第7話 原始の森
大地に道なんか、無い。見渡す限り植物に覆われている。けもの道さえ無い。由希は辺りを見回す。
高い木々の隙間には、藪と雑草が隙間を埋めるように生い茂り、人間様を拒否してる。拒否している割には野イチゴ、ベリー類や柑橘類が食べきれないほど、どこにでもある。
アイス食べたい。
それでも目の前の恵みを夢中で食べる。野生種だから甘くはない。
でも空腹は最高の調味料、っていうじゃない? 虫歯の心配もないし。ゆでれば食べれる山菜もたくさん。水をすくう泉、どこにでもある。鍋代わりの竹、どこにでもある。
竹を切る磨製石器はちゃんと持って来た。無人島にたった一つ、何か持っていけるとしたら、それは刃物! 黒曜石なら、もっといいんだけど。
ハナクロは時々、勝手に懐を飛び出し、ネズミや小鳥を銜え戻ってきた。
「ねぇ、陽が射さない高い木々の下には植物が少ない、なんて、よっぽど北の方だけじゃね? 方向がわかんない」
ニャァ。ハナクロは返事をする。その鳴き声のトーンは由希が話す内容に呼応する。
藪の中、竹で作った長剣もどきを左右に振り続け、一歩、一歩、前に進んだ。手足は葉で切れてあっという間に傷だらけ。
身に巻き付けた皮の隙間にも切り傷がついては治り、ついては治り、を繰り返した。
「傷治るの、速くね? そういえばナガスネ族だったときも速く治ってた」
ニョォ。丸い二つの目が由希の目の奥を覗き込む。
何でもお見通しだね。甘えんぼさん!
「そっかぁ、ヨモギの香りだけでも傷が治ってくってこと? 植物が放出する化学物質に囲まれてるから、ってことね。あの小島じゃ、AIが思いやりを自分でプログラムに組み込むくらいだもんね。森が無い環境の人工知能搭載ロボットは冷静な判断を貫くだけだね」
グルル。喉を気持ちよさそうに鳴らした。
「あの小さい島の外の世界ではね、技術者たちが世界をより良くしようと頭脳を競い合ってるんだよ。電気やガス、知らないでしょ。水道のシステムってすごいんだよ、知ったらびっくりだよ。じゃなきゃ二十一世紀でも子どものほとんどは水汲みで一日を終えるんだから」
ミャァと応じる代わりにあくびをして懐の中で寝始めた。
ニニギの言葉が蘇った。技術革新の恩恵にあずかれる人と、あずかれない大勢がいる。
大きな川や崖を避けて歩き続けた。太陽が朝からずっと出ていれば東西南北が分かるはずだった。
山や丘の斜面、うっそうと茂った森の中では、隙間に見える天を仰ぐしかない。
天にだけ頼ると、山や崖、高い樹木に隔てられ、その角度の分、太陽が出るのが遅かったり、沈むのが早かったりでおおざっぱな方角を見当付けるのも難しい。
そのうち、植生に気がついた。ヤブツバキやアジサイ、サカキがあれば北斜面。ヤマザクラ、クリ、ツツジがあれば南斜面。絶対じゃないけど。
夜は北極星を探した。ただ、高い木々に遮られ見えない。
「地図、欲しいぃ! ココハドコ、ワタシハダレ? 南はどっち? 月は東から上り西に沈む! 上弦の月、右が丸い月、が日没後に見えているのは南~南西~西の方角、って、四年の理科の先生が言ってたのが、ここで役立つかぁ。下弦の月は深夜レイ時に東の空から上る。んで朝がた天高く南の空に上る。つまり、下弦の月は東~南東~南!」
ハナクロはもう、懐には入らない大きさになった。由希の頭によじ登り、高い木に飛び移り、鳥を捕まえるようになっている。
早朝の寒さが身に沁みるようになると、イチョウが鮮やかに黄色に色づき始めた。紅葉も始まり、山々が炎のように見える。黄色が鮮やかなイチョウがあちこちで青空を突き刺す。
「ねぇ、ハナクロ、高校の正門脇のイチョウは今、どうなってるんだろね?」
朝、まだ陽が低いころには紅い葉が全て光を透かし、木々が合唱しているように聞こえた。
「甘えんぼちゃん! 見て見て、キレイ! 人間様がいない世界、圧倒的に美しいね。美しいと思う人間がいないと、何のために大自然はこんなにも美しいの? 色も、形も、組み合わせも、完璧。でも野生の世界は人間が生きるには困難すぎ。足、痛いよう! 手袋、欲しいよう! ダウンジャケット欲しいよう! はぅ」
樹々は落葉し、視界が広がった。太陽の位置がよくわかる。
この間に進もう。蜂、いないし。毒蛇は冬眠。今しかない。
ハナクロは由希の肩に飛び乗り、太い尻尾を由希の首周りに巻き付け、木枯らしを防いでくれた。
凍てつく冬のある夜、北斗七星が高くなってきたことに気が付き春の訪れを知る。
温かくなりオリオン座が明け方、沈む方向が、西の指針になった。
これまでにもたまに人間を見かけたがどの人も原始人のようだった。
ハナクロは原種リンゴの木に蛇を見つけて狩りに飛び出した。
歩き続けているうちに山々が再び、濃い赤とピンク、白に染まるのを見た。
ミヤマキリシマだ、おじいちゃんから聞いた。
そのツツジに似た低木が真っ青な空の下、見渡す限り地平線まで広がってる。
地平線と言っても、山々が波を形成する風景の中の地平線は、到達する自信を持たせてくれる。
薫風が体を押す。
夜の灯かりは火の玉と月だけじゃないんだね。
梅雨から夏の終わりまでホタルが凄い数いるし。
椎の木が生えていれば一面のシイノトモシビタケが傘から柄まで光ってるし。
南の空にはサソリ座。
ハナクロは歩いていても頭が由希の腰を超えるほどに成長した。
モフモフの毛はすっかり猛獣の毛皮に替わった。この大きな甘えんボとじゃれているとプロレスみたいだ。
そのおかげ? オオカミにもクマにも襲われたことは無い。
この世界、猛禽類は人間さえ、文字通り鷲掴みにしそうなほど大きい。 低空で正面から向かって来たとき、翼の両端はパパの車の幅の二、三倍はあって、慌てて近くの藪に飛び込んだ。
「ねぇ、アタシたち、前に進んでる? さがってない? アンタさあ、野生動物なんだから方角、わかるんじゃないの? 先導してよ?」
ヤマネコはイエネコの振りをした。
「ヒカルはどうやって進んだんだろ? 野生動物より本能がすごい人? アタシは退化した未来人?」
まだイエネコの振りをして甘い視線。
「二十一世紀なら高速道路で一時間の距離を十四ヵ月だよ! 土木工事って地味だけどすごいねぇ。大きな山に穴を開けてトンネル、深い谷に橋を架けて。何十も、何百も。複雑な気持ち。人間って何?」
自分の部屋で逡巡していたことを思い出す。七、八歳の頃から不思議に思ってた。細胞の分裂、DNAコピー。 生物を進化させた地球の磁場形成。地球の磁場を形成させたマントルの動き。
シャァ。鳴き声は成長と共に、唸り声や吠え声、豊かな音色を奏でるようになっている。
「四季を通じて何かの実がなってるね」ハナクロの瞳の色は柑橘類の色だ。八朔色の虹彩に囲まれたカボス色の瞳孔が細くなる。
左に山並みを見ながら歩みを進めると、少しずつ上り坂が続き、越えなければならない深い緑の山が屏風のように迫ってくる。
熱波にクラクラしているとハナクロが耳をピンと立てた。しばらくして由希の耳も必要な音を捉えた。
その、せせらぎの音に導かれ沢を見つける。汗まみれになった体を冷やすために、浅い流れに全身を浸す。
ひゃぁ、冷たくて気持ちいい!
太陽光線が木々の間から差して水面で躍る。太陽の位置とおおよその時刻を照らし合わせ、方向を確認する。
やっぱり分からない。この流れを遡ろう。山で迷ったら沢を遡る。イワナやアユが豊富でたんぱく源に事欠かないし。この下流一帯にもこんな沢がいくつもあった。
けど、どこでも、用水路を作る技術がなければ稲作はできない土地ばかり。
上流に行くほど石が岩に替わる。小さな滝が何段も続く。
ハナクロは軽快に岩から岩へ飛び移る。由希も岩飛びペンギンみたいに渡る。時々、頭からびしょ濡れになりながらよじ登る。
爽快!
ハナクロは時々、由希の足元に戻ってきては滝の中、由希の体を背中で持ち上げた。
びしょ濡れになった胴体をブルブルと震わせ、水しぶきを円に飛ばす。その水の膜に小さな虹がかかる。
また秋が来て、冬が世界を閉ざした。
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