第25話 改造島2
甘い爽やかな花の香りに気がついたが、目を開けるには疲れ過ぎていた。両頬が誰かの両手で強く引っ張られ、続いて口の脇も両側に引っ張られた。
これは夢? それか、今までが夢?
間髪を置かず両頬は強くつぶされ、頬の上が盛り上がり、瞼が無理やり開かれた。
太陽のような光が眩しくて何も見えない。
「ヒカル、ゴメン」
聞いた声だ。由希の声だ。やっぱ夢だ。「お姉ちゃん?」
「こんなにでかくなってもオをつけて呼んでくれるんだ。アリガト」
ヒカルの目が正常に戻った。昔、見慣れた二つの瞳があった。画面を通してではなく、六年半ぶりに目の前にする姉は大人びて少し痩せている。そのせいで顔のパーツがはっきりしてる。
姉の向こうにキンモクセイの枝が広がって、ぎっしりと密になった葉や枝が日差しを遮っている。日差しといっても薄い雲に覆われているから眩しくはない。
じゃあ、さっきの眩しさは何だった? おれは木陰に横たわっている、建物の中でなくて。
安心のあまり、もう一度目を閉じた。
「キンモクセイの香りって、植物独特の苦味の香りしんよね。九月になったばっかりなのに、この時期に満開になるんだ」姉の声は中学の時のまま。
中学生の時から大人びていた。アア、こんなときに何言ってんだよ。おれは何しにここまで来たんだ? いや、甘い匂いに胡麻かされるもんか、おれは何しにここまで来たんだ?
ヒカルはもう一度目を開いた。体を起こそうとした。そのとき、柔らかい光の固まりが木洩れ日から離れてヒカルの方へ滑るようにやってくる。ギョッとした。
姉が楽しそうに言う。「セキセインコ型の妖精、好奇心いっぱいなくせ、恥ずかしがりでさ」
「妖精? そういうことじゃなくて!」ヒカルは驚いてその柔らかい光の固まりを見つめた。それは光のくせに恥ずかしそうに離れて行った。
これだ、さっきの眩しかったヤツ。ん何? セキセインコ? いや、ンナ気を取られてる場合じゃない。
ヒカルは姉に向き合った。「いったい何してんの! ここで!」姉の髪は背中を覆うほど長く伸びている。
「あー、アンタさあ、エルフとか、ドラゴンとか、大好きだったでしょ、アタシも興味湧いてさ、実在したらいいな、って思った。で、作ってみた」
「作ってみた? 作れるのか?」ヒカルは水中で見た生物を思い出した。「おれを殺そうとしたアレ」とたんに溺れた感覚がフラッシュバックし息苦しくなる。「漁師が呪いだって言ってたんはアレだ」
「ホントにゴメン、まさかヒカルがここまで来るなんて思ってなかった。ここに上陸できるのは火守りだけだもんで、あの潮の中でヒカルを引き上げるのはちょっと大変だった」
「ちょっと?」ヒカルは繰り返した。お姉ちゃんが言うちょっとは凄くって意味だ。
「人魚さんたちはこの島の防衛隊。大昔から、潮と風が、火守り以外の人間を押し流すんだけど、あの人魚さんたちが防ぐのは菌や土とか、モロモロ。人魚さんたちの目がカメラで、ヒカルだってわかったから連れてきて、って頼んだの。上陸前に、ヒカルについてる菌とか土とか、真水の強い水流で洗わせてもらった。それから人魚さんたち、水力発電装置の設置、維持管理も。優秀でしょ? 発電は水力だけじゃない、太陽光もね。ここはいつも薄曇りだもんで、太陽光発電は大したことないけど。この雲はレーダーを吸収するステルス機能もあるの。衛星からも見えない」
お姉ちゃん、おれ、まだ夢みてる?
「人魚さんたちはアンドロイド。人魚型にした理由はね、アタシが五歳の頃に将来、人魚になるつもりだったから。五歳のときはアンドロイドじゃなくて、本物の人魚になるつもりだったんだけど」姉の瞳は夢見る幼児のまま。
夢じゃない、ホントのお姉ちゃんだ?
一回、浅く息を吸ってみる。「五歳の頃かぁ」息が出たら体も心も楽になった。
「おれの最初の記憶は紙オシメから普通のパンツに変わったときだ! 紙オシメの太もも回りのギャザーがガサガサするのにもう我慢しなくていいってわかって嬉しかったなぁ!」ヒカルは心が十五年遡ったのがわかったけれども、そんな場合ではないことも忘れていなかった。
「じゃないって! この島、いったい、ナニ!」
「ここね、アタシの基地」
「基地? わけわからんし! 一人で作ったん?」ヒカルの細いあごが持ち上がらなくなった。
ジーンズの内側がまだ湿っているのに気が付いた。
靴は脱げている。
ヒカルの脳裏に、服は着たままスニーカーは脱がされ、水流を吹きかけられている自分の姿が浮かんだ。「資材を運び込むための桟橋もないのに? おれ、ボート着けるとこ、必死で探した」
「最初は作ったけど、どけた」
「ここで何やってんの?」
「この島で怨念を制御するための計算をしてる」
「怨念!」笑いが止まらなくなった。緊張のゆるみと、小学生以来の感覚が合体して、転げて笑った。
「敗れた者たちの霊、魂、って言うか。九州島の地底に広がる水の層に蓄積されてる。確率制御の計算に必要で」
「ヒーッ、ヒーッ」笑いすぎて呼吸ができない。「ス、ス、スピリチュアル? あ、怪しくね? 計算? ようわからん」
「ここにある樹、水、全体で量子コンピュータ。電子が同時に二つの場所に存在できるなら、アタシだってできるはず。電子の振動。海の波と違って元のモノ、水に当たるモノが無い。波の形だけ」
「お姉ちゃん」姿勢を戻した。「わけわからん」
「要するに、宇宙の全ては波。波動性」
「波?」オールで漕ぐ真似をした。「ようわからん。一人で作ったん?」同じ質問を繰り返した。
「さっき紹介したセキセインコの妖精がアシスタント。量子コンピュータを一緒に作った」
「鳥が、妖精が、物理わかってんの。その、知性とかさ、羞恥心とかさ、どっから持ってくるんだよ」
さっきの光の固まりが再び、恥ずかしそうにヒカルの視界の隅に現れた。
「え、ヒカル、じゃあさ、人間の知性や心はどこから来てるの? この妖精は人工知能、AI。この森と、何百万もの敗者の魂が、その人工知能を慈しむ。樹々に畏怖して生きていた古代の魂が」
「ハイシャの魂? なんで歯医者の根性? 古代? AI? 見た目が人工じゃないよ、これ!」知らない土地で歯医者に行ったときの緊張を思い出した。
その不安をからかうように光の固まりから、さざ波のようなものがぶつかってきて、その光が一回り大きくなる。
「巨大な衝撃波が世界を滅ぼした」姉がその光に顔を向けると光が波になる。
「夢みてるのはおれ? お姉ちゃん?」ヒカルはあぐらをかき直した。身長が百七十センチに届かないのはコンプレックスだけど、脚が長いのは密かな自慢だ。
「あの宇宙の中でアタシは十六歳になることができなかった」
「あの宇宙ぅ?」ヒカルは自分の声がひっくり返ったと思った。
「滅びた宇宙のこと。その宇宙に、ヒカルも、パパもママも生きてた」
「マンガみたい」ジーンズの内側を乾かしたくて、腰を浮かすために両腕を突っ張らせ両脚を思いっきり開いた。「おれ、十九年間、普通に生きてますから」
「ヒカルの声、スピーカー通して聞くより低いね」姉がまじまじと見つめてくる。
「そう?」ヒカルは自分の喉を触ってみた。
「常識が通用しんのは量子力学、平行宇宙論、多元宇宙論、それから、」姉の視線は妖精に戻った。
「物理なんか中学から苦手。お姉ちゃんがおれば聞けたのに」左手の指三本を直角に広げた。
「フレミングの法則が限界。お姉ちゃんの知能指数、百五十五だって。ママが言ってた。中一で受けた知能検査の結果、見れないはずが個人懇談会のとき風で紙が舞って見えたって」
「え、聞いてない。考えるスピードと、腫瘍の増殖スピードの速さと、何か、関係あるんかなぁ。悪い細胞は細胞を活発化させる酵素、FASを使って増殖スピードを上げるらしい」
「脳内神経の増える速さとか、伝達物質の速さってこと? アタマいいってもさ、脳内の神経伝達って、電気じゃね? だから速さは電気の速さじゃね?」
「アインシュタインは空間と時間が互いに変換できることをはっきりさせた。同じものにはふたつの側面がある」
「哲学的表現だ。中学の理科二分野、難しかった。中学になったとき、ママが塾か通信教育かやれって言ったんだけど、おれ、お姉ちゃんが帰ってきて教えてくれるって思ってたから断固、拒否した」
「明日っていうものを理解できなかった小さい頃のヒカルを覚えてる」幼い弟の頭を撫でるようにヒカルの伸びた髪を手櫛でとく。「天使の輪。この髪質はパパ譲り」
「そんな昔のこと言われても」
「明日が永遠に来ない日が六カ月以内にやって来る、って十五歳で宣告された。ママもパパも、アタシには言わなかったけどね。その記憶を取り戻したの」
「その記憶?」
「アタシにはもう、十四日しか残ってない。あさって、最後の入院をする。最期の人のための広い個室に。苦しみを取るだけの点滴を始めるのが今日から五日後ってことも。それが、その記憶」
視線が再び沈んだ。
「最期のクリスマスはいい天気だった」姉が沈黙を破る。
「うん、あの日、太平洋に陽が落ちて行った。おれ覚えてるよ。六年だった。車の中から見た。高い橋の上」
「え? なんで知ってる?」
光の固まりが縦に伸びて、ヒカルの身長の半分くらいになり、それでも見上げる高さに浮かんだ。
「アタシには記憶がある」姉はまた言葉を切った。「どうして、あのアタシの、あの後には記憶がないんだろ」
ヒカルの思考のベクトルは自分に向かった。「おれの記憶は。おれの記憶は」
「アイ ワズ ア キャット」お姉ちゃんの思考のベクトルは自分に向かったままだ。
ヒカルのベクトルは対話相手に戻った。「どういう意味?」
「ヒカルの制服姿、中学のも高校のも、そういえば見んかったね……ヒカルが小学校の終わりだった二〇一三年一月、火山の衝撃波が時間を吹き飛ばして十七ヵ月、遡ることになってしまった」
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