第8話 浮かんだ顔

「キャァァァァ!!」

 大林と向井はエレベーターを降りた直後、廊下に響いてきた悲鳴に顔を見合わせる。が、それも一瞬のこと、2人の職務からしても放っておくことなど出来るはずもない。

 声はこの階の部屋の中からだ。考えるよりも先に身体が動き、走り出した。

 一瞬のことで場所は曖昧ではあったが、大林達がここに来た理由を考えれば可能性が高い部屋は一つだけだ。

「白河さん! どうかしましたか? いらっしゃいますよね?」

 一足先にたどり着いた向井がチャイムを鳴らしながらドアを強く叩き、声を掛ける。

 大林も同じように声を掛けながら理恵の部屋の様子を窺う。

 数秒待つもインターホンに反応がない。

「向井! 管理人のところに行って合鍵と、あればバールかハンマーを借りてこい!」

「は、はい!」

 大林の指示を受けて向井はエレベーターに走って向かう。

 その間も大林はチャイムを鳴らして声をかけ続けた。

 

 大林達がここに居るのは偶然である。

 理恵から再度の聴取の必要があり、話をする予定だったのは確かだが、流石に女性のひとり暮らしの部屋に、刑事とはいえ男性2人で深夜と呼べる時間帯に訪問するのは憚られる。

 だから今回来たのは、事情聴取のためではなく、理恵の証言と映像で確認した柴垣の訪問したのと同じような時間帯に、何か見落としなどが無いかどうかの確認をするためである。

 昼間だと分からない死角の有無や監視カメラにどのように映るのかといった検証を行うことで、何か参考になることがないかと考えたのだ。

 既にマンション周囲は確認し終え、管理人の協力の下、通路や階段、フロアなどを回っていたところで悲鳴を聞きつけたというわけである。

 

 玄関に耳を押し当てて内部を窺う。

 物音は聞こえないが微かに人の気配を感じる。

 外回りを確認している際にベランダに面した敷地から理恵の部屋の灯りが見えていたので在宅のはずだ。

 騒動を聞きつけ、同じフロアの他の部屋から顔を覗かせている住人もいる。

「大林さん!」

 そこへ向井が息を切らせながら戻ってきた。

 その手には、部屋番号が書かれた合い鍵であろう銀色のカードと50センチほどの長さのバールを持っている。

 

 大林がバールを受け取り、向井は鍵穴となっているカードスロットにカードを差し込む。

 ピッっと小さな電子音とロックが解除される音が鳴るのを待って大林がドアノブを回し、引く。

 案の定、ドアにU字ロックが掛かっており、扉が10センチほど開いた位置で止まった。外側からU字バーの隙間にバールを差し込み捻ると呆気ないほど簡単に壊れる。

 U字ロックは元々あまり防犯効果が高くなく信頼性に欠けるとは言われているが、それでも些かならず不安になる脆さである。

 すぐさまドアを開け放ち、靴を脱ぐのももどかしく大林と向井は部屋に飛び込む。

 短い廊下を抜け、リビングの扉を開いた2人の目に映ったのは、呆然とした様子でソファーの脇に立ち竦む理恵の姿だった。部屋の中に他に人の姿は無い。

 素早く部屋の中に不審者などがいない事を素早く視認した大林は、立ち尽くしたままの理恵に事情を聞こうと近づき、向井は念のためであろう、カーテンを開けてバルコニーを確認する。

 

「白河さん、何があったんですか? 白河さん?」

 2人が部屋に入ってきたことなどまるで気付かない様子で一点を見つめている理恵に大林が声を掛けるが反応がない。

「白河さん、白河さん!」

 肩をトントンと軽く叩きながら身をかがめて下から覗き込むように目線を合わせると、ようやく理恵の視点が大林に合う。

「え? あ、え?! き、きゃ!」

「ああ、落ち着いて、大丈夫です! 分かりますか? 荒川警察署の大林です。白河さんの悲鳴が聞こえたので、申し訳ありませんでしたが入らさせていただきました」

 大林達を認識した途端、悲鳴を上げそうになった理恵に、慌てて二歩ほど後ろに下がって距離を取りつつ両手を前にして左右に振る。

 いささか情けなくも見える仕草だが、ひとり暮らしの女性宅に深夜近い時間帯に、理由があるとはいえ押し入ったのだ。早々に誤解を解いておきたい。

 

「す、すみません。その、はい」

 混乱しつつも、胸に手を当てて大きく息を吐き何とか落ち着こうとする理恵にホッとしつつも、大林は必要なことを確認する。

「それで、何があったんですか? もの凄い悲鳴でしたが」

「あ、あの、ごめんなさい。その、た、大したことじゃ…」

 あれほどの、大林達の耳に届いたまさに絹を裂くかのような相当に切迫したかのような悲鳴を聞いた後で大したことがないと言われても納得できるはずもない。少なくとも夜中に虫が出たという程度の事ではないだろうと思える。

 とはいえ、親しいわけでもない、まして警察官に言うには躊躇われるのかもしれない。

 大林が向井に視線を向けると、既に素早くトイレや浴室などを確認したらしく、首を振って他に人がいないことを伝えてきた。

 

「とにかく少し落ち着いて下さい。それと、何か羽織るものでも」

 理恵の格好はパジャマ姿だ。露出が多いわけでも扇情的なわけでもないが、やはり他人の男性の前だと考えるとあまりよろしくはないだろう。

「は、はい、すみません」

 自分の姿に思い至ったのだろう、理恵は少し頬を染めつつ慌ててリビングの隣の部屋に行き、ガウンのような物を羽織ってすぐに戻ってくる。

 そしてその足でキッチンに行きお茶を入れる。

 大林と向井はソファーに腰掛け、注意深く理恵と部屋の様子を見回す。

 すぐにガラステーブルに置かれたドライヤーとビニール袋、散らばった何も書かれていない封書が目に入った。それに僅かに何かが焦げたような匂いに気付く。

 更に、床に開け放たれた封書と折られた紙に意識を向けたとき、理恵がお盆に2人の分のお茶を入れて戻った来た。

 

「お騒がせして申し訳ありませんでした」

「いえ、偶々現場検証で来ていた時に悲鳴が聞こえたもので。ああ、部屋の鍵は管理人さんにお借りしたのですが、玄関のロックは壊してしまいました。私の方から修理はお願いしておきます。えっと、それで何があったんでしょう。別に事件性がどうのとかは気にせず話していただけませんか?」

 大林が1人掛けのソファーに座った理恵が落ち着いたのを見計らって尋ねる。

「……はい。その、以前大林さんにお渡しした何も書かれていない手紙なのですが、あれからもほとんど毎日ポストに入れられていたんです。それで、今度お会いするときにお渡ししようと袋に入れていたのですが……」

 理恵は先ほどの出来事を説明する。

 

「髪を乾かした後、ドライヤーをテーブルの上に置いておいたら、別の場所に吊したおいたはずの手紙が入った袋がいつの間にかドライヤーの前にあり、電源を切ったはずのドライヤーから熱風が当たっていたと。その時コンセントはどうなってました? 今は外されているようですが」

「使い終わったときに抜いたはずです。そ、それに、手紙に当たっていたときに慌ててスイッチは切りましたけど、コンセントには触ってないんです。ほ、本当です!」

 話ながらもおかしな事を言っている自覚があるのか、理恵は大林の確認に必死な様子で言葉を重ねる。

 

 普通に考えるならば理恵が騒がせようと嘘をついているとしか考えられない馬鹿馬鹿しい内容だ。

 だが、大林も向井も理恵の言葉を頭から否定することはできなかった。

 そもそも、大林達がこの階に居たのは単なる偶然であり、僅かでもタイミングがずれれば理恵の悲鳴を聞きつけることはなかっただろう。であれば、理恵がわざわざ外にまで聞こえるような大声で悲鳴を上げるような演技をする意味がない。

 それに、最後に理恵が差し出した封書の中に入っていたコピー用紙。

 焦げ臭さの少し残るそれに浮かび上がっていたのは、人の顔、であった。

 

『炙り出し』

 大林も子供の頃、理科の実験でやった覚えがある。

 明礬みょうばん水や希硫酸、砂糖水などで字や絵を描くと紙よりも発火点が低くなり、火で炙ると描いた場所が早く焦げて見えるようになる。昔からある遊びの一種だが、紙に染み込んだ部分が焦げるという特性上、それほど微細なものを描くことはできないし、ドライヤー程度の熱で簡単に、ましてや封筒に入った折られた紙に図形が浮かぶほどの炙り出しができるとは思えない。

 そもそもドライヤーには安全装置が内蔵されているのでそれほどの温度にはならないはずなのだ。無論、塩化コバルトの水溶液などを使えば可能ではあるが。

 

 大林と向井の脳裏に浮かぶのは今回のこの事件の異様な不可解さ。

 理屈では説明できない、超常的な何かが働いているとしか考えられない一連の出来事に、荒唐無稽としかいえない説明を否定させないものがあった。

「大丈夫です。不可解なのは確かですが、頭から否定したりしませんよ。それに…」

「あっ!!」

 理恵を宥めるように言う大林の言葉の途中で、向井が何かに思い至ったような大声を上げる。

「大林さん、この顔、最初の被害者の、白河紗理奈、さん、です!」

 途中までこの場に理恵がいることを失念していたのだろう、語尾が少々変な言葉になりながら言った言葉に大林は改めて紙を見る。

 

 顔に塗料を塗ってそれを押しつけた”顔拓がんたく”のような感じではなく、粘土に押しつけたものを紙に写し取ったかのような奇妙な顔。

 確かにその造形は女性の顔のようにも見えるが、とても鮮明とはいえないその描画だけで大林にはそれを誰とは判別することはできなかった。

 だが、警察官の中には両目や鼻の位置、顔の輪郭など、化粧や変装などでは変えようのない部分から人物を正確に判別することのできる人間が複数いる。向井もそういった特技があり、しかも一度見た顔はほとんど覚えていられるほどの記憶力も持っている。

 向井曰く、例え整形していようがほぼ確実に分かるらしい。大林などは女性が化粧して髪型を変えただけで最早判別することができなくなるのだから羨ましく思っているほどだ。

 

 それはともかく、この手紙が白河紗理奈が死亡した頃から送られており、指紋も彼女のものしか検出されていない事実から、この浮かび上がった顔が彼女のものである可能性は高いだろう。

 もっとも、わざわざ顔の絵のようなものを、それも炙り出しで描く意味はまったく理解できないが。

「向井がそう言うなら間違いないか。白河さん、どうですか? 妹さんの顔のようなのですが、分かりますか?」

 そう言って差し出された紙を、理恵は震える手で受け取り見てから首を横に振った。

「わ、分かりません。そう言われると紗理奈のようにも見えますけど、もう何年もまともに顔を合わせていませんでしたし」

 そう言って、紙を返すのではなく放り捨てるようにテーブルに落とした彼女の表情は強ばり両手は自分を強く抱きしめている。

 

(これ以上話をするのは無理だな)

「とりあえず、これまでに届いている手紙は全てお預かりしましょう。他には何か気になることはありますか? どんな些細なことでも構いません。それから家の外で誰かの視線を感じるとか、不審な人物に後を付けられたとかは?」

 大林の質問に首を振る。

「分かりました。とにかく何かあればどんなことでも署まで連絡して下さい。夜中でも必ず誰かいますから、遠慮はいりません」

「あっ、それと、一応我々も管理人さんに言っておきますが、白河さんからもできればもう少し防犯性の高い玄関ロックに変えてもらえるように要請した方がいいですね。U字ロックってあまり防犯効果高くないですから」

 出来るだけ安心感の出るように表情を作りながら大林が言い、向井も雰囲気を明るくするように敢えて軽い口調で防犯のポイントなどを説明していく。

 最後に、『当分は警官が頻繁に周辺をパトロールするようにしますから安心して下さい』と言い置いて2人は理恵の部屋を辞去した。

 

 

「はあぁ」

 刑事2人が出て行くのを玄関先で見送り、理恵は大きく溜息を吐いた。

 フロア中に響くような悲鳴を上げてしまったことを知り、恥ずかしさはあったがそれでもすぐに警察が駆けつけてくれたことは有り難かった。

 それに、思い返してみても精神状態を疑われてもおかしくない理恵の説明を、内心どう思っているかは分からないまでも真剣に聞いてくれたことは理恵の気持ちを多少は安定させてくれていた。

 冷静になって考えてみればコンセントに繋がっていないドライヤーから熱風が出るなんて事があるわけがない。きっと、中途半端にスイッチが入ったままだったドライヤーが何かのきっかけで作動し、動揺して無意識にコンセントを抜いてしまったのだろう。

 白い手紙の入った袋も、気持ちが忌避するあまり無意識に移動させてしまったのかもしれない。

 そもそも誰の仕業かは分からないけれど、こんなタチの悪い悪戯をするくらいなのだ。熱で浮かび上がる絵を描くくらいのことはするのだろう。

 

 未だに震える身体に言い聞かせるようにそう考え、向井に教わったやり方で玄関のドアを固定してからキッチンに戻る。

 洗い物を済ませ、冷蔵庫に入っていたビール、これも彰が死んだ今となっては残しておく意味がないものだ、それを一気に喉に流し込んだ。

 炭酸の強い刺激と苦みに咽せそうになりながら飲み干したことで、元々酒に強くない理恵はそれだけで微酔感を得ることが出来た。

 大林達が来て、さらに手紙を回収してくれたおかげで多少は不安薄れはしたものの、やはり先ほど感じた恐怖を思い出しそうでアルコールの力を借りなければ眠れそうにない。

 再度冷蔵庫を開けて取り出したもう一本を無理矢理喉に流し込むと、朦朧とし始めた頭のまま歯を磨き、ベッドに倒れ込んで早々に意識を手放した。

 

 

 どのくらいの時間が経ったのか、理恵は肌寒さを感じて目を覚ます。

 といっても、まだ意識の半分はぼんやりと霞が掛かったような状態ではあったが、いつの間にか布団をはね除けてしまったらしく、横になった上には何も掛かっていない。

 アルコールで火照っていた身体はすっかり冷え切り、理恵の手は掛け布団を求めてベッドの縁を探る。

 と、その手に触れるものがあり、それを手繰り寄せようと掴む。

(あら? 布団の感触じゃない。レース? こんなの部屋にあったかしら)

 纏まらない思考で触れた感触を確かめながら、うっすらと目を開ける。

 コンセントに差し込まれたLEDの常夜灯の光は、弱いがそれでも暗さに慣れた目なら部屋を見通すことの出来る程度の明るさはある。

 ぼんやりとした意識のまま、手の伸ばした方に目をやり、理恵の目は一瞬で覚める事になった。

 そこには1人の人影が、ジッと佇んでいた。

 理恵の手が触れていたのはその人の服、その裾のレースのフリルだ。

 

(だ、誰?! どうして、どうやってここに?!)

 叫ぼうとした。しかし、理恵の口から出たのは小さな、呻くような息だけだった。

 舌が凍り付いたように動いてくれない。

『おねえちゃん』

 薄暗い中で顔ははっきりと見えないが、その口元が微かに動き人影は理恵をそう呼んだ。

『おねえちゃん』

 酷く聞き取りづらい、籠もったような、何か、音ではなく、頭に直接響いてくるかのような声。

 それでもその声は理恵の聞き覚えがあるものだった。

「さ、紗理奈、なの?」

 あり得ない。

 そう思いながらも、思わず理恵の口をついて出てきた掠れた言葉に、人影、紗理奈は嗤った、ように見えた。

 

『ねぇ、おねえちゃん、わたし、死んじゃったの。ねぇ、どうして? わたしはおねえちゃんと違って誰からも好かれるのよ? お父さんだってお母さんだって、勉強しかできないお姉ちゃんよりもわたしを愛してくれた。なのに何で? わたしはクズみたいな男に付きまとわれて殺されたのに、おねえちゃんは良い大学入って、良い会社に就職して、幸せそうに暮らしてるの? どうして? ねぇ、どうして?』

「う、うぁう゛…」

 それは私が努力したから、そう言いたいのに理恵の口からは掠れたうめき声しか出てこない。

 それどころか必死に身体を動かそうしているのに微かな身じろぎをするのが精一杯だった。

『ねぇ、おねえちゃん、おねえちゃんのものはわたしのものでしょ? だから、おねえちゃんの恋人も貰っちゃった。でも、足りないの……ギギィィィ……もっとちょうだい……ギギギィィィ』

 

 凡そ人の口から発せられるとは思えない異音混じりに、囁くようにようなボソボソとした声で言いながら、紗理奈は横たわる理恵に顔を寄せ、掌で頬を撫でる。

(冷たい!)

 紗理奈が触れた途端、その冷たさと得体の知れないおぞましさに理恵の全身が粟立つ。

『ふふふふ…ギィィィ…あははは…』

 両手で頬に手を翳す程に近づいたことで、理恵は紗理奈の顔をようやくしっかりと見ることができた。

(!! この”目”、あの時の!)

 どこまでも昏く、闇の底に沈んだかのような目に、理恵は見覚えがあった。

 以前、ドアノブを狂ったように動かした何者かがカメラを覗き込み、モニター越しに見た”目”、それに間違いない。

 あの時から紗理奈は理恵の身近にいたのだ。

 

『ギギギィィ…ねぇ、ちょうだいよ…ギギィ…全部、ちょうだい』

 昏い目で理恵を覗き込みながら紗理奈はそう言い、頬を撫でていた手を理恵の首に添える。

「や、やめ、紗理……」

 手に少しずつ力が掛かってくる。

『ふふふふ……あはははははははははは……』

 ほとんど表情を変えないまま不気味な笑い声を上げて、理恵の首を絞める力が強くなっていく。

 力の入らない身体を必死に捩り理恵はその手から逃れようとするが、然程力強くは見えない紗理奈は微動だにしない。

 ふと、視界の隅で人影を捉えたような気がした理恵は、助けを求めるようにそちらに手を伸ばす。

 同時に微かに首を逸らし、そちらへと目を向けた理恵に映ったのは、紗理奈と同じような昏い目と酷薄そうに笑みの形に口元を歪めた、死んだはずの恋人、彰だった。

 

 

 Pipipipipi……Pipipipipi……

 ベッドサイドのチェストに置かれたスマートフォンのアラームに、理恵は弾かれるように身体を起こした。

「え? あ、え? ゆ、夢?」

 激しく鼓動を打つ胸に手を当てて、部屋を見回す理恵。

 カーテンの隙間から朝日が薄らと差し込み柔らかな光で満たされた部屋におかしな所は見受けられなかった。

 ベッドも昨夜理恵が眠ったときのままだし、部屋に誰かが居たような形跡は無い。

 自分の首に手をやる。痛みも息苦しさもない。

「はぁ~、そう、よね? 紗理奈が居たなんてこと、あるはずない」

 理恵は自分に言い聞かせるように呟いてベッドから立ち上がる。

 夢にしてはあまりに鮮明で、それでいて現実感のない出来事。

 未だに心臓は早鐘のように打ち付け続けているが、それでもアレを現実と信じるにはあまりに異常すぎて悪夢を見たと考えなければどうにかなってしまいそうだった。

 

 寝汗を吸ったパジャマはジットリと湿っていて不快で仕方がない。

 シャワーを浴びたいが今日は平日であり、通常通り会社があるので流石にそれほどの時間的余裕はなさそうだ。

 理恵は箪笥から手早く下着と仕事用のシャツを取りだし、スーツのスカートを手にすると洗面所へ向かう。

 洗面台の前でパジャマと下着を脱いで洗濯機に放り込む。

 寝るときにはブラはしていないのでショーツだけだ。

 昨夜刑事達の前でノーブラのパジャマ姿を晒していたのを不意に思い出し、今さらながら羞恥を覚える。

 大林が気を利かせてくれたのですぐにガウンを羽織る事ができたものの、年頃の女性としては無防備に過ぎただろう。

 もっともあの時はそれどころではなく、そんな事に気を回す余裕などなかったのだが。

 

 気を取り直して持ってきた下着を身につけ、シャツに手を通したところで洗面台の鏡を見、理恵は凍り付いた。

 鏡に映った理恵の上半身、その首にはくっきりと人の手の形に赤黒い痣が浮かんでいた。 

 

 

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