第3話 六月二十三日 テスト期間
朝から降っていた雨は昼過ぎに土砂降りに変わった。灰色の世界に雨の匂いが満ちていくのを、教室の中からぼんやりと眺める。雨の匂いが自分に届かないことにどこか安心している自分がいた。窓に当たって水滴になる雨粒がなんだか悲しげに見えて、窓のレールを跳ねる雨粒はどこか楽しそうに見える。
「真一」
窓にすみれの姿が映り込む。僕は雨粒に気を取られたまま適当に返事をする。雨音にかき消されそうなくらいの小さな声で、すみれは何かを言った。窓に映った彼女の口から何を言ったのか推測するのは難しくて、僕は名残惜しさを感じながら、窓から視線を外す。すみれはぎゅっと手を握りしめたまま、俯いている。僕は笑顔を浮かべた。
「ごめん、上手く聞き取れなかった」
「雨はもうすぐ止む予定です。なので」
彼女はそこで一旦言葉を切った。小さく息を吐き出してから僕の目をじっと見つめる。吸い込まれそうなくらい綺麗な黒い瞳だった。チューブから出たばかりの、なにも混ざっていない黒。
「……どうかした?」
「……なので、図書室で勉強してから帰るのはどうでしょうか」
すみれは緊張しているみたいで、また顔を俯かせる。僕は嬉しくて舞い上がりそうな心を落ち着けるために、長く息を吐き出す。言葉を返すことも忘れて、僕はすみれのことを見つめていた。
初めてのことだった。こんな風にすみれが僕を誘うのは、本当に初めてで。だからどうしたって舞い上がってしまう。深呼吸のように深く息を吐き出すことを繰り返して、僕は笑った。雨で沈んでいた気分が、急上昇する。
「うん、テストも近いしそうしようか」
僕が笑ったことに安堵したのか、すみれの表情が和らぐ。春の陽だまりのような、夏の海のキラキラのようなその顔は写真に収めておきたいくらい綺麗だった。
図書室までのほんの数十メートルを僕とすみれは出来るだけゆっくりと歩く。それっはまるで、僕らの日々のようだった。
進むことが怖くて。終わってしまうことが恐ろしくて。
毎朝同じ会話を繰り返す僕らの日々のようだった。最もすみれはそんなこと全然知らないし、思ってもいないだろうけど。
雨の図書室は椅子を引いた些細な音が響きそうなくらい静かだった。部活の引退試合が近いからみんなが練習に励んでいるのも静寂の理由の一つかもしれない。僕らは窓際の奥にある椅子に座った。雨音が響いてきそうなほど窓に近い席。僕の想像通り、椅子を弾く音が小さく響いた。肩をすくめるすみれに司書の先生が優しく笑いかける。
「真一は何を勉強しますか?」
すみれが首をかしげた。
「うーん、数学かな」
「それでは私も数学をやります」
丁寧な動作で取り出されたすみれの問題集は新品かと思うくらい綺麗だった。物を丁寧に扱う性格は昔から少しも変わらない。ピカピカの問題集に整った字で名前が書かれているのを、なんとなく視線で追う。
ちょっと動けばかたが触れてしまいそうな距離で僕らは勉強を始める。どきどきと高鳴る心臓のリズムがなんだか心地よかった。
「真一、ここがわかりません」
すみれが指差したのは複雑な応用問題だった。ちょうど、今、僕が解き終わった問題で思わず苦笑する。問題を解くペースはそんなに変わらないらしい。ひそひそと声を潜めて、僕は解き方を説明する。聞きにくいのか、すみれの距離がさらに近くなる。心臓が破裂していまいそうだった。
触れたら弾けてしまう夢の中にいるみたいな気分になる。心臓の音が彼女に聞こえていないことだけを祈りながら、僕は解説を続けた。
それから何回か、すみれの質問に答えてその度に心臓が破裂しそうになった。
そんなことを繰り返しているうちに、あっという間に下校時間になってしまう。雨はいつのまにか上がっていた。自分の心音ばかり気にして、いつから雨音が聞こえていなかったのかすら分からなかった。
帰りたく無いと嘆く本心から目を背けて僕はジメッとした空気の中、すみれと二人で家を目指した。
夢みたいに幸せで。
夢みたいに現実味がなかった。
しかも相手が忘れてしまうものだから、本当は夢だったんじゃ無いかという思いがどうしても拭えないまま、僕はその日、眠りについた。
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