真珠貝の森(ニ)

 じりじり、ちりちり、じりじり。死にかけの蝉の鳴き声のような火花の音が微かに鳴り響いている。紫色の花達も、透明な草も、その先端からじわじわと焦げを広げて、くすぶる様に灰になっていく。生臭い湿った燃え滓の匂い。燻し火に巻き込まれた、虫の死骸の匂い。テルネラは思わず「あっ」と唸って、鼻を鳴らした。咳込みそうで、咳が出ない。くしゃみしたくても、くしゃみをするまでに至らない。口と鼻、空気の通り道が、不快な温く生臭い臭いでふさがれているような心地だ。思わずテルネラは、鰓を僅かに開いて、肺のつきんとした痛みに蹲った。水の中以外で鰓を開いたって、温い煙でさえ火傷して、苦しいばかりだ。ウルリヒが、自分も違和感を感じるのであろう喉をぐずぐずと鳴らしながら、テルネラの体を支えた。

 大地についた指先が、熱かった。テルネラの目の前で、露草と釣鐘草が燃えていた。テルネラは悲鳴を上げそうになって、堪えた。ウルリヒが、すっかり血の乾いた灰色のコートを広げて、ふわりと煙からテルネラを隠してくれた。なぜだか、ぎゅっと抱きしめられたような心地がした。

「はは……貝殻の木が燃えねえって、嘘じゃねえの。これ、この匂い、ただの草花の燃えてる匂いと違うだろ。すげえ臭いし、息苦しい」

 ウルリヒは一度だけげほ、と無理矢理咳をして、唾を吐きだした。その唾に煤が混じっていたような気がする。テルネラは、土を握りしめて立ち上がった。デルフィが何をしようとしているのかわからないけれど、私は早く、一刻も早くベレグラさまに会わなければいけない――。テルネラよりも数歩先を歩くウルリヒは、両手で口元を覆って、苦しげに俯いていた。片目がまともに開いていない。テルネラはウルリヒがそうしたように、わざと無理矢理咳込んだ。つられたのか、あるいは故意か、ウルリヒも後に続くように咳込んだ。

「はっ……はっ……」

 喘ぎ声が喉から意図せず零れていく。苦しいのか、ただ胸が痛いだけなのか、よくわからない。足を一歩踏みしめるごとに、花や草が枯れるように燃えて灰になっていく。微かな音と共に。土にうずめた死体が、静かに腐っていくように。それを見ていると、心臓が同じように燻されて灰になっていくような心地だった。赤々と燃える焚火の業火で焼けて汁を滴らせる魚の死骸よりも、きっとこの景色は惨い。テルネラは重い足を引きずった。どうしてだろう。どこも怪我していないのに、体がうまく動かない。同じように、のろのろと先を進むウルリヒの、血のにじんだ背中を見つめながら、テルネラは自分が震えていることに気づいた。どうして、何が、私はそんなに恐ろしいんだろう。

「ウルリヒ、ねえ、ウルリヒ」

「あ? なんだよ」

 ウルリヒは小さな咳を二つして、振り返った。

「何」

 ウルリヒは、また唾を地面に吐き出した。それは灰で黒く濁っていた。

「わ……私より、先に、目を覚まさなくならないでね」

「あ?」

 ウルリヒは、飛んできた小さな煤が乗った鼻を擦った。ウルリヒの鼻頭が黒く汚れた。

「どう足掻いたって、お前らの方が長生きだろうよ」

「そうかな……やっぱり、そうなのかな」

「これから海に行くっていうやつが、言う台詞じゃねえな」

 ウルリヒはくつくつと笑った。顔が普段よりも、青白く見える。その色はテルネラにとっては生の色だった。けれど、人間にとっては死の滲む色だとテルネラはもう知っているのだ。

 ――ああ、そうか。私は、ウルリヒの顔が私と同じで、真っ青だから……怖いんだ。

 テルネラは泣きたい気持ちで笑った。好きな人だと、みんなの前で言ったけれど、それがどういうことか、本当の意味では分かっていなかった。

 ウルリヒは、私と同じものになりたいみたいだ。でも私は、同じものになんか、なりたくない。

「ウルリヒ、ねえ、ウルリヒ」

「なんだよ」

「ここがね、ここが……私が、生まれ育った場所だよ。紫と、白と、光に溢れてるでしょう。溢れてた、でしょう」

「……泣くな」

 ウルリヒが唇を噛んで、テルネラの手を引いた。涙に滲む視界の隅に、やがて赤橙の色が染みこんできた。ウルリヒは立ち止まった。テルネラは鼻が詰まったせいでぽかんと口を開けたまま、すうすうと喉から空気を吸って、それを見上げた。

 焚火だ。

 この世界の、命の灯。

 人間の色だ、とテルネラは思った。ベレグラ様は、貝の一族の血には銅が、人間の血には鉄が溶けているのだと言った。赤く爛々と燃え盛る火の中で鉄を打ち続ける貝の一族の男たちの針金人形のような影が、瞼の裏側に蘇った。幼い頃からずっと、焚火を透かし見てきた景色だ。この色はきっと人そのものなのだ。ウルリヒがだくだくと流した血と同じ色。渇いた木々と、炭の香ばしい匂い。すっかり見慣れたはずの景色なのに、その赤は、確かに今、テルネラの心を突き刺した。涙があふれて止まらなかった。テルネラはようやく、自分がもう一つの大地で生きてきた意味を噛みしめた。炎の裏側で一つの影法師が揺らめいて、二つの火の玉を取り出した。影はそのまま、赤に滲んで消えてしまった。テルネラは頭を振って、涙を飛ばした。

「行こう。この先に、長老さまの藤棚があるの。デルフィ、何をするつもりなんだろう」

 テルネラはウルリヒの手をとった。ウルリヒは一度その手を振り払って、テルネラの手を握りなおした。何がどう違うのか、テルネラにはよくわからなかった。テルネラはそのまま、ウルリヒの手を引いて炎の脇をすり抜けた。

「この先に、藤棚があって、その中に、長老さまが」

 ウルリヒが急に立ち止まったので、腕がつんと引きつった。テルネラが振り返れば、ウルリヒは再び咳込みながら妙な表情で静かにテルネラを見つめていた。

「なあ、テルネラ」

「なあに」

「露草って、青色だぜ」

「え?」

「ほら」

 テルネラは促されるままにウルリヒの足下を見つめた。焦げかけの露草がその踵の先にある。ウルリヒは爪先を上げたまま、その灰になりそうな花の残骸を踏みつぶせずにためらっているようだった。結局ウルリヒは、足を露草から少し離れた場所に下ろして、踏みしめた。

 テルネラは、ウルリヒの瞳を見つめた。青い瞳の中を、橙色の光がゆらりと横切った。

「おまえはオログの紫色の目を露草色って言ったんだろうけど、でもさ、あの色、青い色だと思わない? お前は紫色の花だけがこの地にあるって言ったけど、全然違うよなあ。露草は、やっぱりおれにはどう足掻いても濃い青色にしか見えねえや。……それ、気づいて、欲しかったなあ。おれ、オログの目の色はどちらかというと藤の花みたいだと思うぜ」

 ウルリヒは目を細めて、顔を上げた。枝垂れ落ちる藤の花を見つめながら、泣きそうな顔で笑っていた。

「ほら、やっぱり。オログのはあの色じゃん。ひでえなあ。あんなのまで燃やすなんて。地面の花まで燃やすなんて。ばかだなあ」

 ウルリヒの言葉に、テルネラは恐る恐るウルリヒの視線の先を追った。

 もくもくと立ち込める灰色の煙。その中に見える、黒に染まっていく紫のすだれ。

「……ベレグラさま!」

 悲鳴のような声が喉から漏れた。テルネラが手を離したのか、ウルリヒが手を離したのか。一人で煙の中に飛び込んだ。咳が止まらなかった。目がしぱしぱと沁みて、痛い。

「ベレグラさま!」

 鬼火のような赤い光が揺れた。テルネラはその光に向かって手を伸ばした。もう少しで触れられると思った途端、灰色の世界で光はすっと斜め上に移動した。

「火傷するよ、テルネラ」

 柔らかい声が聞こえる。目を擦って見上げると、そこにはデルフィが静かに笑って佇んでいた。

「火を素手で触るなんて、感心しないな」

「あなたは何をやっているの?」

 テルネラは小さな咳を二つして、デルフィを見つめ返した。

「ねえ、ベレグラさまはどこ?」

「死ねばいいんだ」

「デルフィ」

「死ねばいいんだよ、こんな人」

 デルフィは肩を震わせた。左の頬に、濡れた線が一筋引かれた。

「焼いて、食べるの?」

 テルネラはきゅっと口を引き結んだ。デルフィはゆるゆると首を横に振った。

「いや、焦がしたいだけ。炭になって、灰になって、死ねばいいんだ。焚火の足しにでもなればいいさ」

「食べないのに、命を奪っちゃだめだと思う」

「どうせもうすぐ尽きる命なのに?」

「うん、そうだよ。食べるために殺すんでしょう? 今までもずっとそうしてきたんでしょう? 私たちは。食べるために、人間を殺してきたでしょう?」

「でも、テルネラ、僕だって殺されたようなものなんだよ。あの人に」

 デルフィは松明を掲げて、その赤い光を見つめた。

「うらやましいなあ、テルネラ。君には君を守ってくれるオログがいて、コエナシのあいつと出会って、しかも好きになったんだね。こんなところまで、君と二人きりで来るなんて度胸があるコエナシだなあ。ね、両想いなのかな。いいね、おまえは。僕なんか、大好きな子に好きとも言えなかったよ。でたらめを教えられて、ずっと信じて、その子と二人で絶望して、苦しんで苦しんで、その子がオログのつがいになるって聞いた時も苦しくて、胸を掻き毟って死んでしまいたかった。僕ね、オログをけしかけたのは、可哀相な可哀相なオログをこれ以上俺みたいにしたくなかったのもあったけど、でも本当はさ、オログのためだけじゃなかったよ。いやだったんだ。あの子がオログのつがいになるのがいやだった。いっそ俺も、おまえみたいなコエナシモドキに生まれていたらよかったのに。そしたら俺は、あの子の血肉になれた。オログにとられはしなかったけど、でも結局、僕は大好きな子を親友にとられちゃったよ。全部全部ベレグラさまのせいだよ。もしもベレグラさまが、あんなでたらめを信じていなければ、俺はあの子とつがいになれたんだ。ね、そうでしょう? ベレグラさま」

 デルフィは、松明をゆっくりと振り下ろした。炎が皺だらけの老人の頬を照らした。テルネラははっとして、蔦の揺り籠に横たわるベレグラの手をとった。蔦にも藤花の火が燃え移って、ベレグラの足や頭の皮膚もじわじわと焦げていく。ベレグラは、苦しげに呻いていた。

「ベレグラさま!」

 ベレグラは、テルネラの手を振り払った。テルネラの手首に触れたベレグラの指が、炭の色の線を一筋引いた。

「……なんだ。生きていたのか」

 久しぶりに聞くしゃがれ声は、弱々しかった。

「生きていました。ねえ、ベレグラさま。あなたが見逃したコエナシモドキは、無事に真珠を吐けるようになったんです」

 テルネラは、涙に滲む視界を鏡を拭くように擦って、笑った。一瞬だけ、ベレグラの表情のない顔がくっきりと見えた。けれどすぐに、滲んだ涙の曇りにかき消されてしまった。テルネラの喉からぼろぼろと零れる桃色の粒を、ベレグラは焦げた指でつまんで、不思議そうに眺めていた。

「これは……真珠か? 本当に?」

「違いますか? 違うなら違うと言って、私の夢を打ち砕いてください。もしあなたが真珠だと言ってくださるなら、私は今までも、そしてこれからも貝の末裔の娘です。あなたが殺し損ねた、しぶとい貝の末裔の生き残りです」

 ベレグラは、灰を吹くような咳を一つすると、深く息を吐いて目を閉じてしまった。皮膚がどんどん黒ずんで、ぼろぼろに削げ落ちていく。テルネラは咳込みながら、ベレグラの体にぼろぼろと真珠を巻き散らかした。テルネラの涙が、ベレグラの胸の炭にぼたぼたと落ちて、じゅっと嫌な音を立ててゆげになった。

「……こんな人のために、泣くの、テルネラ」

「うん」

「この人は、君を――いや、もう、いいか」

 デルフィは静かな声でぽつりと呟いた。じゅっといういやな音がまた聞こえて、テルネラは振り返った。デルフィは自分の足に、最後の松明の炎を押し当てていた。炎はもう限界だったのだろう、灰色の煙を立てて消えてしまった。布靴はすっかり灰になって、その下の皮膚が爛れていた。

「あーあ……失敗しちゃった」

 デルフィは暗い笑みを浮かべて俯いた。

「わしは、先代が、先々代がしてきたように、長としての務めを果たしただけだ。わしに罪があるとすればそれは……お前にもそれを強いたことだ。【羽根つきの子】」

 ベレグラが、振り絞るような擦れた声で言った。火花の爆ぜる音で聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。テルネラとデルフィは、顔を上げた。藤棚はすっかり燃え尽きて、崩れ落ちていた。ベレグラに燃え移った火も尽きて、あたりにあるのは灰色の煙と、半身が黒焦げになった老いた体だけだった。

「おまえには真実を教えず――普通の子供として生かしてやる道もあった。わしはかつて、おまえくらいの年の頃、そうして欲しかったと先代を恨んだ。種があろうが、なかろうが、真に稚児を為したか為せぬかなど海に紛れてわかりはしない。わしだけは、二度とそのような悪習を継がぬと決意していた。だがなあ、テルネラ、おまえを見たら、見つけてしまったら、どうでもよくなってしまったよ」

 ベレグラは、焦点の合わない目を泳がせて、テルネラを探した。

「デルフィ、お前にとってのあの二人と、わしにとっての彼らは同じだったのだ。テルネラ、おまえの顔は、わしの親友に瓜二つだ。わしは確かに、身を引いた意味があったのだ。たとえそれが、コエナシモドキだったとしても」

「……あなたは、あなたにゆかりのある子供だからというだけで、テルネラを見逃したんですか」

 デルフィは疲れたような声で呟いた。

 ベレグラは、深い息を一つ吐いた。そうしてそのまま、動かなくなってしまった。

 テルネラの後ろで、苦しげな嗚咽が漏れた。テルネラは、振り返りたい衝動を堪えた。ベレグラの焼けただれた手が、何かをしっかりと握りしめていた。指をそっと解いて開くと、テルネラの零した真珠が三つ、炭と血と肉の破片をこびりつかせて、転がり落ちた。

「充分です」

 テルネラは、震える声で言って、笑った。

「デルフィ」

 振り返って見ると、デルフィは、喉から尚も涙の音を零していた。テルネラの言葉に応えられないようだった。テルネラは煙と漂う肉の焼けた匂いを胸いっぱいに吸い込んで、吐いた。

「デルフィ、私、真珠を吐けるようになって、よかった。不恰好でも。色が違っても。こんなに、遅くなっちゃっても」

 どさり、と重たいものが崩れ落ちた音がした。

 振り返ると、まるで少女のようにぺたんと尻をついて、デルフィは顔を覆って泣いていた。

 涙と唾と真珠と、色んなものが混じりあって、灰の絨毯を濡らしている。

 げほげほと酷い咳の音が聴こえて、煙の奥からシュークヘルトが顔を覗かせた。銀のバケツを持って、肩で息をしていた。

「この、ばかやろう!」

 シュークヘルトは顔を歪めて、泣きそうな声で叫んだ。

「花まで燃やしてどうすんだよ! ばかやろう! ばか、ばか、ばかやろう! 水をどんだけかけても足りやしねえじゃねえかよ。てめえ、曲がりなりにもグイルデのこと好きだったくせに、後生大事に瞳の色を抱えていたくせに、なんでその花が咲く大地ごと燃やしちまうんだよ! ばかやろう! ざまあみやがれ! 死に損なってざまあみろ! そのままその役立たずの足でずっとずっと生きやがれ! 親代わり殺しやがって! 自虐かよ! 自虐で心中でもしようとしたのかよ! この大ばかやろう!」

 シュークヘルトは腕で顔を覆って、体を震わせた。喉から嗚咽が漏れる。バケツの中には、幾つかの雫が落ちて、トン、トン、と音を立てた。テルネラは、その涙の粒の煌きを、ただぼんやりとして見つめていた。鼻の詰まりがとれない。口で息をする度、ぼろぼろと桃色の真珠が零れて、灰に埋もれた。テルネラはのろのろと立ち上がって、きょろきょろと辺りを見回した。ウルリヒの手を離してしまった。炎の向こう側に、置いてきてしまった。

 そのまま、微熱を持ったように靄の晴れない頭で、ウルリヒを探した。灰を踏みしめても踏みしめても、ウルリヒを見つけられない。べそをかきそうになっていたら、後ろから手をぐいと引かれた。振り返ると、泣き腫らした目を擦りながら、グイルデがテルネラを睨むように見つめていた。グイルデは、顎で一つの木の洞を指した。燃え尽きてしまった網状のすだれの残骸に見覚えがあった。テルネラは震える手ですだれに触れた。黒焦げの網は、あえなくぼろぼろと崩れ落ちてしまった。

 熱せられた地面から滲んで浮かんだ水の粒が、乳白色のもやを辺りに漂わせている。靄は陰る陽の光を反射して、ところどころ橙色に煌めいていた。光を頼りに洞に足を踏み入れる。その中で、ウルリヒは気絶したように眠っていた。肩で息をしている。時折咳込んで、灰の混じった唾液を零した。

「長くないと思うよ。多分、肺がやられてる。殻の木が燻された煙は、多分コエナ……そいつには、体によくないやつだったよ」

 グイルデはそれだけ言って、踵を返した。

「待って……グイルデ」

「何よ」

「私に……耳飾りの作り方を、教えて」

「は?」

 グイルデは、鼻をぐずりと鳴らして、怪訝そうな声を出した。

 テルネラは、ウルリヒの手を持ち上げて、額に当てた。そうすると、体の震えは収まっていく。

「私、ずっとここで眠っていたから、基本的なことを何にも知らないの。教わる前に、ここを逃げ出してしまったの」

「そ。じゃあ、一生知らないでおきなさいよ」

「そんなこと、言わないで」

「知ってたって……使えないことだってあるんだよ。別に、大したことじゃないんだよ、耳飾りなんて」

 グイルデは顔を歪めて笑った。

「好きでもない人に、簡単に渡せるんだよ」

「あなたはシュークを嫌いじゃないよ。知ってる。きっと好きだよ。ただ、デルフィのことが、もっと好きだっただけ」

「は……なにをわかった風に、えらそうに……」

 テルネラはウルリヒの手を膝の上にそっと置いて、振り返った。グイルデは両手で顔を覆って、髪をくしゃりと握りしめていた。

「わかるよ。私もオログのことが好きで、でもウルリヒのことも好きで……でもね、耳飾りをあげたいのは、オログなんだ。私の初めてをあげたいのは、こんなふうになっても、まだオログなんだよ」

 ウルリヒの指が、ひくりと動いた。テルネラは目を伏せた。ウルリヒが睫毛を蝶羽のように震わせて、僅かに薄目を開けた。ウルリヒの額に手を当てたら、滲んだ汗で掌がひんやりと湿った。

「私……いじわるだね」

「貝の末裔らしいわよ」

 グイルデは、掠れた声で笑った。テルネラは、洞の隅に転がっていた金の瓶を拾い上げた。立ち上がろうとしたら、ウルリヒに裾を引かれた。

「でも、ウルリヒ、水……」

 ウルリヒは、薄目を開けたまま、離さなかった。グイルデがテルネラから瓶を奪い取った。テルネラは振り返って、震える声で言った。

「あのね、塩水は、無理だから……」

「わかってるわよ。露でも集めりゃいいんでしょ。もっとも、デルフィのばかが花も草も焼いちゃったから、残ってるとすれば木の葉の裏っ側くらいのもんね。安心してよ。木登りは苦手じゃないのよ」

 グイルデはそっけなく言って光の中に姿を消した。

 テルネラはそっと腰を下ろして体をずらし、ウルリヒの傍に横になった。ウルリヒはテルネラをそっと抱き寄せて、テルネラの胸に顔を埋めた。

「……ほんと、ひでえ女」

 ウルリヒの声が、籠って聴こえる。熱い息が胸にじわりと染み渡って、くすぐったかった。

「私?」

「他に誰がいるんだよ」

 ウルリヒは擦れた声で笑った。

「おれ……本当は、おまえの真珠の、耳飾りがほしい」

 ウルリヒの澄んだ声が、温く響いた。テルネラはそっとウルリヒの頭を抱きかかえた。

「……言っちゃいけないんだろうと思ってたから、言わなかったけど、でも、本当は、うらやましい。こんなになってもまだオログなのかよ。おまえ、おれのこと好きって言ったじゃん。あれ、嘘かよ」

 甘えるように、胸に鼻をこすりつけられる。テルネラは、ウルリヒのさらさらとした黒髪を指で絡め取った。

「さっき、ウルリヒ……露草は青色じゃないかって言ったよね」

「うん」

「私もね、実は同じこと思ってたよ。水に浸したら、青いもんね。そうだね、藤の花の方が、オログには似合ってたのかもしれない。でもね、私、お花で一番、露草が好きだったんだ。何故かはわからないけど、ちょっと濡れただけで青く染みるあの小さなお花が好きだった。だから、一番好きだったオログの瞳は露草色だと思ったの。そういうことなの」

「そうかよ」

「私、多分青い色がずっと好きだったんだと思うよ」

 ウルリヒが、僅かに顔を上げたような気がして、テルネラは胸の中に閉じ込めるようにぎゅっと抱きしめた。

「マイムマイム、マイムマイム」

「……なあ、前から思ってたけど、それ、何の歌」

「海の歌だって」

 テルネラは、ウルリヒの頬に手を這わし、ウルリヒの汗ばんだ額に自分の額をつけて目を閉じた。

「この世界は、最初は海しかなくて、その海を神様が引き裂いて、オログみたいな贄の子に大地を支えてもらって、二つに分かれたの。マイムは水って意味だって旅人さんは言ってた。だからきっと、この言葉は、陸と海を繋ぐおまじない。マイムマイムは、全部が元通りになった、綺麗な海のことだと思う。……私は、ね」

 テルネラは、そっと目を開けた。睫毛がウルリヒの長い睫毛に絡んで、ほんの少し引っかかった。

「私の、マイムマイム」

「は?」

 ウルリヒは眉根を寄せて、すぐに吹きだした。

「何が? 何それ、おれのこと?」

 ウルリヒは、喉をくつくつと鳴らした。途中で何度か小さな咳を零しながら。

「マイムマイム。私の海。ウルリヒって言葉、勝手にマイムマイムって意味だと思ってるよ。私は貝の末裔。海から生まれて、海にいつかは還るの。でも、きっと人間もそうだよ。いつかは海に戻ってくる。そしたらずっと一緒だよ。私の他の全部をあなたにあげるよ。だから、せめて、最初にオログがくれた耳飾りに応えたいの。何も持たずに行ってしまったあの人に、私の真珠をあげたいの」

「あははっ」

 ウルリヒは、ごろんと仰向けになって、けらけらと笑った。テルネラは、その横顔をずっと見つめていた。ウルリヒは、最後に大きく息を吐いて、テルネラの上半身をひょい、と持ち上げて、胸の上に乗せた。テルネラは戸惑いながらずりずりと体をウルリヒに寄せた。

「な、何?」

「乗って」

「う、うん?」

「おれ、具合悪いから、できないから、して」

 ウルリヒは目を細めて笑った。ウルリヒの唇が、額に柔らかく触れた。くすぐったくて、テルネラは目をきゅっと閉じた。

 言われるがままに、体をずらして、ウルリヒの肌をそっと指でなぞった。ウルリヒは、くすぐったそうに体をよじらせて、ずっとくすくすと笑っていた。


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