第8話 火の国



 澄み切った、閉ざされた冷気を押し続けているうち、梅が濃いピンクの雲をたなびかせる季節が巡ってきた。

 そして新緑が目に鮮やかになり水仙の香りが漂うころ、地形が変わってきた。水はあるのに深い森は無く、草原が所々に出現した。案の定、人間もある程度、いるようだった。


 道というものがある!

 菖蒲が大地を赤紫に染めた時節、バネのように歩く二人を遠くに見つけた。若葉が光を反射してきらめく、その向こうにいる。


 人懐っこそうなおばちゃんと子供を抱いた女の人だ。二人は、林の中を歩く由希とヤマネコに気がついた。


 二人が用心深く凝視するので、由希はハナクロの背に手を置いたまま、秋に採った栗を五個、差し出しながら話しかけた。

「このネコは今、お腹いっぱいだから安心してください。ところで、火口瀬はこっちでいいですか?」カルデラ盆地に入る、外輪山の切れ目を尋ねた。

 ハナクロがのんきそうに地べたに腰をおろすと女たちは安心し、可愛い、と高い声をあげる。


「あんたも遠くから来たとね。言葉が違うかね。阿蘇に行くとね。みんな行きたがるとよ。ばって、火の山の国に入るとば命がけじゃけぇ」栗に、大きな瞳を嬉しそうに輝かせたおばちゃんが答えた。

 南では先住民独特の骨格ばかりになる。こういうタイプ、あの集落の昔の人、ほとんどこんな感じだった気がする。ナガスネ族にいたときも。

 あのとき、ナガスネ族がいたのはもっと近畿地方よりだから、大陸の影響は遅かったんだ。神武の東征まで何もなかったわけではないだろうけど。もっと昔っから、山陰や北陸に漂着した、強運で体力のある大陸の人はいただろうし。


「あたしも行けるもんなら行きたいとばい」その子連れが加わった。日に焼けた肌が太陽を自由にする。

「あの火の国にいる女王様、日照りのときに雨を降らせたとばい、何度も」おばちゃんが明るい声で言った。

「台風を遠ざけたとばい、洪水にならんように」子連れも唇を尖らせたり、眉毛をジャンプさせたりしながら言った。

 先住民のほうが表情豊かな人が多い。狩猟採集の生活だから? 農耕社会は階層社会になってしまうから?

「その女王様が来らっしゃって、今じゃあ、あんたあ、まわりの三十の村ば女王様の支配下に入ったとよ。噂じゃ、額に女王の印があるって」

「不思議な力をもってるんですね」由希は心底おどろいた。ヒカルに違いないけど、どういうこと?「大勢の人がいるんですね」

「女王様の姪はまだ子供やけど特にきれいらしいたい。そん子んお母さんは女王様の妹ばい。神通力のあるとは女王様だけのようばって」年配の美人が得意そうに腕を腰に当てて言った。

「女王様んとこに行くんなら、火口瀬は通りやすかば、こっからはだいぶあるとよ。アンタの体ならそこまで行かんでも、火の国に入りたかとなら、あの外輪山越える方がはやか」

 若い方が子供を抱き直し、空いたほうの腕で東を指差した。


「昔、火口瀬っちゅう切れ目はなかったと。煙や火を噴く山の周りは湖やった。この子が産まれたとき」 おばちゃんが隣の女を向いて言った。「地面がものすごく揺れて、それは大男がどっかから来たからたい。田を作るために山を蹴って火口瀬っちゅう切れ目を作ったと」

「ありがとうございます」由希は結び目を付けたツルも渡した。


 二人は大笑いしながら由希とヤマネコに手を振り、大きな腰を揺らしながら去っていった。

「ハナクロ、ご協力ありがとね。それにしてもびっくりだね、カルデラの内側で農耕が始まって、まだそれくらいしか経ってないんだ。北の村にいた大陸の人はたしかに大男だったよ。山を蹴飛ばすほどじゃないけどね」


 ホォッ! ハナクロは尻尾を由希のすねに一瞬クルっと巻きつけると、女たちが立っていた場所の匂いを嗅いだ。しかしすぐに他に気を取られる。

「匂いとか、方向とか、アンタの、あんまし期待してないから!」


 ヤマネコ、今はダンゴムシを掘り起こしている。

「あの二人のご忠告通り、山を越えよう!」

 ハナクロが尻尾をピンと立てた。


 歩き続けると森のむこうが草原になっているのが木々の隙間から見える。

 教えられた緑の台地と森の境目にやっと到着!


 藤の花の群生が舞台の緞帳のように青紫で異世界を区切っている。

 ここを横断すれば、その向こうに火の山が見えるはず。


 草原台地は果てしなく広がり、雨が削った跡が身長を超える深さの谷を縦横無尽に形成していた。

「ハナクロ、ご飯、みつかるかなぁ。ちょっと心配。あたしのご飯も。ヨモギに似たあれ、トリカブトじゃないよね?」

 草原を渡る鳥たちは、地上の生き物に手が届く存在ではなかった。ネズミや昆虫を見つけてハナクロが走っても、空から滑降してきた猛禽にかっさわれてしまう。


 日々強くなる太陽を浴びながら、登り、下りを繰り返し東へ歩いた。

 数えきれない小さな谷を通過し遠雷が聞こえるころ、ついに火の山が地平線を超えた遠くにその姿を小さく現した。


「間違ってなかったね。それにしても、喉、乾いた」

 ハナクロは由希の後ろから頭だけ出し、喉を鳴らしながらその雄大な光景を眺めている。


 遥か火の山に、濃い雲が湧こうとしている。「あの雲、こっち来ないかな。ハナクロ、雨降るよ」

 広がる雲の中に稲妻が次々に走り始める。


 地平線の向こう、天のいかずちが大地に突き刺さる。閃光が 雨のように 降る。その雲がやって来る!

 風が吹き始め草原がどよめく。雨がポタポタ飛んできた。由希とハナクロは大口を開けて喉を潤す。

 つむじ風に草が舞い上がる。土砂降りに成長した雨が体を打つ。気持ちの良さに由希は両腕を広げ横殴りの豪雨と暴風を全身で受け止める。


 力がみなぎる。歩みは烈風を跳ね返す。


 ワームホールを通り抜けるときに何度も引きちぎられた全ての筋肉繊維が再生する。この体ではないのに。

 抗がん剤に何度も晒された全ての細胞が癒される。この体ではないのに。


 嵐は黒雲と共に去り、太陽が世界を乾かし始めた。強い光が草原全体を押す。由希の体に圧力をかける。光のせいで、遠くに吠え声のような響きさえ加わる。


 草原台地に突然の終わりが見え、ついに横断したことが分かった。


 台地のふちに立つ。足の下は何百メートルかの崖になっている。

 その崖は壁となり、巨大なカルデラ盆地を取り巻き、向こうはかすむ。

 盆地の底は真っ平らで、広大な沼地が大空を反射して青く、白く、大地に空と雲を描く。


 目に眩しい。


 中央の三つに割れた火山も、湖のような沼地に、逆向きに写る。

「中央の火山まで三キロくらい?」

 由希はハナクロに聞いてみたけれどもハナクロも雄大な風景に感動して言葉を失っていた。

 水面を眺める。点々と動くものは人のようだ。「もしかして、湿地を田んぼにしてる?」

 細い筋がやはり太陽光を反射しキラキラ輝いている。「小川じゃない。真っすぐに外輪山と沼地を結んでいるから、人口の水路だ」

 ハナクロの視線も遠くを射る。

「大男の伝説は火山性地震と稲作が合体したもの? とにかく、ここの指導者は知識持ってる。鉛やスズを手に入れて道具を作るのはもっと後じゃなかったっけ? ヒカルついに覚醒した? 狩猟採集の時代を終わらせようとしてるんだね」

 シャァ! やっとハナクロは返事した。

「それにしても、火山全体が良く見えるね、ここからだと。カルデラに囲まれて。ねえ、知ってる? 三十万年前のこの山は巨大でね、今いる、ここが、山すそだったの」

 由希は足を踏み鳴らしてここ、を示した。ハナクロも嬉しそうに跳ねた。

「もの凄い大きさでしょ? 大規模な噴火が起きたとき、自身を吹き飛ばしたの。噴火で飛んで行った岩が何百キロ先にも、二十一世紀になっても、あちこちにそのまま、あるんだよ。で、山体が消えて、巨大なクレーターみたいに、このカルデラの中が空っぽになった。何万年もの年月のあいだ、吹き飛んだあとの窪地に水が溜まり、灰が溜まり、土も溜まった。そしてまた噴火が起こった。三度も。それで、平らな盆地の底に新たな火山が、あれね」

 由希はハナクロの横にしゃがんで、しなやかな肩に腕を回しながら遠くを指さした。

「できたんだよ。それでドーナツ状の湖ができたの。その湖の水は、火口瀬って呼ばれる切れ間ができたときにほとんど流れ去った。で、米を作るのに適した程度の湿地が広がる平地、こんなふうになったってことね」


 ハナクロはヤマネコのくせに遠吠えをした。三十万年分の長い遠吠えをした。


「おばあちゃんが言ってたんだけど、大噴火は古事記の初めに書かれてある神ムス日という神様が起こしたもので、二十一世紀でも、その神様が火口の中に居るんだって。その神様は山体に閉じこもってる負のエネルギーを鎮めるためなんだよ」由希が声のトーンを落とすとヤマネコはイエネコのように低くグルルと鳴きながらすり寄ってきた。


「負のエネルギーってね、先住民の魂」

 近代に絶滅させられた種の獣は悲しそうに唸った。

「そういえばアンタも先住民だね。アタシがいた時代には、もう対馬つしまにしか生息してない。アンタより小柄らしいよ。島の大きさの差かな?」

 ハナクロは体毛を逆立てて体を余計に大きくした。


「その負のエネルギーがあったからワームホールが発生したの。空間にエネルギーを加えると歪むでしょ。二つの時空を結ぶワームホールの出現には負のエネルギーが必要だった。二つの時空を結ぶだけの大きさの」

 ハナクロは左耳を由希の声に向けたまま、視線をカルデラ盆地に移した。


「湿地を田みたいにした場所は五か所、どれかに、ヒカルがいる。多分、一番大きなあの左の集落」

 ハナクロは首を伸ばし、両耳をグルグルと回し始めた。


「ねぇ」由希は分身の隣に片膝をつき、両の手で痩せて精悍になった顔を包んだ。「ここから先はヤマネコが棲む処ではないわ」

 ハナクロが目を細めながら由希の手の匂いを嗅いだ。


「アンタは山に戻るの。ヤマネコだもんで。いい? 木に登って、鳥を捕まえて、また、太るんだよ。いいね?」

 ハナクロは二十一世紀に届きそうな長い遠吠えをした。ネコの遠吠え。


「大好き。ここまで来れたのはアンタのおかげだよ」由希はハナクロを抱きしめた。ヤマネコは耳の先からしっぽの先まで由希の胴体に擦り付けると、遠くにかすむ深い森へと駆け出した。


 由希は再び立ち上がった。


 外輪山とカルデラ盆地の縁は崖になっている。表面の凹凸に植物が根をおろし育ち、垂直な森を形成していた。由希は丈夫な枝を慎重に掴んで足の裏で安定した部分を探った。

「ゴム底のある靴ほしい!」


 垂直な森の途中には水やお湯が湧き溢れている。

 お風呂ぉぉぉ! ちょうどいい温度だぁ!

 

 曲芸師のような態勢で土埃を落とした。その崖では、濃くなった葉の茂みが、激しくなった太陽熱を遮る。


 びしょ濡れが気持ちのいい晴天の下、崖を降り切った。ドーナツ状の盆地をあの雲に向かって左に進む。日陰が少なく強い日差しで髪はすぐに乾いた。長く伸びた髪を自分の髪でまとめた。


 あっつぅ、はぅ。できるだけ木の下を歩こう、まばらだけど。ヒカルまで、あと五キロくらいかな。

 その瞬間、由希の目の隣を弓のようなものがかすった。反射的に木立に走った。その間も次々に矢が飛んできた。

「女王の弟だ!」幹の陰で由希は繰り返し叫んだ。矢が止まった。

「出てこい!」

 凛々しい声が命令した。どこかで聞いたことがある声。中三とき?

 由希は戦闘意思がないことを示すために両腕を広げ、左の指先からゆっくりと木の陰を出た。声の主は同年代に見え、弓に矢をつがえたまま立っていた。


 う、映画で見たカリブの海賊みたい、よさげな。この危険な状況を忘れてしまう。 髪の艶がヒカルみたい。


「女王様に似ちょる」日焼けした肌にまっすぐな長い眉のその若者が言った。知的な顔に 二本の青い縦線がある。「そっくりやけど本当に弟かどうか、ワシにはわからん」

 弓矢の若者は葉の模様を付けた腕で矢をつがえたまま、近づいて由希の後ろに立ち、「歩け!」と言い由希を先に歩かせた。


 無言のまま歩く。

 集落に近づいた。全て木と竹でできている。

 この木や竹、全部、石で切ったわけじゃないよね? どやって作った?


 囲む塀が思いのほか高いことがよくわかった。集落の中心部に、ひときわ高い建物がそびえる。

 屋根の傾斜が六十度くらい?


 門の脇にはイチョウの雌株と雄株がそれぞれ植えられ、屈強な男が両側に立っている。

 この時代でも、イチョウが延焼を防ぐことを知ってるのかなぁ。まだ若いイチョウ。


 門をくぐると十ほどの妻夫木屋根の向こうに、さっきの大きな屋根が見えた。


 その建物は高床式で、その一階の床の高さは由希の身長より高い。建物全体を幅広い縁側が取り囲み、深い軒は縁側より外まで伸びて建物を囲み、その軒を支える柱が東西南北の角と、その間に立ち並ぶ。


 他に、地面を掘って壁は無く、屋根だけで、小さい建物が何十もある。高床式の建物は小さいものが幾つか。その縁側に食料を出し入れする人たちが見えた。


 ネズミと湿気を防ぐ食料庫なんだな。人間は竪穴式住居ね。気温差少ないし、火も使える。


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