第31話「返事と決意」
31話「返事と決意」
和食店から出ると、いつものように優しく微笑みながら、塚本は話を掛けてきた。
「世良さん、あと1カ所だけ付き合ってもらっていいかな?」
「……はい。どこに行くんですか?」
「着いてからお楽しみだよ。」
千春の和食屋さんの亭主からもらった新聞をバックに入れていると、塚本が強引に千春の手を掴んだ。
そして、先ほどよりも冷たく手で強く千春の手を握ると、足早に目的地に向かった。
男の人の1歩と女の1歩は、全く長さが違う。塚本は千春が小走りになっているのにも構わずに、ズンスンと歩いていく。
焦っている様子だったので、店を予約していくものなのか、閉店の時間なのか、と考えて黙って彼の後についていった。
街から離れていき、会社がある方向に向かっていた。そして、彼が入ろうとした場所はおしゃれなマンションだった。
さすがに、千春も不審に思い塚本に問いただした。
「あの、塚本さん。目的地って、ここですか?……ここは……。」
「そうだよ。」
「ここって………。」
「僕の部屋だよ。」
素早く鍵を開けて、塚本はドアを開けて部屋に入る。もちろん、千春と繋いだ手を離すことはしない。「離してくださいっ!」と千春も抵抗するけれど、男の人の力に敵うはずもない。
引かれるままに、ずるずると部屋に入れられてしまう。
そして、ドアがバタンと閉まった瞬間に、彼に抱きしめられる。
「塚本さんっ!だめです、離してください……っっ!」
「俺、世良さんが好きだって話したよね?………それなのに、まだあの男がいいの?」
「………塚本さん………。」
「頼ってもいいとは言ったけど、全く恋愛対象として見てくれてないの?俺だって男だよ?いつまでも我慢して紳士でなんていられない。」
「やめっ…………っっーー!」
玄関のドアに体を押し付けられ、両腕を塚本の片手で押さえられる。抵抗することも出来ずにいると、塚本の顔が近づいてきた。
顔を背けようとするけれど、それも空いている手で止められる。
そのまま、押し付けられるような荒々しいキスを塚本にされてしまう。
何回も何回も唇を奪われていくうちに、体に力が入らなくなり、ずるずるとドアに寄りかかりながら体を落としてしまい、ついに千春はペタンと座り込んでしまう。
それでも、塚本は攻めることを止めずに、唇や頬首筋に舐めるようにキスを落としていく。
顔も髪も体格も、秋文に似ている。
優しくて、頼りがいがあって、笑顔が素敵な塚本さん。拒む必要はないはずなのに、体の力が抜けても、安心もせず気持ちいいとも思えなかった。
ただ彼が与える、体温と唇や指の感触を感じているだけだった。
また、男の人に甘えてしまった自分がいけなかった。そして、秋文も信じて待っていられなかった。
自分は弱いなと情けなくなる。
塚本は何も悪くない。
全て自分のせいだ。
そう思って、彼の熱を受け入れようと、呆然と彼の行為を見つめていた。
そのはずなのに、ふいに頬に温かさを感じた。
「え…………。」
千春は、自分でも驚いてしまう。
瞳からボロボロと涙が流れ始めたのだ。
受け入れると決めたのに、どうして泣いてしまうのだろう。
そんな事は疑問でもなかった。すぐにその理由はわかってしまう。
千春は、まだ秋文が好きなのだ。
諦めきれなくて、名前を聞くだけで会いたくなるぐらいに好きなのだ。
「………世良さん。泣いているの?」
「ご、ごめんなさい………。イヤとかじゃなくて、あの………私………。」
「…………うん。」
先ほどまで焦って怖い表情を見せていた塚本の顔が、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
それは、千春が泣いたことで元に戻ったのかもしれない。それとも、自分の気持ちを知りたいと思っていたのかもしれない。そんな風に千春は思った。
「塚本さんに、優しくしてもらって秋文の事忘れたいって思ってました。……塚本さんと一緒なら、楽しいし、甘えさせてくれるし、優しくしてくれるし、幸せになれるって思ってたんです。」
「うん………。」
「……でも、さっき新聞で秋文の名前を見ただけなのに、一気に愛しさが体から溢れてきて涙が止まらなかった。私、まだ秋文の事が好きなんだって………ただ、気持ちを隠してただけなんだってわかったんです。彼にふられるのが怖くて、逃げてただけなんです。………秋文に彼女がいたとしても、私はまだ、秋文が好きなんです。」
塚本に握られていた腕は、いつの間にか解放されており、千春は首元にある桜のネックレスを片手で握りしめた。冷たいはずの金属なのに、ほのかに暖かさを感じた。
「はぁー…………もう少し早く君に迫っていれば、成功したのかな。………残念だよ。」
「ごめんなさい。………いつも頼ってばっかりで。」
「もともとダメ元だったし。やっぱり一色選手には敵わないねー。」
「そんなことないです。秋文は俺様だし、思ってること隠したりするし……。」
「だけど、好きなんでしょ?」
「………はい。」
千春が困ったように頷くと、塚本は優しく微笑み返した。やはりこの人は、本当に素直で可愛い人だと千春は思った。
「でもね、さっき世良さんが俺といて楽しいし、幸せになれるって言ったでしょ。あれ、すごく嬉しかったよ。俺も君といて楽しかったから、それは本当なんだって思った。」
「………本当です。だから、塚本さんと一緒にいたんだと思います。」
「ありがとう。千春ちゃん?」
嬉しそうに、そして初めて塚本が千春を名前で呼んだ。
本当なら責められることをしたはずなのに、彼は微笑んでお礼を言ってくれる。
彼の優しさが伝わってきて、また涙が出そうになった。
塚本は「無理矢理しちゃってごめんね……。」と謝りながら、乱れた服を直して、ゆっくりと千春を立たせてくれた。
千春が立ち上がって、塚本を見上げて「ありがとうございます。」というと、彼はじーっと見つめた。
「しっかり言葉で伝えておくね。………世良千春さん、好きです。俺と付き合ってくれませんか?」
「…………ごめんなさい。好きな人がいるので、お付き合い出来ません。」
千春がそう答えると、塚本と千春は小さく微笑みあった。
「もう1回だけ抱き締めてもいいかな?これで、最後にする。」
「…………はい。」
そう言うと、塚本はゆっくりと大切なものを壊れないように抱き締めるように、千春を優しく抱きしめた。
「本当に好きになっていたんだ。」
「…………ありがとうございます。」
しばらく塚本の体温を感じた後、体がゆっくりと離れていく。恥ずかしそうに、顔を見つめる。
すると、不意に塚本の唇が一瞬千春の唇に触れた。
本当に短いキス。
塚本は、得意気に「最後にキスも貰っておくね。」と笑った。
そんな茶目っ気のある彼を見ていると、千春は心がホッとした。
彼と付き合うことはなかったけれど、もし別の時間、別の場所で会っていたら、千春が好きになっていたのかもしれない。
そんな風に思うぐらいに、魅力的な男性だ。
塚本は、手を繋いで千春を家まで送ってくれた。
手を繋ぐのも最後にするから、と楽しそうに、そして少し寂しそうに言った。
部屋の前で別れた後。
千春は、少しだけ気持ちが晴れ晴れとした。
自分の気持ちに気づいたのだ。
もう少しで3年が経ってしまうけれど、それでも秋文への想いに気付いたのだ。
彼はもう自分の事は忘れて、違う人を思っているかもしれない。
そう考えると切なくて寂しくて泣きそうになる。
けれど、まだ何も終わっていないのだ。
彼に会って、話をしよう。
ベッドのサイドテーブルにいつも置いてある秋文の部屋の鍵。
それを見つめながら、千春は強く心に決めた。
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