第2話 四月九日 よく晴れた日
朝、七時三八分。いつもと同じ時刻に僕は家を出る。学校とは反対方向に歩いて、三軒隣の友原家を目指して歩く。
立派な松の木が植えてある友原家のチャイムを鳴らしてから、僕は腕時計に目を向けた。ちょうど、七時四十分。
いつもと同じ時刻だ、と心の中で呟く。玄関で靴を履いて待っていたのか、幼馴染はすぐに家から出てくる。頬を撫でる風が、彼女の顎までの黒髪を揺らした。それに顔をしかめて、友原すみれは僕の前に立った。真っ直ぐに僕を見つめる。
「おはようございます」
もう聴き慣れた事務的な声だ。感情が読み取れない彼女の声。緊張しているのか、ぎゅっと手を握りしめている。
「あなたは誰ですか?」
何度聞いても慣れない質問に、僕の心臓がぎゅっと痛む。なるべく柔らかい笑顔を作ってから、暖かい声を意識して言葉を紡ぐ。
「おはよう、僕は小池真一。すみれの幼馴染だよ」
すみれは小さく頷いて、僕よりも先に歩き出した。隣に並んだすみれは僕よりも身長が少し小さい。見下ろしたところにいるすみれの手を取って、このまま逃げてしまいたいような衝動にかられた。
僕にとっては歩き慣れているけれど、彼女にとっては新鮮な通学路を二人で進む。いろんなものに目を輝かせるすみれが、ただ愛しかった。
通学路に咲く桜にだって。
フェンスの上で朝日を浴びる猫にだって。
ひび割れた田んぼにさえ。
すみれは目を輝かせる。楽しそうにそれらを見つめる。僕には良さが全くわからないものが多くて、僕はいつもすみればかり見ていた。
「真一」
「うん。どうかした?」
「私と歩くのは楽しくありませんか?」
通学路の最後の曲がり角で、すみれは昨日と同じ言葉を口にした。眉を下げ、傷ついたように見える表情まで全く一緒だ。
「そんなことないよ」
昨日の記憶をなぞるように言葉を発する。
「それにただ歩いているだけで、楽しい人なんてなかなかいないと思うな」
うそばっかりだ。本当はすみれとならただ歩いているだけでも楽しい。彼女が隣にいてくれさえすれば、どんなことだって楽しめる気がする。最近は、僕の想像よりもずっと早く近づいてくる別れが、苦しいだけだ。
困ったように笑いながら告げた僕の嘘に、すみれは頷く。
「そうですね、すみませんでした」
彼女はそのまま泣きそうな顔で、僕に頭を下げた。昨日の記憶をそのまま再現したようなすみれの反応に、一瞬時間が巻き戻っているんじゃないか、なんて都合のいい妄想が頭をよぎった。
ぎゅっと手のひらを握りしめながら僕はすみれに笑いかける。
「行こう、二日目から遅刻なんて笑えないよ」
すみれは小さな歩幅で歩き出した。そんなところまで昨日と一緒で。苦しいくらいに胸が痛んだ。
無事遅刻することなく学校に着いた僕らは三年二組の教室に向かう。「三年」と書かれたプレートに僕は思わずため息をついた。
義務教育が終われば、すみれたち異能者は国の特殊教育機関に入ることが決まっている。そこに入ってしまえば、家族以外の面会はおろか連絡を取ることすら叶わなくなる。記憶が一日しかもたないすみれの中で僕が死んでしまうのは明らかだった。
卒業式なんて一生来なければいい。
荷物を置いてクラスメイトと談笑を始めたすみれを見ながら、またため息をつく。艶のある黒髪が、日の光を反射させている様子はただ綺麗だった。こんな風に近くで彼女を見つめられる時間がずっと続けばいいと、そう、思った。
「はよ、真一」
すみれを遮るように視界に入ってきたのは幼い頃からよく遊んでいる相田悠馬だった。
「おはよう、悠馬」
なるべく自然に見えるように笑ったつもりだったのに、笑顔から何かを感じ取ったらしい悠馬は眉を寄せて、後ろに視線を投げる。
「ああ、わり」
「別にいいよ、そのままで」
僕の視界にすみれが映るように移動した悠馬にそう声をかける。
別にいいんだ。どうせ、言うことすら叶わない恋だから。
「駆け落ちでもしちゃえばいいんじゃね」
悠馬の言葉に含まれた諦めの量の多さに僕は乾いた笑いをこぼす。
国家から必要とされているすみれを連れてどこかに逃げたりなんかしたら、ただの犯罪者だ。逃げ切るだけの知恵と体力も、逃げようと思う勇気も、僕は持ち合わせていない。
だから、いいんだ。これで。
ただすみれを見つめて、僕だけが大切思い出としてしまっておく。それで、充分なんだ。
半ば言い聞かせるみたいに、僕は心の中でそう呟いた。
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