第9話 2013年1月・火守り
小学校に着いたとたん、担任の先生が「ヒカル君、お父さんが迎えに来るって。先生と一緒に東門に行こう」と言った。「普通はお迎え、保護者が校舎に入らなきゃいけないんだけど、ヒカル君、お姉ちゃんと一緒におれる時間が、一分でも長く、」そこで声が途切れたから先生の顔を見た。
メガネの下を押さえている。泣いてるのか?
手袋をはめ、ランドセルをしょってる間に、習字セットを先生が持ってくれて六年い組の教室を出た。
三学期初めての給食の日にお姉ちゃんが入院した。給食が、いちんち一番のご馳走の一週間がまた、続いていた。
病室に入ると、昨日と同じ、お姉ちゃんに心電図やらなんやらのモニターがつながっている。ママが酸素マスクのカップを鼻から口にかけてずれないようにそっと押さえ続けている。お姉ちゃんは朦朧としながら、マスクを嫌がり顔をそむけようとする。マスクが外れると足の指に挟んだ測定器の酸素濃度表示が九十パーセントを切ってしまう。
ヒカルはそんな姉を見ていられなくなってテレビを見た。
この数週間、どのチャンネルも九州ど真ん中にある火山のことばっかり。あの火山と他の幾つかが九州ってでっかい島を作ったんだ。
地上のカメラが全部、映像を送らなくなったのはいつだったんだろう。衛星の情報も全然、無くなった。
テレビの解説者によっては、太陽活動が十一年周期を外れていて黒点が少ないことと、地球内部の動きは関係ある、って言う。地球の磁場、太陽の磁場と宇宙線の量とか、話が大きくてわからん。
避難指示の範囲が広がったから九州のおばあちゃんが二十日の日曜、親戚に連れられてやって来ることになった。
おれが古事記好きなのはおばあちゃんのせいかも。この列島に文化が芽生えた創世の記に載ってる神社で三千年も火をともし続けてる女系家系、なんか、すげぇ。その神社と、九州を作った火山、関係あるんかな。おばあちゃんが着いたら聞いてみよう。
ヒカルはランドセルと習字バッグを部屋の隅に移動させた。
おばあちゃんの荷物置き場作らないと。パパもママも、お姉ちゃんのことで頭はいっぱいみたい。別におれは寂しくない。
かがんだとき、体操服についた青と黄色の絵の具が目に入った。洗濯じゃとれなかった。洗剤は空っぽになった。
おれはお姉ちゃんが病気になってから、自分のことは全部、自分でやってる。ママがいなくても学校に遅刻したことは無い。朝ごはんだって食べてる。ママがまとめて作った冷凍ごはんと冷凍おかずをチンしてる。料理の腕はママよりいいって自信あるけど、ママが「絶対に火を使わんで」って言うから、いい子にしていることにした。
ママの髪がほとんど白くなったから、いい子を続けないといけない気がする。おばあちゃんが来たら、朝の味噌汁がまた食べれるようになるんかな。
二十日の日曜、病室外の廊下に大きな声が響いた。「着いたぁ。個室やねぇ」
おばあちゃんは空気を読むなんてことはしない。できない。
病室に入ってきた。「やっと着いたぁ。腰も膝も痛いばって、長時間、我慢したとよ!」ドアを半分閉めながら、個室にいる息子を一瞥すると安心して喋り続ける。「電話じゃ言えんかったけど、あたしの後を継ぐはずの、あん娘、男になったんよ。昔からおかしいとは思っとったけど、まあさか」声をかん高くして繰り返した。「まあさか、まあさか!」
やつれて細くなったパパが出した椅子に腰かけながら口は止まらない。「まったく、あん子は! 神様の火を守るのは女やないといけんのに! やけん火の山様がこんなに怒っとうと。由希にもしものことがあったら、女がおらんくなる、由希だけが残された跡継ぎやのに」
「かあちゃん!」パパがおばあちゃんに低い声で怒鳴った。「由希はイエのために生まれてきたわけじゃない! それに、妹のことは昔からわかってたことやんか」怒鳴り声を飲み込んだ。「高い声は出さんでくれ、この姿が目に入らんとか!」
パパはおばあちゃんと話すときだけバイリンガルになる。ここからおばあちゃんちまでの距離は、パリとブレーメンの距離だ。地図帳で見た。その間にベルギーやオランダまである。だから、おばあちゃん語は絶対、外国語だ。
おばあちゃんはたるんでもなお丸い目をギョロっと回し、初めて状況を理解した。
それでも黙ろうとはしない。それでこそおばあちゃん。
「うちとこの家系の嗣子には奇跡が起こるったい」
パパもママも、おばあちゃんを無視することにしてお姉ちゃんのそばに戻った。ママは足裏のマッサージを始め、パパは右手を握りしめた。おれは酸素マスクをそっと押さえる腕が疲れてお姉ちゃんの肩にひじを載せた。
「あたしゃね、ここのつんとき、戦時中、兄ちゃん探しに、博多ん街に長いことおった。B29がイナゴん群れのごた毎日、毎晩、空襲で、目の前にも真後ろにも
爆弾の方がよけたんだ、絶対。
「傷、無くて良かったですね」ママが遮った。聞きたくないんだ。「由希の手術の傷跡が、どれだけ大きいか、深いか」ため息をつきながら、視線は酸素マスクの下に透けて見える鼻と口に置いたまま言った。「知らないですもんね。見えないとこですから。父親だって見てない」
「かあちゃん頼むから黙っとってくれ」パパの声が低い。
パパが前に、「困ったことを相談すると事態を悪化させる人もいる」って言ったとき、なぜだかおばあちゃんの姿が目に浮かんだ。でもおれはおばあちゃんを尊敬してる。
だって何十人分もの電話番号を暗記してるから。右と左を言い間違えるくせに、一度行った景色は細かいところまで覚えているから。帰りの向きでも解る。
「おばあちゃんの脳みそが壊れたのは空襲のせいだ。歳をとったからじゃない」ってパパが言ってた。
「奇跡は起こすもんたい。必ず、生かしちゃる! 火の山の神様を今ん人間はバカにしちょるばって、見とけよぅ。三千年前から、女たちが黙ってしてきたことや。誰にも褒められん、感謝もされん、火を守るために、生きて、死んでいった女たちがおった。火の山んてっぺんは、天の高い原に届いちょった、そん力は昔の終わった話やないと」おばあちゃんの大きな目が益々広がる。「三人とも、由希から手を離したらいけんよ。絶対」
パパが悲しそうな顔でママを見た。おれも、おばあちゃんが可哀そうになってきた。お姉ちゃんよりもだ。っていうか、お姉ちゃんは可哀そうじゃない。お姉ちゃんはなんだってできる。
おばあちゃんは腰に手を当てながら立ち上がり、おれに「この窓は北向きやんねぇ?」って確かめると南西の方角を向いてお姉ちゃんの傍に立ち、目を閉じて両手の指を組んだ。痛そうに両膝を固い床につけると、テレビで見た東北のイタコのように祈り始めた。おばあちゃんの動きが徐々に滑らかになっていく。大げさな動きで。
今、看護師さんが入って来たら恥ずかしいからやめさせよう。
「お義母さんがこうまでしてくれているんだから、皆で」ママが視線を宙に浮かせたままパパに言った。「一緒にお祈りましょう」
おばあちゃんよりお婆さんに見えるママがそう言うから、おれは恥ずかしさを抑えることにして、三人で熱をおびたお姉ちゃんの体を冷やすように手を置いた。
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