第28話 抗がん剤
「量子論はモノを観察するわけじゃないから、初歩に必要な理解は、状態を想像できるかどうか。ヒカル、想像、得意やん。ブンケイでオッケー。もう一つのマジックは鏡」
「鏡? どんな鏡でもいい?」
「ノー、ある鏡。それはね、三千年前のものだから銅鏡でさえなくて、石を磨いたもの」窓に向かって両手で丸を作った。
「ふぅん。で、具体的に、どうやって体をバラバラにする? どうやって過去に消え失せた? どうやって今に戻った?」
「点滴!」姉がくるっと振り向いた。
「うそだ?」
「ホント。この薬剤を入れた点滴」棚に並ぶ小さなプラスティックバッグを指差した。「ちょー気持ち悪いのガマンできれば、ワームホールからブラックホールに繋がる」
「うっそ、ブラックホールって、入れば潰れるんじゃね?」ヒカルは背伸びしながら棚を見た。
「痛いよ。ブラックホールの中。ワームホールのなかでは潮汐力や放射が猛烈になるから、細胞単位でバラバラにして、元に戻してホワイトホールから出る。意識はずっとあるよ、心は寂しい。意識って、記憶って、いったい、何なんだろうね」姉は遠くを見つめる。「体とは別の」
「その点滴って、何? 元に戻すって、どうやって?」
「点滴は抗がん剤」声のピッチが戻る。
「わかんねえ。なんで抗がん剤?」
「アタシが別のアタシだったときにわかった。骨肉種になった別のアタシは抗がん剤使ってた。中三の十二月六日から高一の十二月まで、十二回たす四回やった。四種類たす二種類、シスプラチン、メトトレキサート、イホスファミド、たす、ドキソルビシン、ジェムザール、ドセタキセル」
姉の瞳は遠くのまま。まばたきを忘れてる。両腕を開いたまま、息するのも忘れたみたいに固まってる。「たすって何? よくわからんけど治って良かった」
「治らんかった。だから、たす」
「治らんって。よけいわからん。今も病気なん?」ヒカルは、きょうだいがガンになるんなら自分もガンになり易いんじゃないかと不安になって聞いた。
そういう見方で心配する自分を身勝手だと少しだけ、思った。
「今のあたしは病気になったことない。体がバラバラになったおかげで。視力も良くなってメガネいらんくなった」姉は作り笑いで答えた。
「骨肉種って、骨の癌?」
「癌じゃない。小児難病を老化現象と一緒にせんで! 腫瘍。アタシがかかったのは百万人に数人の病気。あえて言うならガン、漢字でなく」
「だって抗がん剤使うなら癌なんじゃないん?」
「モノクローナル抗体を作る会社は同じに見てるけどね。バイオ技術が今みたいなレベルになる前、病人の数が少ないと製薬会社は研究も、開発もしなかった。莫大なお金かかるのにペイしんから。タバコ吸う人が肺癌になったときのための薬は開発できても、少数の子供が患う病気の薬は開発できない」
「会社も給料払わんとな、わかるけど、なんか、そんなー。癌じゃないのに抗がん剤使っていいん?」
「腫瘍と癌の共通点は二つある。悪い細胞が際限なく増えること、転移すること」
「だからって抗がん剤?」
「抗がん剤は、少なくとも二〇一一年までは、癌細胞だけを攻撃するんじゃなくて、活発な細胞は全部、攻撃するものだった。胃腸の粘膜、毛根とか」
「胃腸か、だから気持ち悪くなったり髪が抜けたりするってこと?」
「ヒカルも解るようになったね~。無駄にデカくなったわけじゃないんだ」
「ひでぇ」
「癌になる人は先進国にいくらでもいるから、製薬会社も大学も開発競争するくらい薬はある。二〇一一年十二月でも抗がん剤は百種類以上あった。でも骨肉腫に効果あるとされたのは四種類だけ」
「さっき、もっと言ってなかった?」
「その四種類を六回繰り返したあと手術して、手術後に四回、計十回目の後、肺に転移してるのがわかった」
「まじ……」ヒカルは唾をのみこんだ。
「アタシは転移って聞かされてなかったけどね。お医者さんはパパとママには告知した。肺への転移が塊なら、その部分を切り取る手術をするけど、って。でも、CT画像で、あちこちに散らばってるのが分かった。手術はできないって。骨肉種の肺転移は、肺がんと違って、肺で腫瘍細胞が骨化すること。肺胞が固くなって、呼吸に合わせた柔軟なふくらみができなくなるってこと」
姉の二つの瞳がじっとこちらを捉え、声のトーンを無理やり上げたのがわかった。
「そのあと、どんだけ辛くなっていったか、誰にも想像が出来んよ。告知のとき、ママが何か他の治療法はないかって食い下がった、後でパパに聞いたことだけど。お医者さんが、効かないって判ってる薬ならあるって。昔、骨肉種に使ってた抗がん剤、ジェムザール、ドセタキセルがあるって。お医者さんは、体に負担のかかる治療を止めて、一日でも多く学校に行かせてあげたい、って言ったらしい」
「効かないって判ってても親なら頼むんかなぁ」
「そのときのアタシは、これでみんなと同じように学校に行けるようになるって信じてた。パパとママは他に免疫療法、っていうやつも、別のクリニックで始めた。三百万円以上もかけて。ものすごく痛くて、苦しくて。後から考えれば、その分、高校に行きたかった。まあ、このアタシが行ってたけどね、同じときに、二階のクラスに」
「おれ、覚えてる。叔母ちゃんが何か言っとった。あんとき、おれ、六年だったか」
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