魔女の棲む森③
○ ○ ○
入念に打ち合わせを済ませたナダは、カバンを背負って支度を整えた。見送りに外へ一緒に出るけれど、別人と歩いているみたいで変な感じがする。
「じゃあ行ってくるよ。イコに何かしてみろ、全力でぶっ殺す」
「ほう! 女声で暴言吐けるとは成長したねえ。安心しな、カタギには手を出さない主義だ」
「……ふん。どうだか」
「大丈夫だよ。頑張ってね、ニコラちゃん。ベイも」
手を振って送り出すと、死んだ目をした
世の中にはまだまだ不思議が溢れている。ナダは女顔というわけでもなし、顔立ちも特に目立ったものはない。白いから特別に見えるだけで、実際は可もなく不可もなく、冴えないとも言える顔面だ。
それが化粧を施すとどうだ、一気に儚げな女の人へと変貌する。洗練されていない仕草すら魅力をプラスしている。面白くないわけがない。
「悪いね。お嬢ちゃんはここで留守番だよ。まあそんなに難しい仕事じゃあない、早けりゃ今日中に済んじまうし、どんなにかかっても明日の暮れには戻るだろうさ。それまではのんびり女子会でもしていよう」
「おお。ジョシカイ」
言われるがまま、ナダのお師匠の手伝いをする。沸かした湯をティーポットに注ぎ入れ、カップを温める。テーブルに広げるクロスは何種類もあって、好きな柄を選ばせてもらった。明るい色の花柄が散りばめられたものにした。
お菓子を盛りつけたお洒落なお皿を並べたところで、座るよう促された。目の前に置かれたティーカップに紅茶が注がれ、ふわりと湯気が立ち上る。
「いい匂い」
「おいしいお茶の入れ方があるんだ。湯の扱いはあのバカ弟子も上手いから、いつかやってもらうといいよ」
「お金ないとか言ってやってくれなさそう」
「そうかい。なら後で脅しておこうかね。こういうところに気が回らねんだ、あの小僧は。女の一人二人捕まえるにゃまだまだだね」
ヒッヒッヒと笑う様が、これまた絵にかいたような魔女だ。
ビスケットに手を伸ばした。ベイはあまり手をつけていなかったけれど、このお菓子もとても美味しいのだ。
「これ全部おばあちゃんのお手製?」
「このあたしを“おばあちゃん”なんて呼ぶのはお嬢ちゃんくらいだよ。そうさ、クッキーもビスケットもあたしが焼いた」
「ナダって料理は上手だけど、あんまりお菓子は作らないんだ。別に食べなくても死にはしないけどさあ、たまには甘いもの食べたいよね」
ひとくち頬張れば、バターと小麦粉の香ばしさがふんわりと口中に広がる。
不思議だ。ビスケットの隣にあるクッキーも、ケーキも、どれも小麦粉とバターと砂糖で出来ているというのに、どれもまったく違う食べ物になるなんて。
「お嬢ちゃんは小僧の何なんだい」
「ナダはカレシだよ」
「あの子は違うと言ってるけど」
「あはは、ウケるよね。……何って言われたら、何だろう。わたしもよく分かんないよ。お互いに巻き込んで巻き込まれて一緒にいるけどさ、出会ったのはホント偶然だったんだよ」
──世の中、不思議なことはあるものだ。
同じ材料で違う形になることも、男なのに美人になってしまうのも、あの町で道が交わったことも。
たしか年明けの頃だった。
学校が冬休みだったから、わたしは寮ではなく、ダミーに用意していた空っぽの家を拠点に暮らしていた。けれどあまり生活感を出したくなくて、それに一カ所に留まるのも居心地が悪かったから、ほとんどは車中泊を繰り返していた。
わたしのいたあの町、“リーズバーグ”という町は雪が降らない。だから冬もそれほど寒くはならない。
だけどその日の朝はめっきり冷え込んだ。早朝に寒さで目が覚めて、自動販売機で温かい飲み物を買おうと公園に降りた。
よくある光景だ。ベンチでホームレスが眠っているなんて。
それでも妙に目が引き寄せられたのは──そのホームレスが、どう見ても若かったからだ。
(……えっ、若。若い。ていうか肌、白……)
肌が白い。イコール、血の気がない。
……死んでいる……!?
「ちょ、ちょっとあんた! 大丈夫かよ、生きてる!?」
慌てて駆け寄って揺さぶると、その人はバチっと目を開けた。驚いた拍子にわたしが飛び退くと、その人がベンチから転がり落ちた。
「びっくりしたァ……よかった、生きてたか」
「……いまなんじ」
半分寝ぼけ口調で問うてくる。混乱冷めやらず、言われたまま腕時計を見た。
「時間? 今は朝の五時」
「ごじ」
「そう。五時、二十分ぐらいかな」
「ごっ……五、え、マジ!? やっべえまさか寝落ちるとは、うわめちゃくちゃ連絡来てる! 起こしてくれてサンキュ……ああもしもしナダです、スイマセン、俺寝てて──」
どこかに連絡を取るその人の顔が、焦燥の色をどんどん濃くしていく。
「……あれっ外だ……? ここどこ?」
「ここは公園だよ」
「こうえん……え、俺アパートに戻っ……嘘だあ」
その人の白い顔が青くなった。忙しない。
通信機を握る手が震えている。この人は把握できていないみたいだけど、わたしは何となく察しがついた。通信機を奪い取って代わりに話す。
「おはよーございます。電話の主を拾った者です。この人寒い中で公園のベンチで寝てたんですよー、どうしましょうね」
『公園だァ!? 今の今までか! よく死ななかったな、ったく……悪いがそのバカに“今日と明日は休みだ”って伝えといてくれないかい。このまんまだと疲労に殺されちまう』
「りょーかいしました。それでは」
通信を切った。よく見ると古い型の通信機を突き返すと、情けない顔で見上げてきた。
「ハイ。今日と明日は休めバカ、ってさ。誰、今の人」
「日雇いの親方……そんなあ、二日分の仕事が潰えた……」
ガックリと落ち込むその人を、わたしはまじまじと観察した。
白髪で勘違いしかけたけれど、その人は若い男の人だった。ニット帽からはみ出る髪の毛のみならず、肌も唇も、通信機を仕舞う手も真っ白い。ラフな恰好はよく見ればくたびれていて、サイズもデタラメなのだろうと思った。全体的に布が体から浮いて、余っている。
不意に誰かの腹が鳴った。
男の人のものだった。
「……ま、拾った動物は最後まで責任取らなきゃだね。ごはん食べに行こう。奢るからさ」
「──それが、わたしとナダの出会いでしたとさ」
魔女のおばあさんは大爆笑した。目尻に涙が浮いている。
バイトを詰めすぎて疲労困憊だったナダはあの日、家に帰ったと勘違いしてベンチで眠っていたそうだ。ファミレスのモーニングセットを三つも平らげて、それでも腹ペコだというのでファストフード店にも連れて行った。
ちなみにそこもナダのバイト先だったらしい。店員さんに「しろすけじゃねえか! お前今日道路工事じゃなかったか?」と驚かれていた。
後日、掛け持ちしていた勤め先を二つ減らしたと聞いた。そうしたら灰色がかっていた顔色がペールホワイトくらいにまで戻った。
「それでごはんを一緒に食べるようになったんだ。わたしも食べる相手ができて良かったし、ナダも食費が浮くし」
「でもお嬢ちゃん、その関係だとお嬢ちゃんばかり損してないかい?」
「お金の使い道が他になかったからさ。それにナダと食べるごはんが一番おいしい」
「そうかい?」
おばあちゃんの目が柔らかく細められた。
とても柔らかく……柔らかいそのヴェールの向こうに包まれた刃物が、不意に見えた。
そういえば、
この人は、
「それだけじゃあないんだろう。お嬢ちゃん」
「…………」
「これでも昔は生きるか死ぬかの世界にいたもんでね。嘘を見抜くのは得意なのさ。特に後ろ暗い感情を持ってる人間っていうのは分かりやすい」
──元殺し屋だ。
クククッと低く笑う声が背筋を寒くした。
「矛盾してるねえ。殺したい奴を思いながらあの小僧と居続けるだなんて」
「──ッ!」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥の黒い靄が形を得て、
息が詰まる。空気を求めて必死に口を動かしても吸い込めない。吐くこともできない。早く吐き出してしまわないと、体の中の空洞が広がっていくようで怖いのに、それがなくなった跡を埋めるものを持ち合わせていない。
いつもはどうしていたっけ。飲み込まれる前にいつもやること。
(そうだ……ナダだ)
目を閉じた暗闇の中に、白い友人を思い浮かべる。
疲れた顔、よく寝てスッキリした顔、ごはんを作るうしろ姿、休憩の時にチョコ菓子を差し出してくる手。そう、その白い手が、わたしの黒いものを取り込んでまっさらにしてくれる。
息を吐く。全部吐き出して、吸い込む。世界が綺麗になる。モノクロの世界に色がつく。
誰よりも白い彼が、誰よりも色をもたらすなど、皮肉な話だ。
けれどわたしにとって揺るぎようのない事実なのだ。たとえ父親の研究と深い関りがあって、いずれ出会う運命にあったのだとしても……どんな関係になっていたのだとしても、今のわたしにとっては。
(それでいいのかな)
良くないと思う自分がいる。時々襲い来る虚だって“わたし”なのだ、忘れてはいけないそれを
「そいつはね、お嬢ちゃん、誰かに消してもらうものじゃない。自分でケリをつけなきゃならないんだ。分かるかい? あの小僧だっていつまでも一緒にいられるわけじゃあない」
「でも……」
「お嬢ちゃんがやってるのはただの応急処置だ。根本から改めないと、それはいつまでもなくならないよ」
魔女の鋭い声が打って変わって優しいものに戻った。どちらが本当の彼女なのか……きっとどちらも本当でどちらも嘘なのだろう。だけど濁った思考がその言葉を受け付けない。
折り合いをつけて生きていくのが人間だと、誰もがそう言う。その術を教えようとする大人もいた。けれどどうも噛み合わない、パズルのピースが上手く嵌まらない。くぼみに無理やり「これが正しいピースだ」と押し込まれているようで気持ちが悪い。
わたしの痛みだ、簡単に消してはいけない一部分なのだ、それをどうして簡単に消してしまおうとするのか理解できない。
「こんな話をしようか」
いつの間にか閉じていた目を開けると、魔女のおばあさんは遠い目をしてカップの中を見ていた。
「昔拾って世話をしてやった男がある日、一人の少年を寄越してね。ちょっとの間見てやってくれ、気に入ったら弟子にしていいから、なんて生意気にも言ってきたもんだ。素質は上々だったよ、山育ちで足腰も強いし、身体能力も高いし、何よりあの記憶力……スパイにうってつけの能力を持っていたから、いろいろ仕込んでやった」
誰の話かはもうわかるね、とおばあさんが目元のしわを深くして笑んだ。
「『死にたい』と言ったそうだ。桐生の小僧が言うにはね。親とも離れ、故郷からも離れ、たった一人になっちまって出自に確信が持てなくなった。その上追われているとくれば死にたくもなるさ。だから聞いてやったよ、『そんなに死にたきゃあたしが殺してやろうか』ってね……そうしたらあのバカ、何て言ったと思う?」
『死体を残さずに殺してくれる保障がないから、ダメだ』
そうキッパリ言い切ったのだと、とうとう声を上げて笑い出した。
「自分の死体すら研究材料になりかねないからってさ。まったく頭の固い弟子もいたもんだ、自分の死体が心配で死なないなんてさ! ま、あたしとしても久々の逸材をみすみす逃す気はなかったからね」
「ナダってそんなに凄いの?」
「ふふ。まあ見てな。噂をすればってやつさね」
そう言い終わった時だった。
バタン! と突然家の玄関扉が強引に開く音がして、続いて騒がしい足音が近づいてきた。勢いよく開け放たれたリビングのドアが壁に当たってバウンドした。
「ばばあテメエこのクズが、今すぐ老人ホーム送りにしてやろうか!? なァにが“ちょっとしたお遣い”だ! 町の入り口で待ち伏せされたぞ! 運んだブツの中身、ありゃ一体何だ!」
「おいエバンズこの魔女、撃ち合いなんざ聞いてねえ! ただでさえ弾不足だってのに余計な消費させやがって! そっち持ちだからな、好きなだけ補充させろ!」
「おやおや、思ったよりずいぶん早かったじゃないか。さっき出て行ったばかりだろう。本当に仕事してきたのかい?」
ナダが金髪ウイッグをむしり取っておばあさんに投げつけた。当然のように少ない動作で躱す魔女、さすがだ。
それにしてもベイまで息巻いている。……相当の撃ち合いだったんだろうか。
「ほらよ、取引相手から手紙。また仕事があったらよろしくだってさ」
「あの坊やももっと上手く事を運んでほしいものだね。おやまあ“ニコラ”、あんたに夜のお誘いがあるよ。いい小遣い稼ぎになるんじゃないのかい」
「冗談じゃねえや、死んでもお断りだ」
ほう、とおばあさんが感嘆の声を上げた。
「何だよ気味悪い声出して」
「お前さん、そんなジョークを言うようになったかい」
「は!? ジョークじゃねえ! なんで俺があんな気持ち悪いオヤジと寝なきゃなんねえんだよ、男と寝る趣味はねえって何回言わせ……っつーかイコの前で何てこと言わせんだ、限度ってもんがあるだろ!」
「勝手に言ったのはそっちだろ。あたしになすり付けないでおくれ」
ベイがわたしの隣の椅子にドサッと腰を下ろした。
出かける前よりも疲労感が強く漂っている。
「……男に男が釣られる場面は二度とごめんだ」
「ああ、疲れてると思ったらそっちね。てか釣れたんだ?」
「“ニコラ”の返しもパーフェクト。『残念だけど、今晩この人の予約があるから』って……あークッソ、思い出しただけで鳥肌立ってきた……」
たぶんあの姿で腕でも組まれたんだろう。
想像してみる。気力すべてをもってして顔面を平常に保つベイと、艶やかに笑って腕を組んで見せる“
「うわ見たかった」
「やめてくれ。見世物じゃねえんだぞ……おいナダ! 早く着替えてくれ、俺ァもう吐きそうだ」
自分の師匠と取っ組み合うので精一杯だったナダはようやく衣裳部屋に入った。家具でも蹴っ飛ばしているのか、必要以上に物音を立てている。
「反抗期の子供みたい」
「それが桐生の小僧の狙いだったのさ。世話になってる自分たちには絶対に反抗しないだろうから、あたしにはけ口になってくれって」
驚いておばあさんを振り返った。ナダのせいで髪が乱れていた。乱せるだけでもナダは凄いのかもしれないとひっそり思った。
乱れた白髪を直しながらおばあさんは楽し気に、そして柔らかく目を細めて笑った。今までに見た中で一番優しい顔だった。
「『死んでも嫌だ』か……そんなことを言えるようになったんだねえ」
○ ○ ○
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