水銀色の海中歩行
「デルフィ? 引き籠ってるわよ。ずっと、ずっと。一人で穴の中で引き籠ってる。苦しむくらいなら、長老さまを燃やしたりしなきゃよかったのに。もうばかみたい」
「穴の中?」
「そう。銅がたくさん採れる場所があんのよ。デルフィしか行かない場所だから、他には誰も正確な場所を知らないわよ。でも、あたしは一回だけ連れて行ってもらえたことがある。道を覚えてないから一人では行けないけどね。緑色に光る蠅がすだれみたいに天井からぶら下がってるのよ。綺麗なんだけど、それが全部蠅だと思うと、ぞっとしないわ。そうそう、あの人、オログのことも連れていったって言ってたわよ。その直後にあんたたちが逃げ出したって。何を言ったんだか……まあ、どうでもいいんだけど」
「そう、オログが……」
グイルデは指先で細い金の金具を少しずつ曲げていく。その真剣な眼差しを見つめながら、テルネラは、ほう、と息を吐いた。見よう見まねで、柔らかくて細い金の針金を弓状に曲げる。力の加減が難しい。曲げすぎたら、もう元の綺麗な線には戻らない。
「私も、行ってみたいなあ、そこ」
「行けばいいじゃないの。帰ってきてからね」
ふん、と鼻で笑って、グイルデがそっけなく言った。テルネラも悪戯っぽく笑った。
「帰ってきていいの?」
「知らないわよ。でも、あのお荷物放置して帰ってこなかったら許さないわよ、面倒くさい」
「ウルリヒはお荷物じゃないよ」
「わかってるわよ」
にこにこと嬉しそうに笑うテルネラに、グイルデは肩をすくめた。
「あのコエナ――あの人間、デルフィをね、外に出そうとしてんのよ。シュークと一緒に洞窟を探し当てたんだって、昨日。それで、延々とその入り口でデルフィの名前を呼んでやってるらしいのよ。ばっかみたい。変てこのちんちくりんね、あんたの好きになった人間は」
「多分、むきになってるんだろうなあ」
テルネラは、吹きだすように笑った。グイルデは眉根を寄せて、膝を立てた。
「話、聞いてないの? 本人からは」
「ううん、聞いてない。ウルリヒには聞いたって駄目だもの。あの人が言うまでいつも待ってるの。それに、私はあの人を捨てていくから、そういうこと聞けない」
「はー……捨てていくってよく言うわね」
グイルデは肩をすくめる。
「戻ってくればいい話じゃない。まさか、木に成り果てたオログと心中でもするつもり?」
「どうかな、わからないよ」
テルネラは目を伏せて、笑った。
「戻ってくるつもりだけど、でも、約束はしないし、ウルリヒにもまだ伝えないよ」
テルネラは、真珠の粒を抱えるように握りしめて俯いた。グイルデも、黙って何も言わないでいてくれた。
「そうだ、ねえ、グイルデ。どうしてウルリヒのこと、あの時助けてくれたの?」
テルネラは満面の笑みで顔をあげた。グイルデが引き気味に仰け反って、舌打ちする。
「別に。なんとなく、ばからしくなったからよ」
「ウルリヒ、弱ってたから、食べられちゃうかと思った」
「そんなやつを置き去りにして炎の中に飛び込んだの? あんたもやるわね。意外とあんた、冷たいのよね」
「そうなの」
テルネラは、目を細めて、俯き気味に笑った。
「でもね、一緒に生きていくなら、あの人がいいなあ」
◇
テルネラがこの大地で飲んできた淡水の湖水をウルリヒに飲ませたら、ウルリヒは少しだけ体調がよくなったようだった。けれど、黒い痰を吐くのは直らなかった。グイルデもシュークヘルトも、きっと長くないから、傍にいてやればいいのにと言う。テルネラでさえ、頭ではそう思っていた。それなのに、心が急くのだ。
私は、オログに会って、何がしたいんだろう。自己満足で、ただ自分の未練を形にしたいだけなのに。それを諦めきれないなんて。
つくづく、自分勝手だなあと思う。頬につう、と涙の筋が走る。テルネラははっとして瞼を開けた。ウルリヒの帰りを待っていたら、いつの間にか眠っていたみたいだ。いつもこうしてオログを待っていたなあと不意に胸が締め付けられるような心地がした。私は、もう置いて行かれたくないのかもしれない。だからいっそ、置いて行く側になりたいのかもしれない。
「あれ、起きた」
ウルリヒが擦れた声で言って、涙を指で拭ってくれた。洞の入り口から差し込む月明かりで、ウルリヒの前髪が照らされて、金の糸みたいだ。
なんとなく瞼の上に違和感を感じて、視界に僅かな影を落とすそれに指で触れた。ウルリヒが慌てた様な声を漏らしてテルネラの手首を掴んだけれど、遅かった。さらりとした、少しだけ固い肌触り。
「ウルリヒ……これじゃ、目にかかっちゃう……」
「あ、やっぱりか」
ウルリヒは落ち込んだような声を出した。テルネラは、自分の前髪に括り付けられた青い鳥の羽根の髪飾りを抓んで月明かりに透かして見た。きょろきょろと首を動かしていると、ウルリヒがテルネラの前髪から外した黒真珠の髪留めをそっと手に握らせた。
「ごめん……勝手に外して」
「ううん」
いやじゃないよ、と思った。ウルリヒになら、勝手に触られるの、いやじゃない。
「結び方、結構うまいだろ。お前の長ったらしい前髪がうまく留まったぞ」
少しだけ得意げにウルリヒは言う。薄明かりの中ではその微細な表情なんてわからなくて、テルネラは目を細めた。
「でも、これじゃ目にかかっちゃう……」
テルネラは体を起こして、少しだけ左目にかかる青い羽根を見つめた。今までウルリヒの髪飾りに触れたことなんてなかった。触れてみて、何となく違和感があった。ハルフの羽根はもっと柔らかくて、ふわりとしている。年月が経っているとは言ってもこの感触はどちらかと言えば……魚の
「外していいよ。なんとなく暇だったからつけてみただけだし」
「嘘ばっかり……」
テルネラは泣き笑いのような表情をして、ウルリヒを見つめた。
この人は、今夜私がウルリヒが寝ている間に海へ行こうとしていたことを、なんとなくわかっているのだ。だからこんなことをするのだ。形見分けみたいに。
「海の色って言ってくれただろ」
ウルリヒは片膝を立てて、洞の壁にもたれた。背中と擦れて、殻の木の粉がざらざらと落ちて、舞った。ウルリヒは小さく咳をした。こういう所を一つとっても、人間と貝の末裔は違うのだなとテルネラは思い知らされる。テルネラにとってもオログにとっても、殻の木の粉は食べ物でしかなく、それで咳をすることなんかなかったのだ。けれどウルリヒは違う。ただでさえ……肺を痛めているのに。
「だから……持って行ってよ。なんか不安だし」
ウルリヒはもう一度小さく咳をして、不意に掌を見つめた。きっと、また黒い煤を吐いたのだ。
「一応……いやなら、仕方ないけど。その代わり、これ預かってていい? 別に他の誰かにやったりしねえよ」
ウルリヒはテルネラの掌から、黒真珠の髪飾りをそっと手に取った。
「そうだね……私、ずっとその髪飾りをつけてたもんね」
テルネラは目を伏せて、懐からお守り袋を取り出した。そこから今朝グイルデと作ったばかりの髪飾りを取り出す。自分の吐いた中で一番粒が大きくて形の整った真珠を金の鎖に繋げたものだ。
テルネラがくすくすと笑いだしたのを、不思議そうな目でウルリヒは見つめていた。
「何で笑うんだよ」
「ふふ……だって、考えること一緒だなあって。ねえ、ウルリヒ。ちょっとそこに寝転んで。寝たふりして」
「はあ?」
「いいから」
テルネラはウルリヒの腕を引いて、絨毯の上に横たわらせた。ウルリヒはぶつぶつ言いながら、テルネラに背を向けるように腕を枕にして横を向いた。やがて、黙って、呼吸も凪いでいく。
ウルリヒの髪を、テルネラはそっと手に取った。指で梳くととても柔らかかった。指の間からすり抜けていく黒髪に、すがりたくなる。どうしようもない心地になってしまうのだ。でも、この意味は、まだあなたは知らなくていい。戻ってこられたら、伝えるから。
――『僕が零した中で一番大きいやつ』
「私が零した中で、一番大きい粒」
「あ?」
「だめ、寝たふり」
「はは、なんなんだっての」
テルネラがウルリヒの顔を押し戻すと、ウルリヒはため息交じりに笑って、また背を向けた。テルネラは、ウルリヒの髪の毛先にそっと真珠の飾りを結びつけた。
――耳飾りと迷ったけど、なんとなくウルリヒには髪飾りの方が似合うよね。
淡い水色の小さな三日月を浮かべる桃色の粒が、糸のような黒髪の隙間に隠れた。テルネラは柔らかく笑って、しばらくウルリヒの頭を撫でていた。ウルリヒは気怠い眠気に抗うように、何度も瞬きしていた。長い睫毛が、月明かりの粒を毛先につけてふるふると震えていた。けれどやがて、ウルリヒはすうと静かに眠ってしまった。胸と肩がゆっくりと上下しているのを確かめて、テルネラはそっと立ち上がった。水色と銀色が混じりあったような月夜の薄闇へ足を踏み入れる。最後にもう一度だけ振り返った。ウルリヒの髪に、薄闇では橙色にも見える小さな真珠の光が埋もれていた。
一緒に人間の陸に帰ろうかと、言いたかった。けれど、ウルリヒはきっと頷かないだろうと思った。まだウルリヒにはやることがあるのだ、この地で。人間のために。貝の末裔のために。そしてきっと、おそらくは……テルネラのために。
――だから、私も、やるべきことをしなくちゃ。
土の上で露わになった殻の木の根を踏み越える。灰を踏みしめて、ゆっくりと斜面を下って行った。やっぱり羽飾りが目にかかる。目にかかって、青い光を目に透かしてくれる。テルネラの喉から「ひくっ」という音が漏れた。
私って、なんて惨いんだろう。ウルリヒのことを好きだと言いながら、あの人を傷つけ続けてばかりだ。
きっと、知らず知らずのうちにオログのことも傷つけていたのだと思う。テルネラは、オログともう一度話がしたかった。たとえ物言わぬ木になっていたとしても、どうしても声を伝えたかった。私はこれ程に惨いのだと、やっと認めることができたから。オログにもう一度会わなければ、自分がどれだけオログを傷つけていたか、知りえないのだ。想像だけではどうしようもない。テルネラはお守り袋からもう一つ、二粒の真珠を連ねた耳飾りを取り出して、ぎゅっと掌に閉じ込めた。これはオログへの未練だ。この真珠は、海に浸して輝かせなければならない。そうしなければ、これからもずっとウルリヒを傷つけてしまう気がする。テルネラの中にもオログはいるけれど、ウルリヒの中にも、オログがいる。ウルリヒの目の前で、海に落ちていったオログが、ウルリヒの心に今でも住みついている。
大地に草花が絶えたせいか、あの火事の日以来陸に霧はかからない。水銀色の光の帳が、殻の木を暗い青と緑色、橙色にキラキラと輝かせているだけだ。浜辺に出て、テルネラはもう一度森を振り返った。花に紛れて今までは分からなかった。私の生まれた大地は、こんなにも美しかった。
テルネラは、そっと潮風の漂う水面に爪先を浸した。ふと怖くなって振り返った。誰も追いかけては来ない。あの時のように、闇夜に目立つ色とりどりの光はもう追ってこない。――私は、自由だ。
浅瀬を進んで、海面が首まで浸した頃、爪先に沢山の丸い粒がぶつかった。真珠を爪先でつついて、思い切って踏みしめる。つるりとすべって、テルネラは水飛沫を立てて海の中に落ちた。テルネラが蹴った白い真珠がぱらぱらと舞い上がって、降ってくる。その軌跡をぼんやりと目で追った。水面には、月が輪郭をなくして揺らめいている。テルネラは鰓からこぽりと泡を零して、喉からは真珠を零して、砂に手をついた。体を起こして、ゆっくりと歩く。一人だと、歩きにくい。あの時はオログが、テルネラが歩きやすいようにうまく誘導してくれていたのだと今更わかった。どれだけ頼りきりだったんだろう。テルネラは唇を噛みしめた。涙腺が、塩に染みた。
そのまま、銀色が滲む藍色の水中をただただ歩き続けた。オログの居場所はよくわからない。人間の大地を支えていると言っていたけれど、あの浜辺から少し潜ってみたくらいでは、木の枝の先端すら見つけられなかった。きっと、もっと奥深く潜らなければいけないのだ。テルネラはもう一度鰓から空気を吐いた。あの時は行けなかった海の底へ。きっと誰も知らない世界の深淵へ。
ウルリヒの羽根飾りが瞼に張り付いて、瞬きするごとに上下した。テルネラは泣きたい気持ちになりながら、笑った。心強い。一人じゃないみたいだ。白い真珠たちは、月明かりに照らされ水色と黄緑色の光沢を帯びて輝いている。テルネラはその中に埋もれる黒い真珠を探した。きっと、オログのいる場所まで、黒真珠が零れているはずだと思ったから。最初に見つけた黒真珠をそっと拾って、テルネラは前を向いた。黒真珠は、暗い緑に淡い橙色の筋を浮かべて、輝いて見えた。
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