真珠貝の森(一)

 青い炎に照らされた貝の末裔たちの顔が見えるくらいの距離まで舟を近づけて、ウルリヒはオールを動かすのをやめた。

「……っ、は、あ」

 ウルリヒは荒い息を零しながら、胸の辺りを押さえる。ぎらぎらとした眼差しは青い光に寄せられていた。その額には玉のような汗が滲んでいる。テルネラはウルリヒの横顔を見つめて、そっと肩を撫でた。ウルリヒは俯いて、えずいた。目が爛々として見開かれている。青い目が、夜景色の中で炎のように光って見える。

 ウルリヒが貝の末裔のせいで大切な友人を失ったことも、それからは碧眼の子供として重圧を背負ってきたことも、テルネラはほんの少しだけなら聞いて知っている。テルネラは、青い松明を揺らし続けるかつての同胞達の影を見つめた。ウルリヒが、テルネラの隣では苦しんでくれるというそのことが、何故だか胸が締め付けられるほど今は嬉しい。

 ――なんて私、残酷なんだろう。貝の末裔の、性なのかなあ。同じ人形ひとがたを平気で食べられちゃうような一族の。

 テルネラは歌うような吐息で、ふふ、と笑った。その声に、ウルリヒが訝しげに視線を向けてくる。テルネラはゆっくりと舟の上で立ち上がった。船はぐらりと揺れた。ウルリヒがびくりと揺らした肩の感触が、左膝の裏側をつついて、少しだけくすぐったい。

「おまえ……急に立ち上がるなよ。何して――」

 文句を零しかけたウルリヒの言葉は、けれどそこで途切れた。青い光を反射してキラキラと輝く殻の木の森。月明かりに照らされて、まるで浮き上がって見える白砂の浜辺。月光色の髪をした、たくさんの同胞たち――それらの一つ一つを、テルネラは目に焼き付けるようにじっと見つめた。長く伸びた二つの三つ編みと、あの頃よりは短くなった真珠色のスカートが海風に揺れて棚引く。

 テルネラは鼻をぐすりと鳴らした。その時の気持ちを、何と形容したらよいのかわからない。

 帰ってきたと思うには、テルネラの心は人間のために置いてきてしまっていたのだし、けれど異邦の民だと思うには、彼らの姿はあまりにも懐かしかった。まるで心臓にできたひっかき傷を潮風で撫でつけているみたいだ。痛くて、愛しくて、嬉しい。

 不意に、揺れる青い炎の一つが緩やかに弧を描いて下へ下へと降りて行った。そのまま海の奥へと沈んで、かき消えてしまう。波をかき分ける清かな音。長い一房の三つ編みを棚引かせて、海の奥へと進んで来る一つの影。その右の耳には淡く輝く白い粒が小さく揺れていた。

「テル、ネラ?」

 影から発せられた低い声は、震えて、潮風に溶けた。テルネラは、彼の赤紫色の瞳を見つめて、にっこりと笑った。

「テルネラ……テルネラ、なのか」

「ただいま、シューク」

 シュークヘルトは唇を震わせたまま立ち尽くしていた。

「お前、一体、今まで、どこに……いや、そんなことは……でも、」

 シュークヘルトは、俯いて唇を噛んだ。苦しげに歪められた顔。彼のまとう雰囲気は最後に会った時よりもずっと大人びて、そして少しだけ儚くなったようにテルネラは思った。

「よく、私だってわかったね」

「わからなかったら、俺は腑抜けだ」

 唸るようにシュークは呟いた。再び波をかき分ける音が重なる――グイルデはシュークヘルトの肩にそっと手を添えて、テルネラを見上げ、小さな声で言った。

「……一応、聞いたって無駄だと思うけど……オログは?」

「いなくなっちゃった。海の奥へ、還っちゃった」

 テルネラは、通る声で答えた。その言葉と共にぽとぽとと真珠が口から零れ落ちた。それは波に小さな飛沫を作って、すぐに藍色の海の底へ消えてしまう。シュークヘルトとグイルデは、黙ってそれを見つめていた。

「あの……一応、聞いてもいいかな、テルネラ」

 グイルデが、眉根を寄せたままテルネラを見上げる。

「うん。なあに?」

「そのコエナシは、何なの? 一応、ちゃんと餌?」

「ううん」

 テルネラは頭を振った。

 再び強い風が吹いて、テルネラの三つ編みを旗のように揺らめかせた。

「私の、大好きな人」

 ウルリヒの肩がまたびくりと震えて、テルネラの膝裏をくすぐった。

「……え?」

 シュークヘルトは、無機質な声を零した。

「私ね、ベレグラさまにお話ししたいことがあるの。だから、帰ってきたの。故郷を捨てて、私はコエナシになったの。でも、帰ってきちゃった。私、みんなに伝えたいことがあるの。ねえ、ベレグラさまは、どこ」

「いつもの、藤棚」

 グイルデは、ぶっきらぼうに言った。その声には戸惑いの音色が滲んでいる。

「……でも、あの人はもう、喋れないかもしれないよ。随分と弱ってしまったし、ずっと咳をしてる。今は……ほとんど、デルフィが村を仕切ってるの」

「そう、じゃあいいわ」

 テルネラは笑った。グイルデは不審げな眼差しを寄越した。

「随分あっさり、引くのね」

「うん。じゃあ、デルフィとまずはお話ししたい。デルフィはどこ?」

「ずいぶん、えらそうになったもんだな?」

 シュークヘルトはどこか悲しげな声でそう静かに言った。テルネラはその瞳を見つめて苦しげに笑い返した。

「みんな、知らなかっただけ。これがほんとの私」

「そうかよ」

 シュークヘルトは、はは、と乾いた笑みを漏らして、踵を返した。テルネラは舟からそっと降りて、水底に足をつけた。水面はテルネラの胸のあたりに線を引いた。そのままテルネラが舟を引くのをシュークヘルトも手伝ってくれた。グイルデは戸惑ったような眼差しでシュークヘルトを見つめていた。

 青い炎はぱらぱらと動きを止めて、そのいくつかはやがてばらばらと砂の上に落とされた。

「べ、別に、引かなくていい。舟を引いたり、しないでいい」

 ウルリヒはぶっきらぼうにそう言って、舟から降りようと身じろぎした。テルネラは振り返って、青い眼差しを見上げた。ウルリヒの鼻の頭は、少しだけ赤くなっているように見えた。テルネラはゆるゆると首を振った。

「いいよ。ウルリヒ、あんまりそのコートが海水に濡れるの、好きじゃないじゃない」

「塩がこびりついたら、洗うのが面倒になるってだけだよ。別に……いいじゃん、脱げば。ほら、脱いだ。これでいいだろ」

 ウルリヒはつっけんどんにそう言って、脱いだコートを舟の上に放り投げ、海の中にずぶずぶと体を浸していった。少しだけ跳ねた雫が、ウルリヒの髪を濡らして、雫になってしたたる。

 シュークヘルトはウルリヒとは視線を合わせないようにと努めているようだった。けれど見ないでもいられない様子で、ちらちらとウルリヒの顔を窺っている。ウルリヒがその視線に気づいて、訝しげに視線を上げた。長い黒色の睫毛が、跳ねるように揺れた。

「……なんですか」

「…………」

 シュークヘルトはばつが悪そうに視線を泳がせ、つい、と顔を背けてしまった。三人で舟を引いて、浜に引き揚げる。戸惑いを浮かべた顔で見つめ合う一族を、ウルリヒは一瞬睨みつけるように見据えて、すぐにぶるぶると頭を振った。眉根は寄せられたままだけれど、その表情は、少しだけ柔らかいものに変わる。

「……あんたら貝の末裔に、人間として話があって来たんだ」

 ウルリヒは、静かな、けれどよく響く声で言った。

「おれは、コエナシじゃない。確かに真珠は吐きだせないし、あんたらと違って、髪も黒けりゃ肌も黒い。海の中に長い時間潜っていられないし、あんたらと違って肉を食べなければ生きていけない。でもあんたらと同じで……肉を食べて生きているんだよ。おれは、おれたちは、コエナシじゃなくて、人間だ。それを、覚えていてほしいんだ」

 ウルリヒは、すう、と深く息を吸い込んで、吐いた。

「……あんたらが貝の末裔であるように、おれたちだって青い鳥の末裔だってことを知ってほしいんだ。コエがあるとかないとか、そういう問題じゃないってことをさ。それを、少しでもわかってもらいたくて、来た。だから、」

 ウルリヒは、ひゅう、と音を立てて、喉を詰まらせた。その足は微かに震えている。テルネラは、ウルリヒの手にそっと指を絡めた。ウルリヒもテルネラの指を僅かに握り返して、こくりと唾を飲みこみ、再び唇を開いた。

「おれは、おれたちは、あんたらと友達になりたいんだ。友達になりに来た。仲間になりに来たよ」

「仲間、って……」

 困惑を孕んだ声が影たちの中から零される。

 ウルリヒは、揺れる青い光とそれを持つ影たちを見渡して、もう一度口を開いた。

「そうだよ。あんたらと同胞になりたいから、来たんだ。おれは、テルネラやテルネラと同じ一族であるあんたらと、同じものになりたい。でも、人間のおれにはそのやり方もわからないから、これから教えてほしいし、もっとちゃんと話し合いたいんだ。だから……話を、聞かせてくれよ。それで、おれの話も、どうか聞いてくれ。おれは本当はずっと、あんたらを恨んできたし、テルネラがおれの前に現れるまで、あんたらのことを化け物だと思っていたよ。でも、おれだってあんたらに炎を押し付けて、皮膚を焼いてやったことだってあるし、あんたらがおれら人間を食べるのと同じように、おれらだって貝の肉を平気で食べて生きているんだ。おれたちは、互いに認識のずれがあるんじゃないかって思うんだ。本音を言うなら、もう二度とあんたらに食べられたくないから、来た。でも、あんたらを暴力で追い払うのは違うと思うし、同じ人間をお前らに餌として渡し続けるのも、間違っているんだ。おれはそれを、テルネラから、気づかされたから」

「要は、餌のくせに、化け物に懸想したって話だろ?」

 くすくすと穏やかに笑う声が聞こえて、テルネラとウルリヒは、はっと顔を上げた。

 デルフィは、森への入り口に佇んでいた。両手で一本の銅の松明を抱えて、薄笑いを浮かべている。テルネラは僅かに身を震わせた。彼がオログを気にかけていたことはなんとなく知っていたけれど、テルネラ自身はデルフィと殆ど話したことが無かった。それでも、記憶にある彼の姿と、今彼が身に纏っている空気には、明確な差があるような心地がした。

 悪意と、諦念。

 まるで、何かを全て諦めてしまったような、色のない眼差しをしている。その目にテルネラは覚えがあった。オログと一緒だ。私を置いていなくなる前の、オログと一緒――。

「デルフィ」

 テルネラの喉から、再び真珠が零れ落ちた。シュークヘルトだけが、その真珠の転がる先を、目で追っていた。名前を呼ばれて、デルフィはにこりと笑った。

「やあ、裏切り者。故郷を捨てて、コエナシと同じ場所まで堕ちて、それでただいま、だって? 笑ってしまうな。餌を連れてのこのこやってきて、この人は私の大好きな人です、だから殺さないで、だって? ねえ、テルネラ、そういうのを、甘いって言うんだよ。そんな君に執着したオログって、本当にばかだよねえ」

 デルフィは目を細めた。

「君をずっと閉じ込めてさ、悪意も絶望も、何も知らなくて済むように甘やかしていただろ。だから君がそんなばかに育っちゃったんだろうさ。そんな君には、確かにコエナシがお似合いだろうね」

「デルフィ」

 テルネラは胸の前できゅっと手を握りしめた。

「お願い、話を聞いて」

「どうして? 聞く必要なんてない。大ばかだね、おまえたちは。そんな無防備で、こんな集団の中に飛び込んで、何がしたいんだ? 蟷螂かまきりみたいに大きな虫の死骸だって、蟻の行列は容易く咀嚼して運んでしまうんだよ。ましてや君たちみたいに脆弱な二人が僕たちに襲われて敵うとでも思ってるの」

「襲っているっていう自覚はあるのね」

 テルネラの涼やかな言葉に、デルフィの顔が僅かに歪んだ。

「不思議ね。あなたって、なんだかいつも不思議な言い回しをするの。ずっとずっと違和感があった。でも、今わかったよ。あなたにはコエナシを【襲っている】っていう自覚があるんだね。あなたにとって、コエナシを食べることは【狩り】ではなくて、暴力なんだ」

 デルフィは静かな眼差しでテルネラを見下ろした。青い炎がゆらゆらと揺れて、デルフィの表情を薄く覆い隠している。

「私も、きっと、ここにいたら、言われたとおりにコエナシを平気で食べたと思う。私はきっと、デルフィ、あなたみたいにそれを暴力だとは思わなかったよ。私は、普通の貝の末裔の子供だったから。でも、オログは違った。オログはコエナシを食べて、ずっと苦しんでいたし、私のために、私を守っていくためだと信じて、コエナシを食べたの。真珠のために食べたわけじゃないの。だって私、コエナシモドキだったんだもの」

「………なんで」

 シュークヘルトが、低い声で呟いた。俯いた顔が、苦しげに歪められた。

「でもおまえら、真珠を交換してたじゃねえか」

「あれは、本当は全部オログの真珠だったんだよ。私はあんな風に白い真珠なんて吐けないの。ほら、」

 テルネラは、掌の上に、口の中の真珠を吐き出した。

「こんな、小さくて、歪な、花色の真珠しか吐けないの。でもね、これね、私、人間として生きようとして、ずっと人間の食べる食べ物を食べながら生きてきて、それでやっと吐くことができたの。私にとって、この大地の殻の木も、湖水も、海水も、全部塩からくて、食べるのはつらかった。向こうでは、からくなくておいしいと感じられるような食べ物を食べて、真水を飲んで……ただそれだけだったよ。それでも、私は、ずいぶんと遅くなってしまったけれど、こうして真珠を作れるようになったよ。ねえ、それでも私って、まだあなた達の同胞じゃないかな。これだって、真珠だよ。真珠だと、思うの」

 声が震えた。私は、みんなに何を言ってほしいというのだろう――

 未だに、仲間だって認めてもらいたいだなんて。浅はかだなあと自分でも思う。それでも、認められたいという子供じみた欲求を心の中の小さな箱に押し込めることはできなかった。

 自分も貝の末裔なのだと、誰かにちゃんと言ってほしかった。

「あのね、みんなが同胞じゃないからって食べてきたコエナシモドキの子供たちは、もしかしたらみんなよりも少し成長が遅いだけで、真珠を吐くことはできたのかもしれないの。それなのに、みんなは子供たちを食べてきたんだよ。ねえ、それって、おかしいことだよ。私はそう思うよ。例えばデルフィが、長老さまを今食べるのと、何も変わらないんだと思う」

 ざわりと声がうねった。ひそひそ声が膨らんで、耳に不快な音を忍ばせてくる。けれどテルネラは、きゅっと口を引き結んだまま、デルフィから目を逸らさなかった。

「ずいぶんと罰当たりなことを言うね」

 デルフィは乾いた笑みを零した。

「だって、その方がわかりやすいでしょう? 今はもう長老さま、コエナシモドキと大して変わらないんだから。……年を取って、もうほとんど真珠を吐かれない。ちゃんと知ってるよ。私がこの大地を出た日よりもずっと前から、そうだったから」

「そうだね」

 デルフィは暗い笑みを口元に浮かべながら、目を伏せた。

「……長老になるやつが概してできそこないであることに、変わりは、ないかな」

 デルフィの暗い声がぽつりと響いたその瞬間。

 テルネラの左頬に、腕に。

 びしゃり、と生温かい飛沫が飛び散った。生臭い臭い。鉄錆の匂い。

 テルネラは、ぎこちなく首を回した。ウルリヒのうめき声が、風に乗って耳に届く。

 目の前の状況を理解するのに、少し時間がかかった。テルネラは、真っ白な顔でグイルデを見つめた。

「グイ……グイル、デ」

「ふふ。やだぁ、テルネラ。その目、怖ぁい」

 グイルデは、爪の先に滴る赤い血をぺろりと舐めた。その左耳に揺れる白い真珠が、小さな血の花火に汚れていた。

 テルネラは、うずくまったウルリヒの肩を抱いて、グイルデを睨みつけた。

「何を……何を、するの!」

 ウルリヒの背中を覆う服は裂け、右の肩甲に引かれた斜線の傷口からはどくどくと血が流れ出している。ウルリヒは肩を押さえて、荒い息を繰り返した。呻き声を聞いているのが、苦しくて、辛くて、胸が潰れてしまいそうだ。テルネラは、嗚咽にも似た荒い息を吐きながら、震える手でウルリヒの破れかけた服を更に裂いて、端切れを傷口に押し当てた。赤い染みはテルネラの指先を濡らすほどにどんどん広がっていく。

「やだ……やだ……」

「あはは、ばっかみたぁい。なぁにい? その顔。あたしを睨んだところでその血は止まりゃしないわよ。あたしはねえ、当初の目的を果たそうとしてあげた、だ、け! 餌のくせにえらそうなのよ。あら、なあに? まだそれでも睨むってわけ。わかってる? あんたも餌なのよ、コエナシモドキ」

 グイルデは憎悪を色濃く顔に浮かべた。荒んだ眼差しでテルネラを見下ろす。

「なんなのぉ? いきなり帰ってきて、コエナシモドキでしたけど、真珠が吐けるようになりましたぁ? なにさ、そんなごみみたいな真珠。そんなんであたしたちに罪悪感でも植えつけようとしたわけ。それで仲間になりたいですって? はっ、笑わせるわね」

「きゃんきゃんうるっせえな! 黙ってろよ!」

 シュークヘルトが、大声を上げた。グイルデは目を見開いた。テルネラも、驚いて一瞬息が詰まった。

 シュークヘルトは俯いたまま、拳を握りしめていた。それをちらと見て、デルフィは溜め息をついた。

「グイルデ」

 デルフィの静かな声が、寄せる波の音に混じる。

「……グイルデ」

「何よ」

 グイルデは、デルフィの眼差しから逃げるように視線を逸らした。テルネラは涙をぼろぼろ零しながら、自分の服の裾を切り裂いた。最初の布切れは、血が滴ってもう使い物にはならない。血濡れのそれをウルリヒの肌から離した時、グイルデが狼狽えたように唸る声が降ってきて、テルネラは反射的に歪んだ視界を上げた。

「青い、羽」

 グイルデが、ぽつりと呟く。

「テルネラ……もういいから、自分で、やる」

 ウルリヒは、擦れた声で言って、テルネラから布を取り上げた。身じろぎをして、砂に塗れながら傷口に布を押し付け、肩で荒い息を繰り返す。テルネラは、グイルデの呆然としたような表情から目を離せなかった。何に驚いているのかも、よくわからない。

「何……そいつ、その、コエナシ。その、羽……背中、の」

「あ?」

 ウルリヒは、焦点の合わない目で、暗い影を落とすグイルデを見あげた。

「背中の痣のことか? 右肩の? これは生まれつきだよ。一族みんな、こんな痣があるんだよ。鳥の翼みたいってんで、その血筋は原始の青い鳥の生まれ変わりだなんて伝説に、箔がついた。でもな、これは、結局は生まれつきの、ただの痣だ」

「痣? 翼の形の?」

 デルフィもまた、暗い声を零した。松明を掲げたまま、ウルリヒの傍に歩み寄ってきた。デルフィは、ウルリヒの肩をどん、と突き飛ばした。ウルリヒは左半身を砂にしたたかにぶつけた。その背中の傷口から滴る血を手で拭って、デルフィはウルリヒの背中を凝視した。

「……あんだよ」

 ウルリヒが、荒い呼吸を繰り返しながら、デルフィを睨みつける。

「……はは。あはは」

 デルフィは不意に渇いた笑い声を漏らした。テルネラはその手を振り払って、ウルリヒの傷口に再び布を押し付ける。

「あっはははは!」

 デルフィと呼応するかのように、グイルデが高らかに笑った。

「あっはは! おっかしい! おっかしいわあ! ねえ、できそこないのテルネラぁ。あんたさっき言ったわよねえ? このコエナシが大好きな人だって? なぁに、添い遂げでもしたいの? あっはは! ばっかねえ、そいつ、羽持ちじゃないの。あのねえテルネラ、いいこと教えてあげる。背中に片翼持ちの人形ひとがたはねえ、子孫を残せないの。種無し。ねえ、わかる? 種無しなの。つまりね、あんたとそいつは子供を成せないし、つがいになる資格もないの。あっははははははは!」

 グイルデは、狂ったように肩を震わせて笑い続けた。シュークヘルトは俯いたままだ。デルフィの顔も、長い前髪に隠れてよく見えない。

「は? 何言ってんだ? ばかなのはてめえらだろうが」

 ウルリヒは鋭い眼光でグイルデを睨みつけ、ゆらりと立ち上がった。テルネラの手が、傷から離れていく。

「何の根拠があってそんなでたらめ言ってるか知らねえがなあ、いいか、おれら人間の国ではこの痣は女神さまに愛されてる証なんだよ。青い痣を持ったやつの子孫から青い目の救世主が生まれるって相場が決まってるし、おれもこれから子供を残すんだよ。そうして、血を繋げていくんだよ。無知なのはどっちだ。は、貝の末裔様が聞いて呆れるなあ。誰が、翼を持ってたら種無しって言った。根拠はあるのかよ。誰か試してみたのかよ。誰が、子供が生まれないからってつがいになっちゃいけねえっつったんだよ」

 顔から血の気をなくしたグイルデを見据えて、ウルリヒはにやりと笑った。

「あのなあ、グイルデ、だっけ? おまえらは知らねえだろうけどなあ、おまえらの文化もおれは知らねえけどなあ、人間は、子供ができないからってつがいをやめたりはしねえし、痣があろうがなかろうが、子供ができない時だって普通にあるんだよ。だからってそれだけが、生きてる意味ってわけじゃねえんだよ。おまえらにとっても同じだろうがよ。真珠を吐くだけが生きてる意味じゃねえだろ!」

 ウルリヒの声が、びりびりと辺りの空気を切り裂く。

 グイルデは小刻みに震えながら、ぎこちなく首を回してデルフィを見つめた。シュークヘルトも呆然と目を見開いたままウルリヒを見つめ、やがてデルフィに視線を戻した。

 デルフィの瞳に、青い炎が揺れている。

 デルフィは、そのままくるりと踵を返して森の奥へ歩いて行った。彼が手に握りしめたままの松明が草や花にぶつかって、灰色の煙を上げていく。やがて、赤と橙色の火花がまるで飛蝗バッタのように空に向かって跳ね出した。

「デルフィ!」

 シュークヘルトが、声を荒げた。

「デルフィ! 待て! 待てったら! だめだ! 今は行くな!」

 シュークヘルトは酷く慌てた様子で、デルフィを追いかけて森の奥へ駆けていった。取り残された貝の末裔たちも、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、やがて疎らに散らばって、森の奥へと駆けていく。

「うそ……よ」

 取り残されたグイルデが、ぽつりと零した。ウルリヒとテルネラは、殆ど同時にグイルデを振り返った。

「うそ……そんなの……じゃあ、あたしはなんのために、シュークと……デ、デルフィ、を、あきらめ、て」

 グイルデはその場で崩れ落ちて、ぺたりと座り込んだ。その足や腰を、寄せる波が濡らしていく。

「うああああ……あああ……」

 グイルデは、ぼろぼろと涙を零して声を上げた。テルネラとウルリヒは、それを呆然として見つめていた。

 やがてウルリヒは、震える腕を伸ばして、舟の中からコートを掴み取った。痛みに顔を歪めながら、それを包み込むように肩に巻いて、肩の前で結び目を作る。

「……行こうぜ」

 ウルリヒは、テルネラの手を引いた。そのまま、引きずられるようにしてテルネラもついて行く。

 何度も振りかえったけれど、グイルデはそれからもずっと波間に座り込んで、泣いていた。

 隣を見ると、ウルリヒの顔は酷く青白かった。木々の隙間から差し込む月光に照らされた横顔は、まるで生きていない石膏人形の肌みたいだ。テルネラは、唇をきゅっと噛みしめた。

 森に咲く花達が、透明な草むらが、赤橙の小さな炎に包まれて、緩やかに燃え尽きていく。

 パチパチ、パチパチと、火花を散らして、灰を巻き上げていく。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る