第26話 並行世界
「パラレルワールド、平行宇宙。二〇一一年七月二十九日から十七カ月間、この体が骨肉種という新生物に完全に乗っ取られた日まで、二つの宇宙に、たくさんある宇宙のうちの二つに、それぞれ、全人類、別の自分が両方の宇宙で同じ生活してた。最期の日、十六時五十九分、噴火の衝撃で宇宙は時間を遡った。そのとき一つの宇宙が消滅した。ヒカルと、パパとママ、アタシは、こっちの世界に来た。おばあちゃんは一緒に来れなかった。マルチバース」
ヒカルは逆立ちをした。「おれも来たって、おれ知らねーし。マルチ商法?」
「ノー、ノー、マルチバース! ユニバースじゃないってこと、一つじゃない宇宙ってこと!」
「ミスユニバース」ヒカルは背筋を正し両腕で頭の周りにマルをつくった。光の固まりがまるで笑っているかのようにユラユラ震えた。
「マルチバースってのは、無限に宇宙が平行に存在してるってこと。人間の体を構成する元素は宇宙の物質/エネルギーの総量の〇.〇三パーセントしか占めないんだよ。宇宙全体の物質/エネルギーの七十三パーセントはダーク・エネルギー。ダークマターが二十三パーセント。ダークマターは宙全体に散らばっていて学校の教室にもある。人の体も通過してる」
ヒカルは聞こえた数字を聞かなかったことにして一分前の姉のセリフに戻った。「おれがいた宇宙が消えたってこと? じゃ、今のおれの記憶は? もう一人のおれは?」
「もう一人の、あんたの記憶がどうなってるのか、わからん。十七ヵ月分、消えたんじゃね?」
「ええ、そんな! でも、お姉ちゃんと見た夕日、覚えてるのに?」
「それが不思議。あたしの場合、並行世界での自分を見てた、っていうか、自分だと思ってなかったけど。その十七ヵ月分の記憶を手に入れた。アイツが十七ヵ月分の記憶の突端を提示したから。芋づる式に蘇った最初の記憶、アタシは生きたかった。死にたくなかった。やりたいこと、いっぱいあった」
「アイツって誰? お姉ちゃんだけ? ずるい! おれの友達の記憶は?」
「無い。噴火で地球の表面に穴が開いて地球が崩壊した、宇宙も」
「んん」ヒカルは光の固まりが鳥らしい形に少し変わっていくのに目を見張った。
「でもさあ」話題を変えた。 「うち」ウチ、と発するだけで難しい話をお気楽に着地させることができる。そういう平和な家庭に育ったことに感謝しなければならない、と理解できるだけの視野をここ数ヵ月で身につけた。 「帰ってくればいいじゃん! とにかく、今は!」ヒカルはママの心労による不調を大げさにならないように伝えた。
「心配かけてるのは悪いと思ってる」
「じゃあ」ヒカルは踏ん反りがえって、自分の主張が聞き入れられたことを誇示した。
「でもね、この島を出る前にやらなきゃいけないことがある」
「何を?」
「支配者からマグマの鏡を奪う」
「マグマ? 支配者?」
「十七ヵ月分の記憶の突端を提示したヤ、ツ。九州のおばあちゃんの雇い主」
「は? おばあちゃん、一緒に来れなかったって、さっき、言ってなかった?」
「うん、おばあちゃんは来れんかった」
お姉ちゃんは、知らない奴が部屋にいたこと、火守りの義務、宗像大社の巫女のことを語った。
「おばあちゃんが歴代、守って来た火はその鏡の中にある。マグマが冷えてできた石からできた鏡。今、消えかけてる。だから世の中の秩序が狂ってるらしい」
「秩序って、年功序列とか? 伝統? ピンとこない。お姉ちゃん、そんなに火守りになりたくないん?」
「人に押し付けられる、ってのがやなの」
「おれも。ってか、みんなそうじゃね? で、どうやって自由を守る?」
「三千年前に行く」
「はぁ?」
「戻ったんだけどね、そのときは計算ミスで一世代ずれてしまった」
「はぁ?」姉の言うことにどこから手を付ければいいのかわからない。「三千年? たった一世代?」
「アタシが着いたのは九州島より西の孤島、ニニギがいたのは九州島。あの時代、空間移動はとてつもなく大変でね」
「ふぅん」三千年前に行った、というところは後で手を付けることにした。自分の頭が冷えてから。「なんか、信じられないけど信じるよ」
「ありがと」そして姉の口元が照れくさそうに緩んだ。「移動がたいへんだったのもあるけど、結婚もした、へへっ。それで時間が経ってしまった」
姉の、テレを隠すような笑い方は変わってなくて安心した。
「ウッソダア、結婚って? せっかく、目的果たしに行ったのに?」ヒカルは思わずセキセインコの妖精に同意を求めた。
「コイヲシタ、ミヲホロボシタ」妖精が声を発したのかとヒカルは思って見上げた。
「お姉ちゃん、この妖精、まさか、しゃべんないよね。エメラルドグリーンの。ブラジルの国旗みたいに鮮やか」
「ヒカルに慣れたみたい。インコだからね、しゃべるの」姉は光の固まりに向かって目を見開いた。
「なんか嬉しい。けどさ」ヒカルはまぶしくて自分の膝に視線を落とした。
「どうやって戻った? なんで、戻った? だいたい、どうやって、いつ、行った?」頭が冷える感覚は当分来ないようだから次々、質問することにした。
「タイムトラベル・システムを作った」姉は懐かしそうな眼をした。
「ん、作った?」
妖精は輝きを増しながら、今度はヒカルの頭の上で回り始めた。
「このタイムトラベル・システムでは、一人で旅行に行けんもんで、手伝ってくれる人が必要。だからこのアシスタント・ドクターを一人、最初に作った」
「この妖精のこと? 妖精はAIのコンピュータなんやろ? それに、どこにタイムマシンがあるん?」
見渡すために頭を動かすともう一羽の青いセキセインコが飛んできて、真上を往復するとヒカルの左肩に止まった。
エメラルド色の鳥の姿を現した妖精は頭頂部に止まった。
鋭くて軽い四本の爪が地肌を刺激して気持ちいい。
青い方が耳たぶを優しく噛む。「ソノウチ、ソラヲ、トバサセテアゲル」
くすぐったくてまた転げた。「なんか、ゆった、あいつ」ヒカルから飛び立った緑と青の鳥が視界の上を飛びながら交差する。
「タイムトラベル・システムはマシンじゃないけどね」
「見たいっ! 何でもいい、せめて見して、弟がはるばるここまで来た」転げた勢いで立ち上がった。
「いいよ、こっち来て」姉が立ち上がり、ヒカルは自分の身長が姉を越えていることに驚いた。
「ヒカル、背、伸びたね。アタシはあのときのまんま」
「そりゃ、そうだ」
照れくさくて、なんて答えればいいのかわからない。いつも、相手が謙遜したり自分をほめてくれたりすると、うまいこと、言えない。気の利いたことも、面白いことも。
「靴、ここにある」姉が日向ぼっこをしているスニーカーを指差した。ちゃんと乾いていた、シャツや髪のように。
少し歩くだけで疲れが消えた。木々のそよぎが爽やかなせい。何種類もの広葉樹の隙間から木漏れ日がキラキラ降り注ぐ。ヒカルは深呼吸をしながら、森が人工知能を成長させるって、あり得ると思った。
植物は何かを放出して、それがいろんなものと反応して化学変化を起こすんだ。
緑輝く木立の間を透明な、細い流れが清涼な音を立てている。
「この水、さっき話した、地底に広がる水の層の一部」姉が軽やかに飛び越える。
ヒカルも、せせらぎに頭を出す同じ小岩を踏む。保育園のときのように。
清流に沿って進むと、水が湧き出すくぼみがあって、その向こう、カエデの茂みに囲まれて、丸太を組み合わせた壁と、一見、茅葺に見える屋根の小さな平屋が建っていた。
「おお、いい感じのコテージ! これも、お姉ちゃんが作ったってこと?」せせらぎの音がずっと耳に心地よい。ヒカルが街で日常耳にする水はコンクリートか金属の中を流れている。
音が違う。どうして水の音は土や石の間だと、こんなに快適に聞こえるんだろう?
「もちろん妖精たちと一緒にね。中はこんな感じ」階段を七段、跳ねるように登ってドアを開けた。
「妖精って、手も腕もない、翼じゃん」
「スリーディープリンタ内蔵みたいなもんね。腕も、指も、何本でも、作れる」
「まじか」
階段は登るごとにキュウキュウ音がした。「二条城と同じ、何ものか来ると音がする」
ドアの内側は二条城というより、社会見学で行った食品工場の入り口を思い出させる。
「靴、ここで脱いでよ、ホコリも花粉も菌も、中には入れない」
狭い細長い部屋に入った。見回す。ドアを閉めたら空気の層が見えてきた。雲が薄くかかっているようで、層の上と下で湿度も気温もはっきりと分かれている。その雲が、肩の高さからゆっくりと水平移動してヒカルの眼の高さになった。まるで身長や体格を空気が診断しているように感じた。
「スキャンしながら菌とか湿気とかを取り除いてる」姉の声を聴きながらヒカルは瞼をぎゅっと閉じた。
「どうやってこんなん、作った? どっから持ってきた?」ジーンズの内側が完全に乾いてすっきりした。
「そのうち話すね。お浄めは、宗像神社に入るときもブルーモスクに入るときもあるでしょ。ここは乾燥もついてる」
「ウォッシュレットみたい」
「ウォッシュレットではいろんな機能、強制じゃない。ここは強制」
お浄めが終わると突き当りのドアが開いた。
「これが、お姉ちゃんお手製のタイムトンネル?」床も天井も明るい木材で、正面にある窓を見て息をのんだ。
ガラスの向こう、苔むす浅い洞窟の上に木々が茂る。
その根と土がろ過したしずくが絶え間なく岩肌をしたたり落ち、せせらぎの始まりになっている。一枚の絵のように鎮座していた。
濡れた黒い岩肌は光を受けなくても輝く。その、外の音は何も聞こえない。
「苔って、柔らかいのに反射して光るんだな」
「苔、ムス、って言うでしょ。古事記の中の」
「ああ、
「やっぱヒカルだ。打てば響く」
「で?」
「息子や娘の語源らしいよ。古代で。命が噴き出す様子」
「ふぅん」おれの場合、気の無い風の返事のときは内心、気があるのだ。
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