第2話

 ばしゃん、と大きな音が耳をつんざかんばかりに響いたと思ったら、途端に水中が眼前に広がっていた。宙太は突然の事態にパニックを起こしたが、何とかもがき水面へ顔を出した。荒い呼吸を吐いていると、近くで水飛沫みずしぶきが2つ上がった。それを出したのが2人のクラスメイト、牛山猛と竜野辰彦だと気付く。


「何だよこれ!」


 猛が大声で怒鳴る。彼もまた混乱していた。辰彦のほうは案外冷静で、あっちに岸がある、と猛に告げると、そのまま泳いでいった。猛、それに宙太もそれに続く。

 息もえに陸地へ上がると、辺り一面に木々が並び立っていた。どうやらここは森の中で、その池に運悪く落ちたらしい、と彼らは思った。

 

「おい、どこだよここ! なんでもう昼になってんだよ!」


「つーか、俺たちトラックに轢かれて」


「そーだよ、はねられたと思ったら、いきなり池ん中にいて」


「どこも痛くねえし、俺ら生きてんのか!?」


 猛と辰彦が状況を把握しようとしている中、宙太は地面に座りただぼんやりともう一度周囲を眺めていた。足元には雑草が生い茂り、頭上にはさっきまでと打って変わって日の注ぐ青空が広がっている。木々は針葉樹みたいで、色とりどりの花びらはなく、どこまでも緑一色である。

 しかし何よりも彼が思うのは、この場所がとても暑いということで、これは直射日光のせいではない、ずぶ濡れの自分が感じるほどだから季節そのものが夏だとしか……。ところが、宙太たちがさっきまでいた場所は初夏にすらまだ遠い陽春なのだ。


「おい、チュータ! お前の仕業か!?」


 猛が宙太の頭をつかみながらそう言った。知らない、と何度も言うことでようやく手が放される。

 三人は途方に暮れるしかなかった。夜が昼に変わり、見知らぬ森の中で、はね飛ばされたのにもかかわらず無傷で、水滴と同時に汗も流れるほど蒸し暑い。

 

「もしかして、ここが天国?」


 辰彦が恐る恐る口にした。そう考えれば辻褄が合うが、それを認めたくないという気持ちだった。


「バカ言うなよ。俺ら溺れかけたし、それに頭の上に輪っかだってねえじゃねえか」


 猛はそう言って、自身の頬もつねった。痛みを感じ、一瞬だけ苦悶の表情を浮かべる。

 その時だった。森の中から遠吠えのような甲高い声が響いてきた。

 そして次の瞬間、木立を駆け抜けてきた四つ足の生物が三匹、宙太たちの眼前に現れた。

 それは大きく避けた口とそこに生えた鋭い牙を見ればオオカミに似ていなくはないが、体毛は紫で、紅い眼光がきらめいている。こんな色の動物など彼らは見たこともない。


「な、なんだよこいつ!」


 いきり立つ四本足の生物は、三匹とも猛のほうへ突っ走る。悲鳴を上げながら猛は逃げ出したが、いとも容易たやく追いつかれ、臀部でんぶの表皮を噛み千切られてしまった。


「いってえええ!」


 本能的に危機を感じた猛は、迷わず池に飛び込んだ。それが功を奏し、四つ足たちは追跡をやめる。そして今度は辰彦に狙いを定めた。目前に迫る紫色の怪物から逃れるため、彼もまた池に入る。

 すさかず四本足は最後の獲物、すなわち未だ芝生の上で腰を抜かしている宙太に突進する。最早もはやほかの二人のように水の中へ飛び込む余裕もないほどの距離であった。


「うわあああ!」


 宙太は身をかばおうと右手を顔の、左手を腹の前にかざした。

 まさにその時である。

 右手がぽうっと光に包まれ、てのひらから勢いよく水柱が噴射した。あまりの激流に宙太は反動で草の上に背中から倒れたが、もっともダメージを受けたのが四つ足のうちの一匹だった。その鼻面に水が命中し、もんどりを打って倒れたのだ。ほかの二匹はそこでぴたりと進撃を止め、うなり声を上げながら敵をにらみつける。

 一方、宙太は何が起こったのか分からなかった。取りあえず体を起こし、赤目の怪物から逃れようと池のほうへ駆け出した。

 しかし、一匹が池のふちまで回り込み、宙太の入水を防いだ。残りの二匹が横から、裂けた口を大きく開け噛みつこうと迫る。万事休す、と宙太は思わず目をつぶった。

 その直後、火薬をはじけさせたような轟音が辺りに響いた。宙太が目を開けてみると、噛もうとした怪物の一匹が横っ腹に穴を開け、そこから赤い血を噴き出していた。さらにまた爆音。すると火の玉が二匹目の体を貫通し、血だまりの中でぴくぴくと四肢を痙攣けいれんさせた。仲間がやられたのを見て脱兎のごとく走り出した最後の一匹も、やはり同様の運命をたどった。

 宙太は思わず火の玉が飛んできた方角を見る。そこにはショットガンのような銃を片手に下げた少女が立っていた。


「ふう……」


 少女はそっと息を吐く。まだあどけなさを残す顔立ちで、宙太たちと歳はそう変わらないように見えた。ところが、彼らとこの少女とでは決定的に違う要素が一つあった。それは髪の色である。宙太たちが黒髪なのに対し、少女のほうはよく晴れた朝の空のように鮮やかな水色だった。それが腰まで届くほど長い。無論、宙太たちの世界にこんな髪の色の人間はいない。まるで宇宙人にでも会ったような畏怖いふに襲われる。間違いなく助けてくれたのは彼女だが、そんな念が払拭ふっしょくされなかった。


「大丈夫ですか?」


 落ち着いた声の少女の、くりくりした目に見つめられ、宙太は一言、はい、と言った。そして、ありがとうございます、とも付け加えた。


「いえ。それより武器も持たずにどうしてここに? 危険すぎますよ?」


「いや、えーっと……」


 宙太は言葉にきゅうした。まさかトラックに轢かれたと思ったらここに、とは言えなかった。怪しい者に見られたくなかったからだ。

 途端、猛と辰彦が池から這い上がってきた。彼らもずぶ濡れになりながら合流する。


「え、キミは? つーか、その髪染めたの?」


 猛の問いに、少女はそのふっくらとした桃色の唇をほころばせ、それから返答した。


「私はミイ、トグロ・ミイと言います。これは地毛です」


 猛は驚愕きょうがくした。そんな髪の色の女子がいようとは。

 気を取り直して宙太たちもそれぞれ自己紹介する。その後、ミイは再びこの場所に丸腰でいた理由を尋ねた。

 

「いや、俺たちにも何だか分からなくてさ」と猛は言った。


「トラックにぶつかったと思ったらこの森にいて」と辰彦。


「トラックとは何でしょうか?」


 これには三人とも仰天した。この少女はトラックを知らないのである。もしかしたらここは文明を知らない未開の地なのかもしれない、と彼らは思った。

 

「と、とにかく気付いたらここにいて、変な犬に襲われて」


「あれはべロスという魔物です」


「ま、魔物!?」


 猛は素っ頓狂すっとんきょうな声を出した。しかし彼が驚くのも無理はない。魔物など、ゲームの世界でしか聞いたことがないのだ。

 するともしやここは別世界なのか、宙太はそう思わずにはいられなかった。魔物、あり得ない髪色の少女、放たれた火の玉、それらは彼が好むファンタジー世界にあまりにもそっくりだった。


「一つ聞きたいんですけど」宙太はミイに向かって言った。

「ここの世界は地球ですか? この星は地球ですか?」


 猛と辰彦は、なに言ってんだこいつ、と侮蔑ぶべつの視線を送る。それに対するミイの答えは、


「チキュウ? いいえ、この星はエトーですよ……?」

 

 というものだった。ミイはこんな質問をしてくる人なんて聞いたこともないので困惑していた。まさか自分の住む世界の名前を知らないとは。

 宙太は確信した。ここは異世界なのだ。ファンタジー漫画であるような異世界転移が、よもや自分自身に起こったのだ。

 そんな宙太に対し、猛と辰彦は混乱の極みにあった。


「な、なに言ってんだよ、なんだよエトーって!」


「地球じゃないならどこなんだよ!」 


 彼らは今にもミイに食って掛からんばかりの勢いだったので、宙太は口を挟むことにした。


「牛山くん、竜野くん、ここは異世界なんだよ」


「はあ!? チュータ、お前頭おかしくなったか」


 二人は容易に信じなかった。そこで宙太はミイに、さっきの火の玉をもう一度放ってもらうようお願いした。


「ええ、いいですけど……」


 ミイはショットガンのような銃を池の水面みなもに狙いをつけて構える。次の瞬間、轟音とともにその銃身から炎が噴いた。火の玉は水飛沫を作り、その雫が宙太たちの顔や体にかかる。


「な、なんだよ今の……」


「なんで銃から火の玉が……」


 猛と辰彦は呆気に取られていた。目の前の出来事がとても現実とは思えなかった。


「もしかして、魔法もご存じないんですか?」


 ミイは恐る恐るく。魔法を見たことがない人間なんているのかといぶかしながら。

 宙太は魔法という言葉に胸をおどらせた。やはりここはファンタジー世界なのだ。


「魔法って……」


「そんな、ゲームじゃないんだから……」


 しかし、様々な証拠を見せられて、猛と辰彦の二人はようやく事実を受け入れ始めた。自分たちは異世界に来たのだと。


「か、帰る方法は!?」


 猛は普段では絶対に見せぬようなうろたえぶりだった。彼ほどではないが辰彦も平静さを失い、慌てて辺りを見回したりしていた。

 ところが、宙太はそんな二人を尻目に心臓を高鳴らせていた。大好きな魔法世界に入ることができたのだから。

 ただ、そんな彼にも、気がかりなことがある。母と妹、家族はどう思うだろうか、自分がいなくなってどうするだろうか、と宙太は思う。そして、お気に入りだった漫画の続きが読めないな、とも。


「もしかしたら、皆さんは遠客えんきゃくなのですか?」


「なに、そのエンキャクって?」


「聞いたことがあります。この世界には時々魔法もない異境の地から来た人々がいるって」


 自分たちは紛れもなくその遠客なのだろう、と宙太は思った。どうやら自分たちだけではなく、その前にも異世界転移した人物がいるらしい、そう考えると宙太は俄然がぜん勇気づけられた。この世界は確かにある、と。


「とにかく、この場にいるのはあまりいいとは思えませんし、私たちの村まで一緒にどうですか?」


 行く当てのない三人はその好意に甘えることにした。

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