夜明けと赤
二人手と手を取り合って森を駆け抜ける。日がわずかに顔を覗かせていて、海原と空の裾は赤紫色に染まっていた。海と空を分ける境界は濃紺色の細い水平線だった。空の色は裾から天に向かって桃色、薄藤色、青紫色へと変化しにじんでいる。桃色の中には大きく体を傾けた半月が白く小さく閉じ込められていて、真珠の粒にも似ていた。
オログの隣で、テルネラが息を細く吐く。きっとこの島から眺める朝焼けはこれが最後になるだろう。
「綺麗、紫陽花の色みたいな空」
テルネラが笑っていたから、オログも救われた。
「僕もちょうど同じことを考えていたよ」
この空の色を、オログは一生忘れられないだろう。
オログはテルネラから手を離し、砂を掘る。埋めた鋸を探していた。鋸で縄を切り、舟を出そうと思う。板をほんの少し切り取っただけの舟は、きっとこのために残されていた。
慎重に砂をかき分けていたが、不意に指先がずきんと痛み、中指に切り傷ができた。じわりと滲む青い血を拭い、見当をつけてさらに砂を掘り進めれば鋸の銀色の刃が見えた。鉄の柄を握って、穴からずるりと引き出す。鋸の歯が、砂をざりざりと削った。デルフィは軽々と持っていたが、実際に持ってみると重たかった。なんとか長い柄を肩に乗せ、反動をつけて綱の高さまで持ち上げる。デルフィの手つきを思い出しながら、舟につながれた太い縄をざりざりと削る。
「これ、どうやってこぐのかな」
テルネラが舟を押して海面に浮かせる。
「コエナシは……長い棒を左右に揺らしてこいでいたと思う。でも……見当たらないな」
探している間にも空の色はどんどん変化して明るくなっている。焦りから爪と指の間に潜り込む砂が煩わしく思えた。
「オログ! これはどう? 使えるかな」
テルネラが海辺の殻の木を指さす。オログは頷いて枝を折った。
テルネラは少しふらついて砂場に手をついた。行きに採取した塩味の少ない殻の木の皮をもそもそと食べる。その間に、オログはテルネラ用の水の入った壺を中身が零れないように注意深く舟に乗せた。
「オログの食べ物は……大丈夫なの?」
「落ちついて食べていいよ。……僕のは大丈夫さ。僕は海水を飲んでも生きていけるし」
テルネラは頷いて、懸命に殻を咀嚼し呑みこんだ。
二人で殻の木の枝を使い、舟をこごうと試みる。けれど枝が軽いからか、それとも曲がっているからか、うまくいかない。焦っていたから気が張っていたのかもしれない、オログは遠くに複数の足音を捉えた。はっとして血の気が引く。
「……だめだ、テルネラ。舟は諦めよう。今のうちに飲めるだけの水を飲んで」
「えっ、う、うん」
テルネラは言われるがままに壺の水を飲む。森の奥で、黄色や橙色、青や紫の色とりどりの光がぼんやりと放射状に揺れはじめたのが見えた。近い。間に合わない。
この島を飛び出すことに意味があるのかはわからない。角が生えてしまった以上、今も尚体中がずきずきと疼く以上……自分の体はきっとこれからも、殻の木に侵されていく。その状態で生きることに意味はない。それでも逃げたいと思ったのは、コエナシモドキのテルネラを一人で残していきたくないから、ただそれだけの想いだ。今一番大事なものはなんだ。テルネラの身一つだ。本当は舟で安全に逃げ出したかった。けれど仕方がない。この島を出ればきっと道が開ける――今はそう信じるだけだ。いや、信じる暇さえ惜しい。
オログは足元を見る。ここにあるのはなんだ。海底、水底、ただ真珠がバラバラに散らばっている海の中だ。怖くない。テルネラがここで奪われることの方がずっと恐ろしいじゃないか!
「ねえ、テルネラ」
段々と近づいてくる色とりどりの火の玉から目を逸らさないまま、オログは短く声をかける。
「なに」
「追手が迫っている。どうする、このまま捕まって、僕じゃなくてシュークに守ってもらう道もあるよ」
テルネラはきゅっと眉間に皺を寄せた。
「嫌だよ」
「でも、シュークなら話せばわかってくれるかもしれない。僕がやってきたように、お前を守ってくれるかもしれない。あの人は、お前にべた惚れみたいだから」
「嫌」
テルネラは口をぎゅっと引き結んだ。オログは、薄黄色の炎が梢の先から覗いたのを見た。
「シュークのことが嫌いなの?」
「すごく嫌いなわけじゃない。でも、嫌」
テルネラはむすっとして頭をぶんぶんと振る。
「はは」
オログは花を摘み取るようにテルネラの手を引いた。青い光、緑の光。赤紫色の光。橙色の光。色とりどりの光が二人を追いかけてくる。
「ああ……綺麗だね。でも、さよなら」
オログは背中から水面に身を投げた。テルネラも引きずられて、ぼちゃりと落ちる。水飛沫がちらばった。
ぶくぶくと泡の立ち上る水の中で、テルネラは目をぎゅっとつむっていた。その顔が可笑しくて、オログは思わず笑った。えらからこぽりと泡が零れて水面へ上がっていく。外で向きも動きもバラバラに揺れる火の玉の輪郭は、波に透けてぼやけていた。
「テルネラ、あれをご覧よ。蛍火みたいだ」
テルネラは頬を膨らませたまま、目蓋をおそるおそるといったように開けて水面を仰ぎ見た。二人で色とりどりのそれに見惚れながら、水底に背を向け緩やかに沈んでいく。
「綺麗だね」
オログは歌うように笑って言う。テルネラは瞬きもせず遠ざかる光の玉を見つめていた。その口から小さな泡が三つこぼれて、水面へ浮かんでいく。それはまるで真珠が零れるのに似ていた。
オログはテルネラの手をきゅっと握りしめた。波をかき分ける音が籠って聴こえ、たくさんの白い腕が伸びてくる。オログの腕やテルネラの髪を掴んで、引っ掻く。オログは泡をたくさん零しながら笑い、それを払いのけた。テルネラはオログにしがみついている。誰かの手がオログの角にがりっと当たって、透明な海に青い血が染みた。オログは足を緩やかにばたつかせ、テルネラを抱きしめたまま深い場所へと潜っていった。爪先が水底を蹴って、白真珠が砂と共にぱらぱらと舞い上がる。
「テルネラ、ほらご覧」
たくさんの真珠が二人の傍で舞う。貝の末裔たちの白い足がゆったりと走って、真珠達を爪先で蹴飛ばす。こぽ、とオログの喉から、黒い真珠が一粒零れた。オログはそれが水底に沈み、真珠の絨毯に混ざるのを静かに見送った。水面がどんどん遠ざかる。深く深く潜って、蒼い世界で、オログは水底に足をつけた。
テルネラはオログの首にしがみついたまま、けほ、と苦しそうに咳込んだ。
「どうした?」
「
「塩水だからね。……もう少し我慢できる?」
「うん」
「いい子だ」
オログは目を閉じてテルネラの頭に口を寄せながらそっと撫でた。テルネラの柔らかな髪が瞼に触れてくすぐったかった。オログはもう一度だけえらから小さな泡を零し、テルネラをそっと真珠達の上に降ろした。
水中には、懐からはみ出した殻の木の欠片が浮いている。まるで、食い散らかされた魚の骨のように。
それから目を逸らして、オログはテルネラの手を引いて歩き始めた。テルネラも大人しくついて来る。
真珠の絨毯を踏みしめ、行く当てもないまま歩き続ける。
どこに向かっているのかは、オログにもわからなかった。
しばらく歩いた頃、水の中に銀色の花弁のような何かがふわふわと浮かんでいた。テルネラは疲れ切って、真珠の上にぺたんと横になった。テルネラは何度もえずいた。海の中にいても平気なオログと、苦しむテルネラ。テルネラのえらからは、絶えずこぽこぽと小さな泡が出ている。そろそろ、水面に一度上がった方がいいかもしれない。オログは、胸の辺りをぎゅっと握りしめた。
「少しだけ、休ませてね」
テルネラは真珠の絨毯の上に横たわり、目を瞑った。その額をそっと撫でる。テルネラが休んでいるうちに周囲を観察することにする。
森の湖の中なら、タニシも小さな青色の魚もいたし、長い藻だってあった。けれどこの海の底にあるのは数えきれないほどの真珠と、銀色の塵みたいな何かだけだ。
塵のような何かに近づいて手を伸ばせば、それはくるりと踵を返してオログの指先から逃れた。諦めずに何度か繰り返して、オログはようやくそのうちの一つを掴んだ。そっと掌を開くと、それはぱたぱたとはためいた。魚にも似た、顔のない不思議な生き物だった。これはなんだろうか。オログはそれを口の中に押し込んで、噛んだ。じわりと海水の味がしたが薄味だ。藻を食べた時と食感はあまり変わらないけれど、少しだけ肉みたいな後味もある。テルネラに食べさせても大丈夫だろうか。
考え込んでいたら、不意に辺りの水が揺れた。ぐらりと傾く体勢を取り直し、しゃがみ込んで息をひそめる。頭上で何かが水を飲みこみながら通り過ぎていった。おそるおそる見上げてみれば、それは小さな魚たちの群れだった。
鮮やかな橙色の魚だ。泳ぎながら銀色の花弁を飲みこんでいる。群れの影がオログとテルネラをすっぽりと覆い隠した。テルネラも起き上がって、目を輝かせていた。テルネラがオログを見て破顔する。オログは苦笑しながら、テルネラの手をとって二人で魚を追いかけた。魚の泳ぐ速さは思った以上に速くて、水底を歩いていたのではとても追いつけそうにない。オログはテルネラを抱きかかえて、足をばたつかせた。
しばらくそれを追いかけていると、少しだけ水の濁った場所に出た。濁ったように見えたのは、水底から沢山の海藻が生えて揺らめいていたかららしかった。藻に隠れて、黄色、青色、銀色……金属みたいな光沢を持つ大小さまざまな魚が優雅に泳いでいる。桃色の殻を携えた虫のような生き物もいた。銀色の魚は別の群れを成して水中へ上がっていく。テルネラは小さく跳ね、拍手をした。
オログから手を放して、テルネラは自分の足で魚を追いかける。魚たちは一度ぱっと群れを崩して散らばり、やがて再び集まって、不思議そうにテルネラの頬をつついた。テルネラはくすぐったそうに笑う。そのえらからは絶えず苦しげに泡が零れているけれど、今は苦しさも忘れてテルネラは楽しそうだ。もう少しだけ、好きにさせてやろう――オログがそう、思った時だった。日が陰って、否、大きな影が、水面を覆い隠して。
巨大な網が、赤い魚の群れを包み込んだ。テルネラが巻き込まれて、水面の方向へと強い力で引き揚げられていく。テルネラの悲鳴を聞きながら、オログは考えるよりも先に足をばたつかせ、網を追いかけていた。網の一穴に指をかけ、そのまま腕に力を込めて、両手両足を使って網にしがみついた。網を引きちぎろうともがいても、手の皮が擦れるだけでびくともしない。青い血がにじんで水に溶けていく。塩水が傷口にずきずきと染み入ってくる。頭の中は混乱していた。テルネラの目が不安そうに揺れている――
網は上昇速度を徐々に増し、終いには恐ろしいほどの速さで上っていった。あとは、振り落とされないようにしがみついているのだけで精一杯だった。海流が頬を切り裂く。睫毛がぶちぶちと抜けていく。首飾りから黒い真珠が一つ二つ千切れてどこかへ飛んで行ってしまった。オログは片手で縄を掴んで、もう片方の手で耳飾りを握りしめた。これだけはなくしたくなかったから。渦の中で薄目を開け、テルネラを探す。テルネラもまた、目を固く瞑りながらも左の耳を――耳飾りを守っていた。泣きたいような哀しいような気持ちになって、オログはきゅっと口の端を釣り上げた。
ざぱん、と大きな音がして。白い飛沫がばらばらと花火のように落ちていって。網は空にぶらんと放り出された。そのままぐるりと勢いよく回旋する。重みを増したような、ぶわん、という風を切る音。網は高く高く、空高く上っていく。急激な圧の変化に、オログは咽せて咳込んだ。目を開ける暇もない。指から血がどんどん滲んで、雫となって水面に零れ落ちていく。喉から零れた真珠が、瞼や頬にぶつかって、どこかへ飛んで行く。
どすん、ばしゃ、と鈍い音が響き、オログは固い床に叩きつけられた。激しく咳込みながら見えたのは木の板敷だった。ややあってはっきりとしてきた景色を見渡して。
オログは喉から声にならない音を漏らした。
テルネラが網の中で、濡れた網に押しつぶされながらげほげほと咳込んでいた。赤い魚たちが床の上でひれをばたつかせている。そして、二人は取り囲まれていた。浅黒い肌に、黒い髪と目をした
ひく、と頬の肉が引きつっている男、後ずさる男、震える手で腰の短剣を取り出す男、へなへなと座り込む男――。
誰も何も言わない。響くのは、魚たちの立てる騒音と、テルネラが鼻をすすって咳をする音だけだった。
その静寂を破るように、かつ、かつ、と、硬い靴底が床にぶつかるような、澄んだ音がゆっくりと近づいてきた。オログは足音の方へと顔をあげた。
「か、か、貝の一族だああああああああ」
我に返ったかのように、男たちが悲鳴を上げて、後ずさる。オログはゆるゆると立ち上がった。誰かが、ひい、と悲鳴を上げた。
「く、く、来るなああああ」
短剣が飛んできた。オログは殆ど反射的に、テルネラを庇ってそれを弾いた。左の手首が深く切れて、だらだらと血が滴った。
「オログ!」
テルネラがオログの手をとって、網の隙間から傷口に掌を当てる。足音はまだ響いていた。
かつ、かつ、かつ。
足音は、二人から少し離れたところで止まった。
他の男たちよりも一回り小さく細い体躯、癖のない、短く切られた黒い髪。浅黒い肌に、鮮やかな青い眼。
コエナシの少年が、恐れも怯えもにじまぬ顔でオログたちを見下ろしている。
「う、ウルリヒ……貝だ、貝の一族が、紛れ込みやがった……」
「見ればわかる」
少年の喉からは、声変わり前の精悍な声が響いた。少年はしばらく二人をじろじろと観察し、やがて白い歯を見せにやりと左の口角を釣り上げた。
「よお、貝の一族様。こんなところまでおでましか? よっぽどおれらの肉に飢えてんだなあ?」
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