鴎と赤紫(一)

 耳の中を満たしていた、揺らめく籠った音がぷつりと途切れた。夢から浮上する。

 風の音が帰ってきた。オログは小さく咳込んで、そっと瞼を開けた。長い睫毛の隙間から少しずつ、紅く染まる光が差し込んでくる。長い時間気を失ってしまっていたらしい。やがて、目を潤ませたテルネラの顔を認めた。

「オログ!」

 テルネラが首にばっと抱きついてきたから、オログの体もぐらりと後ろによろけた。不意の衝撃に頭の中がぐらぐらと揺れる。体を支えようと後ろ手をつくと、左腕に鋭い痛みが走る。オログは痛みに顔を歪め、そこで気づいた――手足を縛っていたはずの縄が解かれている。テルネラもだ。オログははっとして辺りを見回した。

 桃色、茜色、橙色。それらが真っ白な水平線から光の筋を放射線状に伸ばして空を赤く染め上げている。美しい夕暮れの空を背に、コエナシの少年ウルリヒが、船壁にもたれ、縁には両の肘を乗せて、オログを見下ろしていた。

 ウルリヒの目は海のように青く澄んでいた。見つめ合えば、今しがた見た夢を思い出して胸がずきんと痛んだ。羨ましさや愛おしさが、まるで血のように体中を駆け巡る。あんな景色は知らないはずなのに、どこか懐かしくて、苦しかった。頭の隅で、あの泣いていた赤髪の少女がこの世界の女神だろうと確信を抱く。

 オログはウルリヒから目を逸らして、右耳にぶら下がる真珠を撫でた。夢の中で、確かには、白い真珠を【できそこない】だと思っていた。今の階の末裔で、黒い真珠を零すのは自分しかいないのに。

 オログは頭を振り、視線をあげた。今は目の前のことに集中しなければ。

「縄は、どうして」

 オログの言葉に、ウルリヒは首を傾けた。

「別に、害はねえかなと思っただけだよ」

 ウルリヒはぶっきらぼうに答える。そうして、顎でくい、とテルネラを指し示た。

「おまえが寝ている間も、その女がきゃんきゃん煩くてさ、だから解いてやった。けどな、この船の中で、おれら人間に手ぇ出してみろ。お前ら二人ともまとめて殺してやる。例え貝の一族だろうが、子供二人何の怖いことはない。おれの手首の傷見ただけで吐くようなやつに、おれを食えるとも思えないしな」

 テルネラはウルリヒを睨んでいる。オログは唇を震わせ、ごくりとつばを飲み下し、そしてウルリヒの手元に視線を移した。

「あ……手首、君、けがは――」

「あ? てめえの心配してろよ。聞いてなかったわけ? おれは、おまえらをいつでも殺せるっつったんだけど」

「ウ、ウルリヒなんかほんとにきらい! どうして、どうしてそんな風にけんけんと物を言うの? オログは今目が覚めたばっかりなのに……もっと優しくしてくれてもいい!」

 テルネラが噛みつくように叫ぶ。やっぱり、珍しいとオログは思う。テルネラが他人に対してこんな風に感情を昂ぶらせたことはなかったのだから。

 対するウルリヒは眉間にしわを寄せ、冷めた目でテルネラを見下ろしている。

「さっきから、本当に口の減らない女だな……おまえ本当にわかってんのか? おまえは捕虜、おれらの気分一つにおまえらの命がかかってるわけ。そんな態度で、おれががち切れして殺してもいいわけ」

 ウルリヒは腰にぶら下げた小さな鞘から鋭い剣を抜き、テルネラの眼前に突き付ける。テルネラの肩が小さくびくりと震えた。オログはそっとテルネラの手を握ってから、静かにウルリヒを見つめ直した。ウルリヒから殺意は感じられなかったのだ。

「その剣……石、なんだね」

「は? いきなりなんだよ」

「いや……コエナシが、金属を知らないって本当なんだなって思って」

 ウルリヒは訝し気に片方の眉を吊り上げる。オログは静かに笑って、自分の左手を見下ろした。

 切れた手首に巻かれた包帯には青黒い血の跡がにじんでいて、まだ湿っている。石の剣を構えるウルリヒの手首にも包帯は巻かれていて、紅い血がにじんでいた。

「石でも、よく切れるんだね。知らなかった。僕らは石を刃物にはしないから」

 オログはへら、と笑った。その言葉に眉をひそめた後、ウルリヒは黙って腕を下ろした。かちん、と音を立てて剣を鞘に戻す。

「金属なんつうものは知らねえが、お前らが耳につけてるその金色の石みたいなものには、まあ興味はあるな。それ、貝の一族の陸で採れるのか? 硬そうだな」

「原料は採取できるけど、加工してこうなってる。でも僕はこれの作り方をよく知らないよ。ちゃんと教わる前に、あの場所を出てきたから」

「はあ、役に立たねえ」

 ウルリヒは小さく息を吐いた。

「その女じゃ話にならないから、あんたが起きるのを待ってたんだよ」

 ウルリヒの言葉に、テルネラがまた隣でむっとしたのがわかった。オログはテルネラの横顔を見つめて、はは、と笑った。どうしてだろう、体が軋むように痛い。

「何? 僕に何か聞きたいことでもあるの」

「大ありだよ。そいつに聞いたところじゃ、お前、こいつが食べられるからなんとかっつって、たった二人で逃げてきたんだって? わけわからないんだけどさ、お前ら貝の一族は共食いもすんのかよ、気色悪いな」

 オログは薄い笑みを浮かべたまま、ウルリヒを上目遣いで探るように見つめてくる。

 オログはテルネラから手を放し立ち上がった。ウルリヒにゆっくりと近づいて、その耳元に唇が触れるくらいに顔を寄せる。その間、ウルリヒは視線を揺らすこともなくオログを睨み続けていた。けれど攻撃しようとするわけでもない。警戒はしているようだが、隙が多いなとオログは思った。ウルリヒを攻撃する意図なんてないけれど。

 ――そんな風でいいの。仮にも、君たちコエナシを食べたヒトガタだよ、僕は。

 オログは乾いた笑みを深めて、ささやいた。

「テルネラがいないところで、話がしたいんだけど」

 ウルリヒは、オログの真意を図りかねているようだった。深く息を吐き、しばらく海を眺めた。海は赤紫色に変化していた。ウルリヒが口を開く。

「おい、女」

「テルネラ……!」

 テルネラが小さな声で抗議する。

「……うるさいな……おまえ、その辺のどっかの床に座ってろ。おれに近寄るな。ふらっふらうろついてんじゃねえぞ」

「……誰があなたなんかの傍にいたいもんですか!」

 目を吊り上げ頬を膨らませて、テルネラは立ち上がった。服の裾をパンパン、と叩いて遠ざかる。

「……っ、だからうろうろすんなっつってんだろ!」

「うろうろしてない!」

「……人食いの癖にいちいち口答えたあ……」

「テルネラは、人食いじゃないよ」

 ウルリヒの悪態を拾って、オログはぽつりと呟いた。

「あ?」

 ウルリヒはますます眉根を寄せた。

 オログはふわりと笑った。

「僕はコエナシを食べたけれど、あの子は食べていない。これからも、食べさせたくないし、食べる必要もないと僕は思ってる。あの子がどう思っているかは……もう僕にも、わからないけど」

 ウルリヒの瞳に、自分の姿が映っている。オログは視線を逸らして、ゆらゆらと瞳を揺らした。

「おまえって、餌の前でずいぶん気弱だな、へんなやつ」

 ウルリヒはそう言って小さく息を吐くと、そっと瞼を閉じた。

「貝の一族が話が通じる種族なんざ思ってなかったけどな、一応話くらい聞かせたいなら聞かせてみろよ。ただ、おれらがおまえらの餌だってことは忘れんなよ。おれらも忘れてないからな。どうしたってつきまとう、前提条件だ」

「そうだろうね」

 オログは、記憶に残る赤錆色の景色を思い、苦々しく笑った。

 少し離れた場所から小さな野太い悲鳴が聞こえて、オログとウルリヒは同時に振り返った。テルネラがコエナシたちの傍に寄って何事かを話しかけている。コエナシたちは身をすくませている。

「ばっ、」

 ウルリヒは眉を吊り上げて、がりがりと頭を掻いた。

「なんなんだあの女!? ばかなのか? 頭湧いてんの?」

 テルネラが「手伝いたい!」と無邪気に叫んでいるのがかすかに聴こえてくる。オログは顔を歪めて俯いた。泣きたくないのに、悲しくなった。今も昔も、テルネラにとってコエナシは【旅人さん】なのだ。彼らが自分に怯える意味も、何も、本当の意味では理解できていないのだろう。

「はあ? 手伝いたいだあ?」

 ウルリヒは眉根を寄せて、呆れたような声で呟いた。目はテルネラの一挙一動を追っている。

「変わった女だなあ……」

「ウ、ウルリヒ~」

 男たちの泣きそうな声が風に乗って届く。カモメが何羽も海の上を滑空して、鳴いて笑う。ウルリヒもやがて鼻で笑い、声を上げた。

「おー、いいんじゃねえの? 人間様がどれだけ身を削って食ってるかその棒切れみたいな体に教え込んでやれよ。遠慮はいらないぜ。こちとら人質はあるからなあ」

 ウルリヒは口の片端を釣り上げて、どこか面白そうだった。テルネラがばっと振り返って、また膨れ面をする。

 ウルリヒはテルネラににやりと笑いかけ、くい、と顎でオログを指す。テルネラはますます眉を吊り上げ顔を逸らし、「何すればいいの!」と半ば八つ当たり気味に叫んだ。

 キュイ、キュイ、とカモメの声が響く。やがて男たちも恐る恐るテルネラに話しかけ、網に括り付けられた縄を持たせた。テルネラは男たちと一緒に縄を引くが、体が引きずられるようにずりずりと滑り落ちる。まもなくぺたんと甲板に尻もちをついた。テルネラは笑いだした。男たちは戸惑ったように顔を見合わせ、頬を掻いて。

 やがて、緩やかな笑い声が、疎らなカモメの鳴き声のように風に溶けたのだった。

 オログはそれを静かに見つめていた。

 ――霧が晴れた世界は、綺麗だね、テルネラ。

 悲しさが胸の内にじんわりと沁みこんでいく。

「で、話って何」

 ウルリヒが続きを促した。

 オログは振り返って、その青い瞳を見つめた。自分の目線よりも少し下にある青色の目は黄昏の光に照らされて、まるで海波のように揺らめいて見えた。


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