第二章 ウルリヒ

青と曙(一)

 これは、に伝わるおとぎ話だ。


『その大地は、緑と色鮮やかな花で溢れている。

 人間はかつて女神の手によって海で生まれ、やがて陸の土を踏みしめた。海では感じなかった空腹感に、原始の人間は酷く苦しんだと伝えられている。おなかがすいたと泣く人々の元に、一羽の青い鳥が舞い降りて、足元に一粒の種を落とした。それは美しい花を咲かせ、人々はその花を土からむしり取り、食んだ。

 人が大地で初めて口にしたものは花であり、人は花を食べて生きてきた。

 もちろん、花だけでは空腹が満たされるわけではない。その後人間は、土から顔を出す様々な植物を調べ、空腹を癒すための食べ物を模索した。麦や稲は人々の腹を満たした。花の蜜は人々に甘さを教え、木の実は人々の体に力を与えた。やがて人々は増え続け、食べ物を地上の植物だけでは賄えず、海に求めた。女神が眠る聖域に網を張り、魚を捕獲する。――それは女神への冒涜であり、命がけの行為だった。それでも、そうして得られた魚や貝は、人々の生きる糧になった。

 人々が海の生き物を乱獲するようになった頃。恐らくはその頃からだった。

 美しい金色の髪や燃えるような赤い髪を持つ者が、少しずつ、けれど確実に地上から消えていった。青や緑に色づいていた宝石のような瞳は黒ずんでいき、髪や肌も汚れていく。

 それは、女神からの罰なのだと人は考えた。それでも彼らは、海に行くのをやめなかった。

 ある日のことだ。

 浜辺に、白い髪、白い肌を持つ美しい少年が現れた。彼は朝日に濡れる藤の花のような、美しい紫色の瞳を持っていた。黒髪の人間たちは、その美しさに目を奪われた。少年の肩甲骨からは、翼のような銀色の角が生えている。

 少年は、言葉を紡ぐたびに黒い真珠を零した。彼は己のことを、真珠貝だと答えた。

 人々はぞっとした。自分たちが食べてきた貝が、人の姿を取り、人間に復讐を果たしに来たのかもしれない。

 人々の恐れに、少年は頭を振った。

 少年はこれから、海底樹になる。そして、人の生きる大地を支えるのだと。そうしなければ、人間の生きる大地はすぐに海に沈んでしまう。だから、今までも、これからも、ずっとそうして、貝の一族は生きているのだ――そう、静かに語った。

 彼はやがて、貝殻のような木に姿を変え、海の底へと消えていった。

 人々は、己の命が幾多もの犠牲の上に成り立っているのだと知った。以来、彼らは海に花を流すようになった。海の底へ消えた少年が安らかに眠れるように。その慣習はやがて姿を変え、人間は祭りの夜に花のような色とりどりの燈籠を作り、海に流すようになった。

 やがて、その灯りに惹かれたように、少年と同じ白い姿を持つ人間たちが海を越えてやってきた。彼らには、海底樹となった少年のような角は無く、また彼らは白い真珠を吐きだした。

 人間たちは、彼らを快く迎え入れた。

 けれども彼ら貝の一族は、にやりと口の端を釣り上げ、人間を殺した。

 赤い血にまみれて、彼らは人間を捕食した。ニクイ、ニクイと叫びながら殺し続けた。

 人々は逃げ惑った。燈籠が傾いて、森は火に飲みこまれていく。赤に満たされた世界。人々が辿り着いた森の奥で、一人の少女が紫色の花を守る様にうずくまっていた。

 人々は立ち止まった。少女はゆっくりと瞼を開いた。その目は、海のように青く澄んでいる。少女の周りには、青い鳥の羽が散らばっていた。――青い鳥が、やってきたのだ。

「愚かな人間たちよ。犠牲の上に成り立つ世界に、なおも立ち続けようとする人間たちよ。その罪を、赦しましょう。古代より人は犠牲なしには生きられない生き物でした。それを生かしたかったのは、女神もまた、かつて人であったが故」

 そう言って、碧眼の少女は夜空に手を伸ばした。すると夜空の星が青い炎となって大地に降り注いだ。青い炎はみるみるうちに燃え盛り、赤い炎を塗りつぶしていく。赤い炎では死にもしなかった貝の一族は、青い炎に包まれ次々と苦しみ死んでいった。人間は、その光景を呆然として見つめていた。

 やがて、貝の一族は碧眼の少女に赦しを乞うた。少女は彼らの一人一人に、紫色の花を持たせた。

「それはお前たちの瞳のお花。さあ行きなさい。お前たちもまた、人になりたいのなら」

 貝の一族は、紫色の花を抱えて水平線の向こう側へ消えていった。その後、彼らは紫色の花を咲かせるため、別の大地を作ったと伝えられる。碧眼の少女は、忽然と姿を消した。

 貝の一族と人間は、その後何百年も交わらぬよう一線を引いて生きてきた。しかし貝の一族は女神との約束を忘れ、再び人間の大地に現れるようになった。貝の一族が人間の大地に足を踏み入れる度、青い目の子供が青い炎を操り、人間を救った。』



     ◇



「もう、聞き飽きたよ……」

 延々と昔話を聞かせられて、ウルリヒは溜め息をついた。

 彼は、この頃齢九歳だった。黒眼の人間しかいないこの大陸で、唯一生まれた碧眼の子供だ。

「嫌なら、駄々を捏ねるのをやめなよね」

 小さな切株の上に座りウルリヒに長く説教をしていた青年は、にこりと微笑んだ。セルネウという名のこの青年は、義眼の右目を前髪で覆い隠している。彼の両足もまた、木でできた義足である。

 星の輝く夜だった。紅く燃え盛る焚火の前で、二人は座っていた。後方には、裾に彩り鮮やかな花の刺繍が施された黄色のテントがいくつも並んでいる。テントの中からは、大人たちのいびきやくすくす笑いが漏れ聞こえてくるのだった。ウルリヒはそれを横目に再び溜め息をつく。

「あーあ、おれ早く寝たいんだけど。ねえ、セルネウ、お説教はもういいだろ? 耳にたこだよ。そらでおぼえちゃったよ。おれもう暗唱できるよ」

「へえ。じゃあ、今ここで、ぼくに聞かせてみてくれる?」

「うげっ」

 ウルリヒが心底嫌そうに顔をしかめれば、セルネウは肩を揺らして笑った。

「いいかい、ウルリヒ。救いの御子。ぼくたちはまだ幼いお前にこんなにもすがって生きているんだよ。ばかみたいだと思うだろう? それでもね、ぼくたちはお前が生まれてくるのを本当に……本当に、心待ちにしていたんだ。背負わせて悪いけれど、それでもね、ぼくたちはお前に頼るしかない。他に、どうしたらいいのかわからないのだから」

「だからさあー」

 ウルリヒは、口を尖らせた。足をぶらぶらと揺らして所在なさげに目を泳がせる。

「それって神話っていうかあ、昔話で、うわさばなしみたいなもんなんだってエリカのばっちゃが言ってたぞ! 『ほんとうといささかちがうんだ』って言ってたんだぞ!」

「……あのばばあは……」

 セルネウは端正な顔をわずかに歪め小さく舌打ちした。ウルリヒはそれを見て小さく肩をすくめた。セルネウは再び笑みを浮かべるが、うさんくさい。

「あのね、ウルリヒ。エリカばばさまはもうろくしていらっしゃるから、話は半分に聞いておかなきゃだめだよ」

 まるで幼子に言い含めるような言い方だ。ウルリヒは一層足を泳がせる。

「でもさあ、おかしいだろ? ふつうに考えてみてよ、セルネウにいちゃん。貝の末裔が赤い炎でけがしないなんてありえるのかよ。だって、人間と同じ格好してんだろ? セルネウだって言ってたじゃんか。そいつらも、ふつうに炎で火傷してたって」

「それは……そう、見えたけど」

 セルネウは苦々しげに眉根を寄せる。ウルリヒはぱっと食いついた。

「だろー? だったらふつうにそいつらの陸に行ってさあ、赤い炎で一気に燃やしちゃえばいいじゃん。青い炎なんか待たなくてもさあ。何度も言ったけど、おれ青い炎なんて見たことないし、もし見ても使い方なんてわかんねえし、だめだって。なんだっけ? そう、もっとを考えた方がいいって、ユーイねえちゃんも言ってた!」

「あの子は……。……っ、というか、あの子の場合は単純に早くぼくと結婚したいからそういうこと言ってるだけだろ! 今のままじゃそういうことを考えられないから!」

 セルネウはほんのりと鼻の頭を染めて怒鳴る。

「おんなはおとこよりげんじつてきなのよー、って言ってたよ」

「ああ、もう! これだって充分現実的な話だろう? おまえは実際に貝の末裔を見たことがないからそんな呑気なことが言えるんだ。ユーイだってそうだよ、あの子はまだあの時には赤ん坊だったから、覚えているはずもないんだ。でもね、このぼくの右目と足を見てもまだそんなことを言うのかい? ぼくはね、おまえに懇願してるんだよ。早くあの化け物たちを何とかしてくれって!」

 ウルリヒは気圧された。それでも控えめに食い下がる。

「そりゃ、セルネウの義足は不便そうだなって思うけど……でもものごころついた時からセルネウにいちゃんはそんなんだったし、あんまりよくわかんないよー……」

「ああもう、この子は」

 セルネウはがりがりと頭を掻く。ウルリヒは眉を潜めた。どうしてわかってくれないんだろう、と思うのだった。

「だから……そんなに怖いなら、みんなでさ、さっさと奇襲攻撃ってやつ? そんなんでもしかけて殺しちゃえばいいじゃんかよ。魚を獲るみたいにさ、ばーっと」

「……最初の、黒真珠を零した貝の一族の子供の話をしたでしょ」

 セルネウは額に手を当てて、俯く。

「それが本当かどうかはぼくたちだって知らないさ。けれどね、おそらくは、ぼくたちが彼らの誰かを犠牲にしてこの大陸でのうのうと生きていることは事実なんだ。そして、彼らがいないとぼくらは生きていけない。だからぼくたちは、彼らに怯えこそすれ、汚してはいけないんだ。それが、教えだろう」

「そんなこと言ったって……だったらどうすんだよ。昔話では青い炎で青い目の女の子がやつらを殺しちゃったんだろ。それって今セルネウの言ってることと矛盾してるじゃんか」

「ああもう……この子は、聞き分けがないうえ妙に頭がいい」

 セルネウは顔を両手で覆った。

「彼らの大陸には赤い炎では燃えない貝殻の木が群生しているという。だから、たとえ赤い炎で対抗したところで無駄さ。木の洞に隠れられたらおしまいだ。だからこそ、青い炎をぼくたちは待ち望んでいるんだよ。女神の青い炎には、貝殻の木をも焼き尽くす力があると伝えられている。それがあれば、やつらへの牽制にもなるだろうからね……とにかく、さっさとおまえは希望の自覚を持って、ぼくたちが安心して生きられるようにどうにかして! 青い目を持って生まれてきたんだから、それがお前の責任なんだよ。どんなに嫌だろうとな。ぼくがいやでも目と足を失ったように、お前にとってはその碧眼が抗えない運命だ。これ以上聞き分けがないと、叩くからな」

「うげえ」

 ウルリヒは地面にごろんと横になった。

「……はーい、わかったよ」

 ウルリヒの言葉に、脱力したようにセルネウは溜め息をついた。そのまま立ち上がって、頭をゆるく振りながら、テントの中へと消えた。

 ウルリヒは、星空をぼんやり眺めながらざらりとした地面を撫でた。ややあって体を再び起こし、膝を抱え、めらめらと燃える炎を見つめる。

「別におれ……こんな目に生まれて来たかったわけじゃねえもん」

 ウルリヒは、そっと自分の左頬を撫でた。そこには、希望の子の証である金色の刺青があるのだった。


 今から十年前。ウルリヒが生まれる少し前。

 貝の末裔が、人間の住む陸に集団で足を踏み入れたのだという。

 多くの人々が食い尽くされ、木々は無残に切り倒されたのだそうだ。セルネウの右目と両足もその時に失われた。生きながら眼球をえぐり取られ、足を食われていく痛みと恐怖は、今もなお忘れられないものなのだとセルネウは言う。

 この集落は海に接しているがゆえに貝の末裔の襲来による被害はいつの時代も甚大なものだった。一方で内陸部の人間は貝の末裔の存在を知らず伝説程度にしか認識していない者が多い。この村は村人の望む望まざるとに関わらず、人間の国にとっての防波堤になっているのである。

 足がない人、手がない人、指がない人、目が潰れてしまった人、鼻が捥げてしまった人、肉が不自然に削げている人。色んな人がこの村には暮らしている。そんな人々の姿はウルリヒにとって生まれた時から見慣れた風景で、いっそ五体満足な自分の方が異質だと思える。

 ウルリヒが生まれた日、村の人々は、否、この大陸すべての人間が、宴を開いたのだという。

 青い目を持つ子供は、女神にもたらされた【救いの御子】――救世主なのだそうだ。その根拠だと言って、大人達はウルリヒに何度も何度も同じ昔話を繰り返して聞かせる。ウルリヒの左の頬には、赤子の頃に入れられた黄色の刺青がある。日の出の太陽を模ったものだ。貴重な黄色を使ったそれ。

 刺青のある村人は他にもいるが、すべて顔以外の場所に入れているし、自由意思で入れたものだ。そういうところでもウルリヒとは違う。ウルリヒにとっては、顔の刺青はウルリヒが逃げないようにと早々につけられた鎖のようにさえ思えている。

 どれだけ救いの御子と期待されていても、ウルリヒには青い炎の出し方、呼び寄せ方、何もわからない。どの大人も教えてはくれない。青い目を持って生まれたからと、それだけの理由で伝説を妄信する。それがウルリヒにはなんだかばからしくて、同じだけ村の人たちがかわいそうだ。ウルリヒだって、みんなを救えるものなら救いたい。もう少し幼かった頃は、どうにか青い炎が出せないかなあと何度も練習した。最近はもう、しないけれど。

 大人たちの必死さが、怖い。

 セルネウは、まるで実の兄のようにウルリヒを幼いころから可愛がってくれた。けれど本心からの愛情だったかどうかは疑わしいとウルリヒは思っている。セルネウがウルリヒを見つめる目は、いつだって笑っていないから。その光のない目が恐ろしくて、ウルリヒはセルネウと話すときはつい、へら、と笑ってしまうのだった。その顔が気に食わないと、セルネウは何度も何度も同じおとぎ話を聞かせて自覚を持てと説教する。いやがったり反抗するとぶたれるから、顔色を窺いながら適度に合わせて日々を過ごしている。息苦しい。


 ふと肩にふわりと着物をかけられ、ウルリヒははっと我に返った。座ったまま転寝していたらしかった。辺りは白んで明るくなり、焚火はすっかり消えてしまっている。振り返れば村で数少ない少女、ユーイがくすくす笑っていた。

「あ、ありがとう、ユーイ」

「ふふ……こんなところで寝たらだめだよ。風邪引いちゃうよ?」

「うん。気をつける」

「またセルネウにお説教されてたの? ウルリヒもこりないのねえ」

「うーん、だって、セルネウってかたいんだもんなー」

「あはは、たしかにー」

 ユーイは口元に手を当てて笑った。

 ――セルネウにいちゃんも、貝の末裔のことなんか忘れて、とりあえず幸せになっちゃえばいいのにな。

 ユーイの柔らかな笑顔を見つめながら、ウルリヒはそんなことを考えた。

 ウルリヒは、ユーイに気づかれないように右手の指の爪の周りを引っ掻いた。皮膚が少し逆向けて、痛かった。


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