2

 うるさい。

 ああ、うるさい。

 どうしてこんな快適な心地を、やかましく邪魔するのか。

 この幸せな瞬間を邪魔しないで――

「……ん? え、もうこんな時間!」

 けたたましく鳴り響く目覚まし時計は、わたしの手で床に転がされてもなお、スヌーズ機能を働かせて二〇分間も起床時間を教えてくれていた。わたしはベッドのスプリングを活かして、掛け布団を吹き飛ばしながら飛び起きる。コンマ数秒のロスでもここでカットしておかないと、自慢の黒髪のコンディションが大きな影響を受けてしまう。

 勢いのまま床に足を下すと――

「痛い!」

 たったいま確認したばかりの目覚まし時計を、素足で踏みつけた!

 床をのた打ち回ること、数十秒のタイムロス。

「あ、ああ! こんなことしてる場合じゃないんだ!」

 手櫛で寝癖の状態を確認しつつ、右足を引きずって洗面台へと急いだ。


「もう、お母さん! どうして起こしてくれないの!」

 どんなに遅刻しそうな朝でも、どんなに血圧の低い朝でも、その日最初の食事だけは絶対に欠かしてはならないというのが亡き父の教えであった。その教えを一度も破ったことのないわたしは、限られた時間と格闘するこの日も食卓に着く。ヘアスタイルの仕上げは、制服を着てからでもできないことはない。

 アラームで起床しなかった――さらに言えば、二〇分の寝坊さえ遅刻の危機を生む設定をしていた――ことは考えるまでもなくわたしの非なのであるが、母にクレームを言わずにはいられない。これを言うと言わないのとでは、学校に到着して一時間目のチャイムを聞くまでのモチベーションが全然違うのだ。

 しかし、焦り切った娘を見ても、母親はソファに深く身を委ねて、大きな欠伸をしている。

「どうしても何も、起こすわけがないでしょ。朝起こしてあげるなんて、契約にないもの」

「はあ? こんなピンチなのに契約のことなんか言うの?」

 契約を交わしてから一週間――それまで、家事の分担を話し合いで決めた以外には、契約をもとに行動を選択したことはなかった。だから、契約を理由に何かを「してくれない」場合があることをまったく想定せず、油断していた。

「お母さんはわたしが学校に通うことを契約で義務付けたんでしょ! だったら遅刻しそうなときは起こしてくれたっていいじゃない。高校入学早々に遅刻なんかして、悪目立ちしちゃったら高校生活はおじゃんだよ!」

 お母さんは大きな欠伸をしながらわたしの苦情に応じた。

「朝からうるさいなぁ……契約は後期中等教育の修了を義務付けてはいるけれど、何も皆勤賞でなきゃいけないなんて書いてないの」

「でも、学校行かないとお小遣いくれないって書いてあったじゃん」

「それがわかっているなら、文句垂れていないでご飯を食べるのが正解だと思うけど」

 ぐうの音も出ない。

 必要もないのに怒り散らすのは止めて、箸を手に取る。目玉焼きに茹でたブロッコリーとウインナーをおかずに、バターロールを齧る簡単な朝食だが、これも契約によって準備されている。仕事柄不規則な生活を強いられるお母さんが、眠い目をこすって作ってくれる。契約を結ぶ前は、起きられなくて作れない日もあった。

 契約のおかげで朝食を毎日食べられる。さて、いつまで続くだろうか。

 母の肩書きは、デザイナーとかライターとか、いろいろある。いろいろあるが、要するにパソコンでできる仕事を、体力が許す限り、自宅でこなしている。お父さんに先立たれてから、わたしの世話をできるだけ見られるようにと、工夫に工夫を重ねて現在の働き方を定着させたらしい。家で働くとはつまり、タイムカードがないという意味でもあり、時には睡眠時間さえ削りながらかなりの時間をパソコンとにらめっこして過ごしている。

 時間の区切りのない労働によって疲労とストレスが溜まるらしく、見た目にもそれが現れる。眉間にはっきりと消えない皺が残ってしまったし、元来吊り目がちの眼光が山姥の如く鋭さを増してきた。人目に晒されるサービス業ではないだけに、相貌を二の次にしてしまっていることも、母が年齢の割に老けて見える一因だ。

 それなのに、契約で朝夕の食事の準備を約束した。

 契約が結ばれても親子の仲が崩壊してしまわなかったのは、その条項が一因だ。契約は明らかに、わたしが圧倒的に有利に作られていた。

 お母さんは家計を支えてわたしの学費や医療費も負担しなければならないのに、代わりにわたしが負う義務は、家事の分担と、高校を卒業することのみ。通学すればお小遣いだって受け取れてしまう。それほどわたしが権利を握っているのに、契約を一方的に破棄できるのもわたしの特権だ。

 朝起こしてはくれなくなったけれど、案外、いままでと変わらない「お母さん」の役割を果たしてくれる。それどころか、朝ご飯のように、前よりそれらしくなったこともある。契約は所詮、お母さんのモチベーションを担保する程度の意味しか持っていなかったのだろうか?

「あれ、お母さん」ロールパンの最後の一切れを押し込みながら、ふと気づいた問いを口にする。「お弁当は? きょうから午後の授業もあるんだよ?」

 ソファから返ってきた返答は「はあ?」だった。

「知らないわよ、日曜日に申請しなかったじゃない、言ってくれなきゃ作らないよ。そういう契約なんだから」

 前言撤回。

 契約は、お母さんが楽をするために作られている。



 幸い遅刻にはならず、始業時間直前に学校に到着できた。

 無理やり覚醒させた頭でバスに飛び乗ったものだから、頭がくらくらして車酔い気味に校門をくぐる。眠気眼には春の優しい朝日もチカチカと眩しくて、入学早々に気の重い一日になってしまったと嘆息が漏れる。

 結局髪はキレイにはまとまらなかった。始業時間ぴったりの到着を狙った生徒がごった返す昇降口で、気になるところをこっそりと手で最終チェックする。そのとき飛び交っていた「おはよ」のうちのひとつがわたしに向けられたものだと気づいて、どきりとして振り返った。

「意外とギリじゃん、もっと早く来てると思ったのに」

 たぬきっぽい顔が愛らしい藤江ふじえさん。去年までのクラスメイト、今年からもクラスメイト。わたしのクラスでは、同じ中学の組み合わせはわたしたち一組だけ。

 受験期を共に過ごした彼女のイメージにおいては、わたしは、真面目に朝早く登校してくるキャラクターらしい。

「おはよう、明音あきね。寝坊しちゃって、二十分くらい」

 口では明音と下の名前で呼ぶが、心の中では藤江さん。中学の時点では、そのくらいの仲だった。

「なんかわかるわ、中学のときより朝早いし、春休みボケもまだ抜けないよね」

 そう言うと、彼女は長身を屈めて靴を履き替える。中学時代バスケットボール部で活躍した背丈では、今度の下駄箱の位置は低すぎるようだ。そうすると彼女の頭がちょうどわたしの目の高さに来て、優しい色合いの茶髪が目に入る。

 入学式翌日にはその色だったのを思い出すと、自分と彼女とが別々な高校生活を送るのだろうと想像されて、

「だよねぇ」

 という相槌より後に出てくる言葉がなかった。

 中学のときだったら普通に出てきた「お母さんが起こしてくれなかったんだよ」という愚痴が出せなかった。それを気楽に言えたなら、うわべだけでも共感しあって話が広がったはずなのに。

「これから授業が始まったら、あたし遅刻ばっかりだわ、きっと。うち、高校生になったからって親が起こしてくれなくなっちゃってさぁ」

 高い背丈や染めた髪の毛を見ると大人びて見えるものだが、言っていることを聞けば年相応だ。しかし、その愚痴に応える術がない。「うちも契約でね」だなんて、寒いジョークとも思ってもらえるかどうか。

 彼女の口癖の如く「なんかわかるわ」と言うほうが、この場合は正解なのだろう。

 彼女が歩きだしたのに遅れて、わたしも遅刻寸前なのを思い出した。一年生の教室は最上階の四階だから、階段を上るあいだもぽつぽつと藤江さんとの会話が続く。

「話は変わるんだけどさ、きょう、クラスの何人かでカラオケとご飯に行くことになってるんだよね。奈緒子も来る?」

 最初に、少し驚いた。

 藤江さんから誘いを受けるということが、過去の付き合いから考えて予想外のことだったから。クラスメイトを誘う催しに建前としてわたしも加えようとしているのかもしれないけれど、そうだとしても、進学を節目に新しい友情が生まれるならワクワクするではないか。

 しかし、誘いを承諾するにも少し悩まなくてはならない。

「あ、キャラじゃなかった? でも、今回は女子の会だし、人も少ないから大丈夫だよ」

 彼女にとってはキャラが大事で、彼女が思い浮かべるわたしにとっては、男子が参加しないことが大事だと思われたのだろう。

 そうではない。

 それこそ彼女が髪の毛の色を変えたように、わたしだって、高校進学をキャラを変える良い機会とするのも悪くない。

 でも、問題はもっと簡単なことで、わたしは懐事情を心配している。

 契約上、わたしは一日に数百円を受け取って暮らすことになっている。お小遣いはわたしが通学する対価と位置付けられたのだ。しかも、給与よろしく、通学日数に比例してお小遣いの額が決まるので、月毎にまとまった額――高校生のお小遣いとして常識的な金額――をもらえる契約になっている。つまり、来月までお金がない。

 カラオケだけでも出費は少なくないと感じるが、ご飯まで行くとなると明らかにわたしの出費計画に支障を来す。春休み中に中学の友達と遊び過ぎたか。何かと買い替えるものも多かった。

「ごめん、用事があってきょうはダメなんだ」

 この言い訳なら、流石に責めてくることはないだろう。「お金が足りない」と言って曖昧に誤魔化し、かえって気を遣わせてしまったら嫌だ。でも、まさか「通学日数が少ないからまだお金が入らないの」では理解してもらえない。

 この世のどこに、親との契約を結んでいる女子高校生がいるというのか。

「そっか、じゃあまた今度だね」

 教室のドアを開けて、会話は途切れる。

 せめて「行きたかった」というニュアンスは伝わったかな?

 ああ、こんな些細なスタートさえ、契約に阻まれてしまうの?



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