鴎と赤紫(ニ)
二人で、飴色の床を見つめている。
「僕ら貝の末裔は、君たちのことをコエナシと呼ぶ」
オログの声は夕焼けに柔らかく溶けた。二人の背中を照らす茜色の光が、包帯の巻かれた腕に筋を引いている。
「それは、君たちが僕らと違って、真珠を零さない種族だからだ。僕らの中ではなぜだか、コエナシであれば食べていいという考え方が巣食っていてさ。でもそれは、本能的に備わっていたんじゃなくて、次第にそういう考え方に毒されていったんだと僕は思ってる。僕は幼い頃に同胞が森に迷い込んだコエナシを食べるのを見て嫌悪感を抱いた。今でもコエナシのことを食べたくないと思っているし、彼らを食べたこと、後悔している。どのみち僕はテルネラを守れないんだから、コエナシを食べて生き延びる意味なんかなかったんだ。食べなければ、もう少しだけ、こんな角が生えてくる時間を先延ばしにできたかもしれない」
オログは角に触れて、俯いた。
「……どこからつっこめばいいかわからないけどな、一応聞くが、森に迷い込んだ人間はどういうやつだったんだ?」
ウルリヒがオログの横顔を見つめた。
「君たちと同じ、浅黒い肌に、黒い髪と目を持っていた。琴、という楽器をずっと手放さなかったよ。僕とテルネラに歌を歌って聴かせてくれた……自分を吟遊詩人と名乗っていたけれど、どうして彼があの時あの森にいたのか、僕は今でも理由を知らない」
オログはウルリヒの横顔をそっと覗き見た。ウルリヒは、どこか遠くを睨みつけている。
「テルネラは、コエナシモドキだった。つまり、一族で稀に生まれる、【真珠を零せない】子供。それを知っていたのは、多分僕だけのはずだ。でも……今は、それもよくわからない。僕はテルネラの秘密をただ一人抱えて、テルネラを守っているつもりだった。でももしかしたら、生かされていたのかもしれない。長老の言葉の端々に、なんだか……テルネラがコエナシモドキだと知っているような感じはあった」
「要は、おまえら的にはあのテルネラってやつをおれたち人間と同じ捕食対象と見なすってことか。だから連れて逃げて来たって話かな」
「そう。だから、逃げて来た」
オログは両手を重ねて、握りしめた。
「僕は、あの子が食べられてしまうのが怖くて、ずっとあの子がコエナシモドキであることを隠して、あの子の食べ物を用意した。僕らは海水や塩湖の水を飲み、塩濃度の高い殻の木を食べるけれど、テルネラはそれらが
「つがい? 婚儀みたいなもんか」
「婚儀?」
オログは眉根を寄せて、首を傾げた。ウルリヒは両手の人差し指を近づけて、その指先をそっと合わせた。
「男と、女が、一緒になること。子供を作ったりして、家族になるって感じかな」
「……多分、それに近いんだろうね」
オログは、床に視線を戻した。
「大人になるために、コエナシの肉を食べなければならないと言われた。テルネラは……事情があって、コエナシの肉じゃなく、貝の肉を食べることになった。それで、一昨日の夜、僕は浜辺で青い炎を灯してコエナシを誘き寄せて……食べた。テルネラも、貝を食べた。そしたら僕の頭には角が生えて、テルネラは嘘みたいに元気になった。僕のこの角は、女神の贄の証なんだって。僕の体はこのまま殻の木になって、海に還って、二つの大地を――僕らの陸と、君たちの陸を支える海底樹になる」
オログはそこで言葉を切って、ウルリヒを見つめた。ウルリヒは、ちらとオログを見て、逸らした。オログは苦い笑みを浮かべて、瞼を閉じた。
「それを知って、僕の行きつく先を知って、僕は怖くなった。いつか僕がいなくなったなら、テルネラはどうなるんだろうって。僕がいなくなったら、テルネラは食べられてしまうかもしれない。僕の体がいつこの木にすべて蝕まれるかもわからない。それで、逃げようと思ったんだ」
「海の中に? おまえらは海の中でも生きていけんのかよ」
「僕は……そうだね、多分僕らの一族は、きっと海の中でも生きていける。えらが、あるからね」
オログは、顎の縁を撫でた。
「でも、テルネラには苦しかったと思う。僕は海水を飲んでもなんともないけれど、テルネラにとっては辛いばかりの水だ。それにずっと浸かっているのは、きっと苦しい。でも、そうじゃない。僕は……海の中に逃げたかったんじゃない。海の中に逃げたのは、あの一族が女神への信仰心のせいで海の中に潜ることができないからだ。海に潜ってしまえば、追いかけてこられないだろうと思った。僕はただ、コエナシの――人間の生きる大地に、テルネラを連れていきたかった」
ウルリヒがオログの横顔を見つめた。オログも視線を合わせた。ウルリヒは眉根を深く寄せている。オログはへらりと笑った。
「ばかみたいって思う? 人間」
「ばか以外の何かあるかよ」
「そうだね」
オログは息を吸って、吐いた。
「でもね、ウルリヒ……って、呼んでいいのかな。あの子は、テルネラはね、君たち人間と何も変わらないんだ。真珠も零せないし、海水は飲めない。木を食べてまずいという。僕たちとは違って、むしろ君たちとよく似ている。違うとすれば髪の色、眼の色……あとは、ちょっとだけ小さなえらがあるってことくらいかな。でもそれだって、水の中に潜らなければ目立たない。貝の肉は食べたけれど、あの子は人間と同じだよ。だったら……殻の木を食べなければ生きていけない僕と違って、あの子なら君たちと共に生きていける」
「根拠は?」
「ない、けど」
「はあ……お前、ばかなんじゃないの?」
ウルリヒは瞼を閉じて、ずりずりと壁から床にずり落ちた。膝を立てて、項垂れたように頭を下げる。
「おまえ、おれたちがどれだけおまえらに怯えて生きてきたか知らねえの? 今は海を越えてやって来ないかもしれない。でも、昔は……つい十数年前までだって、おまえらが海を越えてやってきていたのは事実だ。記録にだって残ってる。おれたちは海に近い場所から順に襲われて、村を荒らされた。お前たちはどう足掻いたって恐ろしい人食いの化け物だ。女神信仰がどうのこうのなんて多分大して関係ねえよ。おまえらが人間の陸に来なくなったのはな、海に潜らなくなったのは、単純な話だろ。おれたち人間がおまえらに餌を献上しているからだ」
「……え?」
オログは手首をぎゅっと握りしめた。傷口がつきんと傷み、血がにじむ。
「お前の言った吟遊詩人だったか、そいつは多分、その最初の生贄だ。内陸の王族に歯向かった罪人だからって理由でな、おれの村に回されたんだよ。おれの村は罪人を定期的に回収して、お前らが偽物の青い炎をちらつかせたらすぐに罪人を小舟に乗せて、お前らに献上してんだよ。おまえら、もともとおれらの肉がないと死ぬわけでもないんだろ。定期的に餌が来るなら、それ以上の餌をわざわざ求めて、深い海を渡ってきたりしない……ただそれだけのことだ。おれらは、おまえらばかな貝の一族が、【人間は青い炎に惑わされてほいほいやってくる】っておれらをばかにしてるだろうこともわかってやってんだよ。だからそれを逆手にとって騙されてるふりしてんだ、おれらの生きる大地を守るために。おれらの関係はそういう、糸の上を歩くみたいな危うい天秤なんだよ。そんな存在をさ、いきなり仲間にしろって? 人間と同じだから、人間と同じ扱いをしてくれだって? んなもん、おいそれとうまくいくわけないだろうが。一体おれらの大陸にどれだけたくさんの人間がいると思ってんだよ。おれ一人を丸め込むくらいなら簡単かもしれないけどな、人間全員をそうできると思うなよ」
ウルリヒの声はわずかに掠れている。
「偽物……」
オログはぽつりと呟いた。
「そうか……はは、わかってたんだね、やっぱり、人間は」
――僕らが思ってるほど、ばかじゃないかもしれないじゃない。
デルフィがぽつりと零した言葉が、蘇る。
「はは、賢いね、人間って」
「なにがおかしいんだよ。笑い事じゃねえよ」
「笑える。笑えちゃうよ。賢い人間になら、テルネラを預けても安心だ。やっとこれで、僕は、少しは安心できるのかな」
オログは前髪を掻き上げて、くしゃりと握りしめた。
ウルリヒは、悲しいような、苦しいような、複雑な表情を浮かべて、口を引き結んだ。その喉からは悲鳴にも似た小さな音が漏れていた。ややあって、ウルリヒは頭を激しく振り、立ち上がった。
「お前らって、本当にどこまでも自己本位な種族だな」
ウルリヒはオログを蔑むように目を細める。
「はは……血だね。そうだ、人間と違うところがもう一つあったよ」
「は?」
「君たちの血は赤い。僕らの血は……青色だ」
「んなの知ってるよ」
ウルリヒは苛立ちをにじませ吐き捨てた。
「……なんで、おれにだけそんなこと話すんだよ」
「なんでだろう」
オログは苦しくてどろどろとした思いを持てあましながら笑った。
「本当は身も知らないコエナシに、おまえなんかに、預けたくないけど、でも、おまえならなんだか、テルネラを守ってくれる気がした。僕が同情さえ引けば、君は案外簡単にほだされる気がした」
「根拠は!」
びりびり、と周囲の空気が揺れる。ウルリヒは腹から叫んで、息も荒く、肩を揺らしていた。
「君の目が、青いから」
「……は?」
波が揺れる。揺れて、ささやいてきたような気がした。オログは水面を見つめた。やがて、船の縁を握る手が小刻みに震えだした。オログはうずくまり、額を船壁に押しつけ、肩を震わせながら笑った。
僕は知っている。僕だけが気づいている。僕たちがただの貝で――きっとコエナシだってもとは人間じゃなかったこと。この世界で唯一の人間は夢で見たあの赤髪の少女だけ。だとしたら僕たちは、わかりあえたはずの海の生き物。
だったらきっと、青い目を持つこの少年なら、あの
ああ苦しい。苦しいよ。一度海に潜ってしまったから、気づいてしまった。もう今では陸に上がっている方がずっと苦しい。体が重くて、怠くて、たまらない。痛い……。
「おい、どうした」
ウルリヒがオログの肩を揺らす。オログは泣いた。
「なん、でも、ない。痛いだけ。体が」
ざあ。
ざあ。ざあ。
ざあ。
波がひだを作って揺れる。
風の音とカモメの鳴き声が、耳を掠めて揺れる。海がひそやかに真実をささやく。
――『青い魚は人の姿を得た。けれど彼女は、大事なことを忘れていたんだ。彼女は神様だったから、海の中でも生きていけた。けれど人間は、海の中では息が出来なくて死んでしまう。
だからね、人間は海の上に帰って行った。けれど海の上には瓦礫が浮いているだけだった。直にそれも人の重みで水底に沈んでしまうだろう。人々は力を合わせて、瓦礫を組み立てた。そうして人間は、自分たちの生きる場所を勝手に作ってしまった。女神のことなんて忘れて、海の上で生きてしまったんだ。
頭では仕方のないことだと分かっていたけれど、女神は悲しくて寂しくて、ようやくぼくらを見てくれたよ。けれど最初はうまくいかなかった。ぼくらには、【骨】がなかった。人の肉を、皮膚を支える骨がなかった。だから女神は、ぼくらの体を外から支えていた殻を、ぼくらの体に埋め込んだ。そうしてぼくらはようやく人の姿を得た。今度は、海の中で女神と共に生きられる不完全な人の姿となってさ……』
波はさらさらと揺れる。打ち寄せる音が、風の音が、カモメの鳴き声も――ウルリヒの声でさえ、混じりあって誰かの声になる。オログは喉を押さえてえずいた。痛い。痛い痛い痛い痛い。体が痛い。背中が痛い。痛くてたまらない。足も腕も、手も、頬も、何もかも。
――『実はね、人になれた真珠貝は、ぼくら黒蝶貝にとってはできそこないの、白い真珠しか作れないやつらばかりだったのさ。人の姿になれた黒真珠の子供は、たった一人だけだった。でもね、今度はその子ができそこないだったんだ。』
肩の皮膚が裂けていく。痛みにオログは呻いた。だめだ。だめだよ。声を出しちゃだめ。テルネラに気付かれちゃいけない。気づかれたくない。僕が痛がっていること。僕がお前を、諦めようとしていること。
――『それでね、その子は結局、体中を貝殻が引き裂いちゃったのさ。彼の体を引き裂いた殻はどんどん伸びて、太くなって、あっという間に木になった。ぼくらはその木の上に大地を作って、青い魚の人間のように陸で生きてみることにしたんだ。その頃にはぼくらすっかり、泣き虫女神に辟易していたからさあ。』
「……相変わらず、思い込みが激しい種族だね」
オログは、海の声に向かって呟いた。ウルリヒが眉をひそめたのが分かる。自分がもう、陸で生きるものではなくなってきていることが、わかる。
覚えている。最初の黒真珠の子供に浴びせられた、心無い言葉たちを覚えている。オログを蝕む殻の木が、それらの音を全て洞に閉じ込めているのだ。そのことに、オログはようやく気付いた。聞こえていると思ったのは女神の声でもない。元始の黒真珠の子の声でもない。
……これは、世界の大樹――殻の木が持つ記憶だ。僕はその欠片に蝕まれてしまった。
「僕もウルリヒもテルネラも、みんな同じなんだよ」
オログは喘ぎながら言った。ウルリヒが不安げな眼差しでオログを覗き込んでいる。青い目が、揺れていた。
「お、まえ……腕が……」
ウルリヒの視線の先を追うと、オログの腕は皮膚が裂けていた。裂け目の奥からは、七色の光沢を持つ灰色が見えている――何度も何度も飽きるまで見た殻の木が。ああ、僕の体は内側から木だったのか。オログは口を歪めた。
「ウル、リヒ。ごめん、テルネラを、どうか、」
オログは、ゆらりと立ち上がった。痛みのせいで靄がかる視界を揺らめかせ、テルネラの姿を探した。オログの痛みなど気付きもせず、懸命にコエナシの手伝いに励むテルネラは、オログに小さな背中を向けている。
ははは。……ははは。
オログの視界は、絶望に白く眩んだ。
オログは船の縁に腰かけた。
ウルリヒは戸惑ったように視線を揺らして、皮膚が裂けていくオログの手足を呆然と見つめている。オログが腰を下ろしたことに、少しだけほっとしたようだった。
「おまえ……その、どうしたらいいかわからないけど、少し休んだ方がいいよ。あと、そこ危ないからさ」
ウルリヒは裏返ったような声でそう言う。オログはウルリヒを少し高い位置から眺め、初めて彼が自分よりも幼いことに気づいた。気丈に振る舞っているから、全然気が付かなかった。なんだ、この子はまだ子供だ。目の前で僕がこんなことになって、心細そうにしている。
……けれど不思議と、ウルリヒに対して申し訳ないとは思わなかった。種族が違うからかもしれない。テルネラを託すことが、本当は癪に障っているからかもしれない。けれど、それももう、どうでもいいことだ。
オログは笑った。ウルリヒが、幼さの残る眼差しでほっとしたようにオログを見上げる。
「頼んだよ」
そう言って、オログはぐらりと体を後ろに揺らした。
誰かが叫ぶ音が聴こえる。けれど、カモメの声にかき消されてしまった。背中から落ちていく。落ちていく。
オログの髪が、空に向かって巻き上がる。三つ編みがふわりと舞って、解けてしまった。オログは、痛みの疼く両手でそっと耳飾りを包み込むように握りしめた。視界いっぱいに、
飛沫が上がって、音が鳴って。波紋が広がって、やがて凪いで。
オログの体は、水底へ消えた。
舟の上では少年と少女が叫び続けていた。けれど、凪いだ水面は襞をつくるばかりで。
角つきの少年が浮かび上がることは、二度となかった。
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