Blank-Blanca[ブランクブランカ]

奥山柚惟

第1章 フリーター少年、旅に出る

鍋、火事、銃弾、焼肉①

  □ □ □






 夜が明けようとしている。


 バイト終わりで怠い熱を持った体を、澄んだ風が心地よく冷やす。六月にしては涼しすぎる気もするが、日が昇れば暑くなるに違いない。この町には夜明けから活動するような人間はいないらしく、通りに見えるのは俺と同じように夜勤明けの人か、品を運ぶトラックくらいなものだ。


 でも俺はこの時間帯が気に入っていた。この町が一番美しく見える時間だと思う。

 朝日が昇りかけている薄明るい空、静謐な空気、寝息を立てる町並み。建物は煉瓦だったり木造だったり、はたまたコンクリートだったり、様式もてんでバラバラで統一感がない。ゆっくりと夜が明けていくのに合わせて、影のようだったそれらが透き通るように色づいていく。

 俺が好きなこの景色が、マウンテンバイクのペダルを踏み込むリズムに合わせて、後ろへと流れていく。夜勤明けのひそやかな楽しみだ。


 それに今だけ、薄暗くて色が判りにくいこの時間だけが、俺は服装にルーズでいられるのだ。

 まだ十八歳になったばかりの男が白い髪と肌をしていれば、どんな集団の中に居たって人目を引く。この見た目は居心地の悪いものだが、人目さえなければコンプレックスではなくなる。肌や髪を隠さなくていいという“普通の人”にとって当たり前のことが、俺にはひどく羨ましいものだ。

 そういうわけで、早朝の帰路は数少ない開放的な時間だった。



 ただ、今の俺はとにかく疲れていた。

 ここ最近ろくな睡眠をとれずにいたせいで、冷たい空気を浴びても俺の瞼はくっつきそうになっている。過労死という言葉が脳裏にちらつくようになってきて久しい。

 明日は休みだがちょっと働きすぎた。今週の日雇いの道路工事はキャンセルしよう、このひと月ほぼ毎日出たのだから、親方も文句は言うまい。


 眠い頭でそう決めるうち、アパートに着いた。自転車置き場に滑り込み、タイヤにチェーンを二重にかけ、体を引きずるようにしてボロい鉄階段を昇りきる。廊下の突き当りまで進み、壊れそうなドアノブに鍵を差し込み、ぐるっと回す。

 ゴール。俺の勝ちだ。これが夢じゃないって祈ってるぜ。


 身体を引きずるようにしてベッド脇で靴を脱ぎ、服を洗濯籠へ放り投げ、シャツ一枚になってベッドに倒れ込んだ。

 視界にぼやけて映った腕時計が朝五時を知らせていた。






  □ □ □






 ──何か聞こえる。


 ドアベルのような気がする。こんなボロ屋にまで新聞セールスが来るのか……いや、ボロ屋だからこそか。

 しかし最近のセールスは行儀が悪い。こんなボロアパートだから、ドアベルを連打されたら壊れてしまう。壊れたら俺が修理代払うんだぞ。こんな時間によしてくれ、今何時だ。

 薄目を開けて左腕を見た。安っぽい腕時計と目が合った。


「……さんじ。じゅうごふん……過ぎ?」


 おかしいな。俺はたしか寝る直前、五時のアラーム音を聞いた。なのに今は三時半近くだという。腕時計が壊れたのか、時間が遡ったのか。そうでなければ──今の時刻は十五時、ということになる。

「こんな時間」とほざけるのは俺だけだった。仕方ない、セールスは追い払おう。相変わらずドアベルは行儀悪く鳴りっぱなしだ。


「はあい、新聞は取らねえです、お引き取りを……あっ」


 思い切り不機嫌な顔をしてドアを開けてやると、そこにいたのはやくざっぽい男とかではなかった。砂色の髪をキャップに押し込み、作業つなぎの袖を腰に巻き付けた子ども。


 数少ない俺の友だち、イコだ。

 イコはニヤニヤ笑った。


「新聞じゃねえです。昼間からせくすぃーな恰好でらっしゃいますねえ。素敵に真っ白なお腹が見えてるよ」


 言われて思い出した。シャツとパンツしか身につけていなかった。


「……入れよ。何もないけど」

「知ってる。ナダは早く服着なよ」






 イコを部屋に入れて、備え付けの箪笥を開けてTシャツとすり切れたジーンズを身につける。

 箪笥には僅かばかりの服や下着と登山用バックパック、それから物入れ代わりに使っている段ボール箱しか入っていない。段ボールにも覚え書きのノートやイコに借りた本が入っているだけだ。


 俺の住むこのボロアパートは、男一人で住む分にはちょうどいい広さだ。少なくとも荷物の少ない俺はちょうどいいと思っている。

 だがイコはそうは思わないらしい。来るたびに狭い狭いと言い、電気しか通していないことも不満気だ。水道もガスも俺が必要ないから止めているだけで、イコは関係がないことなのに。たぶん、俺が極端に節約しているのが気に食わないのだと思う。

 ……本当、関係ない。


 そしてイコは今回、俺の冷蔵庫が空っぽなのを嘆いている。


「もうちょっとお給料出るところで働けばいいのにさ。最近何食べてたの、わたしがここに来たのってもう一週間も前になると思うんだけど」

「バイトで運よく弁当出してくれたりとか、廃棄になったもの貰ったりとかしてた」

「知り合いに頼んで働き口探してもらおうか」

「いいよ。こんな見た目だし、いろいろワケアリの中卒なんて雇いたがらないだろ、普通は」

「Pストアの店長さんは?」

「……変な奴に騙されないといいな、あの人」


 まだ冷蔵庫をチェックするイコを押しやって麦茶を出して飲んだ。寝起きの頭に染み込むようだ。


「あーあ、ナダの部屋ってつまんねーの。休日暇じゃない?」

「別に。寝て、飯食って、また寝るから」

「あっラジオつけていい?」


 イコは枕元に置いてあるラジオを手に取って、チューニングをいじり出した。人の声と音楽とノイズとが雑多に混ざって、部屋を一気にうるさくした。そのうちイコはどこかの番組に合わせて床に置いた。ニュース番組だ。


『……引き続きニュースをお送りいたします。現在セラン州東部地域において大規模な暴動が起きております。近隣の皆様は安全な場所へ避難してください。詳細な情報が入り次第またお知らせいたします……』


「あーそうそう。暴動ね、ちょっと怖いよね」

「あれ、“セラン州”ってここのことだよな」

「そうだよ。でも暴動騒ぎがあるのはここ西部とは反対側、東部地区の州境のとこらしいよ。三か月前と同じでしょ、『難民が流れ込みすぎだ、追い出せ』って」

「それはまた……」

「ま、家がなくなったら都会に行きたいって気持ちは分かるよ」


 俺はのんびり田舎で暮らす方がマシだと思う。

 ニュースはそれから、大陸中東部の町がまたゴーストタウン化したとか、大都市の要職に就く政治家の不祥事とか、スラム街が年々数を増やしていることとかを流した。

 この町はかなり平和な方だが、それでもスラム街一歩手前というような地区もある。先週も酔っ払いがチンピラに全治四か月の重傷を負わされた事件があったばかりだ。このアパート近くがまさにそこで、危ないし本当はあまりイコに来てほしくない。


 ひとまず大きめのニュースは終わったらしい。ラジオを切って、休みの連絡をしようと通信機を手に取った。






 イコは俺より三つ年下だ。

 いつも大きめのキャップやニット帽に押し込まれて見えないが、実は綺麗な砂色の髪を持っている。大抵サイズの合っていない作業つなぎとかTシャツを着ているので、出会った時は男だと思っていたが女の子らしい。作業着はイコが所属する理工科学校の中等部のもの、らしい。

 ……本当、分かりづらいことをする。


 前に学校はどうしているのかと聞いたことがあるがはぐらかされた。それとない会話の端々から察するに家庭状況があまりよくないようだった。父親が金持ちだからしばらくそれで食ってく、あとは今考え中、とだけ言った。

 代わりに俺について聞かれた時は焦った。大人にはよく聞かれるが同世代から問われるのは初めてで、用意していた答えを出すのに間が開いてしまった。


「……アレです、親のDVです」

「嘘だね。嘘つくの下手くそって自覚ある?」

「あんまり詳しく言えないんだよ。ちょっとワケアリで、飛び回らなきゃならないんだ」

「誰に追われてんの」

「えーっと……」

「あっ追われてんだ」


 こんな感じで丸め込まれて、ほとんどの“事情”を話す羽目になった。

 以来イコはなぜか俺とよくつるむようになり、俺は食糧ピンチを助けてもらうために、イコは居場所と料理を確保するためにと、お互いウィンウィンな関係を続けている。


 ……ウィンウィンだと思いたいところだ。何せ金銭的損失で言えば、圧倒的にイコの負担が大きいだろうから。






「休みの連絡?」


 通信機を切ると、イコはベッドであぐらをかいていた。


「そう。さすがに詰めすぎたし、ここ最近ずっと入ってたからむしろ出てくるなって言われたよ」

「よかったじゃん。ねえ今日さ、鍋しない?」

「正気か、今六月だぜ? 鍋はもっと寒い日がいい。作り置きのパスタソースが冷凍庫にまだ残ってるから、それ消費して……」

「栄養失調気味のナダを思って言ったのに。キムチ鍋食べたい。知ってる? 東方の民族は暑い日にこそ辛い物を食べるんだってさ」


 それは知っている。

 だからといって、なんで鍋なんだ。わざわざ慣れない東方料理にすることもないだろうに。


「そもそもお前、辛い物苦手だろ? キムチなんて食えるのかよ。まず冷凍庫を空にしたいんだ、今日明日でまた作り置きするから……ってちょっと、何だこれ……ねえお前さ、いい加減こんなにキノコ買うのやめてくれない?」


 イコが買ってきてくれた食糧を冷蔵庫に詰めにかかると、白菜やしらたき、それから各種キノコが山ほど出て来て辟易した。気のせいだと思いたい、思いたかったが、買い物の紙袋の底にキムチのパックが二つくらい見える。今日のメニューは鍋にせざるを得なさそうだ。

 やたらあるキノコは、


(…………いくら何でも買いすぎだろイコ)


 ……いつかバターソテーか盛り合わせにでもしようと思う。出しても出してもキノコが尽きない。バラエティーパックかとでも言わんばかりだ。というか一体、この紙袋のどこに、これだけのキノコが入っていたんだ?

 やれやれと俺が溜め息をついたのを見て、イコはニヤニヤして足をばたつかせた。






  □ □ □

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