第三章
外の雨と雷は激しさを増し、窓からは時折雷光が差し込み、部屋の中を一瞬だけ明るく照らす。数秒遅れて爆音が俺達を襲う。
何故、彼女がここにいる?
初雪香恋が、俺の元彼女が、何故ここにいる?
死んだはずだ。血を吐いて倒れたのも、息を引き取ったのも、すべて俺が隣で見ていた。
最後の彼女の笑い顔。それは今でも脳裏によみがえってくる。
しかし、彼女は今俺の前に立っていた。
夢ではない。これは……現実だ。
「………香恋……」
名を呼ぶ。
二年ぶりの再会。
何故……存在理由は簡単だろう。彼女は霊なのだから。
だが、そもそも何故彼女は霊に?
何が、心残りなのか?
そして、何故、アイリの元に………
「…………香恋……」
彼女と過ごした日々。彼女の笑顔、彼女の泣き顔、彼女の恥ずかしそうに顔を赤らめる様子。
すべてが、思い出される。
初デートで、ファーストキスをした時の彼女。学校で、人目を忍んでキスもした。
俺の隣で可愛らしい寝息を立てていた彼女。
そして、
最初に告白された時の、彼女。
「……香恋………香恋………!」
また、彼女に会えた。
また。
愛おしい。
抱きしめたい。
今すぐ、彼女を感じたい。
俺はっ……!
「……ちょっと、惟、どうしたのよ? 香恋ってどういうこと?」
アイリが俺に話しかけてくる。
「……………っく」
が、そのアイリの言葉も俺の耳には届かない。
手を顔に当てると、涙の感触が感じられた。
俺は………泣いているのか?
二年前。もう、涙など枯れたはずなのに。
「…………っ、はっ……ぅ」
止まらない。
香恋との記憶の奔流のように、涙は俺の顔をくしゃくしゃにしていく。
「…………惟」
「………神楽さん」
アイリ達が、心配そうに俺を覗き込む。
『…………惟』
ナギも、頭の中に直接話しかけてくる。
だが、
「………すまん」
俺は………
「……一人に、してくれ」
俺は、耐えられそうにない。
香恋が再び俺の前に顔を出したこの状況に。
*
彼女は俺の支えだった。
生きる希望だった。
だから、それを失った時、同時に俺の心の大部分も失った。
自分の手足を奪われるよりもきつい感覚が、俺の心を蝕んだ。
自分はなぜ生きているのか。
彼女のいない世界に、何故生きているのか。
何もかもが分からない時を何カ月も過ごした。
おそらく、彼女は気付いていたのだろう、自分の命があと少ないことは。両親は彼女に言ってなかったらしいが、自分の霊が悪霊であると知っているなら、おそらく予想はついていたはずだ。
自分の命がもうすぐ尽きると、悟っていた。
なのに、俺と付き合った……いや、だからこそだろうか。
だからこそ、俺に告白する勇気が生まれたのだろうか。
なら、なんて強いんだ。
なんて、彼女は強いんだ。
その、弱々しい外見の中に、何を抱えていたんだ。
なぁ、香恋。
お前は俺にどうしてほしかったんだ?
デートか? キスか?
だから、お前はあんなに焦っていたのか?
……だけど、俺はそれを受け止めきれなかったのかもしれない。
もっと……もっと大切にしてやれなかったのか……。
霊道のことで、お前にかまう時間が少なかったのか……。
もっと、
もっと、お前に触れたかった。
顔を上げ、前を見る。
涙でかすんだ視界に、彼女は立っていた。
初雪香恋は、さっきから姿勢を変えず、俺の前に立っていた。
アイリはいない。沙羅ちゃんもいない。おそらく部屋の外にいるのだろう。香恋がまだ顕現していられるということはそういうことだ。
雨の音は次第に小さくなっていく。
「………香恋」
俺は、続きをしたかった。
彼女との日々の続きを。
「……………」
俺は手を伸ばし、彼女を抱擁する。
だが、
「………っ!」
もちろん、感触は、無い。
俺の腕は、香恋を体を突き抜けていた。
俺よりも二回りも小さい、その弱い体に、
触ることができなかった。
もう、触れることができない……。
誰だよ………。誰が、こんなシナリオを望んだよ。
なんで、こんな、辛い現実を……俺に見せつける。
………俺は、
こんなにも、近くにいるのに。
二年も、待ったのに。
彼女を感じることが、出来ない。
「……………クソ…………」
雨と雷の音だけが、俺の耳に届いていた。
*
朝。
「…………」
少しも、眠くない。
何故なら、僕は一睡もしなかったからだ。
僕は横を見てみる。
すると、そこには可愛らしい寝息を立てて寝る香恋がいた。
すぅー、すぅー、という呼吸とともに、彼女の肩が、胸が、上下する。
彼女は、僕の腕の中で寝ていた。
「………」
壊れてしまいそうな、華奢な体。
でも、それは壊してしまいたいほどに愛おしい。
「………香恋」
僕は彼女の頭に自分の顔を近づけた。
彼女の顔が迫る。
髪の毛が邪魔にならない距離になり、彼女のその美しい顔立ちがはっきりと見て取れるようになる。
「……ん」
彼女は眼をちかちかと半開きにさせ、こちらを見てきた。
その目に、拒否の意志は宿っていなかった。
「………」
そのまま、僕達は唇と唇を重ね合わせた………
……………
………
*
朝。
これは、現実の、今の、朝。
「…………夢、か」
少しも、眠くない。
一睡も、できなかった。
俺は鏡の前に立つ。
目は真っ赤にはれ、隈が少しできていた。髪はぼさぼさにはね、何日も手入れしてないように見えた。
いや、実際に、俺は自分を二年間整理してこなかったのかもしれない……。
だから、こんなにも応えるのかもしれない。
「…………今、何時だ」
時計を見る。
針は、すでに一一の文字を回っていた。
「……………」
今日は半ドンなのだが、学校に行く気力も、湧かない。
四月一九日土曜日。
「…………くあー」
あくびをする。
そしてそのまま、後ろ向きに倒れ込んだ。
布団の柔らかい感触が俺を包み込んだ。
「…………」
一日悩んだが、気持ちの整理などまったく付かなかった。
ああ。
俺はこんなにも弱かったんだな。
俺は、二年前、彼女を無くした。
それは俺の心に大きな傷を生み、俺は生きる意味を見失った。
だが、それは違ったのかもしれない。
俺は、まだ認めていなかったのかもしれない。
彼女が……初雪香恋が死んだことを。
悪霊に心を蝕まれ、死んでいったことを。
でも、昨日。彼女が《霊》として表れたことでそれはもう目をそらすことができない事実になってしまった。
彼女は《霊》。言い方を変えれば《幽霊》だ。
死んだあとに残る、魂だけの存在。
もう、俺は彼女にキスをするどころか触ることもできない。
わかっていた。
そんなこと、二年前にはわかっていた。
なのに。
俺は……。
俺は、全然理解してなかったんだ……。
この二年間、ずっとその事実から逃げてきたんだ。
認めるのが怖かった。肯定してしまうのが怖かった。
彼女が死んだという事実が嘘だと、夢だと、誰かに言ってほしかった。
この世界は虚構で間違っていると、否定してほしかった。
そんなことはないのに。
………チクショウ………。
馬鹿だな……、俺は。
馬鹿……………
*
気づけば、もう午後二時だった。
あいつは……アイリ達は今日もクラブをしているのだろうか……。
「………」
耳を澄ましてみる。だが、隣の部屋からは何も聞こえてはこなかった。と言うことはまだ学校に残っているのだろうか?
「……あー、そういや」
一つ、確かめたいことがあったのだ。
昨日今日と悩んで、アイリに聞かなければならないことがあった。
それさえ聞ければ、すべての決着がつく。
もう、後ろを見ずに歩けるかもしれない。
「……行ってみっか……」
カバンも掴まず、外へ出る。服装は昨日から制服なので問題ない。
歩いて一五分ほどで学校へ着いた。
「………賑やかなものだな」
運動部や霊道部の練習の声、吹奏楽部の練習の音。
放課後は、こんなにも音に満ち溢れていたのだろうか。
俺にもこんな時期があった。それは勿論、彼女が死ぬ前のこと―――俺がまだ、霊道部に属していたころだ。その頃の俺は、今の彼等のように放課後も一心不乱に霊道の修業をしていたに違いない。
俺は上履きに履き替え、旧校舎へ向かう。
「………なんて顔して会えばいいんだろな……」
昨日、あんな別れ方をしたままだ。掛ける言葉も、作る表情も、分からない。
図書準備室―――もとい今は霊研の部室の前に立つ。
「……ふぅ」
一呼吸。
「…………ちっす」
力なくいいながら、入室する。自分がいても良い場所のはずなのに、そこは俺のいてはいけない場所、敵地のような気がした。
「……惟」
アイリの驚いた声。
部室の中にはアイリと沙羅ちゃんがいた。二人の霊は見当たらない。
「………もう来ないかと思ってたわ」
目を見開くアイリと沙羅ちゃん。
「ああ。俺ももう来ないつもりだった……」
三人の霊研部室を、気まずい沈黙が貫く。残念ながら、今の俺にそれを解消する手立てはない。
「……もう、いいのよ、惟。来なくても。……あなたと香恋に何があったかは知らないけど……、昨日の貴方を見ていれば、ある程度は理解できるわ」
「ああ」
「……そんな貴方にまで、香恋が霊である私の近くにいてもらわなくても良いわ。もう、霊研の活動は始まった。後はどうにかうまくやっていくわよ」
「……ああ」
「…………」
なんといっていいかわからない、と言いたげなアイリ。
「………大丈夫ですか?」
すると、沙羅ちゃんが俺の方を見て話しかけてきてくれた。
「目、赤いです」
「……あまり見ないでくれ」
「す、すみません」
「……いや、気にすることはない……」
しかし、俺がこの部から去るとなると沙羅ちゃんはどうするのだろうか?
アイリと二人きり、か……。
まあ、アイリも鬼ではない。なんとかうまくやっていけるだろう。それに、霊もいるのだし。クリスと……香恋も。
「アイリ」
俺は心を決めて真剣な声でアイリに尋ねる。
「香恋を、出してもらえないか?」
「………いいの?」
「ああ」
「……わかった。……んっ」
昨日と同じように彼女の体から光が放たれ、それは香恋を構成していった。
俺はまたもやその姿を見て動揺するが、昨日みたいに取り乱すことはなかった。
「……香恋」
「はい」
香恋は、屈託のない笑顔で答える。
「香恋。お前は……」
「お前は、俺のことを覚えているか?」
事の核心。
そう、それは、
彼女の記憶があるかどうかということだった。
通常、霊になったばっかりの死霊―――神霊や悪霊を除く―――は記憶を失っている場合が多い。自分の名前も、生い立ちも、生前の記憶が一切ない状態で憑依するのだ。
……仮に、目の前に元彼がいても、気付かないはずだ。
「……どうだ、香恋。俺のことを覚えているか?」
「……すみません。……まったく」
……ははは。
やっぱりか。
やっぱり、彼女は俺のことを知らないのか。
アイリの霊、初雪香恋は、神楽惟を知らない。
俺との思い出など、一つも、ない、のか……。
「………あたしもね、惟」
アイリが俺に言う。
「あたしも、知らなかったんだもの。『香恋』って名前でさえもアンタがこの子呼ぶのをきいて初めて知ったのよ?」
「……そう、か」
……………。
何か、俺の上に乗っていた重しが取れたようだった。
「……こいつは、さ」
だからか、気が付いたら、俺はアイリと沙羅ちゃんに話しかけていた。
「……俺の、元カノなんだ……」
俺と、香恋の。
二年前の話しを。
始めた会った時のこと。告白された時のこと。デートした時のこと。彼女の家にはじめていった時のこと。
全部を、話した。
「………そう、だったの……」
彼女が死んだことまでを話し終えると、アイリは沈鬱な声でそう言った。
「……その後からだよ。俺がグレ始めたのは……」
「…………」
部屋の中に重い、重い空気がたちこめる。
当然かもしれない。人の死を扱っているのだから。好きじゃねぇな、こんな空気。
「ま。それだけのことで、それ以上のことでもない。……二年前の、記憶さ」
事実。今回のことで踏ん切りをつける必要があるかもしれない。
もう、香恋のことを忘れるべきなのかもしれない。……だが、果たして俺にそれができるだろうか……。
「……んなもんわかんね―、か」
どうなんだろうな。
「………じゃ、俺帰るわ」
と言いながら、俺は霊研部室を後にした。
後ろは振り向かなかった。
もう、来ることはない場所だな、と漠然とそう思った。
*
日曜日が過ぎ、週明けの月曜、火曜と流れるように過ぎ去っていった。
日曜日は特に何もすることもなく、寛治の家に行って適当に駄弁っていた。しかし俺の心の揺れは隠しきれなかったようで、結局寛治にも霊・香恋のことを話すことになってしまった。あいつは俺に何も言ってこなかった。
月曜日、火曜日はずっと寮で寝て過ごした。学校など行く気にはなれなかった。
というか、怖かったのかもしれない。
隣の席の、アイリに会うのに。
アイリはあれから俺と会っていない。もう俺を起こしに来ることもなかった。
ただ、怠惰の時間だった。
まるで、香恋を失ってからすぐの、あの時に戻ったようだった。
「……いや、違うか」
そうではない。
まるっきり、あの時と同じではないのだ。あのときのように見境なく何かを、自分を欺瞞したくなるようなことはなく、ただ、今は何もする気力が起きない。
何か、もう、色々失った気持だ。そして、その何かが分からない。もしかしたら俺の考えすぎかもしれない。
「…………」
今は、四月二三日水曜日、午後三時。
今日も、俺は学校を休んでいた。
その日の、三時半位であっただろうか。
「………神楽さんっ!」
沙羅ちゃんが、俺の部屋のドアをバンッ、と大きな音を立てて開け、入って来た。
「………沙羅、ちゃん?」
つーか、またしても、鍵は?
「……やっぱアンタか」
後ろに見えるのは、沙羅ちゃんと同じくらいの身長の女性―――上里汐織だった。
しかし、その目はいつになく真剣で、表情に少しも笑いが見てとれなかった。
「神楽さん! 神楽さん! 神楽さん!」
「……俺の名前をそんなに連呼されても状況はつかめん。落ち着いて説明してくれ」
沙羅ちゃんは走って来たのか、肩で大きく息をしている。
彼女をここまでさせるとは、よっぽどのことがあったのだろうか。
俺はとりあえず沙羅ちゃんの傍まで行って、頭をポン、と押さえてみた。
「………ふぇ?」
「……とりあえず落ち着け。お前」
「す、すみません……」
「でも、急な要件なんですよ!」
と汐織さんは俺の部屋に入ってきて言う。
……俺のプライバシーはないんでしょうか……緊急事態の時だけだよな、こう言うのって……いつもこんな簡単に部屋に入られてるわけじゃないよな?
今度、学校に行っている間に部屋に誰か入った痕跡がないか調べよう、と思ってから、
「……沙羅ちゃん。何があったんだ」
ようやく落ち着きを取り戻しつつある沙羅ちゃんに聞いてみた。
「……えぇとですね……。あのっ、アイリさんがっ!」
だが、説明を始めようとすると、気が焦ってしまっているのか、また言葉が聞き取れなくなってしまう。
「……沙羅。それでは伝えられませんわよ」
いてもたってもいられなくなったのか、沙羅ちゃんの霊、クリスがいつの間にか横に出現していた。
「ごめんなさいね、惟」
「いや、俺はいい。それより、何があったんだ? 学校で何か困ったことがあったのか?」
「ええ。少し。実は……アイリが」
「……アイリが?」
「アイリが……」
「アイリさんがっ、いないんですっ!」
クリスの声を遮り、沙羅ちゃんは俺が聞いた中で一番の大声を張り上げて、俺に言った。
「いないって……」
「はい。今日、いつも通り霊研部室に行ったら、アイリさんがいなくて。今までそんなことなかったから私心配して、で、この寮に帰ってるのかな、と思ってきたらいなくて……」
沙羅ちゃんは息をする間も惜しいといわんばかりに話す。
「いない?」
「……鍵をあけて部屋に入ってみたら制服もカバンもなかったわ」
汐織さんが代わりに言う。
「……帰ってきてないのか?」
「ええ。靴もなかったわ」
「……学校の靴箱は?」
俺は沙羅ちゃんに聞く。
「……すみません、見ていませんでした。てっきり帰っているものだとばかり思っていたので……」
「私も見ていませんわ」
ちっ。俺は思わず舌打ちする。
「……沙羅ちゃん、まだ走れるか?」
「え、あ、……どうでしょう? 私ももう体力が……」
「分かった……じゃ、自転車に乗って行こう」
体の軽そうな沙羅ちゃんのことだ。二人乗りくらいしても大丈夫だろう。
「自転車、ありますよね、汐織さん?」
「……裏に私のが」
「ありがとうございまず。汐織さんはここで待っていてください。もしかしたら戻ってくるかもしれないので」
「ええ。……気をつけて行って来てね」
「……はい」
俺は汐織さんにそう返事して、部屋を出ようとする。
「あのっ、神楽さん。制服は……」
制服、制服ね……。さすがにそれがないと校内にすら入れないか……。
「よし。上だけはおっていく。着替えている時間も持ったいない」
そう言って、だらしなく床に放り投げていた制服の上を拾い、私服の上から着る。
「……沙羅ちゃん、行くぞ!」
「はいっ!」
沙羅ちゃんと手を引っ張り、小走りで寮の裏へと向かう。するとそこには汐織さんの言った通り、彼女の自転車があった。
「……少し小さいが……文句は言えないか…」
なんせ、非常事態だ。この際、警察の皆さまにも二人乗りくらいは目をつむっていただきたい。
「……乗って」
俺がまず自転車のサドルに乗り、彼女は後ろに腰掛ける。
「……二人乗りって初めてで……何か緊張します……」
「大丈夫だ。しっかり俺の体をつかんでおけよ」
「はいです」
沙羅ちゃんは俺の指示通り腕を俺の体に回す。
色々体の各部が当たって動揺することこの上ないのだが、ここは俺の理性に頑張ってもらうしかない。
「……じゃ、行くぜ……GO!」
俺と沙羅ちゃんを乗せた自転車は、学校へ向けてよろよろと進みだした。
*
十分後。
「………はぁ、はぁ、はぁ」
俺は肩で息をしながら、校門の前に立っていた。沙羅ちゃんもしっかり隣にいる。自転車は見つからないように林の少し中に隠しておいた。
「まずは昇降口だ」
そう思い、新校舎側にある昇降口へ向かう。自転車を降りてからはクリスも再び顕現しており俺達と共に走っていた。
「……って俺番号しらねぇし」
と、げた箱にたどり着くとすぐに思ったのだが、
「……そういやあいつ、転入生だから最後の方か……」
と思いなおし、二年の靴箱の一番端まで見に行く。
「どうですか」
靴箱を覗き込む俺に、沙羅ちゃんは不安の面持ちで話しかけてきていた。
「………外靴が置いてある。アイリはまだ学校にいる」
俺達はそれぞれ自分の靴箱に向かい、上履きに履き替える。ロッカーが今日に限ってうまいこと開かずに、俺の焦りを増長させる。
「とりあえず職員室に行くぞ!」
上履きに履き替えた沙羅ちゃんと合流し、職員室に向かう。
職員室に入った俺と沙羅ちゃんに向けられた驚きのまなざしだった。―――いや、まあほとんどは不良生徒である俺の来室が原因だろうが。そのほかにも霊を顕現させたまま職員室に入るという若干マナー違反なこともそれに含まれているのかもしれない。
「いつも思うんですけど職員室ってなんか緊張しませんか?」
沙羅ちゃんが俺の横でか細い声で言う。俺はよく来ているので慣れているのだがな、職員室。……主に、職員室の奥にある生徒指導室の関係で。
俺は職員室を隅々まで見回す。
目的の先生は右端で自分のデスクに向かって座り、パソコンを打っていた。
「……藤森先生っ!」
俺はその先生―――二―A担任藤森京香の元へ行く。
「……神楽君? えっ? 今日貴方学校は―――」
「それは今はいいです! それよりもアイリは!」
声を荒げ、藤森の言葉を遮る。
「……アイリ、さん?」
藤森は何故だろう、といったふうに怪訝そうに聞き返す。
「ああ、アイリ。白百合アイリだ。……出席簿、見せてくれませんか?」
「出席簿? 何故かしら……まあ、ここにあるけれど」
びらっと差し出された出席簿を藤森の手から半ばひったくるように受け取る。
「……転入生だから出席番号は最後だ……。…………」
そこに書かれていた内容。
それに、俺はしばしの間絶句してしまう。
「……マジ、かよ……」
「………神楽さん、どうしたんですか?」
沙羅ちゃんとクリスが俺の持っている出席簿を横から覗き込み、
「……………………………」
俺と同じように絶句した。
何故なら、
そこには、白百合アイリの名前の横に書かれていたのは。
「………なんで、だよ」
保健室を表す、大量の『ホ』と言う文字だった。
最初の方こそ多くないものの、俺が香恋と再会した日の五,六時間目などの枠に、『ホ』と書かれており、その先の土曜、月曜、火曜も、コンスタントに『ホ』の文字が様様の筆跡によって書きこまれていた。
「………つまり、あいつは保健室常連だったっつーことか……?」
あいつが授業に出ていなかったのは、サボっていたからではなく、保健室に行っていたからか?
そして、今日。二十三日水曜日。
「二時間目から、全部休み……」
どういうことだ、これは。
……いや、単純に考えれば答えは一つ。
アイリは、病弱だったのだ。
「……マジか?」
だが、今までの力強いアイリを見ていたせいか、なかなか信じることができない。
「「……………」」
俺と沙羅ちゃんは出席簿に目をやったまま、しばし立ち尽くしてしまった。
「……保健室に、行ったらどうですの?」
クリスが言ってくれるまでまったく言葉を発せなかったのが俺達の動揺を表していた。
「こんなところで立っていても事は進まないでしょう。アイリの真相を確かめるべく、保健室に行くしかないんじゃない? もしかしたら仮病かもしれないし? 尤も、そうだったら苦労はしないでしょうがね……」
仮病……それならどんなにいいことか。
アイリが……あの強いアイリの弱々しいところなんて見たくない。
「……よし、行こう」
そう言って俺達二人――いや、クリスを含めた三人は新校舎一階、保健室へと向かった。
「……失礼しまーす」
先に保険の先生の断ってから、救護室に入る。そこには白いカーテンに区切られて、四つのベッドがあった。
電気は消えているが、夕日が窓から差し込み保健室を茜色に染め上げている。
そして、人の影が見えるのは一番端の窓際。そこしかなかった。
「…………」
俺は何とも言えない気持ちでそのカーテンの仕切りをとる。果たしてこの時、俺は何を期待していたのか。居てほしかった? 居てほしくなかった? 残念ながら、それは俺には分からなかった。
でも、実際、そこにはいた。
ベッドに横たわるアイリが。
「…………惟」
アイリがこちらに気付いたのか、俺達を一瞥し、口を開く。
「………それに、沙羅ちゃん、クリスちゃん、それにナギさんも……」
アイリに言われるまで全く気付かなかったが、ナギも顕現しており、俺とクリスの間に立ってアイリを見ていた。
「…………」
俺達五人の間に、沈黙が落ちた。
「…………なんで」
それを破ったのは勿論俺で、
「…………なんで、言ってくれなかったんだよ……」
「……言ってくれなかったって、何を?」
「だからっ………! ………」
何を、何をだろう?
今の弱々しいアイリを目の前にして、なんといえばいいのだろう。
「………あたしが、体弱かったって、こと?」
「う…………ああ、そうだ。出席簿、みたぜ。アンタ、授業をちょくちょく休んでるみてぇじゃねぇか。それも、最近は半分以上出れてないんじゃないか?」
「…………まあ、ね」
アイリはため息をつきながら、か細い声でそういうと、上半身をベッドから起こす。
「! アイリさん! 大丈夫なんですか!」
「大丈夫よ沙羅ちゃん。もう起きれるくらいにはよくなってるし。……ごめんね、心配掛けちゃって」
「い、いえ………でも、よかったです」
アイリははぁー、と大きく息を吐きながら手を前に伸ばすと、
「………ばれちゃった、わね」
罰の悪そうな顔を俺達に浮かべた。
「……そうよ。そうなのよ。あたしはいつも病弱で、体が弱くて、昔から保健室は常習。学校を休むこともしばしば。………実はね、あたし、一回ダブってんのよ、高二だからこれが、二回目の高校二年生」
「………ダブった?」
「ええ。……だから、あたしはあんたより一つ上、もう一七なのよ。あと数カ月で一八よ?」
一八歳、か。一八か二〇かという議論はさておき、世間からの目が変わる歳だ。
「………高一までは、休み休みでもなんとか行けてたんだけどね……。ついに、単位足りなくなっちゃって。今は二回目の高二。三度目の春なのよ。
あたし、体がこんなんだから、昔からやりたいこと、好きなことが自由にできなくて……馬鹿な話よね、みんなが笑いながら楽しんで遊んでる横で、あたし一人だけ白い布、白い天井のベッドの上。………もう、嫌と言うほど見たわよ、この白色は。
………でもね、あたしにも霊が取り憑いて、この霊媒者育成都市に越してきて、霊媒者育成高校に通って、変われるかと思った……いえ、変わろうと思ったのよ。
人並みの青春を過ごしたい、クラブなんかをやって、みんなで笑いあって楽しみたいと思ったのよ。だから、作ろうとしたのよ、霊研を。
惟。アンタは無理矢理突き合わせちゃって悪かったと思ってるわ。あたしはこう言うキャラを演じてた……憧れてたのよ。皆を振り回すも、頼れる、リーダー、みたいなものに。でも……あたしには無理だった。
ここでも、あたしは無理だった………」
アイリの目から流れ出た涙が、白いシーツをぬらす。
「……やっぱり他人に迷惑をかけて、自分は体力の限界が来て………。精神力はいくらでも残っていてもね、人生精神論なんかは通用しないのよ。最後に笑うのは体力のある子だけ。
でも……」
アイリは言葉を詰まらせ、嗚咽を飲みこむ。
「っ、やっ……ぱり、作りたかった……のよ……っ」
アイリの手は、シーツの裾をしっかりと、強く握りしめている。
「……例え、失敗するとわかっていても……っ、自分が迷惑をかけるだろうなぁ、と思っていても……やりたかったのよ……!
あたしだって、青春したいわよコンチクショーって………。
見返してやりたかったのよ………。
ドラマみたいな……アニメみたいな青春を、過ごしたかったのよ!」
もはやアイリの顔の下の布はずぶぬれで、アイリの顔自身もしわくちゃで、
……見て、られなかった。
あの強かったアイリが、こうも………。
こうも、自分を内側に閉じ込めていたなんて。
「…これじゃ、俺と同じじゃねぇかよ……」
「………へ?」
俺と同じだ。過去や体質の傷に身を縛られ、人生を左右される。
俺の場合は、それによって人との関り合いを忌むようになり、彼女の場合、そうすることによって自分の夢をかなえたかった。自分の本性を知られてしまえば、もう誰も助けてくれない、仲よくしてくれない、とそう思ったのではないか。
「………いや、同じじゃない、か」
何かをしようとした彼女と違い、俺は何もしていないではないか。香恋を失った傷心の気持ちを自分で慰めていただけで、自分では何も納得していないじゃか。それどころか、俺は香恋を無くしたことさえ認めたいなかったではないか。
……………。
情けない。
俺は、こいつと比べれば…………。
「………アイリ」
「………何?」
「お前の夢を、俺がかなえてやるって言ったらどうする?」
一瞬、間があく。
「………アンタが、あたしの夢を?」
アイリは首をかしげ、怪訝そうに俺に聞き返す。
「そうだ。俺が、アンタの夢―――青春を、かなえてやるっつったらどうする?」
「そんなのっ、できるわけないじゃない。あたしはこんなんで、友達もできなくて………」
「友達が、できない、ね」
………ふう。
さて、俺もそろそろ覚悟を決めるべきか。
一歩、踏み出すべき時なのだろうか。
「俺は、友達じゃねぇのかよ?」
「………え?」
「だから、俺は、ここ最近、ずっとお前の傍にいて、お前を手伝っていた。……これじゃ、友達として不足か?」
「そ、そういうんじゃないわよ。でも……」
「じゃ、いいじゃねぇか。俺はお前の友達だ。お前が嫌じゃないんなら、俺はそう宣言する。………それに」
それに、な、アイリ。
「アンタは、俺達の部長じゃねぇのかよ?」
俺は周りを見回しながらそう言う。
俺から右回りに、沙羅ちゃん、クリス、途中にアイリをはさんで、香恋、ナギ。
「こいつらは、お前の部員じゃないのか?」
「……………貴方達……」
「勿論。お前は体が弱くて、部長の仕事なんか、うまく務まらねぇと言うかもしれねぇ。でもな、そんなの、関係ねぇよ。俺が手伝ってやる。こいつらも、出来ることなら、手伝ってやる。
だって、俺達六人で、霊研究部だろ?」
「…………惟」
「だったら一言命じろよ、破天荒な部長さん。『あたしについてきなさいっ』ってな。それで、俺達を振り回して、そして、楽しませてくれよ」
アイリが俺の顔を凝視する。
ああ、なんだか感動的な場面だ。
これぞ、青春の一ページと言うかなんというか………。
「………くっ、ふふっ、あはははっ!」
とか思って俺が感動に浸っていたら、急にアイリが爆笑しだした。
「アンタ、何に合わないこと言ってんのよ!」
「……似合わねぇってな……面と向かって言うなよ」
「でも、不良でしょ、アンタ。なのに、俺達は六人で………くふふふ」
笑うな。笑うなアイリよ。
「………でも、ありがと」
「………」
「あたしは、嬉しい」
アイリは、俺の手をとって、優しくそう言ってくれる。
「……でも、貴方達に迷惑を掛けるわけには………」
「迷惑、ね」
俺はまず手始めに沙羅ちゃんの方へ向き、
「沙羅ちゃん、霊研のこと、アイリのこと、迷惑だと思う?」
「い、いえ、私は楽しいと思いますよ、みんなで何かやるのって」
「クリス。どう?」
「……私は沙羅の保護者と言うか、見守り役ですから沙羅のやりたいように。……ですが、私自身の考えとして、申し上げますと………迷惑など、掛けても良いんじゃないですか?」
「………かけても、いい?」
アイリが、思わずと言ったようにクリスの言葉に食いついてくる。
「ええ。友達なんだから、各々の弱点くらい、フォローしあうのが、クラブじゃありませんとて?」
……やはりクリスは、長年沙羅ちゃんを支えてきただけのことはあって、考えが大人だ。実際の年齢はいくつなのだろうか? 俺達とあまり変わらないように見えるのだが……。
「………ナギ、お前は?」
「拙者はこういうことは初めてなのでよくわかん。だが、こいつは……惟は、ハンデとかそういうことで、人を区別するタイプの人間じゃないぞ」
……ははっ、止めろよ、テレるじゃないか。
「………香恋」
そして、最後のこの部活のメンバーの一人にして、俺の掛けがいのない元恋人に、眼をむける。
「………お前は、どう思う?」
「私は……記憶がないので、何とも言えません。記憶が戻ったら……その、神楽さんを悲しませてしまうかもしれませんし、ここにいていいのかわかりません。
でも、私が、私とアイリがここにいることで、貴方達も笑顔になって食えるのだったら、それでいいと思います!」
…………やはり、な。
香恋は、こういう性格なのだ。困っている人を見たら、ハンデを抱えている人を見たら、放っておけない。それが、自分には悪霊が付いていたということのせいかどうかは分からないが、おそらくそれが元来の彼女性格だからだろう。
「……これで、どうだ? まだ、自分じゃ迷惑をかけるから駄目だ、とでもいうのか?」
全員の決をとり、アイリに向けて、言う。
「…………惟、沙羅ちゃん、クリス、香恋、ナギ………」
アイリは自分の手の裾で目尻をぬぐい、
「……ありがとうっ………ありがとうっ………」
泣きながら、ずっと、感謝の言葉を述べてくれた。
この日が、本当に、霊研がスタートした日だった。
*
と言うわけで、霊研の活動は穏やかに始まり、俺達は楽しい日々を迎えることができたー………とでも繋げたくなりそうな、最終回の乗りだったな、と俺は先程のやりとりを思い出す。
だが、このままハッピーエンドを迎えるような、簡単なことはそうそう問屋がおろさない。俺とアイリと霊研メンバーはまだまだ二転三転するのであろう。
俺達はまだ―――本当にまだ、始まったばかりなのだ。
二年前から、ずっと保留してきた課題。それは、香恋の死を受け入れるということ。
俺は、ずっと逃げてきた。それから目をそらしたくて、認めたくなくて、逃げてきた。
アイリと向き合うことで、香恋と向き合い、そして、二年前と向き合う。
俺はまるで青春小説のような霊道部のスタートを演出した。だが、それはアイリ本人のため、というより俺自身のためかもしれない。自分以外の人間と、もう一度向き合う。この一件を通じて。
ヒロインになりたかった少女と、ヒーローになりたかった少年。それは、俺たちのことだろうか。
アイリはヒロインたる特殊な境遇にいるわけじゃない。俺は、ヒーロー足り得るほど強い人間ではない。
だが、アイリはアイリ自身の目標に向かって……俺は、俺自身の目標に向かって、進んで行く。
傷のなめ合いだといって笑ってくれても結構だ。だが、それでも俺はこの、霊研と言う場所で、アイリや沙羅ちゃんともに、俺自身の過去へと向き合いたかったのだ。
ともあれ―――
これが、俺にとっての大きな第一歩であったことは間違いないだろう。
やってやろう。
この二年間で、その言葉を始めて口にすることができた。
なぜ、俺は今になって、始めようとしていのか。おそらく、その原因は、彼女にあるのだろうな、と俺は漠然と思った。
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