸の正確な情報を集めることに必死だった。いくら日付を見たところで、10年も前の日常生活を鮮明に思い出せるわけがない。なるべく不審がられることのないように、懸命に現状把握に努めた。


 そう、気を付けているつもりだったのだけれども、初めの2、3日は8歳の感覚が掴みきれず、あまりにぎこちない振舞をしてしまったので、突如として大人びた言動や行動を繰り返す私を見た両親やリズに、それは心配をかけてしまった。


 もともと、溢れんばかりの温かい愛の中で私を育ててくれた人たちなのだ。過保護に思えるくらいの心配の仕方だったが、2歳下の弟妹達を参考にしつつ何とかそれらしい振舞を会得したところ、彼らはようやく胸を撫で下ろしたようだった。――危うく、国を越えて、大陸で一番のお医者様を呼ばれるところだった。


 その甲斐あって、分かったことがいくつかある。今は、私が8歳になって二月ほどが経過した夏の終わりで、リズの反応通り、私はまだエリアスに出会っていないということ。そして、エリアスのお兄様であり、私の幼馴染というべきセルジュお兄様は、残念ながら既に亡くなっているということだ。


 セルジュお兄様に関する記憶は本当に曖昧で、エリアスによく似た紺碧の瞳を除いては、はっきりした顔立ちすらもよく思い出せない。ただ、とにかく私を可愛がってくれていたことだけはよく覚えている。そのせいか、セルジュお兄様の二度目の死の知らせを聞いた時には、やはり寂しい気持ちが広がってしまった。


 でも、もう一度セルジュお兄様にお会いして、その上で再びお別れを経験することになるよりは、いくらかマシだったのかもしれない。そう前向きに考えて、私はこれから起こるであろう事態に備えた。


 セルジュお兄様が既に亡くなっているということは、そう遠くないうちにお父様は私を連れて、エリアスの実家であるフォートリエ侯爵家に弔問に行くだろう。前と同じように物事が進んでいくのなら、私はそこでエリアスに初めて出会うことになる。


 それを待ち遠しく思うと同時に、どこか緊張を覚えるのも確かだった。出会いというのは、今後の関係を築く上で限りなく重要なものになるはずなのだから。以前だって、決して悪い出会い方ではなかったと思うけれど、今回はエリアスの事情を察するだけの余裕がある分、もっと良い出会い方が出来るはずなのだ。


 リズが私のくすんだ灰色の髪を梳く様子を鏡越しに眺めながら一人意気込んでいると、リズにもそれが伝わってしまったのか彼女はくすくすと笑ってみせた。


「ふふ、お嬢様、何を張りきっていらっしゃるんですか?」


「……リズには何でもお見通しね」


「それはもちろん、お嬢様がこんなに小さい頃からお傍におりますもの。分からないことなんてありませんよ」


 リズは私の座っているワインレッドの布が張られた椅子の座高よりも、さらに低いところを手で指した。リズは私が3歳になったときから私のそばに居るのだから、その表現は少々大袈裟な気がする。


「私、そんなに小さくなかったわ」


 少しだけ不貞腐れるように頬を膨らませれば、リズは相変わらず楽しそうに微笑んで私の髪を梳き続けた。


「それもそうですね。……今日は、いつものお嬢様らしいお姿で安心いたしました」


 ぽつりと呟かれた言葉だったが、この一週間の私の行動がいかにリズを心配させていたかを思い知るには充分だった。


「不思議な夢が後を引いていたみたい。心配かけてごめんなさい」


 曖昧な笑みを浮かべながら、何とかそれらしいことを言って誤魔化す。私としては、あまりこの話題を長引かせたくないのだ。


「いいのですよ。お嬢様が今日も朗らかに楽しく生きていてくださるなら、リズはそれだけで幸せです」


 リズは、私のドレスに合わせた深いグレーの大ぶりのリボンで、私の灰色の髪を手際よくまとめていた。


 私の髪は、今日も忌々しいほどに陰気な灰色だ。灰色の髪は、私が「ミストラル公爵家の失敗作」と蔑まれる原因の1つなだけあって、何年経ってもやはり好きにはなれない。かつてはお父様や弟妹達のように輝くような銀髪ではないことが、悔しくて悲しくてならなかった。


ミストラル公爵家は、白銀の髪とワインレッドの瞳の華やかさから「淡雪の一族」と呼ばれ、見目麗しい者が揃うことで有名だ。特に私の双子の弟妹、フィリップとクリスティナは、ミストラル公爵家の特徴をこの上なく色濃く表していて、「まるで対のお人形のよう」とその美しさを讃える声が耐えなかったものだ。


 それに比べて姉君はお可哀想にね、何ていう低俗な陰口は、社交界に入れば嫌でも耳に入ったものだ。陰気な灰色の髪と不吉な深紅の瞳は、話題の種に飢えた貴族たちの格好の標的だった。


 正直、「ミストラル公爵家の失敗作」とまで囁かれていると知ったときには、かなり傷ついた。お父様やお母さまが私を愛してくれているからこそ余計に、だ。


 見目で馬鹿にされるならば、せめて学問や芸術に人一倍励もうと考えてそれなりの成果を上げたこともあったが、そんな些細な努力が「ミストラル公爵家の失敗作」とまで評された私の印象を覆せるはずもなかった。


 人の生まれ持った性質を馬鹿にすることほど、愚かで品の無いことは無い。耳を貸す価値の無い陰口だと分かっていた。それでも、私の心に傷をつけ続けていたことは確かで、だんだんと私は社交界が苦手になっていった。


 思い出すだけで、辛い気持ちになってしまいそうだ。切り替えなければ、と顔を上げて鏡の中の自分を見つめた。


 以前の時間軸でそんな苦い経験をした私は、せめてなるべく陰鬱な雰囲気が漂わないよう、明るい髪飾りで支度を整えて欲しいとリズにお願いするようにしたのだ。


 リズも子供らしい明るい色で私を飾り付けるのが楽しいようで、ここ数日は私が口に出さずとも素敵な髪飾りを選んでくれていた。


 だが、ここ数日の例に沿わず、今日のリボンは妙に暗い。8歳の令嬢がつけるには相応しくないほどの質素なものだった。


「リズ、もっと明るいリボンに出来ないかしら? 今日はドレスもこの色だし――」


 自身が纏った深いグレーのドレスを摘まみながらそう呟いて、不意に気づく。このところ平穏な日々が続いていたというのに、久しぶりにどくん、と心臓が跳ねるのを感じた。


 これは、以前の時間軸でフォートリエ邸へ弔問に向かったときに纏っていたドレスと同じものではないだろうか。


 まさか、今日、私はエリアスに会いに行くというのか。


 幼い頃の記憶だから詳細な部分まで覚えているわけではないけれども、セルジュお兄様が亡くなって一月が経とうかというこの時期から考えても辻褄が合ってしまう。


「申し訳ありません、お嬢様。本日は、こちらのお召し物でそろえるように、と奥様から申し付けられているのです」


 お母様は、私に似合いそうなドレスを仕立ててくれることはあっても、私の選択に口を出すような真似は滅多になさらない寛容なお方だ。そのお母様が、わざわざリズに私の服装を指定するということは、余程大事な用事があるのだろう。


 やはり私は今日、フォートリエ侯爵家に赴くのだ。私はこれから、8歳のエリアスに会うことになるのだろう。


 とくとくと脈が早まるのは恐らく正常な反応だ。妙に張り詰めた気持ちのせいで、どんな表情をすればいいのか分からなくなってしまう。


 顔を隠すように軽く俯いた私の傍に、不意にリズが屈みこんで私の顔を覗き込んだ。そのままリズは、膝の上でそろえられた私の手をぎゅっと握ってくれる。


「コレットお嬢様は本当に聡明なお方ですね。……きっとお嬢様が考えていらっしゃる通りです。本日は、セルジュ様にお別れを告げに行くのだそうですよ」


 セルジュお兄様の葬儀は、王都から程遠いフォートリエ侯爵家の領地でひそやかに行われたため、幼い私は参列できなかった。以前の時間軸で、私は泣いてセルジュお兄様の葬儀に参列したいと訴えたけれども、お父様は決して許してくださらなかった。


 思えば、いつもお優しいお父様が、あれ程厳しく私の願いを切り捨てたのはあれが最初で最後だった。多分、お父様なりに私の幼い心を心配してくださっていたのだろう。長い旅路と幼馴染の死で私の心が病んでしまわないか憂いだ結果なのかもしれない。


 お別れを告げに行くと言ったって、セルジュお兄様のお墓は王都には無いのだ。ただ、形見を受け取るだけの慎ましやかな面会だということを私は知っている。それでも、胸を締め付けるこの寂しさに思わず泣いてしまいそうだった。


 妙な話だ。私単体の時間の流れで言えば、セルジュお兄様が亡くなったのはもう10年も前のことなのに、こんなにも悲しい気持ちになるなんて。幼い体の涙腺は脆くて、以前ならば簡単に我慢できた涙が一粒零れ落ちてしまう。


 今日という日を、私はどこかでエリアスに会うだけの日、と認識していたようだ。今日は、そんな単純な日ではないのに。セルジュお兄様がいなくなり、重苦しい雰囲気が漂うあの屋敷の中で、私はエリアスに出会うのだ。


 突如として訪れたこの寂しさとエリアスと出会う状況の複雑さに、思わず自信を失いかけるが、リズの手をぎゅっと握って耐えた。そう簡単に挫けるわけにはいかない。私はセルジュお兄様の死と向き合って、そうしてエリアスともう一度素敵な出会いを果たすのだ。


「お嬢様……泣かないでくださいませ。セルジュ様はきっと、美しい星空からお嬢様を見守ってくださっています」


 リズの励ましに頷きながら、そっと目尻を指で拭う。化粧を施していない頬に伝う涙が、今はやけに心強く思えた。化粧だとか体面だとか、そんなものを気にすることなく感情のままに涙できるこの幼さが、今の私の何よりの強みだ。


「……私、ちゃんとセルジュお兄様にお別れをしてくるわ。今までありがとう、って伝えてくる」


「はい、お嬢様なら出来ますよ。リズは、お嬢様のお好きな温かくて甘い紅茶を淹れて、お待ちしておりますからね」


「……ありがとう、リズ」


 リズからしてみればなんてことない励ましだったのかもしれないが、今の私を安心させるには充分すぎるほどの温かい言葉だった。


 大丈夫、私は出来るわ。今度こそ、エリアスを幸せにする第一歩を踏み出すのよ。






********


 以前の時間軸で私がエリアスと出会ったのは、灰色の空から湿った雨の降る、陰鬱な夏の終わりのことだった。あの日、黒に近い深いグレーのドレスを着て、私はフォートリエ邸の中を歩き回っていた。背後には、私の様子を見守るフォートリエ邸のメイドがいたように思うが、幼い私はそんなことを気に留める余裕もなく、窓の外を眺めてはすすり泣いていた。


 セルジュお兄様が私に残してくださったのは、この大陸を守る「星鏡の大樹」の加護を受けた銀細工のペンダントで、「星鏡の大樹」の葉の形を模った繊細な品だった。


 この世界の安寧をつかさどる「星鏡の大樹」の葉は、縁起の良い品としてあらゆる装飾品のモチーフに使われている。そういう意味では、セルジュお兄様から頂いたペンダントは、この大陸にありふれたものだと言えるかもしれないが、私にとっては二つとない宝物となっていた。


 受け取ったばかりのペンダントを握りしめながら、大きな窓のある一室で足を止め、雨が降り続く庭を眺める。貴族の家らしく、丁寧に整えられた生垣と鮮やかな青い薔薇が美しい庭だった。私は目尻に溜まった涙を拭って、しばらくその光景を眺めていた。


 どれほどの時間が経ったときだろう。不意に、背後で控えていたメイドが私に話しかけてきた。


「お嬢様、ここにいては退屈なさるでしょう。甘いお菓子をご用意いたします」


 私を見守りつつも自由にさせていたメイドが、突然そんなことを言い始めた理由は何だろうと彼女の方を振り返ったとき、そこに「彼」はいた。今にして思えば、きっとメイドは私と「彼」を会わせたくなかったのだ。


 だが、そんなメイドの画策も空しく、私は「彼」と目が合ってしまう。


 漆黒の喪服に身を包み、夜の闇のように深い髪色を持った少年。そんな異質な黒を纏った彼は、仄暗い紺碧の瞳でじっとこちらを見つめていた。


 目が合ったのは、ただの偶然だったのかもしれない。でも私は、その一瞬だけはセルジュお兄様のことも、家庭教師に習ったマナーも何もかも忘れて、「彼」の美しさに魅入られていた。


「……きれい」


 そう、彼こそがいずれ私の婚約者となるエリアスだったのだ。そんなことを知る由もない私は、ただ目の前の可愛らしい少年に目が釘付けになっていた。


「っお嬢様、いけません。さ、こちらへいらしてください!」


 メイドは酷く慌てたように私の手を取った。客人の令嬢に対する行いにしてはあまりに強引だったと思うが、それくらい彼女は焦っていたのだろう。人に腕を掴まれる、という慣れない出来事に驚いた私は手に持っていたペンダントを床に落としてしまった。


「あ……」


 かしゃん、と冷たい音を立てて落ちたそれを、私は慌てて拾おうとした。だが、私よりも先に小さな手がそれに伸びる。


 エリアスは、子供らしからぬゆったりとした仕草でペンダントを手にすると、数秒間それを眺めていた。もしかすると、このまま取られてしまうだろうか、などと子供らしい心配をした私は、いてもたってもいられず、メイドの手を振り払って彼の元へ駆け寄った。


「っ……あの、それ、とても大切なものなのです。返してくださいますか?」


 エリアスは、冷たささえも感じる紺碧の瞳で私を見ていた。何を考えているのか分からない、という相手に出会ったのはこれが初めてのことで、ますますどのような対応を取ればよいのか分からなくなってしまう。


「これは、兄上のペンダント……?」


「兄上?」


 エリアスの言葉をそのまま復唱して、目をぱちくりとさせていると、彼は私の手にそっとペンダントを乗せた。


「……俺はエリアス・フォートリエ。セルジュ兄さんの弟だ。……血の繋がりは半分、だけどな」


 突然の自己紹介に、私は慌ててドレスを摘まみ、小さく礼をして応える。


「ミストラル公爵家の長女、コレット・ミストラルと申します」


「ミストラル……ああ、父上が躍起になって関係を築きたがってるあの家のお嬢様か」


 エリアスはどこか自嘲気味に笑うと、私から興味を無くしたように窓の外へ視線を向けた。


「兄さんが死んだときの父上の嘆きようったらなかったな。余程、君の家との繋がりが欲しかったんだろうが……兄さんがいなくなってしまっては話にならないものな」


 そのエリアスの言葉の内容は、恐らく8歳にしては達観しすぎたものであったし、私は私で、8歳とはいえ貴族令嬢としては鈍すぎるほどにそのほとんどを理解できなかった。ただ、エリアスの自嘲気味な笑みがどうにも息苦しくて、放っておけないような気持ちになったのだけは確かだ。


「セルジュお兄様には、とても良くしてもらったわ……。そのペンダントは、セルジュお兄様の形見としていただいたの」


「ミストラル公爵家のご令嬢に差し上げるにしては地味な品だな」


 どことなく棘のある言葉を吐きながら、エリアスはまじまじとペンダントを眺めていた。その横顔に、私はずいと近寄って話しかける。


「弟さんがいるって、聞いたことがあるわ。それは、あなただったのね」


「……驚いたな、兄さんが僕のことを話したのか?」


「ええ! こうして見ると、あなた、セルジュお兄様と似ているのね」


 セルジュお兄様は白金の髪に淡い紺碧の瞳、対してエリアスは黒髪に深い紺碧の瞳だから、一見すればまるで正反対の印象を受けるのだろうけれど、顔立ちは似ている部分が多かったように思う。くっきりとした目鼻立ちだとか、整った唇の形なんかは特にそうだ。


「……そんなこと、初めて言われた」


「そう? こんなに似ているのに、不思議だわ」


「でも、似ているのは顔だけだ。……俺は、兄さんと違って、とてもきたないから」


「きたない?」


 その言葉をそのまま受け取った私は、エリアスの頭の先からつま先まで改めて眺める。服も靴も侯爵家の子息らしい一級品で、汚れどころか染み一つない姿だった。


「馬鹿だな、見た目の話じゃないよ」


 エリアスはどこか毒気が抜かれたようにふっと笑った。その笑みは恐らく初めて見たエリアスの穏やかな表情で、やっぱり私はその微笑みに目が釘付けになってしまう。


「俺は、兄さんと母親が違う。兄さんはれっきとしたこの侯爵家の奥様の子、対して俺は父上の愛人である卑しい娼婦の息子さ」


「エリアス様っ……!」


 私たちの様子を半ば諦めた様子で見守っていたメイドが、窘めるように口を挟んでくる。エリアスはそれを一笑すると、こちらに向き直り、私の反応を見守るような視線を向けた。


「……しょう、ふ?」


 耳慣れない言葉を復唱すれば、エリアスは再び口元を歪めて、軽く声を上げて笑った。


「はははっ……貴族のお嬢様には分からないか。そりゃそうだよなあ……大事に大事に育てられてきたお姫様に、そんなことわかるわけないか」


 エリアスは可笑しくてたまらないと言った風に笑っていた。いくら能天気に生きてきた私でも、流石にこれは馬鹿にされているのだろうということは察しがつく。何となく面白くない気持ちを抱きながら、どんな言葉を返すべきか頭を働かせた。


 そんな中で、私の傍に先ほどのメイドが駆け寄ってきて私の肩に手を乗せる。


「お嬢様、大変失礼いたしました。早くあちらへ参りましょう。フォートリエ侯爵領自慢の紅茶をご用意いたします」


 エリアスには一切触れないその言葉も、今にして思えば不自然だった。だが、幼い私が察するには難しすぎたのかもしれない。使用人からも冷遇されているというエリアスの状況を物語る、何よりの証だったのに。


「……そう、ね。ありがとう」


 正直、訳も分からないままにこちらを馬鹿にしてくる目の前の少年と、これ以上関わりたくない、という気持ちが強かった。それでも最後に、ペンダントを拾ってくれたお礼くらいは述べてから去るのが礼儀だろうと思い、私は改めてエリアスに向き直った。


 そのときに、私は見てしまったのだ。自嘲気味に笑い続けるエリアスが、一瞬だけ見せた、ひどく寂し気な表情を。


 それは、偶然にしてはあまりに悲痛な表情で、気がつけば私はエリアスの前に歩み寄っていた。背後で私の名を呼ぶメイドに構うことも無く、じっとエリアスの紺碧の瞳を覗き込む。


「……何だ? 早く行けばいいだろう」

 

 笑い続けるのをやめたエリアスは、どこか不快そうに私を見ていた。その目には先ほどまでは無かった明らかな軽蔑が混じっていて、今までそんな目で見られたことも無かった当時の私は、本当はとても動揺していた。でも不思議と、このときの私にはエリアスを無視するという考えは浮かんでこなかったのだ。


「さみしいの?」


「……は?」


 何の脈絡もない私の問いに、エリアスが戸惑うのも当然だろう。だが、私はそんな彼の動揺などお構いなしに、そっと彼の手を握って微笑んだ。


「しょうふ、のことはよくわからないし、何だか馬鹿にされて腹が立ったけれど……でも、私はあなたのこと、とてもきれいって思ったの。嘘じゃないわ。本当にきれいよ。それに、言ってることも何だか面白いわ」


「っ……これは、ただの庶民の言葉だ。物珍しいだけだろう」


 そのときのエリアスの戸惑ったような表情を見て、多分、ただの意地悪な男の子ではないだろうと私は直感的に察した。常識だとか、知識だとかの面ではまだまだ鈍い私だったが、人の感情の機微にだけはこの頃から敏感で、寂しさを垣間見せたこの少年ともう少し話をしていたいと思ったのだ。


「珍しいものに興味を持っちゃいけないの?」


「随分はっきり言うんだな……」


「私、あなたともっと仲良くなりたいわ」


「人の話を聞けよ」


「ね、いいでしょう? 一緒にセルジュお兄様のお話をしましょうよ!」


 半ば強引にエリアスの手を両手で包み込めば、彼は紺碧の目を見開いて私を見ていた。エリアスの瞳に映り込む私の姿が確認できそうなほど近付いた二人の距離に、動揺していたのは恐らくエリアスの方だったのだろう。


 忘れもしない、これが、私とエリアスの出会いだった。



********


「コレット、見えてきたよ。フォートリエ邸だ」


 馬車に揺られながら、ぼんやりとエリアスと出会った時のことを思い出していると、お父様が穏やかな声でそう教えてくださった。リズと私の予想通り、私とお父様は今、セルジュお兄様の弔問のためにフォートリエ邸へ向かっている。


 馬車に設置された窓の外をそっと覗き込めば、見慣れたフォートリエ邸の姿が確かにあった。感覚としてはつい一週間前に嫁いだはずの屋敷なのに、こうして眺めてみると、何だか不思議な感覚に囚われてしまう。





 馬車から降り、どこか緊張した想いを抱えながら、私はお父様と共に応接室へ足を踏み入れた。フォートリエ侯爵家の象徴であるアジュールブルーの上質な絨毯を踏みしめ、革張りのソファーに腰かけながら、僅かに響き渡る雨音に耳を澄ませる。


「コレット嬢にまで足をお運び頂けるとは、光栄ですな。セルジュも喜んでいるでしょう」


 セルジュお兄様とエリアスの父君であるフォートリエ侯爵は、にこりと口元を歪めてみせる。整った顔立ちの兄弟の父親なだけあって、美形の部類に入るであろう侯爵だが、その端整な笑みは以前の時間軸でも今もどうにも苦手だった。侯爵の親切な言葉の裏には、いつも何かしらの下心があるのだ。


 フォートリエ侯爵家は王国エルランジェの筆頭侯爵家と言っても差し支えないほどの名家であるが、やはり公爵家の我が家とはそれなりの家格の差があった。だからこそ侯爵閣下は、フォートリエ侯爵家をより盤石なものにするためにも、私とセルジュお兄様の婚約を何としてでも実現させたかったのだろう。


「この度はお気の毒でした。コレットもそれはもう悲しんでいて……本当に残念です」


 お父様は眉尻を下げながら、セルジュお兄様を悼んでいた。お父様はとても涙もろい方だから、ここが我が家だったら涙を零していたかもしれない。


「ええ、私も残念でなりません。セルジュが神の御許へ旅立ってしまった事で、我が侯爵家は天使のように愛らしいご令嬢を迎え入れることが出来なくなってしまいましたからね」


 社交辞令のようにも取れるが、多分、それが本音なのだろう。侯爵はセルジュお兄様を可愛がっていたと思っていたのだが、セルジュお兄様の死から一か月が経ったばかりでそんな台詞を吐けることに驚いてしまった。思わずフォートリエ侯爵を睨み上げそうになるが、8歳の令嬢らしく俯いて何とか怒りをやり過ごす。


 それに、と私は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。


 ここでエリアスの話を出してこない辺り、フォートリエ侯爵は本当にエリアスのことをいないものとして扱っているのだろう。打算的な考えに基づくならば、ここでエリアスを紹介して私の婚約者候補として打診するのが自然なはずなのだから。


 あるいは、私の父の怒りを恐れているのかもしれない。愛人に産ませた子どもを、私の婚約者として打診するというのは、一種の賭けでもある。父は人を差別するような人間ではないとフォートリエ侯爵も分かっているはずだが、私絡みになるとどう出るのか見極め切れていないのだろう。だから安全策に走ったということも考えられる。


「セルジュは、亡くなる前日に形見の品をまとめていましてね……。こちらを、コレット嬢にお渡ししたかったようです。受け取って頂けますか?」


 侯爵閣下は、アジュールブルーの布が貼られた小さな箱を取り出すと、蓋を開いて私に見せた。その中には、やはり記憶の中と全く同じ「星鏡の大樹」の葉をモチーフにした銀細工のペンダントが収められている。病に苦しみながらも、セルジュお兄様がどんな思いでこれを私に用意してくださったのかと思うと、じわりと涙が滲んだ。


 おかしいわね、本当に。体感としては10年も前の事のはずなのに。


「……はい、大切にいたします」


 小箱の中からそっとペンダントを取り出して、ぎゅっと握りしめる。セルジュお兄様の形見であるこのペンダントは、きっと今回の時間軸でも私のお守りになるだろう。


 セルジュお兄様、どうか見守っていてくださいませ。


 私は今度こそ、エリアスを幸せにしてみせますわ。


「良かったら、このままバルコニーの方で庭園でもご覧になったらいかがですか。メイドに案内させましょう」


 フォートリエ侯爵は端整な笑みを浮かべながら、視線でメイドを呼び寄せた。恐らく、お父様と二人で話をしたいのだろう。私とセルジュお兄様の婚約話に伴って、何かしらの金銭のやり取りなんかもあったのかもしれない。そのような込み入った話をするならば、確かに子供の私は邪魔者だ。


「コレット、お言葉に甘えて少し庭を見てくるといい。このお屋敷の薔薇がどんな様子だったか、お父様に聞かせておくれ」

 

 お父様は私の灰色の髪をそっと撫でると、いつも通り優し気に微笑んだ。私はペンダントを握りしめたまま、一度だけこくりと頷いて席を立つ。


「お嬢様、ご案内いたします」


 記憶の中と同じメイドが、先導するように私の前に立つ。子どもらしくお父様に無邪気に手を振って、私は応接間を後にした。


 いよいよだ。メイドに悟られないよう、一人静かに呼吸を整える。


 私は今から、エリアスともう一度出会うのだ。


 エリアスを幸せにするための、大切な一歩になることは間違いない。気を引き締めて臨もう。


 そう意気込みながら、私は窓に打ち付ける雨音の中、ゆっくりと歩みだしたのだった。

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