青い魚

 しばらく歩いていると、深海の藍に次第に青葡萄のような薄い緑が滲んできた。その眩しい光に目を細めながら、足元の真珠を踏みしめ光の先を追う。細い光の筋が水面から斜めに伸びていた。その光の周りで、ゆらゆらと水に溶けた土が茶色い靄を作っているのだった。テルネラはしばらく、その生き物のようにも見える靄を見つめていた。もしかしたらここは、湖底なのだろうか。人間の陸地には海につながる汽水湖があったはずだ。

 青葡萄色の光の先を見つめると、黒真珠がたくさん吐き出された跡があった。光に照らされ、黒い真珠達は黒と言うよりもむしろ、淡い緑の粒だった。目を凝らすと、辺り一面の白真珠の中に先刻よりもたくさんの黒真珠がまるで斑点のようにまとまってぽつぽつと散らばっている。誰かがここで苦しんで、黒真珠をぼたぼたと吐き零したのに違いない。……それはオログかもしれないし、オログよりずっと前の、誰かだったかもしれない。

 テルネラは腰を下ろして、黒真珠たちをそっと撫でた。どれくらい歩いてきたか、もうわからない。地上では一体どれくらいの時間が経っただろう。何年? それとも、まだ数日だろうか。

「ウルリヒ……」

 テルネラの喉からぽろりと真珠が零れ、黒真珠たちの真ん中に落ちて混ざった。テルネラは僅かに呆然とした。無意識のうちに、彼の名前を呟いていた。

 ウルリヒは、まだ生きているだろうか。生きてくれているだろうか。

 ――会いたい、な。ここは、暗くて、頭がふわふわするの。おかしくなりそう。息苦しいよ。

 けれど、そんなことを願う権利なんて、彼を置いてきた自分にはきっとないだろう。

 ――オログ、どこなの。

 腰を一度下ろしてしまったせいか、もう立ち上がれなかった。もうすぐ、きっともうすぐ会えるはずだと心では信じているのに、体が動かない。もう動けない。歩けない。どこに、どこにいるの。どうしてどこにもいないの。

 どうしてこんなに、海は広いの。

 テルネラの喉が、ごくりと上下した。体が小刻みに震えて、テルネラは手の甲で必死に口元を押さえた。鰓からぶくぶくと泡が零れて上っていく。目の奥がじんじんとして痛かった。そろそろ、テルネラの体も限界に近い。

「がんばって。私、がんばって」

 自分を鼓舞するように辺りの景色を睨みつけた。けれど、真珠と土の靄の他に、ここには何もないのだった。土が水を濁らせて向こうの景色も見えない。地底樹は、世界を支える贄の殻の木はどこにあるのだろう。その七色の輝きも、暗闇の中で到底見えない。

「……っ、く、ふ、う」

 声が漏れた。涙は止まらなかった。もうすぐ会えるのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。もうすぐ会える、なんて思わなければよかった。座らなければよかった。泣き言を言っている暇なんかないのに。

「ウルリヒ……に、早く、会いに行かなきゃ、帰らなきゃ、オログに、早く会わなきゃ。耳飾りを、渡したいの。どうしても、渡したい……」

 だから、立ち上がって。お願い、歩いて。

 飲みこんだ水は、やっぱりしょっぱくて、ほんのりと土の味がした。おいしくない。

 テルネラは、手首で涙をぬぐった。涙なんて水に溶けてしまって、ないようなものだったけれど。それでも目を擦りたかった。 

 塩から海の中を、歩き続けるのは苦しかった。でも、それでも水底に留まり続けられたのは、大丈夫だよといつだって励ましてくれた、守ってくれたオログに、真珠を吐けない女の子に心を痛め、苦しみ続けたオログに、もうテルネラは大丈夫だよと伝えたいからだ。

 あなたがいなければ、今の私はいない。あなたがいなければ、私はきっと、ずっと真珠を吐けなかった。

「もう少しだよ、テルネラ」

 テルネラは胸に手を当てて、呟いた。ゆっくりと、力の入らない足を動かして体を起こした。感覚のなくなった足がじん、と痛んだ。その痛みに顔を僅かに歪めて、テルネラは笑った。息を吐くと、鰓から泡がこぽこぽと優しく零れていった。

 その泡がゆらゆらと上って、弾けた途端。

 淡い緑の光を照らす水面から、ぶわりと泡の筋が伸びて落ちてきた。真っ白な太い筋にテルネラは驚いて身をすくめた。泡は裾の方からやがて少しずつ針の先程に小さくなり、弾けて水に溶けていく。

 筋は少しずつ下へと足を延ばし、テルネラの目の前を横切った。

 透明な泡のヴェールの向こうに、青い何かが見えた。赤い頭の、金色の嘴の。

 そしてそれは真珠たちにぶつかった。ぶわりと真珠が跳ねて、辺り一面に浮き上がった。テルネラの髪に白と黒の真珠たちがいくつも埋もれていった。テルネラは、泡が包み込むその生き物から目を逸らせなかった。やがて泡は方々に散らばった。テルネラの睫毛の先で、泡の一つがぱちんと弾けた。テルネラの目の前には小さな魚がいて、大きな柔らかい背びれと尾びれを揺らして、体を見せる様にくるりと回った。

 魚の体は、ひれの先端が少しだけ赤みを帯びて、それ以外は藍銅鉱のような鮮やかな青色だ。

 テルネラは、左の目にかかる羽根飾りに触れて、抓んだ。透かし見たその羽と、目の前の小さな魚のひれは、とてもよく似通っていた。

「……ハルフ?」

 テルネラは、呆然として呟いた。魚は再びくるりと回ってみせた。

 目頭がまた、じんと痛くなった。

「ハル……ハルフ、は、ハルフェル……あなた、あなた……」

 テルネラはそっと魚を両手に包みこんだ。魚は不思議そうに体を揺らして、テルネラをつぶらな瞳で見つめていた。

「あなた……あなた、そんなことしなくて、よかったのに、ウルリヒが、寂しがるよ、だって、」

 また、ぼろぼろと涙が零れた。魚はもう一度くるりと回って、尾びれを上下に揺らした。テルネラの手をすり抜けて、ゆっくりとどこかへ泳いでいく。

「ハルフ……ねえ、あなた、青い鳥のハルフでしょう? ……置いて行かないで。待って」

 テルネラは手を伸ばして、よろめきながら魚を追いかける。

 テルネラが遅れると、魚はその場で止まって、何度もくる、くるりと体を回した。おいで、おいでと励ましてくれているみたいだった。

 テルネラの喉からは、絶えずぽろぽろと真珠が零れた。魚についていくうち、やがてテルネラの足元に黒が広がっていった。テルネラは立ち止まって、辺りを見回した。これは、この黒い粒は、闇の中でも淡く緑に光る輝きは――

 全てが、黒真珠だった。一つの混じり気もなく、黒真珠の粒に覆われた水底だった。テルネラの開いた口から、ぽろぽろと桃色の真珠が零れて、闇の真ん中に明るい染みを作っていく。

 不意に、耳たぶにざらりとした何かが触れた。

 はっとして視線を移すと、青い魚が口をそっとテルネラの耳や頬、首筋に這わせていた。テルネラは魚の体を手の中に包み込んだ。魚の体はいつの間にかひれの先端から滲むように銀色に染まっていたのだった。じわじわと広がっていく銀色。剥がれていく透明な鱗。抜けてバラバラになっていく、ひれ。

「ハルフ……?」

 テルネラは震える声で名前を呼んだ。魚はずっと、瞬きもせずテルネラをじっと見つめていた。やがて銀灰色に染まりきった魚は、もう一度だけくるりと回って、ふわふわとテルネラの手から抜け出した。鱗はなおもばらばらと零れて、水面を目指す様にゆっくりと浮き上がっていく。

「だめ、ハルフ、だめだよ、だめ……」

 泣きそうな声でテルネラは手を伸ばした。けれど魚はテルネラの指を避けるように後ずさった。最後にゆらゆらと地面に近づき、ぼろぼろの体で真珠をぶわりと巻き上げた。

 テルネラは思わず目を閉じた。黒真珠がテルネラの瞼に、頬に、額に、腕に、ぽつぽつとぶつかった。痛くはなくて、テルネラは恐る恐る目を開けた。透明の鱗だけが水の波に揺れていた。魚の姿は、どこにもなかった。

「あ……う、あ、あ」

 テルネラは蹲った。苦しかった。鰓からまたぼろぼろと泡が漏れて、喉からもぼろぼろ真珠が零れた。桃色の染みを掴みながら、テルネラは嗚咽を漏らした。

 テルネラが知ることはない。ハルフェルが姿を変えたその魚は、古代ベタと呼ばれ、観賞魚で、海では生きられなくて、そしてだからこそウルリヒたちコエナシの祖だということ。貝の一族は海でも生きられるようにと鰓を退化させず人の姿になった黒蝶貝の末裔で、本当は白い真珠を吐く方が異端だったと。

 貝に脊椎はない。だから殻を骨の代わりにした。黒真珠の贄の子が殻の木へ生まれ変わるようになったのは、殻で無理矢理骨を作ったから。その名残が、今も呪いとして一族を蝕んでいる。

 全てが失われた歴史だ。葬り去られた創世記だ。知る必要もなく、知ったところでテルネラの悲しみは変わらないのだった。テルネラの吐く真珠がかつての淡水真珠と同じもので、数億の時を超え喪われたそれが蘇ったという事実だって、何の意味もない。今はただ、テルネラは大事な友達のために泣いていた。たとえ種族が違っても、人形ひとがたと鳥でありながら、二人は友達だった。大切な仲間だった。

 涙の止まらない目を何度も何度も擦っていたら、やがてテルネラは爪の中に違和感を覚えた。何かが挟まっている。淡い、青色の糸のようなものが。

 同じような糸は真珠たちの間にぽつぽつと紛れていた。どこかで見たような気がする。真珠のように淡くキラキラとした輝きを放つ、オログが好きそうな暗い青の色――

 テルネラははっとして顔をあげた。薄闇の中で、それはよく見えない。けれど確かに、棒のような黒い影がすぐ目の前に揺れている。テルネラは悲鳴にも似た声を上げた。見つけた。木だ。殻の木だ。うねるような太い幹。僅かに色づく、灰色の木肌。

 テルネラは駆けだした。海底樹の木肌は、貝の末裔の住まう陸上のそれとは違い、艶があって、さらさらとしていた。まるで真珠のような手触りだ。テルネラははっとした。陸の木は、貝の末裔がいつも剥がして食べていたから、ぼろぼろだったのに違いない。この木は、誰も触れない悲しい木だから、生まれた時のままなのだ。

 すべすべとした木肌に手を這わせていたら、違う感触の何かが指と指との間に挟まった。布だ。テルネラはその端を引いてぴんと張った。糸と同じ色の、布だ。オログが腰に巻いていたそれに、よく似ている。

「オログ……?」

 テルネラは、ぺたぺたと上の方を触った。どこに何があるのかよくわからなかった。背伸びしてようやく届くくらいの高さに、なにかふわりとした綿のような感触があった。薄闇の中で目を凝らす。淡く白に輝いているように見える。

 テルネラは木から手を離した。指先が震えていた。ハルフは、知っていたんだろうか。ここがその場所だと。だから私を、連れて来てくれたんだろうか。それとも、導いてくれたのはウルリヒだろうか。……ううん、そうじゃないわ。ウルリヒは、きっとずっと、私を導いてくれてた。だから私は真珠を吐いて、ここにいる。オログのもとに。

「オログ、食べるね。ごめんね」

 テルネラは、擦れた声で呟いた。また、息が苦しくなった。胸が痛かった。けれどテルネラは微笑んでいた。

心に、熱が滲む。

「オログ、ごめんね。私はね、あなたを食べなくても、真珠が作れちゃうの。だからね、食べても意味はないかもしれない。でもね、やっぱり、食べるね。この木はあなただし、他の子供たちだけれど、でも私は食べるの。きっとこれからも、そうして生きていくの」

 テルネラは笑って、そっと殻の木の皮を剥いだ。

 ――しょっぱいなあ。やっぱり、あんまりおいしくない。オログ。

 テルネラは、時々ひくりと喉を鳴らしながらも殻の木を食べた。塩からくて、気持ち悪くて、吐きそうだ。けれど食べ続けた。爪を立てて、歯を這わせて、剥がして、剥がして、剥がして。

 泣いているのか、笑っているのか、よくわからなかった。それでも食べ続けた。


 きっと、一生分の塩を食べたと思う。


 きらきら光る、鱗みたいな粒をたくさん水に溶かして、木の肌に染みこませて。

 この世界は、生きているのだ。

 海の中で、生きているのだ。

 私も、しょっぱい涙を流して、生きているのだ。

 これからも、生き続けるのだ。


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