マドンナへのレクイエム
葛城乙葉(かつらぎ・おとは)が死んだ。
自殺だった。
僕が高校に入ってから、最大にして最悪の事件が、それだった。
葛城乙葉は、僕と同学年の女子だった。
僕が高校に入学すると同時に、一緒に高校に入った。
彼女は、どこか田舎の中学を出て、この高校にやってきたらしい。
両親は地元に住んでいて、祖母と二人暮らしらしい。
クラスも違う彼女についての情報がここまであるのは、理由がある。
彼女は美しかった。
美少女と言っても過言ではなかった。
流れるような黒く長い髪も、ぱっちりとした瞳も、色白で綺麗な肌も、その全てが学年の男子を魅了した。
そして、それを鼻にかけない優しい性格をしている所も、それに拍車をかけた。
そして何より………彼女は、胸が大きかった。
又聞きした噂だが、100センチあったらしい。
優しく、美人で、胸が大きい。
思春期の男子を夢中にさせるのに、好条件が全て揃っていた。
別のクラスの熱狂ぶりを端から見ていただけであるが、彼女のファンクラブまで作られていたというのだから驚きだ。
僕は、彼女と別のクラスだった事もあり、そこまで彼女に対して熱狂する事は無かった。
けれども、僕から見ても彼女はかわいく見えたし、すれ違う等して視界に入ると、自然と目で追っていた。
そして僕も思春期の男子なわけだから、彼女の体操服姿や水着姿を、チラチラと見る事もあった。
恋愛にさほど興味の沸かなかった僕ではあるが、綺麗なものは気になるものだと、自分の中で結論をつけた。
高校に入学してから、3ヶ月。
つまり葛城乙葉が僕と同学年になってから3ヶ月が過ぎた時、事件が起きた。
彼女の数学のノートが、何者かに破かれていたのだ。
クラス中の男子が、これに憤り、怒った。
ファンクラブに至っては、必ず犯人を見つけ出して生まれてきた事を後悔させてやると、憤慨していた程だ。
当の葛城乙葉は、相変わらずほがらかに笑いながら「気にしなくていい」と言っていた。
だが、その顔はどこか悲しげだったのを覚えている。
結論から言うと、この事件の犯人は解らなかった。
だが、僕にはなんとなくだが、犯人の目星はついていた。
僕のクラスで、男子の集まりがその話題をしていた時、それを汚物を見るような目で見てヒソヒソと話をしていた、女子の集まり。
彼女達が主犯だっかは、今も解らない。
でも、自分のクラスの女子が、葛城乙葉のノートが破かれた事について喜んでいたのは、おそらく事実である。
事件が起きてからしばらくが過ぎた。
あれから、葛城乙葉を取り巻く環境は、一気に坂を転がり落ちた。
分かりやすく言うと、いじめのターゲットになったのである。
よくよく考えてみれば、男子から人気の巨乳の美少女なんて、
互いに忖度をして群れている同年代の女子からすれば、憎くて憎くてたまらないハズだ。
葛城乙葉がいじめのターゲットになるのは、必然とも言えた。
彼女が、女友達を積極的に作ろうとしなかったのも、その要因の一つだろう。
女子のいじめというやつは、周りに悟られないよう秘密裏に、そして陰湿に行われるものだと、僕はネットの知識でそんな偏見を持っていた。
だが、女子が行った彼女へのいじめは、明らかに度が過ぎたものだった。
ある時は、水をかけられたのかずぶ濡れで歩いていた姿を見た。
クラスの黒板に「男好き」「ヤリマン」等と、根も葉もない中傷的落書きをされていたのを、必死に消していた事もあった。
彼女の下駄箱には生ゴミが詰められるようになり、常に異臭が漂うようになった。
目に見えて酷い、誰が見ても解るいじめだった。
葛城乙葉は、最初の内こそ相変わらずほがらかに笑いながら「大丈夫です」と言っていたが、次第に笑顔は消えていった。
笑ってばかりで反撃してこない事も相まって、女子達は余計に、葛城乙葉を痛め付けた。
………さて、疑問が一つ沸いてきた。
葛城乙葉は、ファンクラブが出来るほどの男子からの人気があったはずである。
彼女がいじめを受けているなら、それこそ彼等が率先して守ってやるべきではないだろうか?
彼女がいじめのターゲットになってからしばらくが過ぎたが、男子に目立った動きはない。
これは?どういう事だろうか?
そんな事を考えながら歩いていると、三年生が集まって話をしているのが見えた。
そこに居たのは、スキンヘッドの先輩。
見た目でも解る通り素行が悪いらしく、僕も怖くてあまり近寄りたくないタイプの人だ。
下手に関わって因縁をつけられたらかなわない。
僕は、そそくさとその場を離れようとした。
その時、僕は先輩達が話しているのを聞いてしまった。
「あの一年の葛城っての、マジで身体だけは最高だよな」
「今度ダチも誘って「マワ」しちまおうぜ」
「ほんと、ヤれて文句言わないなんて最高だよな、ははは!」
先輩達が去った後、僕の身体にサーッと寒気のような物が走ったのを感じた。
前述の通り、僕も年頃の男子。
先輩の言っていた事の意味が解らないほど、子供でもない。
後から知ったが、やはり葛城乙葉の純潔は既に散らされてしまっていたようだ。
奪ったのは、案の定あのスキンヘッドの先輩との事。
彼女が一人で居た所を強引に呼び止め、体育倉庫に連れ込んで強引に「した」らしい。
身体も顔もよく、いじめで孤立した彼女は、彼にとって絶好のターゲットだった。
ファンクラブの男子達は、立ち上がる所か、その先輩を恐れて何もしなかった。
それ所か、先輩にゴマをすって彼女を欲望の捌け口にする者まで現れたという。
とうとう彼女は、男子からも見放された。
この学校に、彼女を人間として扱ってくれる者は、いなくなってしまった。
情報をくれた噂好きの男子は、今や彼女は「便器」であり、彼女で「大人」になる男子が多いとニタニタ笑いながら話したが、とても聞く気にはなれなかった。
彼女が「いなくなる」数日前。
僕は学校帰りに忘れ物に気付いて、学校まで取りに戻った。
そこで、僕は葛城乙葉に会った。
今まで遠目に見ていた事はあったが、二人きりで、対面するのは初めてだった。
彼女は、今から下校する最中だった。
黒く美しかった髪は、荒れてボサボサだった。
ぱっちりとしていた目は虚ろに濁り、頬には内出血による痣があった。
制服も、他と比べて目に見えるほどボロボロで、汚れて見えた。
ガクガクと震える足と乱れた制服、そして今の時間に下校しているという事が、ついさっきまで彼女が何を「されて」いたのかを、安易に想像できる。
最初の頃の、優しい美少女の姿は、既にそこにはない。
見ようによっては、ホラー映画の幽霊のようにも見えた。
僕は、何と言えばいいのかが解らなかった。
どう声をかけていいのか。
何と言ってやればいいのか。
しばらく黙った後、導きだした答えは。
「………大丈夫ですか?」
自分でも、何を言っているのだと思った。
大丈夫ですかだと?
大丈夫なわけがないだろう。
見て解らないのか。
しばらくの沈黙を、僕は脳内でそんな自己批判をして消費した。
そして、先に動いたのは彼女だった。
頓珍漢な事を言った僕に、顔を上げて、一言。
「ありがとう」
そう、彼女は微笑みかけた。
ボロボロの彼女の笑顔は、何処か痛々しく、無理をして笑っているのは目に見えた。
だが、そこにいるのは、間違いなく葛城乙葉だった。
そこにはあの頃の、まだいじめが始まる前の彼女の面影が、確かにあった。
そしてこれが、僕と葛城乙葉の最初の会話であり、最後の会話だった。
葛城乙葉が死んだ。
自殺だった。
下校時間に、どうやったかは解らないが校舎の屋上に侵入し、全校生徒の見ている前で飛び降りてみせた。
その日僕は風邪で休んでいた為に何も見ていないが、何があったのか聞く気にはなれなかった。
警察は、遺書が残されていなかった為、これを自殺ではなく事故として処理した。
誰の目に見ても自殺である事は明らかだったが、学校側から何かの力が回ったらしい。
彼女の唯一の家族である祖母が、それからどうしたかは、僕の情報網では解らなかった。
地方に帰ったとも、行方不明になったとも言われている。
そもそも、彼女の家がどこにあったかさえも知らない僕には、確認のしようが無かった。
それから、彼女が消えても日々は続いた。
彼女をいじめていた女子達は、それぞれが彼氏を作って青春を謳歌している。
彼女を弄んだ先輩は、部活のレギュラーの座を獲得して学園生活最後の大会に望んだ。
彼女の惨状を笑っていた情報通は、相変わらず学園の噂に耳を立てていた。
それから僕も、学校の生徒の一人として、目立ちもしなければ落ちこぼれもしない日々を送っている。
ただ、毎日がどこか空虚に感じられた。
まるで、嘘の毎日を生きているように。
………僕は、放課後の校舎の前にいた。
血のように赤い夕陽が、地平線の彼方に沈みつつあった。
僕は、校舎の前のアスファルトの地面を、じっと見ていた。
そこは何度も清掃されたようだが、僅かながら赤黒い染みが残って見えている。
ここが、彼女の、葛城乙葉の散った場所だ。
ここに、彼女は落ちたのだ。
そういえば、彼女と最初で最後の話を交わした時も、こんな夕陽だったような気がする。
あの時の、彼女の姿が脳裏に甦る。
そして、彼女が僕に言った一言。
「ありがとう」
もう聞く事のできない彼女の声が、脳裏に聞こえた。
その瞬間、僕の心の中に様々な感情が溢れだしてくる。
何故、何もしてやれなかったという、後悔。
何故、助けてやれなかったという、自己嫌悪。
何故、連中はあんな事をしたのだという、怒り。
「う………あ………あああっ………!」
気がつけば、僕は泣いていた。
まるで彼女に土下座をするように、その場にうずくまって泣いていた。
ようやく、今になって気付いた。
僕は、彼女の事が。
葛城乙葉の事が、好きだったのだと。
キーン、コーン、カーン、コーン。
学校のチャイムが、若くして散った一人のマドンナへのレクイエムのように、夕陽に響いていた。
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