第五章

 四月二九日と言えば、昭和の日と言うことで、休日なのである。俺は顔を見たこともないが、昭和天皇には感謝である。いや、むしろ感謝するのはその昭和天皇の母ちゃんか。

 で、この日は一日練習……としてもよかったのだが、そんなことをして体を壊して明日試合ができなくなってしまってもあれなので、練習は午前中だけ、学校から特別に許可をもらって霊道場で練習である。

「………ハッ!」

 俺はナギに指示を飛ばし、これまで通り彼女は薙刀を振るう。もう数日前と違い今はかなり勘を取り戻しており、おそらく中学時代の全盛期のころくらいまでは回復したんじゃないかと俺は思う。ナギの方も、前より実力上がってんじゃね? と言うくらいの剣さばきである。

 俺はそうしてナギと身を動かしながら、横目で沙羅ちゃんとクリスを見る。

 彼女達の仕上がりくらいは正直に言って俺の予想以上だ。クリスの鎌の剣戟はもはや通常の霊道部員であれば苦戦は必至と言うくらいの行きまで達しており、沙羅ちゃんもはじめのころと違いちゃんとして指示を出せるようになっている。これならば、大鵬と寛治はもらったな、と指導役の立場からも思える。

 一方アイリと香恋はなんとか形には仕上がったものの、それは霊道部員にはまだまだ足りない域である。まあ、この短期間でこれだけさまになっているのだから、なんとか『副島対策』に使えるんではないかと考えている。

「………さぁ、そろそろ一二時だ。もう終わりにしよう」

 時計が一一時五〇分を指したころ、俺がそう皆に声をかける。

「……どう、惟。アンタの調子は?」

「上々さ」

「そう。よかったわ。……あー。でも、もうちょっとやりたかったわね……」

「そういうなって。体壊したら元も子もないだろ」

「そうじゃないのよ……」

 アイリは少し寂しそうな顔をする。

「そうじゃないの。……もう、今日であたし達のこの練習も終りなのかなって。香恋ちゃんがあたしの指示を受けて、惟がナギと薙刀を振り回して、沙羅がクリスと鎌を振りかざして……皆、笑ってて……。そんな日々も、もう今日で終わりなのかな……?」

「バカ言うな」

 俺はアイリの頭をデコピンでポーンと弾いてやる。

「イタッ!」

 おでこを抑えこむアイリ。……いやいや、そんなに強くやってないだろ。

「明日勝って、それで続けるんだろ、霊研。部長が何弱音はいてんだよ」

「………惟。そう、だよね。あははは。あたしったら何言ってんだろ。まったく」

「本当に、な……」

 明日、絶対に勝たなければならない。

 アイリのためにも、俺のためにも。

 明日ですべてが決まる。

「……ところで、これからアンタはどうすんの?」

「どうするって?」

「いや、あたしはもう少し自主練を寮の裏でしようと思うんだけど……アンタは?」

「……俺は」

 俺には、

「行かなければいけない場所がある」

「……行かなければいけない、場所?」

「ああ」

 それは、俺の義務であり、明日までに、しなくてはないこと。

 また別の、決着だ。

「………あたしは、ついていかない方がいいのね」

 俺の表情を読み取ってか、アイリはそれ以上を詮索しようとはしなかった。

「……ああ」

 俺も、語ろうとはせず、ただ拒否する。……今のアイリに話すわけには……特に、香恋に聞かれるわけにはいかないのだ。

 さて。

 では、俺の心の決着へと、臨もうか。

 そこにはあった。

 灰色の、の背丈の半分ほどのみかげ石たちが。

 そこは墓地だった。

「…………………」

 今日は、四月二九日。

 俺が英霊昇格試験決勝戦で敵を破り、英霊になった日でもあり、

 香恋の命日の、一日前だ。

「…………………」

 雨が降っている。

 午後になって降り始めた、どす黒く、じめじめした雨。

 それが、墓の頂点に当たり、涙のように這って地に落ちる。

「…………………」

 俺の目の前には、一つの墓石があった。

 刻み込まれている名前は、『初雪 香恋』。

 香恋の、墓だ。

「………香恋」

 意識としては、魂として存在するが、彼女の肉体はここに眠っている。

霊媒者育成都市にある、日本でも有数規模の霊園であるここは、霊媒者育成高校からバスで二十分ほどの所にあった。霊と結びつきが強いこの土地には、霊媒者や、今現在霊としてこの世に顕現している人々の墓も多い。

その、香恋の墓の前に俺は傘をさしながら立っていた。

 明日は霊道部との試合があるので、命日より一日早く墓参りに来たのだ。それに、どうしても、香恋と共に渚と戦う前に、心の整理整頓をしておきたかった。

「…………もう、二年になるな」

 俺は持ってきた菊の花を添えながら語りかける。今日は雨のため、残念ながら墓の掃除などはできない。服装も特に着替えては来ていなく、墓参りとしてはいささか不十分なのかもしれないが、俺にはこれで十分だ。

「………お前と最初に会ったのは、雪の降る日だったよな」

 俺はまるで目の前に香恋がいるかのように、話す。

 霊である香恋は、記憶をなくしている彼女は、香恋であっても、昔の香恋ではないのだ。

「あの雪の降る日、お前が俺にコクってくれたんだ」

 今でもあの時のことは鮮明に覚えている。なんせ、初めての―――いや、これまでの人生でその時だけだが―――愛の告白だったからな。

「あれから二年たって、お前は俺の前に再び姿を現した。――そう、姿を現しただけで、まだ記憶は取り戻してない」

 霊園に本人の霊を連れてくるのはタブーとされている。だから俺はアイリに話さなかったのだ。……いつか、彼女とは来たいと思っているが。彼女も香恋のれんば医者なのだし。

「……もし、記憶を取り戻したら、俺はどんな反応をすればいいんだ?」

 香恋は俺にどう接してくれるんだ? 俺はまだお前の彼氏でいていいのか?

 それ以前に、お前は何を心残りにこの世に残っているんだ?

「また、前みたいになっちまったらどうするよ……」

 香恋をなくした直後の、あの荒れて荒みきった、世の中の全てを否定したくなるような、あの時間。

 もう、二度と体験したくない。

 だが、もし…………

「……………ふぅ」

 俺は長く大きく息を吐く。

 ま、そうはならないだろうさ。

 だって、俺はもう、友達を裏切れないから。

 香恋を亡くしたと同時に、俺は友達としての渚をなくし、寛治は友達でこそいてくれたものの、霊道の良きパートナーとしての俺とあいつの関係は崩れた。

 もう、アイリや沙羅ちゃんを裏切るわけにはいかない。勿論、霊・香恋もだ。

「…………終わった、か」

 もう気持ちの整理は終わった。俺はもう、香恋のことで迷わずに済む。

 もう、過去にとらわれずに進んでいけるに違いない。

 そう思うと、心なしか視界が晴れた日がした。俺の心の上に乗っていた大きな重しが取れたような気分だ。

「………雨、止んでんのか」

 心なしじゃなかった。


 そして、俺がもう一度香恋の墓へと手を合わせ、帰ろうとしていると……

「………惟」

 後ろからの声を受け、俺は振り向く。

「………渚」

 霊、夙川渚だった。

 後ろが少し見える霊体で彼女はこちらの方へ歩いてくる。

「…いいのか、渚。霊が霊園なんかに来て」

「いいのよ。アタシの墓はここから真逆の方にあるし」

 そもそも霊が墓地に入ること自体があまりいいことではないのだがな…。

「あはは。バレなきゃいいのよ」

「……そうかよ」

 渚は一回死んでも渚のまんまなんだなー、と彼女の豪快な性格を見て、今更ながら思う。『一遍死んだら変わるぜ!』なんてことにはそう簡単にならないらしいな。

「日向は?」

「あいつなら霊園の外で待ってる。この霊園の範囲くらいだったらあたしは顕現してられるし」

 渚は俺の横に来て、しゃがんで香恋の墓に手を合わせる。

「……惟は? もう帰るとこ?」

 渚はそういうと下から俺の顔を見てきた。

「ああ。もう香恋と話しはした」

「……そう」

 その『香恋』が今の記憶を亡くした香恋ではなく、二年前の俺の彼女だった『香恋』を指示していることに気付いたようだ。

「……ちゃんと、けじめはついたの?」

「……おう。もうばっちりだ」

 俺は笑いながら、サムズアップで渚に送る。

「ならよかったわ。もしアンタがこのままけじめもつけないまま迷いながらあたし達との勝負に臨むようだったらブッ飛ばしてたところよ」

「アンタ実体ないんだからブッ飛ばせないだろ」

「そうかしら? あたしが日向と無理やり同調顕現たら……どうでしょうかね?」

「……………」

 コイツならやりかねん……。

「冗談よ、冗談」

 コイツの冗談が冗談でないことを、霊道部時代に身をもって知っている。……彼女の必殺右回し蹴りの威力も。

 ……あー、なんかわき腹が痛いぜ。

「で、惟。そっちはどうなの? 練習うまく行ってるの?」

「おうよ。戦ってビックリすんじゃねぇよ。それに沙羅ちゃん―――お前の妹とクリスは結構いい線行ってるぜ」

「沙羅がねぇ……」

「姉のお前みたいな凶暴性もなくていい子だ」

「なんか言った?」

 渚が心の底から冷えそうなナイフのような鋭い目を向けてきたので、

「………気のせいでしょう」

 はぐらかしておく。……渚タイプの女と結婚したら、絶対俺尻に引かれるな……。

「ま、せいぜい相手になるくらいの実力はつけてきなさいよ」

「あたりまえだ」

 伊達に俺達はあんなに練習してきたわけじゃない。

 渚。アンタのその出鼻、くじいてやるよ。

「……まあ、あたしとしてはアンタと一回戦ってみたいけどね……霊として」

「勿論。戦うつもりだが?」

「……ウチの希ちゃん―――副島希は結構強いわよ。一筋縄じゃいかないって言うか……従来の霊道とはちょっと変わった戦い方をしてくるわね。新世代の期待の星ってとこかしら」

「……霊の名前を明かせないのも、それが理由か?」

 俺達の霊の名前は全員向こうに知れてるし、向こうの渚と大鵬は名前が割れている。だが、頑として副島の霊の名前は言わない。俺もクラスメイトの霊道部員に聞いたのだが、誰かに―――おそらく渚だろうが―――口止めされてるようで、聞き出せなかった。と言うことは、その名前に彼女の能力や、それを推測する単語が含まれている、と言うことだろう。特定の名前を持たない神霊だから、と言うのもうなずける。

「そう、ね。あらかたアンタの予想どうりで合ってるわ。ばらしたらいくらか作戦立てられちゃいそうだし。こっちもクリスちゃんの実力知らないからいいでしょ?」

「……知らないのか、クリスの実力?」

 てっきり自分の妹の霊だから知ってるかと思っていたが……。

「沙羅に霊がとりついたのって去年のことなのは知ってる?」

「ああ」

 確か、最初の自己紹介の時にチラッとそんなことをきいた気がする。

「沙羅にクリスが取り憑いたのが去年の六月。で、あたしが死んだのが五月、なのよ」

「……そうなのか。じゃ、お前の命日ももうすぐなんじゃないのか?」

「アンタ、霊に向かって結構ズバッと物言うのね」

「う………」

 渚は目を少し細めただけで怒ろうとはせず、

「五月二十日。それがあたしの命日よ。ちなみにだけど第二誕生日は九月一二日ね」

 第二誕生日とは、その人が生まれた誕生日、つまり『第一誕生日』とは違い、霊が霊媒者に憑依した日のことを言う。

 そういや渚の第一誕生日っていつだったかな。七月か八月だった気がする。

「だからね、あたしが死んでからクリスちゃんが沙羅に憑依したわけだから、あたしはあんまし彼女のこと知らないのよ。ましてや霊道の実力なんてね」

「……霊になってから沙羅ちゃんにあまり会ってないのか?」

「ええ。だって、一応あたしの生活の場は霊媒者の日向家なんだもん。で、沙羅は夙川家。もう生活の場が違うのよ。いうなれば、もう『ちょっと親しい他人』くらいの距離感と変わりない。ウチ―――日向家から夙川家までは歩きで三十分くらいかかるし、家族とも月に一回会うかどうかなのよ。沙羅とは学校である程度は顔を合わせるけどね」

「『他人』か。……霊であれ人間であれ、家族ならもっと顔を合わせたりしても良いんじゃねぇか。そりゃ、日向の立場とか都合もあるだろうけどさ」

「……それをアンタが言う? 家族がこの街にいたのにわざわざ寮に住んで、挙句の果てに家族はここから去って行ったアンタが?」

「……………」

 香恋を失って半ば『暴走』した俺は、家族ともうまともに話せなくなっていた。――実の妹、神楽舞とでさえも。だから、俺は寮に移り、もう霊媒者育成都市とは関係なくなった俺の家族はこの街を出ていった。

 簡単なことだよ、家族が崩れるのは。

「舞ちゃんと、連絡もとってないでしょ、どうせ?」

「…………」

「はぁ。アンタはまだ生きてるんだから、生きてるうちに、ちゃんとより戻しときなさいよ」

「……ああ」

 それはいつかやらなければならない、と思っていたことだ。香恋との一件もこれで……明日で解決しそうだし、そろそろ俺の問題の解決も始めなきゃいけないのかもな。

「……生きてるんだから……」

 渚は悲しそうな目で遠くの空を見ている。雨の通り過ぎたその空には、薄くだが虹がかかっていた。

 生きているんだから、か……。

 こうして話ができるから惑わされそうになるが、渚はすでに死んでおり、その肉体はこの世になく、ここ―――霊園にあるのだ。いくら霊魂として残っているといっても、その行動の自由度は生きている時とは比べ物にはならないはずだ。

「……惟。『生きている』ってなにかしらね?」

 渚はその空を見ながら、小さく口を開いた。

 生きている。

 それは、なんなのだろうか。

 死んだ経験を持つ渚でさえ、大切な人を死なれた俺でさえ、その答えは出てこない。

 肉体が果てたら死んでいるのか? 霊魂があれば生きているのか?

「……ま、考えるだけ時間の無駄だろ? 考えれる頭が、意識があるんなら、それは『生きてる』ってことじゃねぇのかよ」

「……アンタらしい答えね」

「ああ。俺はあれこれと深く考えるのが好きじゃねぇからな」

 だから、単純だからこそ、俺は恐怖とか喪失とかに弱いんだろうが。

「……まあ、アンタとまた話ができてるんだから、まだこの人生も捨てたもんじゃないわね」

「は? 俺と?」

「い、いや、何でもないわよ」

 渚が何かを隠すように両手を胸の前で振る。

「俺とおまえは、昔は仲良かったからな」

 実は俺が香恋をなくす数ヶ月前から渚とは関係がよくなかったといえる。俺が香恋と付き合い始めてから、渚の俺に対する口数が少なくなったような気がした。

「寛治やなんかとバカやってたあの頃も相応に楽しかったぜ? 渚」

「……あ、あたりまえよ。楽しいからつるんでたんじゃない」

「お前は俺の中でも特別な存在だよ」

「………惟」

 だって、

「お互い、男子や女子として見るんじゃなくて、それを超えた友達として、みてただろ? そんな関係なかなか作れねぇよ」

「…………………っ。ったく、このバカ惟!」

 渚が右手でこぶしを作って俺の腹を殴って来た。痛くはない。つか当たってねぇ。……渚が実態だったら俺は口から今日の昼マックで食べたハンバーガーが逆流していたことだろう。想像しただけでぞっとする。

 てか、何で渚はそんな怒ってんだ?

「バカバカバカバカバカバカバカバカ! だからアンタはバカなのよ! 昔は霊道バカだったかもしれないけど、霊道を捨てた今、アンタはただのバカじゃない!!」

 ぽかぽかと俺を殴り―――当たりはせずに全部すり抜けてるが―――ながら、やたらとお怒りになる渚さま。えーと、なにか奉納した方がよろしいんでしょうか?

「この鈍感がっ!」

 これでとどめとばかりに得意の右回し蹴りを俺の頭にヒットさせる。すり抜けてはいたんだが、気のせいか風の音が聞こえたような気がする。当たらないとわかってても怖いものは怖い。

「何が鈍感なんだよ!」

「じ・ぶ・ん・の・む・ね・に、聞いてみろっ!」

 さらに何発もの拳と蹴りが俺の体を貫きまくる。……コイツ、絶対霊道強いぞ。英霊と言うのに間違いはないらしい、と今更ながら彼女の強さを実感する。

「……はぁ、はぁ………」

 流石に疲れたのか、息を乱す渚。

 俺は霊園で他人の霊と何をやってるんだろうね?

『……ナギ、お前も黙ってないで出てきて俺を助けてくれよ』

『………自業自得だ』

 それに、何故かナギも呆れていると来たもんだ。……万事休す。打つ手なし。

「……アンタがそんなんだからあたしはっ……」

 ふーっ、ふーっ、と肩で息をしながらバーサーカー状態の渚は俺を睨みつける。……頼むから同調顕現なんかはしないでくれよ。

「…………………はぁ」

 次なる攻撃が来るかと身がまえた俺であったが、そんな俺の様相とは反対に、渚はひどく呆れたように溜息をついた。

「……あ、あの、渚さん?」

 何故か敬語になってしまった俺に対し、

「別に」

 じとーっ、とした目で見てくる。

 攻撃されるのも嫌ですが、そんなかわいそうなものを見るような目で見られるのも嫌っす。

「………アンタ、覚悟しときなさいよ、明日」

 しかも、なんか火に油を注いだように、渚は怒っている。こりゃ、明日もバーサーカー渚と戦わなければならないな。

「じゃ、また明日」

 そういって、渚は来た道を引き返して行った。おそらく日向と合流したのだろう。

「……………」 

 俺はへなへなとその場に崩れ落ちる。だ、だって怖かったんだもん! べ、別に子供じゃないけど、怖かったんだもん!

 ……あの攻撃の数々を生で受けたことのある俺にとっては。

 寮に帰りついても渚とのことが頭から離れていなかった。

「俺が、鈍感ってどういうことだよ……」

 それに、さっきぶつぶつ言ってたときに、『ほれた』とかいう単語が聞こえた気がする。誰が? 誰に? てか、そのその漢字変換は『惚れた』であっているのか?

「はぁ」

 しかもどうやら俺は渚の闘志を数倍にも増やしてしまったようだ。

 なんて思いながら、意気消沈して俺は自室の戸を開けると―――

「お帰り、お兄ちゃん」

 満面の笑みで俺を迎えてくれる我が妹。

 ……………。

 バタン。

 俺は戸を閉めた。

 ……み、見間違いだろう。きっと。

 最近疲れていたからな、幻覚を見たに違いない。……しかし、そんな幻覚を見るとは、俺は実は重度のシスコンだったのか?

 もう一度小さく溜息をつきながら、戸を開ける。

「もう、お兄ちゃん! なんで閉めるの!」

 プンスカ、と頬を膨らませているちっこい影。

 …………………。

 なんてこった。

 こいつは正真正銘の我が妹、舞だ。

 肩まででそろえたショートカットヘアで、眼はそれはそれは純真無垢な黒。頭の上にいつも突出してるハネ毛が特徴的な中学二年生である。体の大きさは――そうだな、横にいる沙羅ちゃんとくれべたら、沙羅ちゃんより少し大きいくらいか―――

「ってなんだアンタもいんだよ!」

 さも当然そうに舞の隣に座っている沙羅ちゃん。

「あ、お邪魔してます、神楽さん」

「……………」

 マイペースな二人に、もはや何も言えない俺。

 なんでやねん。なんでここにいるねん。

 訂正っつーか一応確認しておくが、ここ、俺の部屋だぞ。アイリといい舞といい、何故勝手に入ってくる。

「舞、何でお前がここにいるんだ」

「え? えっとね、電話くれたのよ、沙羅ちゃんが」

「あ、はい。えへへ」

 そこ、意味もなくニヤケ笑いすんじゃねぇ。

「……あんたら知り合いだったっけ?」

「え、何をいまさら?」

 ………まったく知りませんでした。

 舞よ、沙羅ちゃんと交友関係があるなら先にお兄ちゃんに言ってくれ。ていうかサラちゃんも「神楽」という珍しい苗字の時点で気づいてよ!

「ま、来ちゃったもんはしゃーないか……」

 と俺はため息を―――俺はいったい一日に何回ため息をすれば気が済む―――しながら買ってきた夕飯の材料を台所へ運ぶ。

 いくら一人用の部屋と言っても、簡単な調理器具ならあるんだ。

 俺はさも自分の家のようにくつろいで、まるでネコのように寝転がっている舞に声をかける。

「舞。お前今日はここに泊まってくつもりか?」

「うん」

「ま、そうだろうな……」

 舞や俺の両親が住んでる町はここからおよそ電車で三時間。でもって今は夕方五時。帰れないことはないが、あまり遅くに女の子をであるかしたくない。兄としても。

 て言うか、舞は約二年ぶりに俺に会ったっていうのに全然変わってねぇな。変わったのは背と―――

「…………」

 俺は冷蔵庫に具剤を入れながら舞を見て、

「……………おいおい」

 彼女の激しく変わっている身体的特徴を一つ発見。

 俺の目は彼女の〝そこ〟へと釘づけになっていた。

 とても中学二年生とは思えない、二年のうちになんてビックサイズになった―――胸の双丘(マウント・フジ)。妹の成長を喜ぶべきか否か……

 隣にいる沙羅ちゃんと比べれば、一目瞭然だ。

「……お兄ちゃん、何やらしい眼で見てるのよ。あたしが知らない二年の間に変態度とスケベ度をそんなにあげたわけ?」

 いや、妹よ。俺は元々変態度もスケベ度もない。

「で、お兄ちゃん、今日の夕飯は何なの?」

「……野菜炒めと簡単なパスタ」

 元もと多めに買ってきている(数日持つようにためるつもりだった)ので、三人分くらいはあった。ちなみに妹だが、料理の才能はまったくもってない。得意料理カップ麺。作れる料理カップ麺のポンコツに何かを作らせる方が無駄ってもんだ。

 てな訳で、しぶしぶ俺は夕飯の支度にとりかかるわけである。


 夕食を沙羅ちゃんと舞の三人で囲んでいるうちに、大体の事情はわかって来た。

 まず、何故沙羅ちゃんと舞が知り合いっつーか結構な友達だっかと言うと、それは簡単な話である。舞は霊媒者ではなかったけれど、この街にいるから霊媒者育成高校の初等部に通っていたことがあり、そこで沙羅ちゃんと同じクラスだったらしい。まさか舞としても兄(俺)の友達が自分の友達(沙羅ちゃん)の姉(渚)だとは思ってなかったらしかった。さらに、舞は渚とも面識があり、舞・渚・沙羅ちゃんの三人で遊んでいたこともあるそうな。いやはや、世間は狭い。

 て言うか、よくそれで俺が沙羅ちゃんと存在を知らなかったもんだ。

 で、もう一つ。何故舞が俺の家にいまさら来たかと言うと、それは沙羅ちゃんが舞に電話で「俺が明日霊道勝負をやる」と伝えたからであり、それを見に来たわけである。ああ、プレッシャーが増したぜ。

 だが、安心したことに、舞は俺を嫌ってはいなかったということだ。むしろ慕っていてくれている。すべては二年前のまま、だ。

「なんで、あたしがお兄ちゃんを嫌う理由なんてないじゃん。お兄ちゃんはお兄ちゃんだし」

 あんなことがあったあって、おう二年もたっているのにこう接してくれる心を持った舞が、我が妹ながら羨ましい。俺はいまだに香恋にどう接していいか決めあぐねているのに。

「で、お兄ちゃん。勿論勝てるよね?」

「心配するな。アイリもなんとかさまになったし、沙羅ちゃんとクリスも素質ある」

「そうじゃないよ。お兄ちゃん自身だよ」

 舞は身を乗り出して、箸で俺をビッと指して諭すように言ってくる。

「お、俺自身?」

「うん。お兄ちゃん二年もブランクあるじゃん。確かに二年前のお兄ちゃんはかっこよくてめちゃくちゃ強かったけど、今はその時の力が取り戻せてるの?」

「……まあ、なんとか」

「じゃ、いいや。もしこれでお兄ちゃんが二年前と同じで荒んだままだったらあたしが気合い注入したろーとか思ってたけど、その心配はないみたいだね。お兄ちゃん、そのアイリとかいう人に感謝だよ。……あたしでも、渚ちゃんでも駄目だったのにね、お兄ちゃんを立ち直らせるのは」

 少し悲しそうな顔を見せたが、すぐに明るくなって、

「あたしも応援してるからな!」

 と俺に抱きついてきた。

 思えばこいつは昔からスキンシップが好きで、よく俺に抱きついてきてた。

「しかし、今って何か昔みたいな感覚だよな……」

 昔……つまり二年前、香恋が死ぬ時より前、と言うことだ。俺の周りに渚がいて、寛治がいて、香恋がいて。家に帰ったらコイツ、舞がいた。

 笑いの絶えない日常だった。箸が転んでも笑える、とはまさにこのことだったのだろう。その時の気持ちを、今も少し、おぼろげながら、すこし感じている。

 アイリがいて、沙羅ちゃんがいて、香恋がいる。いや、それだけじゃない。クリスだっているし、ナギもいる。忘れちゃいけないが、二年前からずっと俺の隣にいてくれた寛治もいる。渚ともいつかヨリを戻したいものだな、と思う。

『恵まれたな、お前も』

『ああ』

 ナギの言葉に、俺もそう返しておく。

 恵まれてる……俺は本当に幸福になっても良いのだろうか、と思いながらも。

「お兄ちゃんも、もう昔のままじゃないんだね」

「……ああ」

 そう、返事した。


 そんなこんなで飯を食ったらもう七時過ぎとなっていた。

「沙羅ちゃん、そろそろ帰った方がいいよね?」

 俺は舞と談笑していた沙羅ちゃんに声をかける。

「え、あ! もうこんな時間!」

「親御さんも心配するでしょ」

「あ、はい。帰ります。舞ちゃん、神楽さん……て言うのももう変ですね。惟さん、今日はありがとうございました」

「いいってことよ」

 そうやって沙羅ちゃんを見送ろうとする……が。

「…………お兄ちゃん!」

 舞が俺の脇腹を突っつき、小声で話しかけてくる。

「なに?」

「あんなかよわい女の子を一人で帰らす気?」

「え、あ、あー。……ご、ごめん沙羅ちゃん。送ってくよ」

 舞にそう言われ、寮の廊下を歩いていた沙羅ちゃんに声をかける。

「い、いいですよ。そんな。惟さんの迷惑になると思うし」

「いいっていいって。……俺も、舞に言われるまで気がつかなかったのは男としてどうかしてると思うけどさ、こんな時間に一人で帰らすのも気が引けるし」

「……で、では、お願いします」

 俺は沙羅ちゃんの短い歩幅に合わせて歩き出した。


 夜の、肌寒い風の中、街灯の下を沙羅ちゃんと二人で歩いていく。寮から沙羅ちゃんの家までは沙羅ちゃんの足で二十分くらいあるそうだ。そういえば、渚に教えられてあいつの家の場所は知っていたが、中には言ったことはなかったな、と思う。遊び場所は大体いつも俺か寛治の家だったからだ。

「………あの、惟さん」

 ふと、沙羅ちゃんの方から声をかけてきた。いつも通りのか細い声で、注意していないと聞き逃してしまいそうな音量だ。

「沙羅ちゃん、どうしたの? 寒い?」

「いや、そういうわけじゃないんですけど。……ちょっと、お話してもよろしいでしょうか?」

 沙羅ちゃんのあまり見ない真剣なまなざしに、俺は、

「ああ、こんな俺でよかったら聞くぜ」

 と言っていた。

 沙羅ちゃんはその短い歩幅をさらに短くして、口を開く。

「……私のお姉ちゃん、渚は昔から強い人でした。こんな弱い私とは裏腹に、リーダっシップとか正義感がすごく強くて、男子にも負けない物言いとケンカ強さで……いい風にいえば『強い人』なんですが……。まあ、悪い風に言うと、『男勝り』だったんですよ」

 渚の性格は長いことをチームを組んでいた俺もよく知ってるし、あいつがただ凶暴なのではなく、凄く正義感が強いいいやつだということもしっている。

「……えっと、今からする話はお姉ちゃんには口止めされていたんですが……話しますね。私が惟さんに言ったことはお姉ちゃんには黙ってもらってていいですか?」

「ああ。勿論」

 俺は頷き、沙羅ちゃんは歩を進めながら話す。

「……それで、私のお姉ちゃんは男勝りで、あんまり恋愛とかに興味はなかったんですよ。……でも、ある頃から、お姉ちゃんの様子が変わりました。たまに誰かのことを考えるてるようになって、学校に行くのがとても楽しい、といった様子になりました。……それは確か三年ほど前くらいからのことでしたかね」

 三年前……俺と渚が中二のころだな。中一の中ごろから正式に寛治と渚とチームを組み始めてそれも軌道になって来たところだ。

「兆候は四年前……お姉ちゃんが中等部に上がったころからあったでしょうか。でも、その時の私はまだ気付いていませんでしたし、お姉ちゃんの中でも揺れていたんだと思います。

 でも、ちょうど惟さんとチームを組み始めたくらいの時から変わっていったんですね。しきりに何かを考えているようになっていって……。徐々にお姉ちゃんは学校が……いや、特に霊道部にいる時のことが楽しくて仕方がないようでした。私に学校でのことを話してくれる時も、いつも笑顔で、でもなにか照れくさそうな顔をしながら……。

 それで、その話の中でいつも出てくるのが、『アイツ』だったんです」

「………アイツ?」

「はい。お姉ちゃんはいつも、『アイツ』を話すときだけは特に嬉しそうでした。おそらく、その気持ちは恋だったんだと思います」

「恋……って、渚がか?」

「はい」

 ………それはまた、衝撃的な話だ。あの超がつくほど男勝りな武者が……恋?

 恋だと?

 似合わない。笑ってしまうほどに渚には似合わない言葉だった。というか、渚の姿からは想像できない。しかし、沙羅ちゃんの口ぶりからするに、それは冗談ではないのだろう。

 そうなると……相手は誰だったのだろうか?

「本当に、分からないのですか?」

「……ああ」

 沙羅ちゃんは俺の答えに少し悲しんだような表情を浮かべたのち、歩を止めた。

「…………」

 真剣な面持ちで、俺の顔を下から真っすぐ見てくる。

 そして、真摯な口ぶりで、俺に向かって言った。

 その、渚が好きだという相手を。


「貴方です」


 一瞬、理解ができなかった。何を言われたかが分からなかった。

 だが、落ち着いてみても、どこからどう考えても………聞き間違いではない。

 渚は、俺のことが好きだったの……か?

「過去形ではありません。おそらく、お姉ちゃんは今でも貴女のことが好きです」

「惚れてる」、という渚の言葉は、自分が、俺に、ということだったのか……。

「霊道部で一緒にチームを組むことになった、一人の男の子。お姉ちゃんはその時は『アイツ』としか言ってませんでしたが、今ならわかります。貴方、惟さんです」

「……寛治って可能性はないのかよ」

「いいえ。それはありえません。お姉ちゃんの傍に何年もいた私ならわかります。お姉ちゃんは貴方のことが好きなんです」

 渚が、俺のことを、ね…………。

 なんで、気付かなかったのだろうか。

 ずっと、あいつは近くにいたじゃねぇかよ。なのに、なんで気付いてやれなかったんだよ……。

 思い返してみると、兆候はあったのかもしれない。俺が気付かなかっただけで、いくつも……。香恋の墓での出来事もそうだ。でも、そんなのわかるわけ……

「……香恋と俺が付き合い始めてから、渚が距離をとりだしたのはそれが原因か?」

「はい。お姉ちゃん、ああ見えて恋愛に関しては素人で……惟君に告白する勇気がなかったんだと思います。そして、そのまま告白もできずに香恋ちゃんに……奪われた、という形になってしまったんですね」

 沙羅ちゃんは再び歩き始めながら、口を開く。

「お姉ちゃんは、ずっとそばにいたのに、友達の香恋ちゃんに取られてしまった、と言うことが悔しくて悔しくてたまらなかったんだと思います。惟さんが香恋ちゃんに告白され、それを貴方が受け取ったころをきいた日、お姉ちゃんが自分の部屋で御お泣きしていたのを私は見ていましたから……」

 香恋に渚。

 ……なんとまあ、俺は二人もの女子に好かれていた、と言うわけか。

「お姉ちゃんだって、貴方に告白する機会をうかがってなかったのではないみたいなんです。でも……その前に……」

「……………」

 その前に、香恋が死んだ。

「お姉ちゃんは、香恋ちゃんに何も言えなかったんだと思います。香恋ちゃんは、自分の死期を知っていて、貴方と付き合った。それは、彼女が最期に幸せな時間を過ごしたいと思ったからなのかもしれません」

 ここにきて、俺はようやく思い出し始めていた。

 香恋の葬式。

 その時の記憶は、あやふやながらも、少しずつ、頭の中に浮かんでくる。

 号泣している妹を、自分も泣き崩れたいだろうに、気丈にその背中を支えていた姉、渚。

 そして、その号泣していた小さな女の子は―――おそらく、沙羅ちゃんだったのだろう。

「お姉ちゃんは、こう言ってました。『香恋はあれだけの覚悟を背負ってアイツと付き合った。もう、あたしじゃダメなんだ』って。

 でも、おそらくお姉ちゃんは今でも待ち続けています。貴方の元いた場所であり、お姉ちゃんと貴方が出会った場所、共に歩んできた場所―――霊道場で。

 だから、お姉ちゃんは霊道を続けているんです。たとえ、自分が霊になったとしても」

 沙羅ちゃんの長い、長い話が終わった。

 少しの間、俺は開いた口がふさがらなかった。

 まず、一番に感じたのは……自分のふがいなさ。

 俺は、いままで、香恋を亡くしたことに、責任を持って、ずっとそこから離れられずにいた。自分が、彼女を不幸にしてしまったんではないか、と思っていた。それが正しいのか間違っているのかは分からない。

 でも、俺がその悲しみに明け暮れている間に、もっと大切にすべき人―――つまり、今を生きてる人―――を不幸にさせてしまったのかもしれない。

 香恋に渚。

 俺は二人もの女子を、自分の中から死なせてしまっていたのか。

 いったんこうネガティブに考え始めると、渚が死んだのも自分のせいだとも思えてきてしまう。そんなことはないとわかっているのに。

 ……………クソ。

 気持ちの整理ができたと思ったのは、俺だけだったのか……?

「……惟さん?」

 自分でも気がつかないまま、何分か黙考していたらしい。気付いたら、沙羅ちゃんの家の前―――つまり、渚の実家の前でもある―――に来ていた。

「あ、ああ、すまない」

「……惟さん。こんな話、やっぱりするべきではなかったでしょうか……」

「いや、沙羅ちゃんのせいじゃないさ。ただ、ちょっと、信じられなくて……」

 俺は、いったい何のためにここにいるんだ。

 香恋と渚と言う、二人もの友人を失っておいて。

 周りの人間とのすべての関係を壊しておいて。

 こんな………こんな下衆野郎は、もう孤独でいいじゃないか。

 つい先日までの、不良で、どうしようもない俺でいいじゃないか………。

 俺はもう精一杯やったんだ……。俺じゃ、ダメなんだ……。

「惟さん。自分を責めないでください」

「沙羅ちゃん。気持ちは嬉しいけど。それでも俺は―――」

「駄目です」

 沙羅ちゃんから発せられた言葉の中で一番強いその言葉は、俺の体を硬直させた。

「駄目です。惟さん。自棄になっちゃだめです。だって」


「生きてるじゃ、ないですか」


『生きてるんだから………』という渚の言葉と、今の沙羅ちゃんの言葉がだぶる。

 生きている。

 俺は、生きている。

 ………だが、なんのために?

「……惟さん。それに、きっと香恋ちゃんも、お姉ちゃんも誰も貴方のことは責めていませんよ。ただ……二人ともに共通するのは……二人とも、貴方のためにこの世界に残っているということです。それが、彼女達の『心残り』なんです。そのことを、忘れないでください」

 俺の……ために?

 香恋、お前は俺のためにこの世界に残ったのか?

 渚、お前も俺のためにこの世界に残ったのか?

「……沙羅ちゃん。それは君の勘違いじゃないのか?」

「駄目です。惟さん。駄目です。現実から目をそらさないでください。二人は、確実に、貴方のことを慕って、この世界に残ったのです。それは貴方の傍にいたいからですよ、惟さん」

 俺の傍に、か……。

 こんな俺に、そんな価値が、あるのだろうか?

 沙羅ちゃんを家に送った帰り道を、俺はゆっくりとした足取りで歩いていた。

 ……沙羅ちゃんは、きっと凄く強いんだろうな。

 おしとやかて、奥手で自分の意志を伝えるのが苦手で、周りのことが見えなくて自分のことで精一杯のように見えて、実は誰よりも渚や香恋、そして今は俺のことを見ていたということか……。

 敵わねぇな。

「……………」

 そして、頭に残るのは、さっきの沙羅ちゃんの言葉。

………貴方のために、この世界に残っているということです

 俺はいったい何のために、誰のために、生きているのだろう。

 俺は香恋をなくした。渚をなくした。そして自分の生きる希望も、何もかもをなくした。

 だが、まだ、自分にできることがあるのかもしれないと気付かされてくれたのは、アイリだった。

 ……もし、アイリをなくしたらどうなってしまうのだろうか。

 俺は、また大切な何かをなくしてしまうのか?

 また、守れないのか?

「…………」

 いったい「俺」と言う存在は、この世界にとっての何なのだろう。居てもいなくても変わらない存在。いつ消えても、何も変わらず、ただ時は刻んでいく。

 人間とは、世界にとってどのような存在なのだろう。

 それが個々で存在するとしても、その『個』では何もできない。消えれば、それで終わり。霊とは、そんな人間達の世界への最後の干渉と言うことなのだろうか。

「…………」

 あー、もう! わっかんねぇ!

「くそっ!」

 俺は頭を両手でかきむしる。

 わからねぇ。もう、何が何だか、わかんねぇ。

 もう、歩くのをやめてしまいたくなる。

 この世界から離れてしまい、時の流れから脱することができれば、なんと楽なことだろう。……だが、

「俺一人がそんなことするわけにはいかねんだよ……」

 アイリはどうする? 沙羅ちゃんはどうする? 皆、頑張って来たじゃねぇかよ。『個』じゃなく、『集合』として、『仲間』として、頑張って来たじゃねぇかよ……。

 でも、もし、それが、別に俺じゃなくてもよかったら?

 アイリは別の誰かを頼り、別の誰かと霊研を始めて、結局は霊道部と対立する。

 それは、変わらなかったのか?

『……なぁ、ナギ。お前はどう思うよ?』

 自分ではもうここまで考えるのが限界だと思い、俺はナギに聞いてみる。

『拙者に聞いても、真実は出ないと思うぞ?』

『んでもいーんだよ。なにか、何か言ってくれよ』

 そして、俺がこの世界には必要ない、と言うことを、否定してくれよ。

『……ならば、拙者からは一つ言おう。それは、お前は、そういうことは柄じゃない、と言うことだ』

『……は?』

 何かの冗談か?

『別に拙者は冗談を言ったつもりはない。ただ、神楽惟。お前はそういうタイプではないだろう。世界のこととか、生と死とか。お前はそんなことを深く考えるようなタイプじゃないだろう。思春期になって、確かにそういうことを考えたくなる時期ではあるのかもしれないが……拙者も考えたことがある。それについては。でも、答えはすぐ出た』

 ナギはそこまでを一気に語ってから、

『んなこと知らん』

 言いきった。

『んなこと知らんって……』

『知らんもんは知らん。拙者は生前の記憶はないが、それでも霊になって幾度か自分の意味を考えた。自分が何故この世界にいるのか、自分の心残りは何なのか、何度か考えた。だが、そんなことを考えたところで、答えは出ないだろう。時間の無駄だ。無駄』

 ナギは言いきる。

『そんなことをして時間を使うのなら、もっと、楽観的に楽しく過ごせ。だって、人間でも、霊でも、この世界にいるのだからな。肉体があろうとなかろうと、この世界に魂があるならそれでいいじゃないか』

 ナギの言葉は、なにも難しいことは言ってない。簡単なことしか、楽観論しか語っていない。だが、それでも俺の心にはズシリと響いてきた。

『お前の生きる意味なんて、知ったこっちゃあない。それこそ他人の拙者に聞くもんじゃなかろう。

 でも、一つ、言っておく。

 お前は、決して拙者のお荷物ではないし、拙者は貴様のことが嫌いではない。むしろ好きだ。だから、拙者はお前にこの世界にいてほしい。それだけじゃ、存在理由は不十分か?』

『不十分かって……お前、えらく自己的な考え方なのな……』 

『自己的でなにが悪い。人間なんてそんないきものだろう? むしろ、くよくよして何もしない方が最悪だ。お前だってそうやって生きてきたんだろう?』

『……まあ、な』

 そっか。そうだよな。

 さっき見たいにくよくよ考えるのは俺の性分じゃないよな。

『……ありがとう、ナギ』

『べ、別に拙者は貴様に感謝される覚えはない……が、まあその言葉は受け取っておこう』

『ああ。じゃ、俺は『今』のことだけを考える。だから、ナギ。明日は頼むぜ』

『……そのことに関しては、期待しておけ。何せ、拙者はお前の霊なのだからな』

『ふん、どんな根拠だよ』

 ナギの言葉は、理論的にいえば、ひどく間違っているかも知れない。ずっと生きる意味やなんかを研究してきた心理学者にとっては暴論にしか過ぎないのかもしれない。

 でも、俺にとっては、最高の答えだよ、ナギ。

「あ、お兄ちゃん、お帰り」

 ……………。沙羅ちゃんやナギとの会話ですっかり忘れていたが、今俺の部屋にはこいつがいたのであった。それこそ今すべき難題じゃないか。

「……舞、お前俺の部屋泊まってくつもりか?」

「うん。いいじゃん、兄妹なんだし。それともなに? お兄ちゃんって妹に欲情したりするの~?」

「んなことするか、バーカ」

 むしろお前は嫌じゃないのかよ。兄と言っても俺は一応一六歳男子高校生なのだぜ。

「ん。いいよ。あたしはお兄ちゃんのこと好きだし。あ、もちろん家族って意味でだよ」

「んなこと分かってる。……じゃなくて、舞。お前は俺がこんなダメ人間……俗にいう、不良なのに、嫌じゃないのか、と言うことだ」

「あははー。何言ってんのよ。不良でもなんでも、お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃない。それ以外に理由いる?」

 いや、要らないのだが………。なんとも、純粋な娘なのだろうか。

 そういえば、と俺は思い出し、舞に、

「お前、渚が俺のこと好きだったってこと、知ってたのか?」

 と聞いてみた。

「え? 何をいまさら」

「いまさらって………」

 俺はそのことで悩んでたんだぞ。それを簡単に……

「ま、気付かないお兄ちゃんが悪いよね。どんかーん」

「ぐ…………」

 舞に言われるとなんか腹立つ。

「ま、舞。もう夜も八時を回ってるぞ。さっさと風呂は言ってきたらどうだ? 風呂は九時までしか空いてないぞ?」

「はーい。じゃ、一緒に入る、お兄ちゃん?」

「ゲハッ」

 俺は舞の突拍子もない提案に思わずむせてしまう。

「な、何を言ってるんだ舞」

「え、別にあたしはいーよー」

 お前がよくても俺がよくない! それに一緒にってお前どっちに入る気だ! 女子風呂か、男子風呂か? 男子風呂だと俺が変な目で見られる……以前に他の男子に舞の裸をさらすわけには兄として許すまい。女子風呂だと俺が一歩でも入った瞬間に女子にけり殺される。ここに混浴風呂なんてねーんだよっ!

「あははははは。冗談よ。冗談」

「……そんなんに笑えない冗談を言うんだったらもう帰ってくれ……」

「そーゆーわけにはいかないよー。お兄ちゃんと渚お姉ちゃんの勝負を見届けるまでは」

「……………はぁ。じゃ、ま、さっさと風呂行ってこい。俺も後から男子風呂行くから」

 てか、最初からタオルとか着替えとか用意してるとこを見ると、最初からこの展開を絶対読めてたな、アイツ。

 んでもって、翌日、四月三十日水曜日。

 決戦、当日である。

 決戦当日の朝は、七時に妹のモーニングコール(布団上からののしかかり)によっておこされた。そのおかげで朝食中は腹が痛くて生きた心地がしなかった。

 で、学校にいつも通り登校。……今思えば、昔は遅刻常習犯だったのに、アイリと会ってから、まだ遅刻をしていない自分に驚く。何かと言って忙しかったんだな、俺。

 昼休みもつつがなく過ぎ、早くも午後の授業に突入する。

 五時間目は運悪くも体育で、俺はやってるふりをしながら適当にこなしていた。こちとら放課後に霊道部との勝負が控えてるって言うのに。

 んで、六時間目の授業なのだが、先生の急病により急に自習となった。自習と言っても俺は自習道具なんぞ持ってきておらず、監督だ、とか言って出張ってくる担任藤森に勉強しろとせっつかれても困るので、休み時間中にさっさとフケることにした。

 始めは霊研部室に行ったのだが、これまた運悪く鍵がかかっていて(いままでかかってたことなんかねぇじゃねぇかよ)霊研部室で時間をつぶすのはあきらめる。

「じゃ、後は寝れるとこって言うと……」

 保健室くらいだな、と俺は思う。保健室は養護教諭のいてる部屋と休養部屋は、廊下をはさんで逆側にあるので、養護教諭に見つからずに潜入することは難しくない。今までもそうして幾度か保健室にお世話になって来た。

 休養室前に着き、『休養者以外立ち入り禁止』という札をことごとく無視して入る。無論ノックもなし。そして、入ると……

「……あちゃ、人いんのかよ……」

 カーテン越しに、一人の生徒のシルエット―――あれは女子か―――が見える。見える、というのは今その女子生徒はベットに身を入れようとしていたところで、上半身を起こしていたからだ。

 だが、まあばれなきゃいいか。と思い、俺は女子生徒がいるそのベッドの前を通過しておくに行こうとし―――

「……ってアイリかよっ!」

 そのベットに寝ていた生徒を確認してすっこける。そこには白百合アイリが寝ていたからだ。

「なによ、アンタ。サボリ?」

「……言わずもがな、だ」

 アイリはおそらく俺と違ってちゃんとした方の理由でここで寝ているのだろう。そういう人たちのことを思うとここで寝るのも少し悪く思えるが、心の休養だ、休養。と思い、自分の中で自己完結して納得しておく。

「それよりアイリ。大丈夫なのか? この次、霊道部との試合だろ?」

「ええ。ちょっと体育の授業でしんどくなっただけだから……。いつもなら授業に出てるんだけど、この次は、アレ、だからね。大事をとって、よ」

「そうか。なら安心した」

 俺はアイリがいるベッドの横に腰掛ける。

「……いよいよ、だな」

「いよいよ、だわね」

「思えば最初にお前に話しかけられたのが運の尽きだったのか……」

 坂の上で会った、あの少女。もっとも、自分の中では彼女が香恋に憑依されていることを何となく理解していたのかもしれない。それが既視感の原因みたいだしな。

「なによ、運の尽きって。そこは女神との出会いとでもいうべきじゃないの?」

「女神? お前がか?」

「そうよ。……って自分で言うのもなんか気恥かしいけどね」

 ……でも、まあ、

「お前はある意味俺にとっての女神なのかもしれないな……」

「え? どういうこと?」

「……なんでもない」

 二回も言わせるな。言うこっちが恥ずかしいだろう。

「まあ、あたしもアンタに出会えたことは感謝してる。沙羅ちゃんもそうだけれど……この学校に、あたしのことをこんなに認めてもらえる人がいて、あたしは凄くうれしかった」

「……いまさら何を改まって」

「ははは。そうよね。……でも、これだけは言っておくわ」

 アイリは起こしていた上半身を体ごと向け、

「ありがとう」

 優しい顔で、俺にほほ笑んだ。

 あーチクショウ。

 大抵の男と言うのはこの笑顔で女に惚れちまうものなのだろうか。

 それくらい、彼女の笑顔はまぶしくて、愛らしかった。


 そんなこんなで六時間目も俺がボーットしてる間に過ぎて終わった。アイリも隊長は大丈夫そうで、万全と言えるだろう。俺達は二人で教室へ戻って、終わりのSHRを受ける。藤森は諸連絡をしたのち、すぐに解散となった。

 俺とアイリは霊道場へ向かう途中、沙羅ちゃんと合流した。来た沙羅ちゃんは何も言わず、ただ、俺達二人へうなずいてくれた。

 さて。今、俺達は霊道場の扉の前に立っている。

 この戸を引けば、もう、勝負は始まるのだ。

「…………」

 俺は無言で、横の二人を、みる。

 どちらも無言で……だが、『いいわよ』と言うような顔をしていた。

 ま、悪いわけないわな。

 ……それじゃ、こちらの面子もそろったことだし、行きますか。

 俺は、霊道場の扉を、厳かに明け放った。


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