血と青

 ああ、ここは、あの大きなコエナシの船なのだと、オログは頭の隅でぼんやりと考えていた。少年の左の頬には、笑った口の様な三日月模様と、その模様から下に伸びる三本の棘が金色の線で描かれている。顔の左の髪の先に青い羽飾りが結びつけられていた。羽は魚のひれにも似ている気がして、そして見覚えがある気もして――視界が一瞬白く曇り、オログはふらりとよろめいた。体中がまたずきずきと痛み始めていた。横からテルネラに抱きしめられる。網越しのテルネラの小さな手が小刻みに震えているのを、オログは痛みで朦朧としながら見ていた。テルネラは少年に向かって震える声で叫んだ。

「ち、違うよ! あなたたちを食べに来たわけじゃない!」

 青い目の少年は不快そうに眉を潜めた。

「あ? どういうことだよ――」

「ウ、ウルリヒぃ……こんな化け物と仲良くしゃべってる場合じゃないぜ……さっさと殺さないと、俺たちがやられちまうよぉ……」

 男たちが弱々しい声をかける。少年はそれを完全に無視して、オログたちから目を逸らさなかった。だからオログは息を吐いて、痛みを我慢して、小さな声で呟いた。

「殺さないで」

「あ?」

 ウルリヒと呼ばれた少年は片眉を上げる。オログはもう一度声を絞り出す。

「僕のことは殺してもいいから、テルネラは、この子は、殺さないでください」

「オログったら!」

「はぁん……おまえ、餌にお願い事をするたぁ、頭湧いてんのな。で、お前のその角は何。貝の一族ってのは化け物に違いないが、角が生えるなんて聞いたことねえんだけどな」

 オログは少年の青い目を睨み返した。少年も目を細めて応じる。

 しばらく睨み合って。

 不意に少年は小さく嘆息し、目つきをわずかに和らげた。

「……おまえら、なんでおれらを攻撃してこないの」

「攻撃……攻撃って……」

 オログは呟く。

「な、何が、わたしたち、そんなことしない……」

 テルネラもそう言って、不安そうにオログに身を寄せる。少年は訝し気に首を傾げた。かつ、かつ、と踵を鳴らして近づき、オログの目の前にずいと顔を突き出す。オログは眉を潜めた。

「……何」

「何たあ、変なこと言うなあ、おまえ。ほら、餌だぞ」

 少年はオログににっこりと笑いかけるのだった。少年の言葉を理解して、オログは凍りついた。テルネラは不快そうに少年を睨む。

 少年はオログの腕をちらと見遣り、船壁に突き刺さった短剣を引き抜いたかと思えば自分の手首をぐさりと切った。赤い血が、ぼたぼたと零れて魚と床を汚しす。生臭い匂いが強くなった。少年は、血が噴き出すその手首をオログの目の前にぐい、と差し出して、にやりと笑う。

「ほれ、餌だぞ」

「ウ、ウルリヒ」

 男たちが身震いしながら声をかけるが、少年は気にもかけず笑みを浮かべるばかりだ。赤錆びの匂い。オログは込み上げる吐き気を堪えきれなかった。血まみれの手で口元を押さえたせいで、口も首も服の襟も全て、血と吐瀉物でどろどろと青く汚れていく。

「あーあ、汚ねえの」

 少年は冷めた声でそう言って、オログからぱっと離れた。テルネラはかっとしたように立ち上がった。

「あなた、なんなの!」

 テルネラは今にも泣きそうな顔で口を引き結んでいる。その足も震えているのに、オログは喘ぎながらテルネラを見上げることしかできなかった。少年は眉間にしわを寄せテルネラをじろりと睨んだ。

「ああ? 人食いのおまえらに敵意を持って何が悪い」

 少年はふんと鼻で笑って、オログを見下ろす。

「おい、抵抗するなよ。抵抗したら、その女を殺すから。……おまえら、こいつら縛っとけ。後ろ手にしろよ」

「ウ、ウルリヒ……でもよ、女も噛みついてきたら……」

「あ? その貧弱そうな女に何ができるってんだよ。噛みつく気概があったらとっくに牙向いてんだろ。それができないから、こいつらも怯えてんだよ」

「ええ、怯えてんのか、こいつら……?」

 男たちは不思議そうな顔で首を傾げてオログたちを観察してくる。テルネラは唇を噛み締めて俯いていた。

 霞む視界でテルネラの横顔を見つめながら、オログはテルネラの手に縋りついた。ウルリヒはもうオログたちから興味をなくしたように周りに指示を出していく。

「あとなあ、魚、さっさと回収しろよ、死ぬだろうが」

「お、おう」

 男たちが慌てて動き出し、オログとテルネラは足と手を縛られた。なぜだか腕には包帯を巻かれしっかりと止血される。床に座らされたまま、男たちが魚を大慌てで土器の壺に入れていくのをぼんやり眺めていた。ウルリヒは船壁にもたれて二人を見張っている。ウルリヒが二人を見下ろしている。その間、テルネラは反抗的にウルリヒを睨みつけていた。テルネラがそんな態度をとるのを初めて見るなあとオログは思う。

 やがて、オログはすう、と気を失った。喉からまた二つ、真珠がころりと零れて、床に弾んだ。


     ◇


 オログは夢を見ている――

 視界は揺らめく薄銀と灰色の層で覆われているように心もとない。

 ああそうか、この景色は、海の中なんだ……そう、ぼんやりと考える。


 そう、の目の前で、一人の女の子が泣いているよ。歯をがちがちと鳴らして。けれど海の底では、その音さえも微かに滲んで泡になるだけ。

 泣いているよ。


『どうしよう。どうしよう……! 死んじゃう。どんどん死んでいってしまう。やっと見つけた、最後の生き物なのに。箱の中に生きていたたった一つの生き物なのに……!』


 女の子は、透明な輪郭を持つ箱を抱きかかえて、震えている。その中には何匹もの青い魚が――否、かつて【青かった】魚が、今は薄汚れた灰白色の体で、体を倒してぷかぷか浮かんでいる。青い色が失われたということは……そうか、みんな死んじゃったんだね。

 透けた箱の中で、まだ生きている青い魚たちは、小さな口をぱくぱくと開け、美しい鳥翼のようなひれをゆらしている。ぼくも、いっしょうけんめい殻を開けたり閉めたりして、彼女を見上げている。

 ぼくらは彼女に伝えたかったよ。ぼくたちも生きているよ、って。あなたのそばにいるよと。だから泣かないでよ。

 けれどぼくらは声を持たなかったね。青い魚の君たちは、めだまを持っていた。目と目で彼女と心を通わせあっていた。でもぼくらには、目もなかったね。

 それでもぼくらは彼女を見ていたよ。伝える術を持たなかったんだ。だから彼女はぼくらの気持ちをなかなかわかってくれなかった。

 彼女は魚と見つめ合って、涙を拭いた。


『そうだ……そうね、どうして、考え付かなかったのかしら。この子たちを造り替えてしまえばいい……。ねえ、ベタ。私と同じものになって。そうして私と沢山お話しましょう。ね?』


 魚はいいよというように尾ひれを揺らしたね。ぼくらだって彼女に心を伝えたくて、こぽりと真珠を吐き出したんだ。できそこないの白い珠と、美しい黒の珠が、ばらばらの方向に散らばった。けれど、彼女はそれを見てはくれなかった。ぼくらを見てくれたのは、ベタ――魚の君たちだけだったね。


 彼女は生き残った青い魚に、新しい姿を与えた。彼らの目は、彼らのかつての姿を忍ぶように、青に染まっていたよ。


 ああ、だから懐かしく感じたのか――

 オログはぼんやり考える。

 ずっと前から、君に会いたかった気がする。

 もっと早く、会いたかった気がする。

 ウルリヒ、ぼくは、貝の末裔は、きみにおねがいがあるよ。

 

 そしてオログは、夢から覚める――



     ◇

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