第32話「夢の中の幸せ」






   32話「夢の中の幸せ」






 千春の行動力は早かった。


 秋文がスペインチームへ加入が決まった事がわかった時もそうだ。

 すぐに会社に異動届けを出して、引っ越しの準備もした。

 忙しくしている間は秋文の事を忘れられたので、きっと離れても大丈夫だと思っていた。

 けれど、離れる直前はとてもつらくて、自分でも泣かなかった事を褒めたかった。もし、あそこで泣いてしまっていたら、今はどうなっていたのだろうと考えてしまう。



 そして、今も会社にすぐに長期の有給の届けを出した。普段休みもほとんどなかったし、日本にも帰れと言われても帰らなかったので、上司はすぐに休みを受理してくれた。


 

 日本に戻ってからまた、スペインに行こうかと思っていたので、かなりのハードスケジュールになるだろう。

 そう思っていた時だった。



 『世良さん、お電話です。』


 

 日本に戻るまであと2日という時だった。

 会社に千春宛の電話が来た。取引先の相手だと思いつつも、千春は『どちらからの電話ですか?』と電話を受け取ったアメリカ人の男性社員に聞いた。

 すると、その社員は困った顔を浮かべた。



 『日本語を話してるんですけど、とても急いでるみたいです。……世良千春を出してくれと言っていました。』

 『わかりました。』

 


 日本の取引は、今は担当してないのにな、と不思議に思いながら、「はい。お電話変わりました世良です。」と言った瞬間。聞き覚えのある声が、耳に入る。



 『やっと話せた!千春、なんで電話に出ないのよ!!』

 「立夏!?ちょ……なんで、この会社に電話掛けてくるの?」

 『あなたがメッセージの返事くれないからよ。それより………。』

 「ちょっと待って!これ職場の電話だから、スマホから掛けなおすから待ってて。」



 驚きながらも、そう言って電話を切った。電話口で立夏が何か言っているのが聞こえたけれど、とりあえずは無視をした。

 上司に「日本からの急ぎの用で電話をする。」と断りを入れてから空いている会議室に入った。

 そこで立夏に電話をするとワンコールで出てくれた。



 「立夏お待たせ。そして、連絡出来なくてごめんなさい…………。」

 『ほんとよ!みんな心配してるのよ!ったく、秋文は無視してもいいけど、私や出の連絡は出なさいよ。』

 「ごめんね。……なんだか、秋文の話聞くの怖くて。」

 『怖い?……って、今日電話したのはそんな事を言いたかった訳じゃないの。千春、秋文の事で伝えたいことがあるの。』

 「え………。」



 急に真剣な口調になった立夏の態度に、千春は怖くなる。きっと、いい話ではない。それが伝わってくる。秋文に何があったのだろうか。


 聞きたいけれど、聞きたくない。

 そんな矛盾の葛藤で胸をドキドキさせなから、立夏の言葉の続きを待った。



 『秋文が練習中に足を怪我したの。』

 「え、そんな…………。ねぇ、秋文は?秋文は大丈夫なのっ?!」

 『千春、落ち着いて。』



 サッカー選手にとって足の怪我は大きな問題だ。

 今怪我をしてしまったら、せっかく日本代表に選ばれたのに、メンバーから外されてしまう事も考えられるのだ。それを考えたら落ち着いてなどいられるはずがない。



 「せっかく、日本代表に選ばれたのに……そんな事ってないよ……。」

 『その事は知っていたのね。千春、秋文は2か月安静にしてたら大丈夫だって事だったわ。』

 「そう、なんだ………よかった。代表メンバーは?」

 『たぶん、大丈夫よ。練習がスタートするまでは時間があるわ。』

 「よかった……。」



 1番の気がかりだった事が大丈夫だと知って、千春は大きく息を吐いた。

 けれども、それでも秋文の事が気になってしまう。今は病院にいるのだろうか、それとも練習に参加しているのか……。聞きたいことはいろいろあった。



 『それでね、秋文なんだけどメディアには内緒で帰国してるの。足の治療と体を休めるためにも自分の国に帰った方がいいと、監督の意向らしいんだけど。メディアには、代表選手のミーティングと練習のためってなってるみたい。でも、それもそのうち嘘だってバレると思うけど、とりあえず帰国する時は静かに来れたみたいよ。』

 「秋文はもう日本にいるの?」

 『えぇ。私はまだ会えてないけど、そうみたいよ。…………千春はどうする?』



 立夏は心配そうにそう聞いてきた。

 きっと千春と秋文の事情は大体知っているのだろう。それでも詳しく聞いてこないのは、2人で解決するべきだと思っているからだと、千春はわかっていた。


 秋文の怪我はとてもショックな事だった。

 けれども、千春が帰国するタイミングと合ったのは奇跡のようだった。



 秋文はあの部屋にいるんだ。

 それを知っただけでも、すぐに飛行機に乗って飛んで行きたかった。

 

 けれども、不安が大きい。

 どんな結果になっても、彼に会って話しをすると決めたはずなのに、それさえも迷ってしまうぐらいに彼から話しを聞くのが怖くて仕方がなかった。



 だけれど、それで立ち止まっていたらまた、後悔する。それも千春自身が十分すぎるほどわかっている事だった。

 逃げない、そう決めたのだ。




 「立夏。私ね、ちょうど2日後に日本に帰る予定だったの。」

 『え!?そうだったの……?それって……。』

 「うん。秋文と話がしたくて。本当はそのままスペインに行こうって思ってたんだけど。怪我は本当に悲しいけど、でも、タイミングが良かったみたい。」

 『そう、ね。………ちゃんと会って話せるといいね。』

 「ありがとう、立夏。」



 電話を切る前に、もう一度今までの謝罪をしてから、通話を終えた。


 上司に知り合いが怪我をした事の連絡だったと伝えると、1日早めに日本に帰ってもいいと言われたけれど、それは断った。

 仕事を放り出す事はしたくなかったし、ゆっくりと自分の気持ちを整理してから秋文に会いたかった。



 でも、家に帰るとそれを後悔してしまった。

 一刻も早く秋文に会いたかった。

 自分以外に好きな人が出来ていたことを考えて行けば、傷つくのは少しで済むはずだとわかっていた。

 けれど、彼に優しく抱きしめられてキスされる事を考えてしまう。秋文は怪我をして大変な思いをしているのに、自分は何を考えているのだろうかとも思う。


 そんな風に考えながらも、千春は大切な鍵を握りしめながらベッドの中で眠りについた。



 何故か秋文の香りがしたような気がして、千春は胸がキュッとしめつけられる思いがした。

 きっと夢の中では、昔のように笑顔で抱き合って眠る夢を見れるだろう。


 もう何年も見ていない彼の笑顔を夢見て、千春は目をぎゅっと閉じた。





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