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 子は親を選ぶことができないし、親は子を選ぶことができない。

 これはごく短い命題であるが、感覚的にも理性的にも当然として受け入れなければならない、まさしく真理である。どんな親であれ、どんな子であれ、任意に選んでその相手に指名することなど、誰にもできない。法的に親子の関係を結んだり切ったりすることはできるかもしれないが、血肉の関係としては、そう簡単に割り切れるものではないだろう。それに、法的な手続きより前に存在した親子の絆は、覆しようがないのだ。

 任意に選べない、という事実を、見方を変えて表現するならば、その出会いは「奇跡」であるということだ。あるひとつの人間の組み合わせを決めるために、遥かな時間と空間を跨いでいることを思えば、天文学的な確率で生まれた親あるいは子との出会いを感謝しなくてはならない。

 その出会いへの感謝と、育ててくれた親への恩返しとして「孝行」という何かがさかんに称賛されている。確かに、奇跡的な巡り合わせで親となった人が、ひとりで生きていればありえなかった大変な苦労によって自分を育ててくれたのだから、感謝するのは当然である。親孝行な子は、感謝の心という豊かな道徳性を持っていると言える。

 しかし、どうだろうか?

 子が親に感謝することは、本当に自然で素敵なことなのだろうか?

 何も、子が親を選べないことを理由に「生んでくれなんて頼んでいない」と主張するつもりはない。流石にその理屈は子どもっぽいし、論理としても破綻している。感謝の印としての孝行は、生んでくれたことに対するのでは決してなく、わざわざ育ててくれたことへ向けられるのだから。

 わたしが主張したいのは、子から親への「孝行」に対する、親から子への言葉が存在しないのはいかがなものか、ということだ。親が子をわざわざ育てることは感謝されて然るべきであっても、「親孝行」とぴったり対になる単語を探そうと思うと、なかなか難しい。

 たとえば、「愛情」ではない――それは親だけのものではないから。「養育」も変だ――それも親と子の特別な関係に限定されないから。「庇護」だろうか――この言葉ではパターナリズムの臭いがする。

 このことを踏まえると、親への感謝という子どもの理想の行いははっきりしているのに、子に対してなすべき親の行動がぼやけているという、残酷な非対称が存在することになる。親の在り方は多様だが、子はそうではないらしい。

 それなのに、なぜ「親孝行」は正しい行いと言えるのだろうか?

 模範解答のない親の在り方に拘わらず、子から親への感謝は半ば義務付けられている。

 その親がどんな親かなんてわからないし、選べないというのに。



 開いた口が塞がらない。

 言われている意味がわからなかったし、何を考えているのかさっぱりわからなかった。最初は聞き間違いか、わたしの解釈の誤りだと思った。ところが、繰り返し告げられる言葉を間違って理解しているわけもなく、正しく意味を認識せざるを得なくなった。

 テーブルの上には薄い紙の束。それを挟んで反対側には、お母さん――わたしの唯一の親――が座っている。いつもなら食卓につくためにリラックスして腰掛ける椅子が、このときばかりはひどく硬くて、正座をさせられている心地だった。


「あなたは私と喧嘩をすれば、そのたびに自分を子ども扱いするなと怒りました。小学生のあなたを子ども扱いして嫌な思いをさせたことは、私の落ち度でしょう。それなら、中学卒業を良い機会と思って、大人として認めます。一五歳、高校生にもなれば、色々な場面で大人として認められるものです。

 でも、大人になるならひとつ、覚悟をしてもらうことになります。

 大人なら私はもう親として世話をしなくてもいいので、親子の縁は一度終わりにしましょう。私はもう、条件なしには、義務教育を終えたあなたに学校に通えとは命令しませんし、ご飯を作ってあげることもしません」


 たったひとりの大切な人から、戦力外通告を突きつけられた。

 普段ならありえない敬語の丁寧な物言いは、それがただの冗談でないことを証明する。

 冗談ではなく、お母さんはわたしとの自然な家族のつながりを切ろうとしている。

 お父さんが亡くなって以来、片親でわたしを支えなければならないお母さんに心配を掛けまいと、たくさんの努力をした。家事を積極的に手伝ったし、人間関係でも諍いのないよう過ごしてきた。まだ将来は決まらないけれど、せめて良い大学に行って良い仕事に就けるよう、頑張って勉強して偏差値の高い高校に合格した。

 完璧な娘には程遠くても、良い娘になりつつあると思っていた。

 でも、お母さんはそう思っていなかったのだ。わたしのことを唯一の大切な娘だとは認識せず、突き放す。母と娘であることをやめようとしている。

 ただし、お母さんの言い分では、わたしとの関係は新たに結ばれるべきものらしい。


「でも、『条件』があるなら話は別です。あなただって、いきなりこんな話をされて、ひとりで生きていく決心はできないでしょう。だから、一度終わりにした親子関係を、改めて結び直しましょう。

 大人同士の関係なら、契約で結ばれるのが当然です。解消された家族の関係は、この契約で結び直しましょう。いま、目の前にあるそれに合意しないのなら、当然、赤の他人ということになります」


 テーブルに置かれた薄い紙の束。

 そこには「契約書」と記されていた。

 家族の無条件の愛情とは対極に位置する、無機質な文字列が作る鎖がそこにある。

 信じられなかった。一五年もの親密な関係が、たった数枚のA4用紙にまとめられてしまうなんて。嘘みたいな残酷な行為を、肉親が堂々と、大真面目にやってのけた。

「せめて、中身を読むくらいしてもいいと思うのだけれど」

 マグカップに淹れたミルクティを啜るお母さんの言葉と、澄ました表情に、呆気に取られてばかりでろくに口を利けなかったわたしの怒りも、ついに噴き出した。

「こんなもの読みたくないよ! わたしのことが可愛くないの? わたしは、お母さんと約束していないと、お母さんから愛されることができないっていうの? 親子って、無条件の愛情があって当然でしょう?」

 お母さんは答えない。

 このごろ仕事が忙しいのか、小さな顔の皺や白髪が目立ち始めたのを娘として案じていたのだが、相手がわたしを娘と思わないのなら、こっちだってそういう目で見てやる。お母さんは、老けた――凝り固まった考えで他者を思いやれない、面倒な老人になろうとしている。

 我慢ならず、捲し立てる。

「お母さんは、娘を前にしてその責任を放棄するっていうの? そんなの絶対おかしいよ。犯罪みたいなものだよ!」

「私はあなたのお母さんである前に、ひとりの人間です」

 大人げのない言い訳に、言葉を失った。

 それならわたしは、ひとりの人間である前にお母さんの娘でいることはできないの?

「だから、この契約書を読んでほしいと言っています」お母さんは声を大きくするわたしを見ても、平然としていた。「読んでみればわかります。あなたの不利なようにはなっていないはずです。もちろん、不明瞭なところがあればすべて質問に答えます」

 それが本当かは、確かに、契約書を読んでみないことにはわからない。でも、それは疑わしい。本来の親子関係に足るだけの契約であって初めて、わたしにとって不利のない契約の最低条件をクリアするのだから、薄っぺらな契約書がそれを満たしているとは思えない。もっと膨大な条項から成って然るべきではないか。

 だから、契約書を読むより先に問わなくてはならない。

「この契約がもし、受け入れられなかったら?」

「私はこの内容でしか契約するつもりがありません。この契約で私とあなたが親子関係に戻れないのなら、あなたは水商売でも何でもして独りで生きていってください」

 血も涙もない。

 変更の余地があるのなら、一度契約してしまってからどうにでもなるかもしれない。そうなったなら、わたしもお母さんのこの仕打ちを、一時の気の迷いとして許すことができただろう。しかし、その希望がないということがわかった。

 改めて、大人げない、と母親を心の内で罵った。

 経済的にも社会的にも無力な、中学を卒業したばかりの娘を相手に、大人の力で以て契約を強制しようとしている。非対称な力関係を利用して、思うがまま、娘を操りたいのだ。この契約は、そのためのものに違いない。

 でも、ここで契約を蹴って独りで生活する覚悟など不可能だ。社会で食べていくだけの特技もなければ、なるべき職業もない。身体を売りたいとも思えない。せっかく合格した高校にだって通いたい。

 わたしは、涙を飲んで契約書にサインするしかない。

 それならば、最後にせめて、訊いておかねばならない。

「ねえ、お母さん。こんなひどいことをするのは、わたしが実の娘じゃないから?」

 血縁のある父は亡くなった。

 いま向かい合っている母親は、わたしとは遺伝子のつながりを持たない。

 ともすれば言葉通り「赤の他人」かもしれない彼女は、このときばかりは、マグカップをぎゅっと手で包んで、唇を噛む。慎重に言葉を選んでいるようだ。神妙な表情がその性格を変えた――どのように、とはそう簡単に表現できないけれど。

「……曖昧に解釈すれば、そういうことになる。でも、高校を卒業するころには、そんなつもりではないってわかってもらえると思う」

 テーブルについて初めて聞いた、母らしい温もりを持った声色だった。

 血縁がないために契約を持ちだしたと堂々と言えるあたり、これまでの冷酷な母親とは違う人物がわたしの問いに答えてくれたようだ。はぐらかされてはいるが、親としての責任を放棄し、我を通すだけの姿とは異なる。

 どういうこと? お母さんは悪魔になろうとしているの? それとも、これからも変わらずお母さんで居続けるの?

 覚悟を決めるしかない。

 答えは、契約書の中にある。



 A4用紙たった数枚の書類である。

 読み切るまでに何分もかからない。

 もう二度と元の親子に戻れなくなる。

 ペンを取って平本奈緒子ひらもとなおこと署名した。

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