やりなおし公爵令嬢と天使の約束

染井由乃

第1話 汚い僕はただ、君の心に触れたかったんだ

 心臓を抉られた。


 世界の誰より愛している、美しい婚約者の手で。






 そう、それは、10年もの間待ち望んでいた、甘い初夜の始まりに起こった惨劇だった。


 王国エルランジェの公爵家の内の一つ、ミストラル公爵家の長女として生まれた私と、莫大な財産を誇るフォートリエ侯爵家の次男、エリアス・フォートリエの結婚式は、それはもう盛大に行われた。ちょっとしたお祭り騒ぎと言っても過言ではないほどに、王都を賑わせた婚姻だった。


 エリアスとは8歳の時に婚約してから10年間、ずっと婚約者として仲良くやってきた。恋愛なんてわからない子供のころは、まるで友人のような関係だったけれど、年を重ねるにつれ芽生えていった想いは確かに恋心だったと思う。婚約のきっかけは家同士の取り決めであるのだから、政略結婚であることに違いは無いけれど、それでも私はこの10年間ずっと、エリアスのことが好きだった。


 大勢の人に祝福され、王国で一番のお酒と数えきれないほどの料理が並ぶ宴はまるで夢のようだった。この一日限りのために作られた美しい純白のドレスを纏えば、「ミストラル公爵家の失敗作」なんて揶揄される地味な私でも胸を張ることが出来たし、何より、大好きなエリアスの隣で微笑む一日は本当に楽しかった。一生の思い出となる素敵な一日を過ごせたことで、心は満ち足りた気持ちで一杯だ。


 エリアスは相変わらず、社交辞令のような笑みばかり振りまいていたものの、今日も例外なく私にだけは甘く微笑んでくれた。彼は、私との結婚式をどのように感じたのだろうか。


 感想は、これから聞いてみればいいかもしれない。直に日付が変わろうかという時刻を指す置時計をぼんやりと眺め、何となく落ち着かない鼓動を静めるように、そっと胸に手を当てた。恥ずかしくてあまり考えないようにしていたけれど、これから起こることに思いを馳せると頬が熱くなってしまう。


 ゆったりとしたネグリジェに着替えた私は、婚約者――否、夫となったエリアスを、慣れない寝室で待っているのだ。


 エリアスの屋敷であるこのフォートリエ邸は、どこも高貴なアジュールブルーで統一されていて、ワインレッドばかりがあしらわれている私の実家とは対照的な印象だ。繊細な色合いを出すためにお金を惜しまぬこだわりは、どちらの屋敷にも共通していることだった。


 今日から、私はこの屋敷の女主人となるのね。


 ベッドの縁に腰かけながら、ふっと微笑みを零した。


 フォートリエ侯爵夫人。素敵な響きだわ。


 好きな人と同じ姓を名乗れることが、こんなにも甘く幸せな気持ちになるなんて。


 嬉しいことに、エリアスもまた私を憎からず思ってくれているはず――――いや、その表現は少々甘いかもしれない。多少自惚れているように聞こえてしまうかもしれないが、多分、彼はかなり私を愛してくれているのだから。


 そう、時々、彼の愛が怖くなってしまうくらいには。


 不意に、この10年間で垣間見た彼の愛の歪みを思い出して、軽く身震いしてしまう。それを誤魔化すように、メイドのリズが用意してくれていたホットワインに口をつけて、何とか気分を落ち着けようと試みた。

 

 駄目だ、今はそのことを思い出すのは止めよう。何て言ったってこれから初夜なのだ。意味もなく花嫁が怯えていては、エリアスに申し訳ない。

 

 それに、私に異常なほど重たい愛を向けてくるエリアスも、今夜からは多少落ち着いてくれるのではないか、という淡い期待もあった。事あるごとに彼は、私が離れて行くのではないかと不安がっていたけれど、今夜からはその心配もない。彼の妻となり、一日中とは行かなくても、今までよりずっと彼と過ごす時間が増えるはずなのだから。


 銀のカップを傾ければ、ワインの独特の酸味と蜂蜜の甘さが口一杯に広がる。お酒はそんなに得意ではないけれど、蜂蜜入りのホットワインは体が温まって気持ちが安らぐから、眠る前にはもってこいだ。


 もちろん、温かいお酒だから酔いが回るのも早い。普段はお酒に導かれるままに眠ってしまっても何も問題ないけれど、今夜だけは例外だ。一口二口飲み終わると、そのままカップをサイドテーブルに戻した。


 ノックの音が響いたのは、カップから手を離したのとほとんど同時だった。


 「はい」と小さく返事をした後に寝室に入ってきたのは、ラフな白いシャツ姿のエリアスだ。すらりと高い身長のせいか、至ってシンプルな格好をしていても見栄えがする。彼の宝石のような高貴な紺碧の瞳は、相変わらず私だけを見つめていて、出会ってから10年経っても変わらない彼の愛を感じた。


 10年も婚約者をしていれば、彼の気の抜けたところも当然のように沢山見ているけれど、今夜ばかりはシャツからちらりと覗いた首筋を見ただけで、どうにも緊張してしまう。


 当然ながら、緩んだ格好でもエリアスの端整な顔立ちは変わらなくて、それどころか公の場に出ているときには無い蠱惑的な雰囲気を纏わせているから困る。湯浴みの後だからか、少し乱れた艶のある黒髪も相変わらず綺麗で、彼の色気に当てられた私は思わず視線を逸らした。


 すっかり動揺してしまった私は、緊張で震える指を誤魔化すように、肩に羽織っていた淡い青のストールを体の前でぎゅっと合わせた。私が身に纏っている白いネグリジェは、厚手の絹地にレースが幾重にも重ねられている優雅なもので、決して扇情的なデザインではないのだけれども、何となく恥ずかしかったのだ。


「待たせたかな、ごめんね。ココ」

 

 彼は私の婚約者になったときからずっと、私のことを「ココ」という愛称で呼ぶ。もう慣れたことだから構わないのだけれども、愛称で呼ばれると子ども扱いされているようで何だかくすぐったかった。


 エリアスとは同い年なのだが、彼は昔から年に合わない大人びた表情をする人だった。それは、18歳になった今でもあまり変わらない。その象徴である、どこか達観したような紺碧の瞳はとても静かで、私はいつも魅入られてしまうのだ。


「大丈夫、ホットワインを飲んでいたの」


 サイドテーブルに置いた銀のカップを揺らして笑いかければ、エリアスもふっと微笑み返してくれた。あまり人前で笑うことのないエリアスだけれど、私の前ではこうして微笑んでくれる。それが、私に心を許してくれている何よりの証のような気がして、いつだって少しの優越感と甘ったるい幸福感に酔いしれてしまうのだ。


 それくらい、私はエリアスが大好きだ。もっとも、当の本人は私のその気持ちをなかなか素直に受け取ってくれないのだけれども。


「ココはお酒に弱いから、あまり飲みすぎると眠ってしまわないか心配だな」


 笑みを含んだ声に少しの甘さを溶け込ませて、エリアスが私との距離を詰める。ぎし、とベッドがきしむ音がした。彼がベッドに乗り上げて、そっと私の髪を梳いたのだ。


 髪を梳くくらい、私たちにとっては日常茶飯事だというのに。それなのにこんなにも胸が高鳴るのは、きっと妙に雰囲気のある薄暗い照明と、初夜なんていう特別なこの状況のせいだ。エリアスの綺麗な紺碧の瞳に映り込んだ私は、いつになく頼りなさげに見える。


「甘い香りがする」


 エリアスはそっと私を抱き寄せながら、何の前触れもなく額に口付けてきた。これも、私たちにとっては挨拶と同じくらい慣れたことなのだけれども、やはり戸惑いを隠せない。私ばかりが緊張して、いつも通りに振舞うエリアスをどこか恨めしく思ってしまうほどだ。


「さ、さっきリズに薔薇の香油をつけてもらったからかしらね。何でも、とても貴重な薔薇からとれたものらしいわ」


 ぎゅっと引き寄せられる感覚に身を固くしながら、他愛もない話をして緊張を解そうと試みる。だが、エリアスは私の意図を汲んではくれなかったようで、ゆっくりと私をベッドに押し倒した。


「いや、これはココの香りだよ。とても甘くて、安心する」


 私の首筋に顔を埋めながら、大好きな優し気な声でそんなことを囁かれたら、心臓が破裂してしまいそうになる。本当に、服の上からでも拍動が分かってしまうのではないかと思うくらいの暴れようだった。


「っ……エリアスは、緊張しないの……?」


 涙目になってそんなことを問いかければ、エリアスは少しだけ私から顔を離してゆっくりと微笑んだ。


「緊張? どうして? 今日から君は僕のものなんだよね?」


 あまりにも直球な物言いに、一気に頬に熱が帯びるのが分かった。エリアスは、こういうことをさらっと言ってのけるからいけない。いつまで経っても慣れない私も悪いのかもしれないが。


「っ……そ、そうね。そういう表現をすることも多いわよね」


 そんな誤魔化しを口にすれば、エリアスはにこりと綺麗な笑みを見せた。私の前では微笑むことが多いエリアスでも、ここまでの笑みを見せるのは珍しい。エリアスを囲んで黄色い声を上げるご令嬢たちが見たら、卒倒しそうな甘い笑みだ。


「じゃあ、何も緊張することなんてないよ。僕は10年間ずっと、君に触れられるこの瞬間を待っていたんだから。……ようやく、安心できる気がする」


 エリアスは私の髪をそっと梳くと、続けて頬を撫でた。相変わらずその整った目元には甘さが漂っていて、見つめられた私は頭の中まで熱を帯びてしまいそうだ。今夜のエリアスは、随分とご機嫌らしい。


 ……それくらい、私と結婚することが嬉しいのかしら。


 そう思うと、エリアスへの愛おしさで心の中が満たされるような気がした。彼の望み通りの夜になるかは分からないけれど、一生懸命彼に応えよう。そんな決意を込めて、私もエリアスの頬をそっと撫でた。


 エリアスはくすぐったそうに軽く目を閉じて微笑んだかと思うと、ゆっくりと紺碧を露わにして私を見つめた。だが、その美しい紺碧の瞳の中に、先ほどには無かった仄暗い何かがある気がして、思わず目を見張る。


 この10年間、その目は何度も、何度も繰り返し見てきた。


 彼が、そんな仄暗い目で私を見るときは、決まって私が「悪いこと」をしたときだった。そう、私が他の男性と話したり、エリアス以外の誰かに笑いかけたりすると、彼は虚ろな眼差しで私を静かに絡めとり、冷え切った微笑みを見せるのだ。その後に待ち受けているのは、いつだって、思わず息が止まりそうになるほどの苦しい時間だった。


でも、どうしてこの幸せの真っ只中でそんな目をするのだろう。私のどの言葉が気に食わなかったのか、とエリアスに悟られないように思考を巡らせる。


「ココ、君が僕のものだというのなら、何をしてもいいよね? ねえ、ココ?」


 思わずごくり、と息を飲む。この状況を鑑みれば、恐らくとてつもなく甘い言葉のはずなのに、今までとは違う意味で脈が早まっていく気がした。10年の間に得た直感が、警鐘を鳴らしている気がする。


「そ、そうね……。あまり酷いことをされては、泣いてしまいそうだけれど」


 曖昧な笑みを浮かべて違和感を誤魔化せば、エリアスはそんな私の動揺を見抜くように端整に微笑んで見せた。


「僕が君に酷いことをするなんて、あるわけないじゃないか」


「……そう、ね。もちろん、そんなこと思ってないわ」


 思い出したくもないのに、この10年間の出来事が蘇る。彼に丸一日閉じ込められた温室の花の香りや、私の首筋に残った執拗なまでの赤い執着の証を思い出して、思わずびくり、と肩が震えそうになった。


 違う、あれは、私が、エリアスを不安にさせてしまった私が、悪かっただけ。エリアスは何も悪くない、悪くないの。

 

「ずっと……ずっとこの夜を待っていたんだ。君の心に直接触れたいって、僕のものだけにしたいって。だから、いいよね、ねえ、――」


 突然の「コレット」呼びに驚く間もなく、エリアスの大きな手が、不意に私の左胸の上に置かれる。


心臓これ、僕にちょうだい?」


 そう言ってエリアスが取り出した銀色のナイフを前に、私は一瞬言葉を失ってしまった。


 その銀色は、こんな薄暗い照明の中でもそれは鋭く光っていて、なるほど確かに心臓くらい簡単に取り出せそうね、なんて現実逃避をしてしまう。そんな風に最大限に目を見開いて狼狽える私を、エリアスは相変わらず仄暗い瞳で見下ろして笑っていた。


「っ……何の、冗談? エリアスったら……ちょっと怖いわ」


 ちょっと、なんて嘘だ。本当は今すぐ逃げ出したいくらいの恐怖に駆られている。現に私の指先は細かく震えていた。無理やり作った苦笑いも、どうやったって引きつってしまう。


「コレットもよく知っている通り、僕は冗談は苦手なんだ。大丈夫、あっという間に終わるよ。僕だってすぐにコレットの後を追うから、君に寂しい思いもさせない」


 エリアスは微笑むようにそう告げた。物騒な台詞を吐いているとは思えないほど爽やかな笑みだ。いつまでたっても引っ込む気配のない銀色のナイフを前に、いよいよ身の危険を感じ始める。


「待って、エリアス、落ち着いて。私が何かしてしまったなら気をつけるわ、話だって聞く。だから、まずはそのナイフを下ろして欲しいの」


 その言葉とともにゆっくりと彼と距離を取ろうとしたが、それは彼の手によって阻まれてしまった。エリアスに腕を掴まれたまま、呆気なく再びベッドに押し倒される。そのまま間髪入れずに、エリアスが私の上に馬乗りになったことで、私は完全に身動きが取れなくなってしまった。


「話すことなんて何もないよ、可愛いコレット。ただ、君はこの世界で生きるにはあまりに綺麗すぎる。それだけのことだよ」


 エリアスはそっと私の頭を撫でながら、縋るような瞳で続けた。


「僕は君を守ってあげなくちゃいけない。僕以外の奴らの視線から、声から、汚い思惑から……。そのためには、誰の手も届かない場所に行くのが一番だよね? そうしたら、君は僕だけのもので、君が僕以外に笑いかけるなんていうおぞましいことも無くて……」


 なんて、言い訳に過ぎないのかな、とエリアスは泣きそうな表情で笑った。エリアスの長い指に、私の灰色の髪が絡まる。


「……ねえ、コレット、もう耐えられないんだ、君が僕以外の誰かと会話をするのも、社交界の奴らの汚い視線に晒されるのも……。君の傍にいたいのに、汚い僕は君の隣で息もできないんだよ。苦しくて、苦しくて苦しくて仕方がないんだ」


 何を、言っているのだ。生まれはともかく、社交界で貶され馬鹿にされているのはエリアスではなく私の方なのに。美しいと賞賛を受けるのは、いつだってエリアスの方なのに。


「だから、分かってくれるよね? 優しいコレットなら、いいよって笑って許してくれるよね?」


 私に反論の余地すら与えずに、私の腕を押さえつけるエリアスの手に力がこもる。今更ながら、男女の力の差を思い知ってぞわりと皮膚が粟立った。


 エリアスは、本気だ。本気でナイフを私に振り下ろそうとしている。その本能的な直感に、思わず私は叫んでいた。


「いやっ!! 誰かっ――――」


 助けを呼ぼうとしたその声は、あっという間にエリアスの左手によって塞がれてしまった。口元の圧迫感に思わず涙目になりながらエリアスを見上げれば、彼はどこか満足そうに笑みを深める。こんな状況だというのに、嫌に色気のある表情だった。


「初夜なのにそんなに大きな声を出すなんて、はしたないよ、コレット」


 ごく自然に嗜めるような物言いに、ますます恐怖を感じてしまう。小さく身を震わせながら、何とか首を横に振って拒絶の意を示すも、目の前の彼には届いていないようだった。


 エリアスは私の大好きな人なのに、怖い。怖くて仕方がない。


「本当にすぐだから、怖がる必要なんてないよ。僕を愛しているんだろう? それなら、僕を救ってくれるよね、ね? コレット」


 瞬間、胸に突き立てられる鋭い銀色と鮮烈な痛み。赤色、そう、薔薇の花弁のような鮮やかな赤が飛び散っていく。その光景が、嫌にくっきりと目に焼きついた。


「っ――――!!!!」


 悲鳴は、エリアスの手で口を強く押さえつけられたせいで、彼の手の中へ消えていった。ぼろぼろと涙を流しながら、痛みのままに全力で手足をばたつかせる。私の口を押さえるエリアスの手に思わず噛みつくも、彼が手を引くことはなかった。身をよじってみても、エリアスが馬乗りになっているせいでとても自由になどなれない。


 嫌だ、何、これ。いやだいやだ、お願い、やめて、離して、エリアス。


 頭の中を埋め尽くすのはそんな情けない言葉ばかりで、怒りを覚える余裕も気力もなかった。ただ、焼けるような胸の痛みに耐えながら、「助けて」と必死に視線で訴えかける。その声無き声は確かにエリアスに届いているはずなのに、彼は返り血を浴びたまま、いつになく幸せそうに微笑むばかりだった。


「僕はコレットのどんな表情でも好きだけど、やっぱり君は泣いてる顔が一番可愛いと思うよ。涙も綺麗だし、苦しそうな息の音をいつまでも聞いていたい。……まあ、それもすぐに終わっちゃいそうだけどね」

 

 いつもと何ら変わらぬ調子でそんな言葉を紡ぎながら、エリアスはナイフを動かし続けていた。そのたびに苦痛に歪む私の表情は見えているはずなのに、エリアスは憐れむどころか、言葉通り満足そうに笑みを深めていくばかりだった。


 胸の骨が、ぎしぎしと軋む音がする。ぱきぱき、ぱきぱき、と、いとも簡単に折れて割れて粉々になっていく。


 人の体って、案外脆い、脆くて、儚い。


「コレットの肺は、チョコレートケーキみたいで美味しそうだね。食べてみたら甘いのかなあ……」


 おぞましいことを言われているのは分かっている。でも、もう、意識が溶けて揺らいで消えてしまいそうだ。いつの間にか涙も流れなくなって、視界もどんどん霞んでいった。


「ああ、コレット、これでようやく――」


 最後に感じたのは、胸の奥に押しつけられる彼の手の感触。多分、それが私の死の瞬間だった。


「――僕は、君の心に触れられたんだね」


 それはきっと、死の後に紡がれた彼の言葉。とてつもなく幸せそうで、そしてどこか寂し気な声音。


 肺に溜まっていた血を小さく吐き出したのを最後に、私は――――。











 ――――私は、額から汗を流しながら飛び起きたのだ。


「っ…………!!!!」


 声にならない悲鳴を上げ、胸を押さえながら肩で息をする。ただでさえ豊かとはいえない胸元が、いつもより余計に寂しい気がしたが、ぽたぽたと滴り落ちる汗と早まるばかりの脈を前にしては、気に留める余裕もなかった。


「エリアスっ……!?」


 咄嗟に、辺りを見渡す。私の上に馬乗りになっていたはずの彼の姿は、どこにも無かった。

 

 目に入り込もうとする汗を手の甲で拭いながら、何度も深呼吸を繰り返す。


……あら、私、いつも通りに呼吸が出来ているわ。


痛んでいると思っていた胸も、ネグリジェの上から触る限りではなだらかだ。とても、エリアスの凶行で切り刻まれた肌だとは思えない。

 

 ……もしかして、悪い夢を見ていたのかしら。


 落ち着いて考えてみれば、そう考えるほうが納得がいった。馬鹿げている、いくら歪んだ部分のあるエリアスだからといって、妻である私を殺すはずないのに。


 そうひとりでに納得し、ぽすん、とクッションに身を投げ出した。思ったよりも軽い反発が返ってきて、何だか落ち着かない。


 どうやら、もう朝になったようだ。いつからか私は眠っていたらしい。もしかすると、あのホットワインを飲んだせいで寝てしまったのかもしれない。


 だとしたら、エリアスに悪いことをしてしまった。彼のことだから笑って許してくれるとは思うけれど、初夜をすっぽかした上に愛する夫に殺される夢を見るなんて、花嫁失格だ。


「……本当、馬鹿げてる」


 自嘲するように呟いたその声はどうにも幼くて、押し殺してきた違和感が一気に浮き彫りになる。


私、こんな声をしていたかしら。……いえ、お酒のせいで、少し耳の調子が悪いのかもしれないわ。


 そう思いながら何気なく見上げたベッドの天蓋には、よく天使の絵が描かれていた。あれは、この世界を守ってくださっている「星鏡の大樹」に宿る天使で、お父様が有名な画家の先生に無理言って描いていただいたんだっけ。私が夢の中でも限りない祝福に包まれるように、とのお父様の優しさが込められた贅沢な逸品だ。


 愛する人に殺される夢を見ていては、お父様の願いも空しいばかりね。改めて自分の見た悪い夢を嘲笑うように小さく微笑んで、はた、と気づく。


 ……天蓋に描かれたこの絵は、私の私室にあるはずのものだわ。エリアスの屋敷にあるはずないのに。


 それに、私がエリアスを待っていたあのベッドはもっと広く、天蓋から垂れ下がるカーテンにはアジュールブルーがあしらわれていたはずだ。だが、今、私の目の前で軽くまとめられているカーテンは、よく見慣れた赤い色。ミストラル公爵家の皆が持つ瞳と同じワインレッド。


「……どういうこと?」


 まさか、初夜の失態のせいで早速実家に送り返されたのかしら。エリアスがそんなことをするはずないと分かっているけれど、それならばどうして私は実家のミストラル公爵邸にいるのだ。


 あまりに状況が理解できなくて、そっとベッドから足を降ろす。とにかく、誰かに事情を聞かなければ。


 だが、ベッドから降ろされた自分の足の小ささに、私は思わず目を見張った。


 決して、華奢な体つきを自画自賛したわけではない。いや、これは華奢だとかいう問題ではなくて、ただ単に――――。


「あら、おはようございます。コレットお嬢様。今朝はご自分で起きられて偉いですね」


 昨夜、エリアスの寝室に蜂蜜入りのホットワインを運んできてくれたリズが、随分若い姿で私に近寄ってくる。近頃では大人の女性らしく綺麗に結い上げることが出来るようになっていたはずの茶色の髪は、肩のあたりで切りそろえられていた。


 しかも、自分で起きられて偉いなんて。突然私を甘やかしたりなんかしてどうしたのだろう。私は、エリアスと婚約した次の朝から毎朝自分で起きているというのに。


「……エリアスは?」


「え?」


 私の顔を洗うために水の張った桶をサイドテーブルに置いたリズは、耳慣れない言葉を聞いたとでも言うように小首を傾げた。その様子に、妙な焦燥感を覚えてしまう。


「っ……エリアスよ! 昨日結婚したじゃない!」


「えっと……私が、ですか?」


「リズはもう何年も前に結婚しているでしょ! 私が、よ!!」


 リズは、私が14歳のときにミストラル公爵家専属の庭師と結婚しているはずだ。使用人用のハーブやら野菜やらを植えている菜園に、彼女の夫はそれは美しい向日葵を咲かせるのだと喜んで話してくれたじゃないか。


「お嬢様……? 一体、どうされたのです?」


 リズの表情が途端に怪訝なものに変わる。彼女は軽く跪くようにして私の前に屈みながら、心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「どうしたもこうしたも無いわ……。私、エリアスの屋敷にいたのよ。でも、初夜の務めを終える前に寝てしまって……」


「それは……随分、お年に似合わぬ夢を見られたのですね。また、背伸びした小説でもお読みになりましたか?」


 からかうようにリズに笑われて、いよいよ訳が分からなくなる。まるで子供をあやすようにくすんだ灰色の髪を撫でられて、思わずぽつり、と尋ねてしまった。


「……ねえ、リズ。私、昨日結婚式を挙げたわよね。もう、エリアスの所へお嫁に行ったのよね」


 やけに小さくふわふわとした手を眺めながら、どうか夢であってくれと願った。リズはやはり少し訝しむような表情を見せたが、静かに口を開く。


「お嬢様、もうになられたというのに、夢と現実の区別もついていないようでは旦那様も奥様もご心配なさりますよ。エリアス様……という方は存じ上げませんが、お嬢様の夢の中のご友人でいらっしゃいますか?」


 リズは、至って真剣そうに、そして訳の分からぬことばかり口にする私を心配しているとでも言うように、鳶色の瞳で私を見ていた。


 私はぺたり、と靴も履かずに冷たい床の上に降り立って、ふらふらとした足取りで、鈴蘭の飾りがついた姿見の前に歩み寄る。


 真っ白いネグリジェから伸びる、白く短い手足、低い背、胸のあたりまでしか伸びていないくすんだ灰色の髪。


「リズ……私、今、8歳なの……?」


 自分でも驚くほどに気の抜けた声が出た。リズはやはり私がまだ夢と現実の境目にいると思っているのか、小さく苦笑いしながら私の傍に近寄ってくる。


「もう、今朝はどうされたのです? つい先日、盛大にお誕生日をお祝いしたではありませんか」


 リズは私に嘘をつかない。そんな器用なことは出来ないメイドなのだ。だからこそ、彼女の口から紡がれる言葉の流暢さが、これが現実なのだと私に言い聞かせているように思えてならない。


 幼さを十分に残した丸い頬にそっと触れながら、私は鏡の中の深紅の瞳に向かって思わず呟く。


「……ああ、本当……馬鹿げているわ」


 軽く笑うように言ったつもりなのに、その言葉には戸惑いというにはあまりに大きな衝撃が溶け込んでいた。


 よく見慣れた、懐かしさを感じる幼い私が鏡越しにふっと微笑む。


 どうやら私も世界も、あの残酷な初夜から10年前の朝に戻って来てしまったらしい。

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