第2話 何を犠牲にしてでもあなたを幸せにしてみせる

「おはよう、ココ。今日もよく眠れたかな?」


「はい、お父様……」


「あら、その水色のドレス素敵ね。やっぱり私の目に狂いはなかったわ」


「ありがとうございます、お母様……」


「おねえさま! 昨日のわたくしの夢には、おねえさまがでてきたの!」


「そう、嬉しいわ、ティナ……」


「……ぼくもおねえさまの夢、見たいな」


「可愛いことをいうのね、フィル……」


 貴族の屋敷の朝にしてはあまりにも賑やかで、ある意味騒がしい光景。お父様とお母様、二つ年下の双子の弟妹、そして私の五人が揃って朝食を摂るのはミストラル公爵家の懐かしい習慣だった。


 エリアスとの結婚が迫るにつれ、彼の狂愛に応えるのに精一杯だった以前の私は、15歳を過ぎたあたりから、自然と家族と距離を置いていた。そのせいで、しばらくこうして家族で朝食を囲むことは無かったのだけれども、本来ならばこれが我が家の「普通」の光景なのだ。ただ、皆、私の記憶より10年ほど若いと言うだけで。


 目が覚めたら自分も世界も10年前に姿に戻っている、なんていう不思議にもほどがある体験に驚く間もなく、私はリズの手によって子供らしい水色のドレスに着替えさせられ、こうして家族の待つテーブルへ連れて来られた次第だ。


 ここへ来る途中にも、私が15歳の時に屋敷を辞めたはずの使用人とすれ違ったり、私が12歳のときにティナとフィルが遊んで割ってしまった、国内に一つしかない花瓶が綺麗な姿のまま飾られていたり、と、ここが10年前の世界なのだと信じざるを得ないような些細な証拠にも巡り会ってしまっている。


 何度今日の日付を聞いてみても、リズの口から告げられるのは私の記憶よりも10年も前の日付だけ。それだけならばリズにからかわれていると思えたが、何分、私自身10年前の体に戻っているのだ。お父様もお母様も、弟妹達も然りだ。


 とりあえず、こうして家族に話を合わせ、何事もなかったかのように朝食を摂っているが、内心は動揺のあまり軽く現実逃避をしていた。賑やかで楽し気な家族の会話も耳に入ってこない。


 ……もしかして、あれは全て夢だったのかしら。エリアスと出会った10年間も、彼と結婚式を挙げたことも。

 

 エリアス、という名を知らないというリズの反応を見ていると、不安になってくる。もしも私のこの記憶が、リズの言う通り鮮明で長いだけの夢だったとしたらどうしよう。エリアスへの愛おしさも、最期の瞬間に感じたあのやるせなさも、全部、全部幻だったというの。


 誰にも気づかれぬよう、そっと胸に手を当ててみる。本当に夢だというのならば、どうして私は今こんなに空しい気持ちで一杯なのだ。あの終わり方は悪夢と言っても過言ではないのに、彼と朝を迎えられなかったことがこんなにも悔しくてならない。


 そっと、なだらかな胸にドレスの上から指を食い込ませる。そう、確かエリアスは、この下でどくどくと脈打つこの心臓を欲しがっていた。ようやく私の心に触れられたのだ、と、幸せそうに笑って私の心臓を抉ったのだ。


 その瞬間、体感としてはほんの数時間前のあの痛みが蘇ってくる。エリアスにナイフで胸を刺され、抉られ、骨を折られたあの感覚が。


「っ……!!」


 思わず、手にしていた銀食器を手放してしまう。磨き上げられた床にナイフが落ちて、乾いた音を立てた。ナイフが陽光を反射して、眩い光が俯いた顔に飛び込んで目が痛む。その光の鋭さが、エリアスの持っていたナイフと重なって、抗う間もなく息が乱れて行くのが分かった。


 痛い、苦しくて悲しくて仕方がない。ぽたぽたと、涙が床に零れ落ちて行く。


「っココ!?」


「お嬢様!?」


 両親とリズの焦る声が聞こえてくる。椅子の上から滑り落ちそうになった私をすかさずお父様の腕が抱き留め、蒼白な顔をしたお母様が私の顔を覗き込んだ。


「コレット!? 一体どうしたの!?」


「おねえさま……?」


 大切な家族に、心配をかけてしまっている。彼らの悲痛な顔を見るのは何より辛いはずなのに、不思議と今、私の胸の内を占めるのは、家族への申し訳なさよりも、エリアスの存在を証明するかのような痛みへの、確かな喜びだった。


 ああ、この痛みは、苦しさは本物だ。決して夢なんかじゃない。彼に、大好きなエリアスに殺されたあの夜は、確かにあったんだ。


 つまり、彼と紡いだ10年間は夢などではないのだ。胸を締め付けるこの愛おしさも空しさも、幻ではない。


「……良かった」


 肩で息をしながら、私は一筋の涙を流しながら思わず呟いた。これは、恐怖から来るものではない。この想いが本物だったことを喜ぶ涙だ。


 そして、何の因果か祝福か、やり直しの機会が与えられたことに感謝する涙でもあった。

 





 慣れ親しんだ私室のベッドで、ぼんやりと天蓋に描かれた絵を見上げる。食事中に急に取り乱した私を心配して、両親に部屋で安静にするように申し付けられたのだ。早速、王国で一番のお医者様が飛んで来るらしい。


 ……懐かしいわ、この感覚。


 我がミストラル公爵家は、とても円満な家庭を築いていた。本当に、貴族としては珍しいほどの温かい家だと思う。ミストラル公爵家の当主であるお優しいお父様、歴史のある伯爵家から嫁いだ美しいお母様、そして可愛く無邪気な弟と妹たち。そんな温かい光の中で、私は幸せに生きていた。


 私は、とても恵まれていたといえるだろう。貴族の令嬢としては規格外の幸せの中で、伸び伸びと育っていたのだ。彼らが私を愛してくれるように、私もまた、彼らを心から大切に思っていたし、それは最期の瞬間まで変わらなかった。


 ただ、私と家族の関係は、エリアスとの結婚式を迎える3年ほど前から変わってしまっていた。少しずつ私は家族の輪から離れるようにして生活するようになり、彼らと共に食事を囲む機会なんて、最後の3年間は殆どなかった。


 そのきっかけは、エリアスが私に向ける愛が重く、受け止めきれないものに変わっていったことが原因だった。私は確かにエリアスに恋をしていたけれど、彼が私に向ける想いは私の恋情の比ではなかったのだ。


 エリアスは、元から寂しい人だった。筆頭侯爵家と言っても過言ではないほどの名家、フォートリエ侯爵家の次男として生まれた彼は、容姿にも頭脳にも恵まれていたけれど、冷めきった人間関係の中で生きることを余儀なくされていた。


 その原因は、エリアスの生まれにある。


 端的に言えば、エリアスは、フォートリエ侯爵閣下の愛人の――正確に言えば、高級娼婦として働いていた女性の――子供なのだ。エリアスは母親の出自を理由に、周囲の者たちから冷遇されていたというわけだ。


 フォートリエ侯爵家には、エリアスの他にもセルジュ様というご子息がいらっしゃった。私もよく遊んでもらった方で、セルジュお兄様と呼んで慕っていたものだ。今になって思えば、私の初めの婚約者候補はエリアスではなく、セルジュお兄様だったのだろう。


 だが、セルジュお兄様は生まれつき体が弱く、ある夏の日に病が原因で神様の御許へ旅立たれてしまったのだ。私が、8歳になってすぐの出来事だった。幼い私は細かな事情は分かっていなかったけれど、セルジュお兄様に二度と会えないことが悲しくて、しばらくは泣き暮らしていたことをよく覚えている。


 それから間もなくして、私はお父様に伴われてフォートリエ邸へ弔問に行くことになった。そこで出会ったのが、エリアスだ。


 それまで、私はエリアスの存在を知らなかった。正確に言えばセルジュお兄様から、母親の違う弟がいる、とは聞かされていたけれど、フォートリエ邸の人々は皆、エリアスの存在を匂わせるような真似は一切していなかった。侯爵閣下でさえも、だ。

 

 エリアスは私と同い年の、黒髪に紺碧の瞳を持った端整な顔立ちをした男の子で、私は彼を見るなり思わず「きれい」と零してしまったものだ。


 ただ、エリアスは確かに天使のように愛らしかったけれど、およそ子どもらしくない暗い瞳をしていたのも確かだ。エリアスのお母様の出自から、侯爵閣下や奥様はおろか、使用人にまで冷遇されて育ってきた結果だった。


 もちろん、8歳の私にそんな複雑な事情が察せられるはずもない。ただでさえ能天気にのびのびと生きていた私は、同い年の友だちが出来たのが嬉しい、というくらいの感覚でエリアスと過ごす時間を増やしていったのだ。


 初めは全く笑わなかったエリアスが、次第に私にだけは微笑みかけてくれるようになったのが、ただただ嬉しかった。あの頃の私は、およそ恋愛感情なんて抱いていなかっただろうけれど、エリアスの傍にいるのが楽しくて仕方が無かった。


 そんな私たちの姿を見て、お父様と侯爵閣下が私とエリアスの婚約を決めたのは、ある意味自然な流れだったのかもしれない。フォートリエ侯爵閣下は以前から我が家との繋がりを欲していたから、まさに渡りに船と言った状況だったのだろう。


 貴族の家に生まれた以上、いつかは婚約するものだと聞かされていたから、その相手がエリアスだと知ったときには心の底から喜んだものだ。見知らぬ誰かの元へ嫁ぐより、親しくしているエリアスの元へ嫁ぐ方が幸せなのは当たり前だ。エリアスもまた、珍しく柔らかい笑みを浮かべると、「君が僕のものになるなんて、夢みたいだ」という、どうにも甘い言葉で私たちの婚約を受け入れてくれていた。

 

 エリアスとは、きっと素敵な恋が出来るだろう。あの頃の私は、そんな予感に胸を震わせていた。


 だが、婚約者となった途端、エリアスは明らかに変わった。事あるごとに、私を繋ぎとめることに躍起になっていたのだ。


 始めは不器用なだけだと思っていたけれど、エリアスの愛は異常だった。私は一度だって「婚約を破棄したい」と言ったことも、エリアスの元から逃げ出そうとしたことも無いのに、彼はどうやら、繋ぎ止めておかなければ、私は逃げて行くものだ、という認識をしていたらしい。


 どこかで、彼にそんな不安を抱かせてしまっただろうか、と私なりに何度も考えた。エリアスに訊いてみたりもした。でも彼は「ココは素敵な人だから、目を離したらすぐに誰かに取られてしまいそうで怖いんだよ」と繰り返すばかりで、具体的な改善案は掴めないままだった。

 

 こういう気質の人もいるだろう。そう思って私も必要以上に深く考え込まないようにしていたが、年を重ねるにつれ、弟妹たちに心配されるような事態になってからは、いつもどうにも拭えない息苦しさがつきまとっていたように思う。


 特に、最後の3年間はそれが顕著だった。


 日に日に強くなる束縛、エリアス以外の男性と話そうものなら即監禁されそうになるほどの執着、いくら言葉で伝えても信じてもらえない私の想い。


 その全てに、きっと私は少しずつ疲れて始めていたのだと思う。最後の3年間は殆どエリアスの言いなりになっていたといってもいい。


 あの頃のエリアスは、私が家族と仲睦まじく過ごすことも耐えられないと私に縋って泣いていたのだ。私の傍にエリアス以外の誰かがいることが、彼は我慢ならなかったらしい。


 今思えば、それはあまりに行き過ぎた束縛だったと思う。それでも私はどうにか彼の涙を止めてあげたくて、自ら家族と離れる決心をした。家を出るような大事には出来ないから、少しずつ少しずつ家族と距離を置くという形で。


 一人になろうとする私を、お父様もお母様もとても心配してくれていた。お茶でも一緒に飲もう、というお父様とお母様のお誘いを断って、お二人の前から立ち去ろうとしたときの、あの寂しそうな顔は今でも忘れられない。


 そんな行動を繰り返す度、私の振る舞いが確かにお父様とお母様を傷つけているのだと分かっていたけれど、あの時の私はそれが正しい道なのだと信じて疑わなかった。


 同時に、婚約者に重すぎる愛を向けられているという事実を、私は家族の誰にも相談できずにいた。弟妹達は気づいていたかもしれないけれど、余計なことは口外しないようにきつく言い聞かせた。


 余計な心配をかけたくなかったのはもちろんのこと、私の身を案じたお父様が婚約を破棄する方向に動き出したりしたら取り返しのつかないことになる気がしていたのだ。それに、結婚して夫婦になればエリアスの心も落ち着くだろうという淡い期待を最後まで抱き続けていたせいもある。


 一人になろうとするのも、息苦しさを自分だけで抱え込もうとするのも、すべてはエリアスを愛していることに由来する必要な犠牲だ。私はそんな言い訳を心の中で繰り返していた。


 でも、と1人小さく息をつく。見慣れぬ幼い掌を見つめながら、妙に感傷的な気分になってしまう。


 今にして思えば、私たちの間にあった感情は、限りなく共依存に近い苦しい愛だった。私はエリアスの重すぎる愛に立ち向かうのが怖くて、逃げていただけなのかもしれない。その結果、私は彼が道を誤るのを最後まで止められなかった。


 こうして落ち着いて考えてみれば、すぐに分かることだったのに。私は軽く膝を抱えながら一人自嘲気味な笑みを零した。傍から見れば、私とエリアスはきっと息苦しい恋人同士だっただろう。それでも私は幸せだと思っていたのだから、恋は盲目という言葉は本当らしい。


 エリアスには、沢山傷つけられた。時には足の腱を切られそうになったり、監禁されたり、怖い思いを沢山させられた。そんな日々が繰り返される中で、私は次第に、エリアスはきっと私の心などどうでもいいのだろうと思い込んでしまっていた。

 

 そのエリアスが、最期の最後に求めたものが、私の「心」だなんて。


 そっと、なだらかな胸に手を当てて、とくとくと脈打つ心臓の動きを感じる。


 彼は、ずっと私の心が欲しかったのか。目に見える形で、私の愛が欲しかったのか。


 心臓に心が宿っていないことなんて、聡明なエリアスは当然分かっていただろう。それを分かっていても止められないほどに、彼は私の愛の確証を欲していたのだ。


 そう思うと、彼に与えられた残虐への恐ろしさよりも先に、あまりに不器用な愛し方しか出来ない彼への憐れみの情が湧いてくる。10年間も彼の傍にいながら、私は彼にあんな残酷な道を選ばせてしまったのだ。あまりの不甲斐なさに、深い後悔の念に囚われてしまう。


 ごめんね、ごめんなさい、エリアス。私は、もっとあなたの心に踏み込むべきだったのだわ。あなたの孤独を、寂しさを、分かち合う努力をすべきだったのだわ。


 ぽたりと零れた涙を拭いながら、私はそっと私室に備え付けられたバルコニーを眺める。あらゆる憂いを洗い流すかのような清らかな陽光が、きらきらと降り注いでいた。


「……綺麗ね」


 もしもあの夜、エリアスが私を殺さなければ、二人でこんな綺麗な朝を迎えられたのかしら。


「……エリアス」


 この時間軸ではまだ出会ってすらいない愛しい人の名前を呼んでみる。それだけで、胸の奥がきゅっと痛むような気がした。


 ここから、やり直せるだろうか。あなたと出会うところから、一つずつ明るい未来に進む道を選べるだろうか。


 正直に言えば、不安は残る。恐らく近いうちに、私は以前の時間軸と同じタイミングでエリアスと巡り会うのだろう。それは、残念ながら彼がこれまで生きてきた環境は変えようがないということを意味していた。


 エリアスの歪みの根本が、私と出会う前の幼少期から育まれていたことは想像に難くない。エリアスを襲う孤独と理不尽は、容赦なく彼の幼い心を蝕んでいたはずなのだから。


 だが、無理だと諦める気は毛頭なかった。私は、出来る限りのことをしよう。彼に寄り添って、彼が幸せになれる道を一緒に探すのだ。


 そのためならば、最終的に私が彼の傍にいなかったとしても、それでもいい。私は誰より寂しくて愛おしいあの人を、ただ幸せにしたかった。


 多分、エリアスはもっと広い世界を知るべきなのだ。彼を愛してくれる人はきっと私の他にもいる。彼の傍に寄り添いたいと思う者は、何も私だけじゃないのだと気づいてほしい。


 何の因果か、折角エリアスと出会う前の8歳の世界に戻ってこられたのだ。思い悩んでばかりいられない。これは、きっと神様が私に下さった最後のチャンスだ。


 私、必ずあなたを幸せにするわ、エリアス。


 まだ出会ってもいない相手に誓うには、大袈裟な言葉だろうか。しかも、一度私を殺した相手の幸福を願うなんて、傍から見れば狂気の沙汰なのかもしれない。


 でも、私は彼を愛しているのだ。彼が幸せそうに笑う姿を、今度は血だまりの中では無く、陽の光の下で見たい。ただ、それだけのことなのだ。


「大丈夫、きっと、今度こそ大丈夫よ」


 自分に言い聞かせるようにして、私は天蓋に描かれた天使の絵を見上げた。今度こそ、私はきっと間違えない。エリアスと向き合うことを恐れたりしない。私からは決して、彼の手を離さない。


 私以外の誰も知らない、誓いの朝だ。降り注ぐ陽光に静かに目を閉じながら、私はそっと指を組む。

 

 今日から、エリアスの幸せを追い求める、新たな日々が始まるのだ。

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