第10話 2011年・骨肉腫

 大きな窓の向こう、十四歳と六ヵ月日の朝に、真夏の太陽が照りつけている。


 由希はベッドに座ったまま外をぼんやり眺めながら、こんな日差しの中、先週、引退するまでソフトテニスをしていた自分たちは凄いと思った。

 運動場の土埃と、空気中の猛烈な湿気と、汗と、みんなの動きと、日焼け止めクリームを塗っていた部室が蘇る。


 今やってる後輩たち、がんばれ。それに比べて、アタシの今の気分は最低。気持ちワル、自分の体が自分じゃない感じ。受験のために塾に行ってる同学年の子たちを考えて早く起きてみたけど、体がおかしくて勉強どころじゃない。全身の細胞が、バラバラに砕けた感じ。


 重い体を運んで机に両手をつっぱりながら椅子に座った。問題集の背表紙に手をかけながら目を閉じてみた。具合の悪いときは息を吐くといいはず。腕を戻して自分の頭を支えた。深呼吸とともに空想が始まった。


 由希は近くのクリニックの待合室に座っている。二重になったガラスドアの向こうに見える駐車場は真夏の日差しで真っ白にギラギラ輝く。


 なんでアタシ、ここにいるんだろう? 頭も痛くて全身、おかしな感じ。両隣のおばちゃんがやけにアタシにくっついて座ってるのもヤダな。向こうにスペースあるんだからちょっとずれて座ればいいのに。ああ、そうか、これはアタシの空想だからアタシの体はここにないんだ。


 納得して、クリニックの出入り口に再び目をやった。その二重のドアの外側に自分とママが見える。二人はこっちへ向かってずんずん歩いて来た。外側のガラスドアが開く。二人が靴を脱いでスリッパに履き替えると二重になった手前の自動ドアが開き、その子が目の前にいる。


 自分を外から見るのは鏡の自分を見るのとはかなり違うんだぁ。不思議な感じ。


 でもメガネも髪型も同じ。斜め横で一つに結んでる。アタシ、こんなに日焼けしてる? 歩き方、落ち着いてる。みるからに、人に甘えれないタイプ。


 一瞬が数秒に感じられた。


 空想の中のママは受付で「予約をしています」と言って診察券と保険証を出した。


 なんでこんな現実的な空想してんだ。アマテラスオオミカミが、閉じこもった洞窟の中で、外のどんちゃん騒ぎを気にしてる精神状態とかの方がいいのに。そんな物語を考えようとしていたら自分の声に引き戻された。

「ど痛かったあ!」自分がママに訴えて立ち止まった。見慣れたTシャツから伸びた腕を、もう片方で押さえている。


 我慢強い人が痛い、っていうときは、そうとう、痛いんだよ!


 十九世紀、アルプスのふもとにある全寮制の学校で起こる猟奇事件を考えよう……やっぱ過去問やろう。

 塾にかける分のお金は取っといてもらって、イタリアへの大学留学費用にするんだぁ……でもイタリア語の前にフランス語を次の四月に始める。去年ラジオ講座聴いてたら、わりとできたし。英語より簡単。いつかドイツ語もできるようになって、セルンで研究したいなぁ。リヒテンシュタインにも行ってみたい。やりたいこといっぱい。




 四か月半後の十二月、由希は家族で、ママの妹を見舞いにがんセンターに行った。

右上腕に肉腫ができたらしい。肉腫って、何?


 五歳と一歳のいとこ達は寂しくてたまらないようで、父親とおばあちゃんを困らせてる。病室でも叔母ちゃんはヒマワリのように明るい。「毎日笑って過ごしていれば免疫機能が上がるから病気にならないっていうのにね!」と言ってまた笑う。「笑って病気をやっつける!」

 じゃあ何でこんな難しい病気になるのかな、由希は口には出さなかった。


 病室は四人部屋で、窓際右のベッドの人だけ、廊下から見えない程度にカーテンをしていた。由希たちが病室に入ったときカーテンを内側から完全に閉めた。


「談話室が近くにあるよ」叔母は気を使っていることを悟られないひょうきんなトーンで立ち上がった。

「歩ける? 気持ち悪くない?」ママが不安そうに聞く。

「歩けるよ。放射線治療だから」


 四階の談話室の大きな窓からは木々豊かな公園を望めた。十二月上旬というのに今年は今が紅葉の盛りだ。イチョウの鮮やかな黄色とモミジの赤が混じり合い息をのむほど美しい。


「同室の人、カーテン閉めた」叔母が小声で言った。

「ああ、私たち、うるさいから」ママが申し訳なさそうに言った。


「それだけじゃなくてね、由希とおない年だからさ。知らない同年代の子は見たくないんじゃないかな。友達にはすごく会いたがって、泣いてるけどね」

「エエ!」由希家族は声を揃えた。


「五月に五十メートルを七秒台で走れて、七月にソフトテニス部引退した後、九月からアーチェリー始めたって。中三、受験生なのに。十一月、生体検査受けて骨肉種ってハッキリ分かったって」

「骨肉種って、骨の腫瘍? そんな、突然なるの?」ママが聞く。

「まだあるの」叔母が由希を見た。「あんたそっくり」

 由希は自分の空想を思い出した。寝起きから気持ち悪い日だった。やけに現実的だった。

 心の自動防御装置が稼働した。

 外から見たアタシは鏡で見る自分とは違ってた。そっくりなわけない。心が否定しようと頑張っている。

 ただの空想。他人の空似、心の枠を広げよう。髪型が同じでも、メガネが同じでも。甘え方を知らなさそうでも。

「三人はいるっていうね。そっくりな人」ママがうなずいた。


「双子みたい、びっくりした。なんて話しかけていいんだか」叔母がママと話し続けた。

「走る速さも」由希は動揺して、何か言わなきゃ、と思って弟に話しかけた。「部活も興味もおんなじ。ボカロ好きだったりして」

 弟は無視した。


 弟はマッタク、コドモなんだから。小五にもなって。

 アタシが三才になったばかりのときにヒカルが産まれた。直前のことをかすかに覚えている。トイレからカの泣くような声でアタシを呼ぶ声が聞こえてきた。そこに動けなくなったママがいて、電話をかけれる? ママのオシメ取って来れる? って息も絶え絶えに頼んできた。生後三十八ヵ月のアタシは立派に使命を果たした。だから無事にヒカルが産まれたって、後のママが繰り返し感謝してくれた。


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