水色と炎

「レイデ、ウストゥ、レゲ、ライダ、レイデ、ウストゥ、レイ、ヤ。レイデ、ウストゥ、レゲ、ライダ、ウストゥレル、レイラダ、ヤ、ライヤ、ライヤ、ライラ……」

 白詰草の花冠を被り、女たちと声変わり前の幼い子供たちが不思議な音を喉から零して歌っている。テルネラはウルリヒの指にそっと触れて、引っ張った。

「ねえ、あの歌……なあに」

「え? いや、ごめん、知らねえけど……」

 ウルリヒは頬を掻いた。その声は、優しい。

「たしか、言葉自体に意味はなくて、雨の音を言葉にして歌っているんじゃなかったかな……先代の王さまが、なんかそんな感じのこと言ってたような気がする」

「そうなんだ……婚儀に、雨の歌を歌うのね」

 テルネラは緩やかに目を瞬いた。雨の音を歌う人々は、薄桃色の唇をぱくぱくと動かしていて、まるで水の中で生き生きと泳ぐ小魚みたいだった。彼らは花束を抱えて二列をなして横に並び、青い小麦畑に花嫁と花婿のための道を一筋引いていた。ゆったりとした歩みの最中、花嫁が若き王さまに笑いかける。花嫁の頭には貝殻の冠が陽の光を反射して七色に輝いていた。王さまも貝殻の首飾りを身に着け、二人は小指に白詰草の指輪をつけている。テルネラは風と人々の声に耳を傾けながら、そっと瞳を閉じた。

 レイデ、ウストゥ、レストゥ、ルストゥルストゥ、ライヤ、ララ、シュルストゥ、ラル、シャラ、ルダ、ラララライラ、ダラ、ヤ、ルルシュ、レイダ……――

 瞼の裏に、雨が降った日のオログの姿が蘇る。殻の木の根元で蹲るように横になって、露草の青を頬に滲ませて、土を引っ掻いて――まるでそのまま、静かな眠りについてしまいそうだった。

 オログはなぜかうつぶせに寝転んで殻の木を食べるのが好きだった。土や花弁で頬がどれだけ汚れても、まるで気にしない。だから、露草の咲く季節はオログの頬がよく青色で汚れていた。朝露に濡れた露草の花弁から染みだした色だ。その青はオログの瞳の色によく似ていた。その色を指で拭き取ってあげたくて、けれどそのまま青で汚れていてほしいという不思議な思いもあって、テルネラはいつでも、地面に座り込んでオログのそんな姿を見つめていたのだった。

 ぽつり、ぽつり、と記憶の雨が降り注ぐ。オログの前髪に、睫毛に、頬に、手の甲に、指と指の隙間に――

 緩やかに瞼を開ければ、ウルリヒがテルネラの顎の下に水を掬うような仕草で両手を添えていた。テルネラははっと我に返る。ウルリヒの手の中には、桃色の小さな真珠がいくつも零れている。

「あ……ごめん、なさい」

 また一つ、ころりと零れ落ちた。

 吐き出した当初は苦しかったそれは、今では息をするように簡単に零れ落ちる。違和感すらなくて、零してしまったことも自分では気づけないくらいだ。オログもそんな心地だったのだろうかなんて、言葉にできない感情が胸の内でじわりと広がっていく。

 ウルリヒはくすりと笑った。

「なんかこれ、雨粒みたいだな。口から吐いてるけど」

 ウルリヒの水色の瞳をテルネラはざわつく心地で見つめた。

「うん……」

 この人は、不思議な人だ。

 私が思いたいことをいつも先に言葉にしてくれる。

 雨粒、だなんて。

 そう、この真珠はまるで、私の涙みたいなんだ。オログを濡らすことのできる、オログを染めることができる私の心。

 テルネラは目を伏せて、瞬きをして、再び視線を上げた。

 花嫁の黒い髪に白銀色の貝殻はよく映えている。

「お嫁さん、綺麗だね。貝殻、よく似合ってる」

「そうかあ? よくわかんねえなあ」

 ウルリヒは、手の平の真珠を一粒一粒指でつまみあげて見つめながら呟いた。

「貝殻が似合うのは、おまえ、っていうか……おまえとオログ以上に似合うやつは多分この大地にいねえよ。おれが知ってる限りだけど」

 テルネラは苦しい気持ちで笑った。

 ウルリヒから真珠を受け取って、そっとお守り袋に入れる。使い古した珊瑚色のお守り袋はあの頃よりも色褪せていた。


 小麦畑を抜けて、霧に濡れて。

 丘を降りて、砂を踏みしめて。

 村の港から見渡せる景色は、水色だ。銀色の波が模様を映し出す。空には鳥の影が小さく浮いている。

 この海の底に、オログはいるのだ。

 この海の向こうに、白い葉の木々が生い茂っているのだ――

 テルネラは淡黄色の砂の上で髪を解いた。赤い髪紐を見つめて、なんとなく、それを小指に巻きつけた。

 さらさらと、長く伸びた白い髪が揺れる。日の光に照らされて、波のように輝く。

 振り返ると、ウルリヒはテルネラから少し離れた場所で流木に腰かけて遠くを見つめていた。鼻筋の通った静かな横顔を目に焼き付ける。息を吸い込み、やがてテルネラは目を伏せて、懐から二つのお守り袋を取り出した。淡紫色と、珊瑚色。藤花のような色の袋には、初めて吐き出した二粒が入っている。珊瑚色の方には、道中もずっと吐き続けた全ての真珠を詰めた。縫い糸が解れそうなくらい、袋はぱんぱんに膨れている。

 テルネラが真珠を吐く度に、ウルリヒは全て拾い上げた。斜面を駆け下る真珠さえ、朝露に濡れた葉っぱだらけになりながら拾ってきてくれた。ウルリヒは何も言わなかった。まるで、テルネラがそうしてほしいと思うことを、わかっているようだった。

 ぎゅっと目を瞑る。閉じた瞼の裏側に、焼きつけたばかりのウルリヒの横顔が滲む。その横顔が好きだった。怒った顔も好き。拗ねたように視線を揺らす子供っぽい顔も、狡いことを考えている時の悪そうな顔も。でも、私はまだ、あなたの気持ちに応えることはできない。

 まだ、だめなの。

 ――ごめんね。

 テルネラは、紫色の袋を胸に当てて、握りしめた。足の指に波がそっと触れていく。珊瑚色の袋の口を開いて、逆さまにした。水の中に、淡い色の歪な真珠がぼたぼたと零れていく。

 ウルリヒはそれを黙って見つめていた。テルネラは空になった袋を握りしめて、波の中でしゃがみ込んで、泣いた。嗚咽と共に真珠がまた口の中からぽろぽろと零れて、波に攫われて行った。

「……ウルリヒ」

「何」

 ウルリヒの声は、低くて静かだ。波の音みたい。心地いいんだ。テルネラは目を閉じたまま、耳にそっと手を添える。

「私、帰るね」

「うん」

 テルネラは立ち上がって、振り返った。ウルリヒは瞳を揺らすことなく、テルネラを静かに見つめている。

「怒らないの」

「おまえの中でおれってどれだけ怒ってばかりなやつなんだよ」

 ウルリヒが苦笑する。テルネラは泣きそうになるのを堪えながら、笑った。

「あのね、ウルリヒ。私、この真珠、オログにあげたいんだ」

 テルネラは紫色のお守り袋を抓んで、頬の傍で揺らした。

「ウルリヒがせっかく金属を作ろうとしてくれたけど、でもね、まだだめだよ。耐久性とかも全然だめだし、きっと繊細な加工だってできない。耳飾りの金具にするには、まだまだだよ。それに、私、待てないや。だからね、私ね、これを耳飾りにするなら……やっぱり帰らないとだめなんだ。それにね、言い訳、だけど、」

 息が苦しい。

 喉が詰まって、声の出し方もわからなくなる。それでも、これ以上泣くのはずるいとテルネラは思っていた。悲鳴のような音を喉から振り絞って、潮風をめいっぱい吸い込む。喉の奥がすんと冷えたような心地がする。

「言い訳、だけど、私の目的はそれじゃなかったけど、でもね、みんなにはちゃんと教えなきゃ……コエナシモドキも、ちゃんと真珠を吐けるって。殻の木なんか食べなくても、みんなのみたいに白くないけど、形も歪で、小さいけれど……ちゃんと私たちは真珠を零せるようになる。そんな子供たちを、あの人たちに……これから育っていく私やオログのような子供たちに、食べさせたくないから」

 テルネラは袋を持った手を下ろして、震える唇をきゅっと引き結んだ。口角を釣り上げるのが、こんなに大変だなんて知らなかった。

 目の前には、砂の絨毯しか見えない。まるで骨の粉みたいだとテルネラは思った。どうしてそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからない。

 ――ああ、俯いてるのは、私だ。

 つんと目に染みる潮風。瞬きをしないように気を付けながら、テルネラはぼやけた視界を青い空に向かって上げた。歪んだ視界を揺らして、黒い色の滲みを捉える。

「だから、私、あの人たちと……ベレグラさまと、もう一度ちゃんとお話ししないと。それでね、終わったら海の底に行くよ。ウルリヒ、それでもいい? そんなこと、私がしても大丈夫?」

 テルネラは鼻をぐすっと鳴らして、涙が零れてしまう前に袖で拭った。

 ウルリヒは目を伏せた。流木の皮をべりっと剥がして手慰む。黒い髪がさらさらと風に揺れる。

「大丈夫だけど。別に大丈夫だけど。あいつらに話があるのは、おれだって一緒だぜ。おれだって、話をしなきゃ」

 ウルリヒはぱきりと皮を割った。

「おまえが、嫌じゃなければな」

「ウルリヒは、この村の守り人なのに、そんなことしてもいいの? 食べられちゃうかもしれないよ? 私も、食べられちゃうかもなんだよ。私、シュークヘルトとつがいにならずに逃げだした裏切り者だし」

「シュークヘルト?」

 ウルリヒが眉根を寄せる。テルネラは笑った。

「ベレグラさま……長老さまが、私に宛がったつがいだよ。私とオログはね、みんなに見守られて、認められてつがいになったわけじゃなんだ。ううん、つがいですらなかった。偽物の耳飾りを交換して、つがいになりたいねって約束しただけの――心許ない約束だよ。オログはねえ……多分、私がシュークヘルトのつがいになるのがいやだったから、私を連れて逃げたんだ。私も、わかっていてその手をとった。だからね、私、もとからオログの勝手な都合なんてわかってたんだ。それなのに、結局置いて行かれてしまったから、拗ねてただけなの。……ばかみたいだね、三年も拗ねちゃってたよ」

 ウルリヒは砂を見つめていた。その顔は少しずつ歪んでいく。泣きそうだ、とテルネラは思った。私はきっと、ウルリヒに残酷なことを言っている。

「そ、それでも、ついて来る? もしかしたら私、殺されちゃうかもだし、シュークヘルトのつがいになるかもしれない。海に潜って、そのまま帰ってこないかもしれないよ。それを、見ていられるの?」

「行くよ」

 ウルリヒは顔を上げて、静かな声で言った。

「守り人なのに、村を置いて行くの? 死んじゃったらどうするの?」

「じゃあ、殺されないように守ってよ」

 ウルリヒは、ふにゃりと笑った。テルネラは目を見開いた。

 ――似ている。

 ――『うん、僕って、ばかなんだ』

「おれより見知ってる土地で、おれが無事にここに一人でも戻って来られるように見張ってよ。おまえに任せるよ。おれがこんなこというやつ、そうそういないぜ? おれ、あんまり人のこと信用してねえからな」

「信用してないんじゃなくて、下手に情を移さないだけでしょ」

 テルネラは口をきゅっと引き結んだ。

「じゃあ、おれの情をかっさらっていった責任くらい、とってくれ」

 ウルリヒは、擦れた声で弱々しく笑った。テルネラはぎゅっとお守り袋を握りしめて、体を折った。喉から悲鳴のような音が漏れた。苦しかった。息もできない。ウルリヒは静かな声で、優しい声音で言った。

「そしたら、おまえのこと、諦めるから」

 ウルリヒの顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


 二人で浜辺に柵を作るように板を挿し並べていく。

 たった二人で人が数十人乗れるほどの漁船を動かすことはできない。船に括り付けられた小舟を二そう、縄を解いて海面に降ろした。その一つを、ウルリヒは石の斧で叩き割って粉々にしてしまった。二人が今砂に挿しているのは、その破片だ。テルネラには、ウルリヒが何を考えているのかよくわからなかった。けじめだ、とウルリヒはただ一言だけそう言った。

 額の汗を拭って藍色の海を見つめる。ふと気が付いたらウルリヒの姿が見えなかった。テルネラはきょろきょろと辺りを見回した。しばらく眺めてもその影は見つからなかった。何か忘れ物でも取りに行ったのかもしれないと思いながら、テルネラは大人しく残った舟の上に腰を下ろして、波に揺られた。

 やがて、暗闇の奥から赤い光が滲んで揺れた。テルネラは目を見開いた。

 ウルリヒが、松明を抱えて歩いていた。赤々と照らされて輝く頬。光る水色の目。

 まるで、銅を燃やした火のようだ。テルネラはウルリヒの目に見惚れた。

 暗闇の中で赤い光を受けて佇むウルリヒは、どこか禍々しい。ふとテルネラは、ベレグラが零した言葉を思い出した。


 ――『オログは、どこにいるんですか』

 ――『狩りだよ。銅に火をつけて、青い光に呼び寄せられる餌を捕まえるのだ』

 ――『銅、に……』

 ――『そうだ。なぜだか……そういえば、おまえたちには教えていなかったな。また、教える必要もなかったのだよ。皆頭が弱くて、疑問にすら思わないでな。銅を燃やす理由か。我々の血には、銅が溶けているのだよ。コエナシの血には鉄が溶けているが、我々のそれは銅だ。銅は我々の生きる証。それを燃やすことで我々は命を奪う代わりに命を削る……そういう意味合いがあるのだ、あの青い炎には』

 ベレグラは、焼いた貝の汁を啜りながら、白い睫毛を揺らした。

 ――『それがいつからか……青い炎を燃やせば、貝の一族を滅ぼせるなどという伝説がはびこったでなあ……当たらずとも遠からずだがな。銅を燃やし、溢れる匂いは我々の毒だ。銅を燃やし続ける限り、我々は毒を体内に蓄積し続け、いつか死を迎えるだろう。だがそれでよい。それでよいのだ。それで……』


 あの日。

 オログと逃げるために、殻の木を集めて、砂浜にしゃがみ込んで。漕げもしない舟を漕ごうなんて足掻いて。

 森の奥から揺れて忍び寄った色とりどりの光は、まるで誰かの命を燃やしているみたいだとテルネラは思った。だから恐かった。それを見つめて笑ったオログのことも、怖かった。けれど伸ばされた手を離すことなんてできなかったし、オログの胸に耳を当てて、鼓動の音を聞いていると落ち着いた。水面の上で揺れる輪郭のぼやけた青い光たちは、置いてくる仲間の命なのだと思った。コエナシモドキの子供たちが他にもいるかもしれないのに、自分だけが助かるのだ。守ってくれるオログの手に甘えて、自分だけがのうのうと生き永らえようとしている。

 それを認めるのは、怖かった。オログのことを忘れたのは、ウルリヒに止められたから――そんな理由でオログを追いかけるのさえやめてしまったのは、オログの記憶は命の灯だったからだ。テルネラはずっとそれから逃げてきた。見なかったふりをして、私は何もできない子だから、どうせ何もできないのだからと作り笑いを貼りつけて。

 けれど、ウルリヒは、好きなようにしていいのだと言ってくれた。

 テルネラは、三年ぶりに身に着けた真珠の粉染めの民族衣装をそっと撫でた。絹のような柔らかい肌触り。その裾の襞を握りしめて、目蓋を閉じる。

 テルネラは何もできない木じゃない。食べられるだけの殻の木じゃないのだ。

 考えて、誰かのために生きることだってできる。自分のために生きることだってできる。

「ウルリヒ……」

 呟いた声は、夜風に溶けた。ウルリヒは、テルネラの立てた挿し木の先端に火をつけていった。浜辺が赤々と燃える。風に混ざって、怯えたような声の波がうねる。テルネラは泣きたいような心地で、口の端を釣り上げた。

 ああ、同じだなあ、なんて思いながら。

 ウルリヒが、空に向かって長く糸を引く赤い炎の簾の向こうで、人々と対峙している。ごうごうと吹きすさぶ海の風は、彼らの言葉を取りこぼす。ウルリヒが彼らに何を言っているのかも、はっきりとは聞き取れなかった。

 私はまた、待っているだけなのだ――テルネラは、唇を噛んだ。

 ウルリヒの鳥の翼のような外套が炎の風と灰に揺れる。ウルリヒの背中を見つめながら、テルネラは赤い光に見惚れていた。三年前よりも背が高くなって広くなった背中は、陽炎に滲んで揺らめく。

「いってきます」

 その言葉だけが、かろうじて聞き取れた。ウルリヒは、赤い炎の膜を越えてテルネラの元へ駆けよった。その顔には、無邪気な笑みが浮かんでいた。テルネラの頬にウルリヒの影が伸びる。額に口付けを受けながら、テルネラはウルリヒを見上げた。

「……どうして、炎を灯したの?」

「おれ、昔もね」

 ウルリヒは舟の床に座って、楽しそうに笑った。

「真っ赤に燃え盛る森の前で、貝の末裔と対峙して、けんか吹っかけてさ。頬に煤をたくさん貼りつけて、村のテントに戻った。炎に包まれた俺の姿を見てさ、みんな鬼みたいだったって言ったんだ。なんかそれを思いだしてさ。おれはもう、神さまをやめる。この村に戻ってきたら……またわからないけど、神さまの子を演じ続けるかもしれないけど、でももうやめるんだ。おれはオログのためでもなくて、おまえのためでもなくて、おれのためにこのちいせえ舟に乗るから。だから、なんていうか、自分なりの儀式みたいなもんだよ。さ、行こうぜ」

 ウルリヒはにっと笑って、オールを取った。

 波が揺れる。波紋が歪む。櫂の両端で跳ねる水飛沫が水面に当たって雨音のような音を立てる。

「レイデ、ウストゥ、レゲ、ライダ、レイデ、ウストゥ、レイ、ヤ。レイデ、ウストゥ、レゲ、ライダ、ウストゥレル、レイラダ、ヤ、ライヤ、ライヤ……」

 ウルリヒの肩に手を置いて、遠くの水平線を見つめて。

 テルネラは、うろ覚えの歌を歌った。声が潮風に溶けていく。旅人さんにこの歌のことを教えてあげたかったなと思った。テルネラの声が、少しずつ掠れて、小さくなっていく。振り返ると、まだ赤い炎が空に光の筋を引いていた。

「レイデ、ウストゥ、レストゥ、ルストゥルストゥ、ライヤ、ララ、シュルストゥ、ラル、シャラ、ルダ、ラララライラ、ダラ、ヤー」

 ウルリヒも楽しそうに声を重ねた。風に黒髪が跳ねて揺れる。テルネラはそっとその髪を唇で食んだ。そのまま、ウルリヒに後ろから抱きついた。ウルリヒの声が不自然にぴたりと止まった。

 しばらく、そうしていた。やがて、テルネラが歌いだしたら、またウルリヒも擦れた声で歌いだした。

 どれくらいの時間、水面に漂って、そうしていただろうか。やがて、水平線には、青い光がぽつぽつと浮かんで、揺れた。テルネラは歌を止めた。ウルリヒは、それでもまだ歌っていた。けれど、櫂を握るその手は僅かに震えている。

「マイムマイム、マイムマイム……」

 テルネラは、ウルリヒに聞こえないようにそっと呟いて、胸の前でぎゅっと指を組んだ。

 もう少し。神さま、もう少しだけ。

 私にどうか、勇気をください。私の神さま。

「レイデ、ウストゥ、レゲ、ライダ、レイデ、ウストゥ、レイ、ヤ、」

 テルネラが歌い始めたら、ウルリヒは歌うのをやめた。櫂を握るウルリヒの手に、そっと手を添える。

 それからは、ずっと二人で交互に歌い続けた。どちらかが歌えなくなったら、どちらかが歌う。波が二人の声を反響する。

 まるで、花嫁になるみたいだ、とテルネラは思った。

 目の前の景色には、鮮やかな命の灯が瞬いている。


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