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中間テストの最終日は、少し早い梅雨入りと重なっていた。
狭いバスの座席で折り畳み傘を畳むと、雨水が零れて制服のスカートやスクールバッグ、ラケットのケースなどを濡らしていく。空調がいまひとつ効いていない車内は蒸し暑く、試験が終わった開放感やら一日の終わりの充足感などを台無しにする。
最寄りのバス停からマンションまでは傘を差さずに走った。走れば数秒の至近距離だし、霧状に降る雨はあまり傘が役立たない。億劫な気分なのでエレベータでフロアを上り、自宅のドアの前に立つ。
中学生のときはインターホンを鳴らしてお母さんに鍵を開けてもらっていたが、最近は、自分で鍵を差し込んで扉を開く。ただ、荷物が多くて鍵を持つのも面倒で、一刻も早くシャワーを浴びてずぶ濡れの身体を癒したかったから、久しぶりに、インターホンを押した。
「何だ、奈緒子か。誰が来たのかと思った」
編集者が来たと思ったらしい。
家族を迎えるにしては機敏なステップで以て玄関に駆けつけていた。きょうも仕事で疲れているようだから、滅多なことをするのではなかった。
「シャワー浴びていい?」
「どうぞ」
お風呂の利用は契約上問題のある行為ではないらしい。部活のある日はよく使っているし、何なら契約に規定された家事の分担ではわたしが掃除することになっている。
「それとさ」
「ん?」
「お金の相談をさせてほしい」
契約後の生活においてわたしを悩ませるのは、やっぱりお金だった。
通学すると給料がもらえるようになって、数か月前のわたしは驚いた。もとより遅刻欠席はほとんどしたことがないから、額面の上ではお小遣いの大幅な増額となった。しかも、年間十日の上限があるとはいえ、およそひと月学校に通うだけで有給休暇をもらえる規定にも、わたしは喜んだ。
そんなふうに、辛い契約ではあったけれど、お母さんが食事や家のやりくりの中心を担っていることを思えば、お金の規定には喜ぶことができた。しかし、わたしの理解は甘かった。
「それで、お小遣いを増やしてほしいの?」
お小遣いは契約上、わたしとお母さんの合意によって金額が決定される。わたしがお金で悩んでいるならば、毎月の交渉によって解決を図るのが第一の手段だ。
しかし今回、この手段で問題解決を図るのは難しい。
「先月、たった一ヶ月で増やしたのに、また増やせと言うなら納得しかねるよ」
お母さんはそう言ってわたしを牽制する。
四月にクラスメイトと遊びに行けなかったことから、わたしは五月のお小遣いの額を決める交渉で徹底的に抗議した。契約のせいで受け取りが以前より一か月も遅れたことをやり玉に挙げたうえで、金額としても充分とは言えないと述べた。
お母さんは「最初の月から争うことはない」と増額に応じたが、同時にこう警告した――毎回この調子だと交渉はどんどん難しくなる、と。
増額に喜びかけていたわたしは、お母さんのその忠告にはっとした。お小遣いの仕組みには、合意によって金額を決められるとか、通学を続ければ休んでもお金を受け取れるとか、わたしにとって有利な面が多い。しかし、毎回のように交渉で争っていると、有利なはずの条件が硬直してしまいかねない。
だから、今回は増額を求めるのとは違う方法が必要だ。
「うん、お小遣いの金額は妥当だと思ってる。だから、別の条件を改善してほしいの」
ふうん、とお母さんは腕を組んで背もたれに身体を預けた。二か月前、初めて契約を結ぶ際にも向かい合ったテーブルだ。
「まず、お金が必要な理由を説明してほしいな」
お母さんの要求は予想通りだ。お金に関する決定は、基本的にわたしの出費計画と紐づけられる。
用意していたプリントを取りだし、差し出した。
「夏休みにバドミントン部の合宿に行くことになって、お金が要るの。参加費に含まれる交通費や宿代はもちろん、いい加減ボロボロになったグリップやガットの買い替え、あとできれば練習用のウェアの買い足しも。でも、いまもらっているお金で全部は払いきれない」
テスト明け最初の活動はミーティング。そこで合宿の詳細を知らされた。それほど真剣に活動しているわけではなし、部活自体強豪でもないけれど、かといってパスするわけにはいかない。いくら補欠でも、先輩や同級生、顧問との関係がある。
これらの費用は、当然お母さんが出してくれるものと思いたいが、そうならないおそれがある。それゆえに、今回はその点を改善すべく交渉に乗り出した。
「部活にかかるお金がわたしの負担なのはおかしいよ。部活も学校生活の一部なんだから、その分もお金を出してほしい」
お母さんは部活に関わるお金を出してくれない。土日や祝日に活動があった場合は通学一日分のお小遣いをくれるが、平日は、部活に出たからといって対価は一切払われず、費用もわたしが負担することになっている。グリップやガットの交換が遅れているのは、先月そのお金を受け取ろうとしたら、お母さんに断られたからだ。
理由を述べて曰く――「部活は任意に参加する活動でしょ」とのこと。
「前も言ったけど」今回もやはり、同じ説明が繰り返された。「私がお金を出すのは通学したことへの対価。契約に従うなら、参加必須でもない部活にまで払わなくてもいい」
契約を盾にケチられてなるものか。
わたしの充実した高校生活のため、これに納得できるわけがない。
「おかしいよ、そんなの。学校に行くなら部活の参加も当然だよ。参加必須じゃないなんて建前で、入部するのが普通だし、入部したら合宿に行くのだって当然じゃない」
「そうなの?」
常識的な考え方をぶつけたに過ぎないのに、お母さんは同意しなかった。
「私に言わせれば、奈緒子が高校でしっかりと学んで卒業してくれるのならそれでいいの。必要のない部活で勉強をなおざりにされるくらいなら、参加しないでもらいたいくらい。私はそれを、普通のこととは思えないわね」
そうだ、この親はそもそも普通ではないのだった。
「何それ! 娘が好きでやっていることにそんなこと言うわけ? 自分は部活に入って高校生活を送っていないとでも?」
「入っていたよ、水泳部でインハイにも出た」
そう言いながら分が悪くなったと感じたのか、合宿の詳細が記されたプリントを手に取った。パソコン用とは違う眼鏡に掛け替えて、わたしから目を逸らすようにその内容を読み込んでいる。
畳みかける好機と見て、わたしは身を乗りだした。
「じゃあ、娘にも部活で頑張ってほしいと思わないの? 部活の貴重な経験を奪うって言うの?」
顔を上げた。
「自分の育ったように娘を育てなきゃいけないの? 全部私と同じように人生を歩めば、奈緒子は幸せになるの? いつか奈緒子が母親になったら、そうする?」
「…………」
どうしようもない屁理屈を垂れる。
わたしのことなんか、真剣に考えてくれない。
自分と同じ経験をさせるのが子育ての正解とは言わない。わたしが子育てする将来なんて想像もつかないから、正解を判断することはできないし、自分なりの正解を述べることもできない。とはいえ、「契約」などというおふざけが正解のはずがない。
せめていま思いつく正解があるとすれば、親を頼るしかない子どもと誠実に向き合うことだ。
「でも、足りないものは足りないの。いまもらっているお小遣いだけだと、高校一年の夏を何の楽しみもなく過ごすことになる……」
「情に訴えられても困るよ、これは内容を変更できない契約だもの」
忌々しい第七条の規定だ――「この契約の内容は、変更することができない」
契約の内容を変更はできなくても、破棄ならできる。わたしにだけ許された特権が同じ第七条によって定められている。しかし、それを行使するにはひとりで生きていく備えが必要で、ゆえに事実上不可能だ。
それを盾にされたら、無意味だとしても情に訴えようと思って当然ではないか。
だって、お母さんの心のどこかに、わたしを慈しむ気持ちがあってくれてもいいと、期待しているから。
「あのね」
お母さんは一度プリントを置くと、手近にあったボールペンを手に取った。
「大人同士、契約関係で話をするなら感情的な議論は迷惑でしかない。そういう話し方は、むしろ奈緒子自身を不利にする。こういう交渉で必要になるのは、契約の規定と、損得の計算なの」
そう言うと、プリントに書かれていた参加費の内訳に下線やら矢印やらを書き加える。続いて、余白の部分にはわたしが欲しいと言ったグリップテープやガット張替えに必要なものを、だいたいの金額とともにメモしはじめた。
「金額を分けて考えよう。言っちゃ悪いけど、奈緒子が何もかも好きにお金を使って暮らせるほど、うちの生活は楽じゃない。だから全額を『はい、そうですか』とすんなり払うわけにはいかない。払える部分とそうでない部分を考えるの」
メモを終えるとおもむろに立ち上がり、今度は本棚にあるクリアケースを取りだしてきた。そこに収納されているのは、四月に交わされた書名入りの契約書だ。
「私としても奈緒子がやりたいことは応援したい。奈緒子の手持ちでは払いきれないこともよくわかってる。最大限努力するなら、そうね……第三条の2の解釈を広げて、夏休みの合宿も休みの日の部活動とみなすのはどう? これを根拠にして、参加費なら出してもいいよ。休みの日の部活には、『経費および相応の対価』を支払う決まりだもの」
懸念していた最大の出費は免れた。しかし、それ以外に欲しいもので一万円を超える出費が考えられる。これは一か月のお小遣いを上回り、お母さんの支援が必要なのは間違いない。まだ妥協には早い。
「その『経費』にラケットのメンテナンスやウェアにかかるお金は入らないの?」
「…………」
わずかに、お母さんの口角が動いたように見えた。
「それは今回の合宿のための費用とは言えないでしょ?」
「なら、確認するけど……夏休み中、学校に通わなくなると、わたしは『通学の対価』であるお小遣いをもらえないわけだよね? きっとお母さんは、文化祭の準備で学校に行っても、『任意の参加だから』って払ってくれないでしょ?」
「うん、でも休み中の部活には払うことになった」
「そうは言っても、普段学校に通うのに比べれば、わたしの収入は減る。けれども出費は多いはず。それはあまりにも高校生の娘にとって不条理だよ」
夏休みの練習日程はまだ知らされていないが、ミーティングではさほど多くの予定は組まれないと聞いた。想像で簡単に計算するに、八月のお小遣いは別の月の半額ほどになる。
お母さんはいくらか押し黙ってから、わたしの元にすっと契約書を差し出す。それから、コーヒーが欲しくなったのか、立ち上がってマグカップを棚から取り出した。
「言いたいことはわかった。奈緒子の言うとおりで、休みのあいだお小遣いが減るのは気がかりよね。でも、あくまでわたしは『通学の対価』を支払うことで契約している。話し合いで合意するのもこの金額。じゃあ、奈緒子は何を根拠に、夏に使えるお金を私から確保しようというの?」
「…………」
暢気にコーヒーを支度している割に、指摘は的確だ。
感情論は受け付けないと言っている。どうやって訴えれば、筋を通して反論できるだろう? お小遣いが減ってしまう仕組みを根拠に挙げたら、お母さんは一定の理解を示してくれた。それと同じ要領で主張できればいいのだけれど。
そのとき、目の前の契約書に気がつく。
「そうか……!」
お母さんが席を立ったのは、わたしにシンキングタイムを与えるため。契約書を開き、条文を指でなぞって読みながら、わたしの主張に説得力を持たせられるフレーズを探す。お母さんが「通学の対価」という単語を盾にわたしの要求を撥ねつけているように、わたしも決定的なキーワードを見つければいい。
どこ? どこにある?
「さて、考えはまとまった?」
お母さんがコーヒーを香らせて、テーブルに戻ってきた。
自信を持って首を縦に振り、第三条の4を指さした。
「アルバイトする。契約もわたしがアルバイトするのを禁止してはいないし、要するにお金があればいいんだから、自分で稼げばいい! 期末試験が終わったら、履歴書を書いて面接に行く」
これでどうだ――!
わたしの宣言に、お母さんは「そうきたか」と目を丸くした。
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